第三章 向こうは見ない 八
ゆなが、憑かれた。ずっと明が彼女に付ききりで、霊媒師としての勉強をさせていたというのに。それを全て否定されてしまったような、絶望的な心境だった。
彼女は今、本来なら有り得ないような、嫌な笑みを浮かべている。そもそもゆなは元々表情の変化に乏しいので、憑かれればすぐに分かる。判別しやすくていいといえばそうなのだが、その分周囲の動揺も激しくなる。否、良くはない。
その場にいた全員が一様にして、呆然とゆなを見つめていたが、一番動揺したのは明だったろう。藤堂とて、信じたくなかった。あれほど毎日、懇切丁寧に様々なことを教えていたというのに。直接関わっていたわけではないが、藤堂自身、ゆな本人の熱心さを思うと、目の前の光景が信じられなかった。
ゆなの小さな唇は酷薄な笑みを浮かべているが、目が笑っていない。どう見ても、ゆなが浮かべるような表情ではなかった。彼女の両親から、依頼を請けた時と同じだ。
「な……ゆなちゃん! どうして……」
悲しげな声だった。明は刀を握り締めたまま、悲痛な面持ちでゆなを真っ直ぐに見つめる。
「優しい子だなあ。話がしたいって言ったら、素直に入れてくれたぜ。話なんて、ありゃしねえってのにな」
ゆなに憑いた者は、再び笑い声を上げる。聞き覚えのある声だと、藤堂は訝しげに首を捻った。さも愉快そうな笑い声に、白銀が顔をしかめる。
「下衆が」
細い眉を限界までつり上げて、白銀はゆなを睨んだ。短く吐き捨てられた罵声を聞くと、ゆなは下から上目遣いに彼女を見上げ、更に口角を上げた。
「あんたら退治屋だな。余計な事しない方がいいぜ、ここの主はお前らが思ってる程甘かねえ」
明は呆然と立ち尽くし、渚が悔しげに歯噛みする。今の今まで敵対していたものの、目の前で憑かれたとあっては、退治屋である渚も悔しいだろう。
ゆなはふと藤堂を見て、にやり、と笑った。
「あんた、見たろう」
白昼夢が、フラッシュバックした。苦しげに歪む男の顔に、下卑た笑い声。死体の顔にぽっかりと開いた二つの虚と、飛び交う蝿の耳障りな羽音。藤堂は思わず、吐き気を堪えるように掌で口元を覆って顔をしかめ、ゆなから目を逸らす。この声は、あの光景の中で聞いた声だったのだ。
明がはっとして、俯かせていた顔を上げた。そして青ざめた藤堂をまじまじと見た後、苦々しく表情を歪める。藤堂に何が起きたのか、彼女は気付いたのだろう。
明はゆっくりとゆなに歩み寄り、刀の切っ先を彼女に突きつけた。ゆなは微動だにせず、嫌な笑みを浮かべている。
「コウ君、引っ張り出して」
藤堂の背後から、小さな守護霊達が飛んでいく。しかしゆなは相変わらず嫌な笑みを浮かべたまま、その場から逃げようともしなかった。
小さな唇が、おもむろに窄められる。胸いっぱいに息を吸い込み、体内で留めた。
明が怪訝に片眉を顰めた瞬間、子供らへ向かって吹きかけられたものは、息ではなかった。藤堂の周りに漂っていたものとよく似た、どす黒い靄。それは瞬く間に、子供等の周囲を覆って行く。
幼い悲鳴が、遠くに聞こえた。
「な、またなの……」
子供達は、黒い靄に阻まれて身動きが取れなくなっていた。明が呆然と呟くと、ゆなが笑う。渚が苦々しく舌打ちした。
「じいや、あれを捕まえなさい!」
頷いた執事が、渚の横から飛び出してゆなに掴みかかる。しかし彼女はその腕をすり抜け、軽やかに飛び上がった。人間業とは思えない跳躍は、霊の力のせいなのだろうか。
守護霊を失った藤堂は再び、目眩に襲われた。一体これは何なのだろうと思う。しかし先ほどのように、光景が瞼の裏に浮かぶ事はなく、代わりに強い悔恨の念が頭の中に流れ込んできた。
悔やみ、悩み、苦悶する。深い悲しみと、自責の念。やがて映像ではなく画像として脳裏に浮かんだ、深い後悔の念に駆られては、それを誤魔化すように酒を呷る男の姿。藤堂には彼が何を悔やんでいるのか、分かったような気がした。
執事は鋭い目を更に細くして、ゆなを睨んだ。跳躍した彼女が降下するのを見計らって手を伸ばすが、ゆなはその手を踏み台にして、更に高く跳ぶ。小ばかにするようなその動きに、執事の顔に怒りの色が浮かんだ。
執事の顔色を見て、険しい表情で事の次第を見守っていた白銀が、ようやく動いた。ヘルメットを地面に置いてから渚の肩に手を添え、執事の手から逃げ回るゆなを真っ直ぐに見据える。
「やめさせろ。お前の執事では、あの子を傷付ける」
渚は素直に頷いて、執事に向かって制止するように掌を翳した。執事は主人を振り返って困惑した表情を浮かべた後、ゆなを見て体の力を抜く。藤堂の目には、溜息を吐いたように見えた。
着地したゆなは、ゆっくりとした足取りで近付いて来る白銀を見て、僅かに眉を曇らせた。そして大きく息を吸い込み、黒い靄を吐き出す。長い足が、地を蹴った。
「ここの主は確かに凄いだろうがな、お前自身はどうだ?」
横へ飛び退いて靄を避けた白銀はそう言いながら、ゆなに向かって腕を伸ばす。忌々しげに舌打ちしたゆなはその手を避けて跳躍し、再び黒煙を吐き出した。腕を伸ばした白銀が、すぐさま手刀でそれを切り裂く。裂かれて拡散した靄はそのまま、かき消えた。
驚愕に目を見開いたゆなは降下しながら、白銀に向かって蹴りを繰り出した。傍目にはかなりの速さのように思われたが、白銀は軽々と避け、再び腕を伸ばす。指先が足に触れた所で、ゆなはその手を思い切り蹴り上げた。
「甘いな」
指先を蹴られたにも関わらず、白銀は眉ひとつ動かさずに呟いた。形の良い唇が、緩やかな弧を描いている。
甲高い叫び声を上げたのは、ゆなの方だった。地面に倒れこんで爪先を押さえ、その場を転げまわる。苦しんでいるのは中にいる悪霊の方とはいえ、藤堂にはその姿が痛々しく見えた。
やがてゆなの両手が、己の首に回される。大きく開いた口からは黒い靄が吐き出されて行くが、先ほどまでのものと違い、次々と出て来ては徐々に形を成して行った。
同時に、子供らを覆っていた靄が消える。守護霊達は慌てた様子で、藤堂の下へ戻った。藤堂も彼らも、結局今回ばかりは何もしていなかった。
「除霊も退治屋の仕事の内だ」
白銀は、指を揃えた掌を黒い塊の上に振りかざした。額を押さえていた藤堂が、はっとして身を乗り出す。
「やめろ!」
振り下ろされかけていた白銀の手が、ぴたりと止まった。同時に、驚いた三人の目が藤堂に向けられる。またこれだと、藤堂は困ったように顎を掻いた。どう説明したらいいのか、自分でもよく判らない。
「見たんだね、藤堂さん」
明の問いに、藤堂は曖昧に頷いた。見たのかと聞かれても、あれが何なのか藤堂には分からない。分からないがあれが真実だとするなら、このまま抹消させるにはあまりに哀れな気がした。
真っ直ぐに己を見つめる三人の視線に、藤堂は何もない虚空を見上げた。ああ、とぼやく。
「あのなあ、そいつ多分、借金取りだったんだな」
渚が不思議そうに首を捻る。白銀は合点が行ったようで、体ごと藤堂を向いた。
「あなたは精神感応者だったのか」
「何ソレ」
「サイコメトリーだ。霊の記憶を見る一種の超能力だが、近付くだけで全てを見てしまうから、精神に異常を来たす者が多いと聞く。それで守護霊がいたのか」
藤堂は軽く肩を竦めた。それでいたのかと言われても、藤堂にはよく分からない。
「さあ? まあ、色々やったみてえだな……思い出したくねえけど。おいお前、笑ってたな」
黒い塊は、男の顔を形作っていた。ぼんやりとしか見えないが、その表情はどこか悲しそうに歪んでいる。
霊体が靄の形を取っていたのは、彼の心に澱が溜まっていたせいなのだろう。悩み苦しみ、激しく悔やんだからこそ、彼は悪霊となってしまったのだろう。
「イヤだったから、笑ったんだろ。自分がしてる事が罪だって、ちゃんと分かってたんだろ。泣けも怒れもしねえ、仲間誤魔化すには、そりゃ笑うしかねえもんな」
男の顔は、何も答えなかった。殆どの霊は口が利けないというから、当然かも知れない。
静かな藤堂の声を聞く渚の表情が、戸惑ったようなものへ変わっていた。藤堂は静寂を破るように、更に続ける。
「罪を悔い改めはしたが、後悔するあまり、そうやって悪霊になっちまったんだろ。違うか」
そこまで言って、藤堂は明を見た。その意を察したようで、明は小さく頷く。
「業が深すぎて、悪霊になったんだね。話がしたかったのは、本心だったんだ」
「後悔して苦しんだなら、もういいだろ」
明が男の顔に歩み寄ると、白銀がその場から離れた。悲愴な表情を湛えたまま、男は何も言わない。明の刀の切っ先が突きつけられても、逃げようとはしなかった。
「あの世では、後悔しないようにね」
銀色に輝く刃が、男の額に埋められて行く。何の抵抗もなく進む切っ先が深く突き刺さって行くにつれ、男は目を閉じて行き、靄は徐々に白く変わる。
やがて先端が頭部の反対側へ突き抜け、男の目が完全に閉じられる。眠るように安らかな表情を浮かべた男の顔は、空気に拡散して消えた。
男の顔が穏やかな表情で消え失せるのを見届けた白銀が、口元に微かな笑みを浮かべる。いつの間に起き上がったのか、ゆなが目を閉じて手を合わせていた。
呆然と浄霊の様子を眺めていた渚が、力が抜けたようによろめく。隣に控えていた執事が、咄嗟に片手で主人を支えた。
「あんな風に、浄霊するのね」
ぽつりと呟いた渚に、全員の視線が集まった。明が鞘に刀をしまいながら、体ごと彼女へ向き直る。
「私、存じませんでしたの。浄霊も退治も、そう変わらないと思っていたわ……退治屋のことしか、勉強して来なかったから」
ゆなと白銀が、顔を見合わせた。知らなかったのか、とでも言いたげな表情だ。浄霊という言葉さえ知らなかった藤堂からすれば、知らなくても無理はないと思えてしまうのだが。
「浄霊っていうのは、罪を浄化して成仏させる事だよ」
暫くそのまま呆然としていた渚は、ゆっくりと執事の腕から離れ、明に歩み寄った。少し背の高い彼女と、明は僅かに顔を上げて視線を合わせる。
「あんな安らかな顔で消える霊は、初めて見ましたわ。浄霊というのは、こういう事でしたのね」
渚は腹の前で指先を組み、明に向かって優美な仕草で頭を下げた。明が目を丸くしたが、藤堂はそれ以上に驚いた。
「私を浄霊屋にして下さいませ」
え、と明が小さく呟く。執事が慌てて渚に近付き、眉間に皺を寄せた。何も言わないところを見ると、口は利けないようだ。
渚はゆっくりと顔を上げ、戸惑う明と再び向き合う。真っ直ぐな目だった。
「私はこういう家に生まれましたから、霊を悪戯に苦しめるようなやり方しか出来ませんの」
ちらりと執事に視線を遣り、渚は躊躇いがちに微笑した。執事が困ったような顔をする。
「このやり方は変えられませんし、上の許しがなければ、じいやを解放してあげる事も出来ません。ですからせめて、浄霊屋としてやって行きたいの」
「それは……いいけど……」
真摯な渚の態度に戸惑いながら、明は言い淀んで視線を彷徨わせる。ちらりと見たのは、執事の顔。
「あなた、家には何も言われない?」
「あら、何も言わせませんわ。ねえ、じいや?」
自信に満ちた笑みを向けられた執事は、大様に頷いた。そして明と向き合い、ほぼ直角に近い角度まで腰を折る。粗野な外見だがやはり執事らしく、その仕草はやけに様になっていた。
明は頷いて、藤堂を見た。ゆなも期待に満ちた目で、藤堂を見上げている。またこの選択かと、彼は溜息を吐いた。しかし嫌な気はしない。
「まあ、人数増えて悪いこたないんじゃない?」
口元に笑みを浮かべた藤堂を見て、渚はさっと顔を赤らめて視線を逸らした。そんな彼女に気付いたのかそうではなかったのか、明が満面の笑みで、掌を差し出す。二人はそのまま、長く握手を交わしていた。
渚を微笑ましく見守っていた白銀が、ふと表情を消して門扉を振り返った。車の音が近付いて来る。
「来たな。いいタイミングだ」
呟いて、白銀は訝しげな面々に向き直る。
「うちの者が来たようだ。封を施すので、済まんが敷地の外へ出てくれないか。……高屋敷」
呼ばれて、渚は姿勢を正す。白銀は優しげな微笑を浮かべた。
「頑張れよ」
労いの言葉に、渚は目を丸くした後、はにかんだような笑みを見せた。