第三章 向こうは見ない 七
※途中、多少グロ描写があるのでお気をつけ下さい。
まずいと思ったら読み飛ばして下さっても、差し支えありません。多分。
守護霊を封じた札を渚がしまい込むのを見て、明は彼女を睨み付けた。噛みつかんばかりの形相に、渚は一瞬たじろぐ。しかしすぐに取り繕って見下すような笑みを浮かべ、肩に掛かった髪を背中へ跳ね除けた。
「返して欲しくば、じいやを倒してご覧なさい」
執事を封じていた札を目の前に掲げ、渚は冷たく告げた。子供等に掴まれたせいで乱れた前髪を両手で後ろへ撫で付けてから、執事は再び明に向かって行く。明は歯噛みして肩を怒らせた。
「危ないって知ってるくせに、分からず屋!」
怒鳴った明は、繰り出された執事の蹴りをその場でターンして紙一重で避け、そのまま通り過ぎようとした巨体を振り向きざまに斬りつけた。執事の燕尾服が、中に着ていたシャツごと破れて逞しい背中が露わになり、大きく裂けた傷口から鮮血が滴り落ちる。執事の表情が、憤怒に歪んだ。
斬りつけた勢いで横に流した刃の向きを変え、明は体を反転させて更に執事の腹へ斬りかかる。般若のような形相の執事は高く飛び上がって刃を避け、降下しながら拳を握った。明の表情が俄かに凍り付く。刀を横一文字に構えて上空へ向けた刃を掲げ、防御の姿勢を取るが一瞬遅れ、勢いづいた拳が恐ろしい速さで顔面へ迫る。ゆなが悲鳴を上げた。
「く……っ」
明はすんでの所で頭を大きく傾け、拳を避けていた。衝撃で頬に一筋赤い線が走り、切れた髪が地面へ落ちる。傷口から頬を伝い落ちた血が制服の襟を汚したが、傷になど構っていられないとばかりに、明は着地した執事の追撃を刀で弾き飛ばした。
「霊飼いだかなんだか知らないけど、成仏出来る霊を悪戯に現世に留めて苦しめて、何が退治屋よ!」
「私だって、好きでじいやの霊を飼っている訳じゃないわ!」
その言葉に、明がはっと息を呑む。驚いた隙に執事の拳が飛んできたが、明は慌てて避けた。横をすり抜けて行った腕を上段から斬りつけようと刀を振り下ろすが、執事は身を屈めて迫り来る刃から逃れる。
繰り返される激しい攻防に目を奪われていたゆなは、隣でうずくまる藤堂を見て、小さく声を上げた。
「藤堂さん!」
その悲鳴は、藤堂の耳には届かなかった。色が抜けたように白くなった顔に苦悶の表情を浮かべ、藤堂は耳鳴りと頭痛に耐える。
高熱を出した時のように途切れる事のない悪寒と、耳元で何者かが囁く声。目を開いても闇しか映らず、耳鳴りのせいで何も聞こえない。背中に手を添えるゆなの掌の温度が、辛うじて伝わってくるお陰で、自我を保っていられるようなものだった。
閉じた瞼の裏に、何故か小洒落たバーが映る。カウンターの内側に設置されたバーラックにはボトルが並んでいたが、その全てが割れるか傾いているかのどちらかで、震災にでも遭ったかのように散らかっていた。壁際に並んだテーブルも、カウンターも閑散としており、床には割れたウイスキーのボトルやコップが転がって、水溜りを作っている。複数の人物の笑い声と共に、その床へ誰かが倒れこんだ。割れたガラスの破片がワイシャツの背に刺さり、所々から血が滲む。男の顔は赤紫色に腫れ上がり、額からは血が流れていた。視界の端から現れた柄の悪い男が、倒れこんだ男の腹を力いっぱい踏みつける。零れ落ちんばかりに目を見開いた男が、血混じりの吐瀉物を口から噴出した。嫌な笑い声と共に、踏みつけた男が舌打ちを漏らす。その足は吐き出された汚物で汚れていた。倒れた男がふらつきながら上半身を起こし、怯えた表情を浮かべる。下卑た笑い声が木霊し、腫れ上がった男の額を爪先で小突く。再び無様に床へ倒れた男の頭上に靴の踵が乗せられ、こつこつと確かめるように叩いた後、高々と足が掲げられた。
足が振り下ろされた瞬間、藤堂は冷や汗を流しながら目を見開いた。しかし真っ暗な視界には、何も映らない。背中に冷や水を入れられたかのように、ひどく寒い。あれは一体、何をしていたのだろう。あの男は、どうなったのだろうか。
混乱した頭で考えながら、藤堂は朦朧とする意識を繋ぎ止める事に必死になっていた。そしてテレビの電源を入れた時のように、真っ暗であった筈の視界に再び何かが映る。
そこは古びたアパートの一室だった。苛立ったような声が何事か喚いているが、あまりに早口の為、聞き取れない。室内にはゴミ袋や衣類が散乱し、そこかしこで蝿が飛び交っている。部屋の隅に見えた破れた襖へ、視界の端から現れた男が近付く。勢い良く開かれた襖の向こうは、和室になっていた。男が足を踏み入れると、畳が沈む。ぶよぶよとした畳は全体が黒ずんでおり、大量に湧いた蝿が煩い羽音を立てている。舌打ちの音が聞こえる。和室の梁にはロープが二本、きつく結び付けられていた。そこにぶら下がった、力なく揺れる二人の男女。膨れ上がった顔には生気がなく、眼球もない。虚ろに開いた眼窩からは蛆虫が這い出し、開かれた唇からは白い舌がだらりと垂れ下がっていた。上半身は骨と皮ばかりになっているが、反対に、下半身には全身の水分が溜まって膨れ上がっている。ベルトを締めた男の腹は膨張し、今にも弾け飛んでしまいそうだった。さも可笑しそうに笑う声が、蝿の羽音に満たされた室内に響き渡る。
視界が真っ暗に変わった。藤堂は頭を抱え、力なく首を左右に振る。何の冗談だ。藤堂は吐き気を催して、掌で口元を覆った。瞬間、声が聞こえる。
「藤堂さん!」
目を見開いた瞬間、視界が晴れた。光を取り戻した目に最初に映ったのは、不安げに覗き込んで来るゆなの、小さな顔。そして、真っ黒な靄。藤堂を囲むように立ち込める靄は、人の顔のように見えたが、しっかりと全貌を確認する事は出来なかった。
「下腹に力入れて。狙ってるから、絶対動いちゃダメだよ」
藤堂を呼び戻したのは、明の声だった。顔を上げて見た先で、彼女は顔をしかめている。執事は所々傷を負っているが、顔色一つ変えてはいなかった。
とてつもなく長い時間、意識が飛んでいたように感じる。しかし実際は、違ったのだろう。明にも執事にも少々疲労が見られるものの、状況が大きく変わっているような様子はない。
「ゆなちゃん、声かけててあげて」
「わかりました」
ゆっくりと肩の力を抜いた明が、執事と睨み合う。二人の纏う空気は、見ている方が冷や汗を流すほど緊張していた。両者とも微動だにしないまま、相手の出方を窺っている。
敷地の外から、バイクの音が近付いてくる。
刀を両手に持ち替えた明が、執事に向かって駆け出す。傷だらけの執事はしかし最初と変わらぬ速度で、明に飛び掛った。
瞬間、バイクが敷地内へ飛び込んで来た。フルフェイスのヘルメットを被った人物が、ブレーキをかける間もなくバイクから飛び降りて二人に駆け寄り、進路を塞ぐように間に立った。乗り捨てられたバイクが横転して地面を滑った先の塀に当たり、凄まじい音を立てる。あれは壊れただろうと、藤堂は混乱した頭でそう考える。
明も執事も、突然の介入者を見て驚愕に目を見開いたが、一度付いた勢いは止まらない。両側から迫る拳と刃に慌てる事もなく、割り込んだ人物は両側に掌を翳した。
「きゃ!」
当たると、藤堂がそう思った瞬間だった。刀を黒い革手袋を嵌めた手に弾かれ、悲鳴と共に明がよろける。あの刀は生身を切れないのだろうか。
一方執事の方は、勢いづいた拳を翳された薄い掌にいとも簡単に止められ、目を丸くしていた。長い指が落ち着かせようとするかに、執事の拳を軽く叩く。
大人しくなった執事の拳からゆっくりと手を離した介入者は、おもむろにヘルメットへ手を掛ける。するりと外されたその中から零れ落ちたのは、長い銀色の髪。そしてこれまで何度も見た、凛とした美貌。
すらりとした長身の背中を覆う銀髪に、凛々しくつり上がった眉。瞳の色の薄い切れ長の目と、すっと通った鼻筋。余程慌てていたのだろう、抜けるように白い細面は、僅かに上気している。
レザーのライダースーツを纏った体の見事な曲線美に、藤堂は思わず生唾を呑んだ。豊かな胸とは対照的に、腰は大きくくびれて引き締まっている。尻は少々硬そうだが、そこから伸びる足は細すぎず太すぎず、上半身とのバランスを保っていた。しかし出来れば胸元はもう少し開けて欲しいものだと、藤堂は場違いな事を考える。
脱いだヘルメットを小脇に抱え、白銀は小さく息を吐いた。刀を持ったまま、明が呆然と彼女を見上げる。
白銀は地面にうずくまる藤堂を見て目を丸くした後、勢いよく渚を振り返った。
「何を遊んでいるんだ高屋敷!」
女にしては低めの声に怒鳴られた瞬間、渚の肩がびくりと震えた。鋭い双眸に睨まれた彼女は、視線を宙にさまよわせ、深く俯く。
「さっさとその人に守護霊を返せ! 何の為に守護霊が存在するのか、退治屋のお前が知らない訳ではないだろう!」
「す、すみません白銀さん……今すぐ」
白銀に凄まれた渚は慌てて胸ポケットから札を取り出し、戻りなさい、と囁いた。次から次へと這い出して来る子供等は、一斉に藤堂の元へ戻って行く。藤堂の周囲を覆っていた黒い靄がかき消え、耳鳴りも寒気も、嘘のように収まった。
安堵の息を吐いた白銀はゆっくりと藤堂に歩み寄り、屈んでその顔を覗き込んだ。心配そうに眉を下げるその顔は、先ほど渚を怒鳴りつけたのと同じ女のものとは、到底思えない。
「大丈夫か?」
反射的に頷いた藤堂の目は、相変わらず彼女の胸を見ていた。しかしその視線に気付いたのは、傍で見ていたゆなだけだったようだ。彼女はどこか不満げに、唇を尖らせる。
「ヤなモン見たけど、問題ない」
「それなら、良かった」
白銀は大きく頷いて立ち上がり、再び渚へ視線を向けた。渚の表情が強張る。
「もうすぐ独立するからと張り切るのはいいが、私はここへは来るなと言った筈だ。お前一人でどうにかなると思ったのか?」
険しい表情を浮かべる白銀を見て、渚は俯いて唇を噛んだ。執事は心配そうに、事の成り行きを見守っている。覇王のような風体だが、ちゃんとお嬢様を心配しているらしい。それなら何故渚の暴挙を止めなかったのだろうと、藤堂は思う。
明は相変わらず、白銀に熱い視線を送っていた。大人しくしていてくれと、藤堂は切に願う。この張り詰めた空気の中、余計な事を言ったら恥をかくのは明だ。
「己の力量を過信するな。お前は確かにいい退治屋だが、それでも無謀すぎる」
「はい……済みません」
白銀を前にしおらしくなった渚に、藤堂は意外そうに眉を上げた。姉に叱られる妹のようだ。退治屋なら誰でも憧れるという明の言葉は、強ち嘘でもなかったのだろう。
藤堂はふと洋館を見上げて、首を捻った。先ほどの光景は一体、何だったのだろう。あれほど気味の悪い夢など見た事がない。夢だったのかさえ分からないが、少なくとも、二度と見たくはない類のものではあった。
「しかしまさか、こんな所にあったとはな……近くにありすぎて、分からなんだ」
呟く白銀に気のない視線を向け、藤堂は億劫そうに立ち上がった。隣のゆなは、未だにしゃがみ込んでいる。
「灯台下暗しってヤツ? なあ、あんた。ここどうにかなんねえのか」
藤堂を見た白銀の表情が曇った。
「無理だな。私一人では、どうにもならん。すぐに来られれば良かったんだが、少々社内がごたごたしていてな」
「そんな……白銀様でも無理だなんて」
肩を落として呟いた明を見て、白銀は一瞬表情を強張らせた。ついこの間、暴走した彼女に困らされた事を思い出したのだろう。人気者も大変だと、藤堂はぼんやりと考える。
「と、とにかく今は、うちの陰陽師が封だけ施す。準備が整ったら、後日改めて……」
身を守るようにヘルメットを抱き締め、どもりながら白銀が言った瞬間、けたたましい笑い声が木霊した。全員の視線が声のした方へ向き、げ、と呟いた藤堂がその場から離れる。
「封印されちゃ、困るんだよ」
ゆらりと立ち上がったゆなが、彼女のものとは思えないような低い声で、楽しそうに言った。