第三章 向こうは見ない 五
幽霊屋敷へ下見に行ったはいいがとんぼ返りした翌日、藤堂はゆなと馴染みの定食屋にいた。明が遅くなると言うので一人で来たゆなは、事務所へ入ってくるなり腹が減ったと騒ぎ出し、しまいには無理矢理藤堂を引っ張り出した。ここ数年昼飯はずっとコンビニ弁当か自炊で済ませていた藤堂は、たまにはいいかと、流されるまま定食屋へ入ったのだ。
昼飯時から少し外れた時間帯だった為か、店主の親父は暇そうにテレビを見ていた。入店した藤堂と一緒に入ってきたゆなを見て、彼は怪訝な面持ちで僅かに身を乗り出す。
不思議に思うのも、当然だ。傍から見れば、うだつの上がらない三十路男が、妹とも娘ともつかない少女と一緒に寂れた定食屋へ入ってくる光景など、異様でしかないだろう。
藤堂は言い訳をするのも妙な気がして、カウンター席に着くなり、味噌カツ、と親父に伝えた。ゆなは藤堂の真横に腰を下ろし、物珍しそうに店内を見回している。
ゆなはどうも箱入り娘のようだから、こんな親父の憩いの場のような定食屋になど、入った事もなかっただろう。小娘の好きそうなファミリーレストランにでも入れば良かったと、藤堂は少々後悔した。つい癖で、いつもの定食屋を選んでしまったのだ。
「おう質屋。モテねえからって、とうとう少女愛好に走ったかこの人攫い」
顔をしかめて藤堂が見た先では、禿頭の親父がにやにやと嫌な笑みを浮かべていた。調子のいいこの男は藤堂と同じくここの常連で、金融業を営んでいるらしいが、藤堂は詳しい事を知らない。知り合って随分経つが、お互い名前も知らないままだ。
ゆなが店主を呼びとめ、焼きほっけ、と注文した。ファミリーレストランに連れて行かなくて良かったと、藤堂は思う。
「ちげえよ。俺の巨乳好き知ってんだろ」
「人の好みなんていくらでも変わるモンだよお前。俺だって昔はデカい方が良かったが、今じゃ乳ならなんでもいいもんなあ」
そう言って、金貸しの親父は豪快に笑った。金貸しという職業に違わず、品のない男なのだ。藤堂も大差ないが。
ゆなが藤堂の横から顔を出し、金貸しを見て不思議そうに首を傾げた。
「そうなのですか、変わるのですか」
顔色一つ変えずに下品な会話に割り込んだゆなに、金貸しは満面の笑みを浮かべてみせた。
「そうだよお嬢ちゃん、気をつけなよ」
「それは良い事を聞きました」
ゆなは藤堂に向き直り、真っ直ぐに見上げた。呆れた表情を浮かべる藤堂は、大きな目から視線を逸らす。
「藤堂さん、今すぐ好みを変えてください。ゆなの自分でも驚くぐらいの貧相な乳で満足出来るように」
「無理」
へえ、と金貸しが藤堂の顔を覗き込む。二人に挟まれた藤堂はどこに避ければいいか分からず、結局身を反らした。
「モテるな質屋よ。いやあ、羨ましい」
「本気でそう思ってねえだろ」
「思ってるって。……そういやお前、メイちゃんと浄霊屋始めたんだってな」
またその話かと、心中呆れる。藤堂は些か辟易しながら、味噌カツ定食をカウンターに置いた親父に向かって、軽く片手を挙げる。箸を割りつつ、ゆなをちらりと見てから金貸しに向き直った。
「それ。こいつメイの弟子」
ほう、と感嘆の声を上げ、金貸しは目を丸くして、まじまじとゆなを見た。ゆなは感情の読み取れない無表情で、親父を見ている。その視線はどちらかというと、輝く禿頭の方に向けられていた。
「小さいのに頑張るねえ」
金貸しの言葉に、ゆなは頷いて胸を張った。藤堂は苦笑しながら、炊き立ての飯が盛られた丼を持ち上げる。
「軽く言うけどな、昨日なんか大変だったんだぞ」
「その通りです。色んな方が我先に小さなゆなの中に入ろうと」
「お前は黙ってろ」
箸を持った手で、藤堂はゆなのヘルメットを押し付けるように叩いた。何を勘違いしたか、金貸しの表情が引きつっている。藤堂は脱力して、白米を頬張った。弁解する気も起きない。
目の前に盆が置かれると、ゆなは何事もなかったかのように手を合わせ、いただきますと言った。
「……何が大変だったんだ?」
金貸しはおずおずと、藤堂の顔を覗き込んで聞いた。気のない視線がそちらへと向けられ、すぐに逸れる。
「幽霊屋敷行ったんだよ、知ってる?」
「ああ、アレの事か?」
藤堂は思わず、金貸しが指差した先を見た。ゆなもつられてそちらを見上げる。そして同時に、目を丸くした。
カウンター端に置かれたテレビの画面には、『謎の幽霊屋敷』と、でかでかとタイトルが出ていた。しかし彼らを驚かせたのは、画面下に出たテロップの方だ。
「お……鳳の奴らが全滅?」
呆然と呟いた藤堂の隣で、ゆながあらまあと呟いた。さして驚いてはいなさそうな口調だったが、箸を取り落とした所を見ると、彼女なりに動揺しているらしい。
明が懸念していた事が、現実のものとなってしまった。何事もないどころではない。死者二人、残りの六人は重軽傷となると、大事だ。あの鳳がという驚きもあったが、藤堂には寧ろ、そんな危ない所で鹿倉が暮らしている事の方が、問題のように思えた。これでは明も渋るはずだ。
「へえ、すげえトコもあるもんだなあ」
金貸しの呑気な声が、別世界のもののように聞こえた。彼にとっては、テレビから流れるニュースの方が別の世界の事だろう。しかし藤堂には、あちらの方が現実なのだ。つい昨日自分があの場所にいたことが、信じられないとも思う。
藤堂はゆなと顔を見合わせ、再びテレビへ視線を移した。ゆなは食い入るように画面を見つめているが、藤堂はテレビを見ながら飯を食っている。
「所長、テレビ局が退治屋に依頼するようです」
黙々と箸を進める藤堂に気付いてか、ゆながそう実況した。藤堂は頷いて、からりと揚がったカツを一口齧る。所長という呼び名には突っ込まなかった。
画面が切り替わり、スタジオが映った。そこには二人のアナウンサーと、金髪の女が並んで座っている。
「あ、あのオネーちゃん有名な退治屋だな。なんつったっけ?」
「あの性格の悪そうな顔は高屋敷家の人ですね」
「なんだそりゃ」
「陰陽道の流れを汲んだ、まっこと不可思議な術を使う人たちです。困ったらあそこか鳳に頼めと学校で言われました。鳳さんみたいに会社としてやってるわけじゃないみたいですが、明さんの話では、かなりやり手だそうですよ」
長々と説明して興味をなくしたのか、ゆなはようやく定食を食べ始めた。明が言うくらいだから、実力はあるのだろうと藤堂は思う。それなら、また鹿倉に泣きつかれる心配はないだろう。二度とあんな所には行きたくない。
「一人で行くのか、大変だなあ」
金貸しの呟く声に、藤堂はもう反応しなかった。腹がいっぱいになったと言うゆなの食べ残しを摘んだ後、箸を置く。何やら眠くなってきてしまった。
「明さん、もう来ていますかね」
ゆなの問いかけに、藤堂は煙草に火を点けながら、ああと呟く。すっかり忘れていた。
「ああ、こんな所にいた!」
店内に響いた大声に店の入り口を見ると、明が藤堂を指差して眉をつり上げていた。藤堂はまた、呑気にああと返す。
「ワリ、腹減っちまって」
「もう……探したんだから」
おかっぱの黒髪を揺らして、明はカウンターへ歩み寄る。そこでようやく金貸しの姿に気がついたらしく、あれ、と声を上げた。
「おじさん、いたんだ」
「おう、メイちゃん」
金貸しは深く皺の刻まれた顔に柔和な笑みを浮かべ、明に向かって片手を挙げた。
「大変だなあ。あの幽霊屋敷、結局取られちゃったな」
藤堂は僅かに眉を上げた。明が探していた事を、知っていたのだろうか。益々どういった付き合いなのか、訝しく思えてくる。
「あれ、知ってるの?」
「今ニュースでやってたぞ。鳳は全滅したってよ」
藤堂を通り越して金貸しの横に腰を下ろした明は、俄かに表情を曇らせた。昨日事務所へ戻ってから、鳳の面々を一番心配していたのは、他ならぬ明だった。
明は俯いて、悲愴を湛えた目を伏せた。
「そう……ダメだったんだ」
おかっぱの髪が流れて、明の顔を隠す。金貸しは驚いたような表情で藤堂を振り返ったが、彼はのんびりと煙草を吹かすばかりだった。ゆなは元々下がった眉尻を更に下げ、心配そうに明を見つめている。
心優しい娘なのだと、藤堂は思う。ゆなの時あれほど激昂したのは、鳳の横暴に対してではなく、彼女を心配しての事だったのだろう。
金貸しは困ったような笑みを浮かべ、明の顔を覗き込んだ。
「でも高屋敷の子が退治するらしいから、そんなに心配しなくて大丈夫だと思うぞ。な」
弾かれたように顔を上げた明は、限界まで目を見開いていた。金貸しが一瞬たじろぐ。
「ちょっとそれ、どういうこと! あそこの人が行くの? いつの話よ!」
「え、ちょ、落ち着いてよちょっと」
どうもこの娘は、感情の起伏が激しすぎる。激情家というなら、そうなのだろう。
藤堂は我関せずとばかりに、騒ぐ二人から視線を逸らす。一度勢いづいた明はなかなか止まらない事を、藤堂は嫌と言うほど思い知らされている。
「一人で行かれるそうなのです。テレビで見ただけなので、いつ行くのかは分かりませんが」
ゆなが口を挟むと、明は驚愕の表情を浮かべたまま、一瞬凍りついた。店内の客が一様にして、彼らの様子を見守っている。店主は迷惑そうな顔をしていた。
嫌な予感がする。藤堂は昔から、下らない勘だけはいい。ジャンケンはほぼ負けなしだったし、体育祭でどの組が勝つか賭けた時も、一人勝ちした。そして嫌な予感というのは、大抵当たってしまうものなのだ。
「止めなきゃ、藤堂さん」
藤堂は煙草を灰皿に押し付けながら、深い溜息と共に肩を落とした。もう何度聞いた台詞だろう。
「またそれかよ。今日はいねえだろ流石に」
「調べてくる。ほら、事務所戻るよ!」
椅子から飛び降りた明は、藤堂とゆなを問答無用でカウンターから引き剥がす。ゆなは素直に従ったが、藤堂は呆れた表情を浮かべていた。
「オヤジ、ツケで」
店主はさっさと行けとばかりに、虫でも払うような仕草をした。黒江夫妻から貰った金で滞納した家賃は完済したが、ツケは返すのを忘れていた。
明に促されるまま帰る間際、金貸しにも金を返していないことに気付いたが、藤堂は気にしない事にした。