第三章 向こうは見ない 九
鳳が幽霊屋敷に屯す霊を一時的に封じた、翌々日の朝。藤堂の店へ、上機嫌な鹿倉が訪ねて来た。開店準備をしていた藤堂は面倒臭そうに突っぱねたが、鹿倉が礼をしたいと言って引き下がらなかったので、結局店内に入れた。
カウンターへ向かい合わせに腰を下ろして早々、鹿倉は両手をついて、額をぶつけんばかりの勢いで頭を下げた。藤堂は煙草に火を点けながら、怪訝に眉を顰める。
「何よ」
顔を上げた鹿倉は、熊のような顔に満面の笑みを浮かべていた。藤堂は更に訝る。
「お前らがやってくれたんだってな」
「は?」
藤堂は間の抜けた声で問い返しながら、首を突き出した。唐突に何を言い出すのかと思えば、何の事やらさっぱり分からない。
何をしたかと問わずとも、鹿倉が幽霊屋敷の事を言っているのは分かる。しかし、身に覚えがない。
確かに屋敷には行ったが、藤堂達は何もしていない。無謀に突っ込もうとした渚を勝手に止めに行って、成り行きで筋肉達磨の執事と格闘しただけだ。全く鹿倉の役には立っていない。
挙げ句、ゆなが憑かれたから屋敷に集まった悪霊の内の、たった一人を浄化しただけに過ぎない。更に屋敷の霊を封じたのは鳳だし、それも結局、根本的な解決には至っていない。
「一昨日鳳のおねーちゃんが来てな、お前らがなんとかしたからって聞いたぞ」
「俺ら何もしてないけど。応急処置したの鳳だし」
「またまた謙遜すんなって。そうそうこれ、半分鳳に渡したから、少ねえけど貰ってくれ」
鹿倉が尻ポケットから取り出した封筒は、藤堂の目にはかなりの厚さがあるように見えた。困り果てて更に眉根を寄せ、藤堂は身を引く。
「いやだから何もしてな……」
「いーからいーから! 取っときなさいよ、な! どうせ俺の金じゃねえし」
胸に叩き付けられた封筒を衝撃でむせながら渋々受け取り、藤堂は困ったように頭を掻いた。罪悪感はあったが、封筒の厚みには勝てない。
何より、鹿倉は金を突っ返した所で易々と受け取ったりはしないのだ。こういう時は絶対に引き下がらないのが鹿倉という男で、いとも簡単に引いてしまうのが藤堂だ。
藤堂らが騒動を収めたと本当に勘違いしているのか、無駄足を踏ませた事を申し訳なく思っているのか、定かではない。どちらにせよ鹿倉は嬉しそうなので、まあいいか、と藤堂は思う。
「確かに応急処置だとは言われたが、久々に清々しい気分だよ。依頼して良かったわ」
鹿倉が何年あの辺りに住んでいるのか、藤堂は知らない。けれどこの表情を見る限り、そう短い年月ではないのだろう。あの屋敷に悪霊が溜まるようになったのは数年前だというが、一年二年という話ではないはずだ。
あんな陰気な街には、藤堂なら一年といられない。鹿倉には妻も子もいるし、あそこには小さいながら、彼の事務所がある。易々と街を離れる訳には行かなかったのだろう。鹿倉など、昔は少しでも嫌な事があると怒り出すような、堪え性のない子供だった。人とは変わるものだと、藤堂は不思議な気分になる。
あの頃の友人は、皆変わった。内気でいつもびくびくと何かに怯えていた少年がプロボクサーになり、不良ぶって教師を困らせていた少年は、弁護士になった。殆ど連絡を取り合ってはいないが、それくらいの話は風に乗って伝わってくる。
今は丸くなった鹿倉も、昔は弟や後輩を泣かせてばかりいた。責任感の欠片もなく、学校で出された宿題など、一度たりともやった例がない。それが今では一児の親となり、息子を目に入れても痛くないほど可愛がっている。社長という常に責任を問われる立場にあり、あだ名で呼ばれるほど部下に懐かれ、信頼されている。
昔の姿からは到底、想像も出来ないことだった。鹿倉のこういった姿を見る度に、人とは成長するものなのだと感慨深く思う。
一方自分は、何か変わっただろうか。嬉しそうに近況を語る鹿倉の話を斜め聞きしながら、藤堂はそう考える。
この流されやすい性分は、全く変わっていない。何事に対しても斜に構えていた辺りは、少々改善されたかも知れない。昔より更に流され易くなっただけかも知れないが。
悪い所がなかったのだといえば、そうなのだろう。しかし昔から真人間だったかといえば、そうでもない。無論今も、真面目な性分とは到底言えない。変わったのは彼を取り巻く環境と、年齢ぐらいのものだ。
変化を恐れている訳ではない。その分変われない自分を情けなくも思うが、嬉しそうな鹿倉を見ていてなんとなく、藤堂も嬉しくなる。昔は誰かが嬉しそうにしていてもなんとも思わなかったから、これもまた、成長と呼べるだろう。他と比べると、些細な変化ではあるが。
「まあ、その内鳳の奴らが、ぱーっと一掃してくれんじゃねえの。一先ずは、良かったな」
おう、と言って、鹿倉は不揃いな歯並びを見せて笑った。藤堂もつられて笑みを浮かべる。
「あ、鹿倉さん」
耳慣れた明の声が聞こえたので顔を上げると、駆け寄ってくるゆなが目に入った。ゆなは慢性的に不足している霊媒師になるべくして明の下で勉強している為、学校からは半日での帰宅を許されている。修行しないと危ないから、という理由もあるようだ。
それでも毎日、ゆなが事務所に来る頃には一時を回っている。単純計算、店を開けてから二時間は経っている事になるだろう。そんなに長く雑談していたのかと、藤堂は少々驚いた。
ゆなは真っ直ぐにカウンターの中へ入って藤堂の腕にしがみついた後、鹿倉を見上げて小さく挨拶の言葉を口にした。鹿倉の表情が、だらしなく弛緩する。この男が授かったのが男の子で良かったと、藤堂は心の底から思う。
「もう、大丈夫なんですか?」
鹿倉はカウンターの中へ入って腰を下ろした明を見て、大きく頷いた。髭をたっぷりと蓄えた顔が、にやけている。これさえなければと、藤堂はつくづく思う。
「良かった。藤堂さん、渚さん今日から来るって」
渚本人から聞いた話では、彼女は二十歳の誕生日を迎えたばかりで、独立の準備をしていたそうだ。しかし彼女は元々、善良な霊を札に封じて使役する高屋敷の在り方に疑問を抱いており、退治屋を開業する事にも、抵抗があったのだと言う。執事を解放したいと言っていたのも、本来なら成仏出来る筈の彼を、現世に引き留めている事を忍びなく思っていた為だ。
その矢先に浄霊の場面を見たものだから、これだ、と思ってしまったらしい。彷徨える悪霊を浄霊する事が、執事への贖罪になると考えたのかも知れない。
浅い考えだと藤堂は思ったが、そう考えられるだけ、今まで出会った高屋敷家の誰より遥かにいい人だと明は言った。高屋敷の人というのは、一体どういう人間なのだろう。
「案外早かったな」
引っ越しの準備があるというから、もう少し長くかかると思っていた。藤堂が呟くと何に反応したのか、鹿倉が凄まじい形相でカウンターへ身を乗り出す。眼前に迫ったむさ苦しい顔を見て、藤堂は反射的に身を引いた。
「まァた女の子かてめえ」
地獄に落ちた人間が天国の様子を見て発しているような、恨めしげな声だった。藤堂は片眉を上げ、間抜けな声で聞き返す。
「は? 違……いや、そうだけど」
「ふざけんなよおおお!」
語尾の方は、殆ど涙声だった。藤堂はその大声と剣幕に、思わず椅子を引く。背もたれが壁に当たって、ごつんと音がした。
「今度は何だ小学生か? なんだよお前ばっかりいい目見やがって、ちょっとは俺に分けろよ少女分をよ」
鹿倉の表情は真剣そのものだったが、明と藤堂は引いていた。ゆなは前回と同じく、冷めた目で彼を見ている。
「別に好きで女増やした訳じゃないから。つうか少女分てなんだよ、何その日本語」
「うるせーこの野郎! お前って奴ァ昔っからそうだったよ匡、一回だけ合コンした時だって皆お前狙いだったじゃねえかミステリアスでいいとか言っちゃってよォ畜生女ってやつァ!」
息継ぎなしで言い切った鹿倉は、流石に苦しかったのか、肩で息をしていた。一体何年前の話を持ち出して来るのかと、藤堂は呆れる。そもそも彼にそんな記憶はない。
冷めた無言の間の後、藤堂の傍らで黙って聞いていたゆなが、徐に口を開いた。
「それは聞き捨てなりません。藤堂さんはゆなにだけもてていれば良いのです」
両手を藤堂の腕に絡めて見下ろしてくるゆなは、相変わらず無表情だった。それが余計に怖い。
「過去の栄光だろ。お前はいい加減諦めろ」
額がぶつかる程の距離まで顔を近づけ、ゆなは藤堂の腕を引っ張る。藤堂は嫌そうに顔をしかめて顎を引いた。
「それはなりません。想いは必ず成就するのです」
「させねえぞ俺のメンツにかけて」
「どんな面子よ」
呆れた声で突っ込んだ明が、ふと上体を傾けて鹿倉の向こう側へ視線を移す。藤堂の位置からは鹿倉のずんぐりとした図体が邪魔で見えないが、誰か来たのだろう。
「ごきげんよう、皆さん」
涼やかな声を聞いて、鹿倉が反射的に振り返った。そして硬直する。
「こんにちは。早かったんだね」
鹿倉の向こうから顔を出す明に、渚は目を細めて微笑んで見せた。丸襟のブラウスに黒のコルセット、同じく黒いフレアスカートを合わせた彼女の出で立ちは、良家の子女を思わせる。実際そうなのだが。
「荷造りから業者を頼みましたから、直ぐに終わりましたわ。……その方は?」
腹の前で両腕を組んだ渚は、鹿倉を見て怪訝に問い掛けた。鹿倉はゆっくりと藤堂に向き直り、恨みの籠もった視線を向ける。藤堂は一瞬怯んだ。
「どういうこったてめえ! 素晴らしいスレンダーボディじゃ」
「黙ってろタヌキ」
藤堂は勢い込んで声を荒げた鹿倉の頭を鷲掴み、カウンターに叩き付けた。ようやくまともに姿が見えるようになった渚の表情が、明らかに引きつっている。
「よう」
言うに事欠いた藤堂は、鹿倉の額をカウンターに押し付けたまま、軽い調子で声を掛けた。明は呆れた目で鹿倉を見ている。伸びた彼の頭を、ゆなが人差し指でつついた。
藤堂の顔を見て暫く固まっていた渚は、フンと鼻を鳴らして顔を背けた。逸らした先に陳列された商品が目に入り、今気付いたかのように、キャビネットへ近付く。
「本当に質屋でしたのね。エルメスのバーキンじゃない、普通のお店ではなかなか売ってませんわ」
ガラスに指先をついて、渚は感嘆の息を漏らす。キャビネットを拭いておいて良かったと、藤堂は内心安堵する。
「メーカーがマニア向けに細々復刻版出してんのが、こっちに流れて来んだよ。そうやって見る奴は多いが、値段が値段だからさっぱり売れねえ」
「あら……そうなの」
振り向いた渚は、意外そうな顔をしていた。明が笑う。
「藤堂さん貧乏だもんね」
「うるせえよ」
「……私が買って差し上げても宜しくてよ」
非難の目を明に向けていた藤堂は、驚いて渚へ視線を移した。本気かと訝しんでまじまじと見ている内、彼女の頬が段々と紅潮して行く。
「べ、別にあなたの為じゃありませんわ! 私が欲しいから買うだけよ!」
「いや、そんな事言ってないけど。どれ?」
藤堂が立ち上がると、ゆなは掴んでいた腕を放した。カウンターの外へ出てキャビネットを開け、藤堂は俯いた渚が指したバッグに手を伸ばす。
藤堂を見上げる渚の惚けたような表情をじっと見つめていたゆなは、唇だけでにやりと笑った。
「相手にとって不足なし、です」
明は虚を突かれたような表情でゆなを見た後、赤面する渚を見て、鹿倉の様子を確認する。それから渚に商品を差し出す藤堂を見て、憂鬱な溜息を吐いた。