第一章 指輪に憑いた想い 二
藤堂は二人が去って行った方を暫く眺めた後、肩に入っていた力を抜くように溜息を吐いた。
「……いい乳だったなァ」
あの女は、藤堂に水子が憑いていると言った。思い当たる節はない。確かに学生の時分は女性関係がきっちりしていると言えたものでもなかったが、だらしなかったとも言い難い。それ以前に要領の悪い藤堂は顔でもてても長続きする方ではないし、水子に憑かれるような原因が思い当たらない。
憑かれているとするなら、あの指輪にではないのだろうか。憑くのは霊だが、指輪に憑いている霊が藤堂の安眠を妨害しているのだから、指輪に憑かれているのだと彼は思っている。
藤堂はあの指輪が欲しいと思った訳ではない。既存商品さえ売れないからこれ以上欲しくはないが、売られて来たから買い取っただけだ。そもそもあれは巡り巡って質屋に売られてきただけで、指輪に憑いた霊は恐らく、彼自身とは何の関係もない。迷惑千万だ。
所々跳ねた髪を苛立たしげにかき混ぜて、藤堂は歩き出した。考えているだけで腹が立つ。何の関係もない人間に、何故害を為すのか。藤堂にはそれが理解し難い。
自殺者の霊が抱いていた怨みの念が踏切事故に影響しているだの、海難事故の犠牲者が他人を引きずり込むだの、そういった話はよく聞く。しかし腑に落ちない。死んだ人間が、霊になってまで赤の他人を怨むのは、お門違いだと思うからだ。
生前怨んでいた人間を殺すなら分かる。それは単純な復讐心から来るものだし、少なくとも赤の他人に危害が及ぶ事はない。しかし何の関係もない所で、他人と一緒くたにされて憑かれるという事が、藤堂には無性に腹立だしく思えるのだ。自分には関係がないし、怨まれるような事をした覚えもない。
人通りの多い繁華街に出てから、さっきの退治屋に指輪の除霊を頼めば良かった、と後悔した。どうせいつ依頼してもタダなのだから、また明日連絡すればいいだけの話だ。しかし何しろ金がないから、たった数円の電話代さえ勿体無いと感じる。例え数円だろうと、藤堂にとっては大金だ。
馴染みの定食屋へ入って適当な席に着くと、カウンターの向こうから店主の野太い声が掛けられる。不機嫌そうな声を聞いてみても、愛想のない態度を見ても、お世辞にも接客態度がいいとは言いがたいが、作る飯は美味い。流行っているとは到底言えない飯屋だが、この親父の味に惚れた常連客が通い詰めるお陰で、なんとか潰れずに済んでいるようだ。
藤堂も常連の一人ではあるが、通う理由は他の客と違う。自宅から近い事と、値段が安い事。飯などは食えればいいし、食えない程不味いものなど、この世には存在しないと彼は思っている。しかし自分で作るのは面倒なので、度々ここへ訪れる。
いつもの定食を注文して早々懐から煙草を出したついでに、退治屋に貰った名刺を見た。カウンターに紙片を置いて、煙草に火を点けながら視線を落とす。「堤久礼太」と名前が書かれた上に、小さく常務と肩書きがあった。管理職だったのかと藤堂は少々感心したが、名前を見る限り歳は行っていそうだ。
今の時代に、こんな奇抜な名前をつける親はいない。読み辛い名前は大昔に流行っていたようだが、今では廃れてしまった。藤堂の親の名前も妙だが、彼らはそれが嫌で子供に堅苦しい名前を付けたのだとぼやいていた。
「質屋よ、お前質屋のくせに、鳳コーポレーションの常務と知り合いだったのかよ」
近くから聞こえたダミ声に驚いて横を見ると、この定食屋の常連客である中年男性が、藤堂の肩口から顔を出して名刺を覗き込んでいた。つるりとした禿頭が、外から差し込む光を反射して輝いている。藤堂は思わず眩しげに目を細めた。
「何だよカネさん、脅かすなよ」
「ああ、悪い悪い」
藤堂は迷惑そうにそう言って、少し身を引く。男は深い皺の刻まれた顔に、にやりと笑みを浮かべた。
カネさんと藤堂は呼んだが、これは本名ではない。金貸しをやっているそうだから、単純にカネさんと呼んでいる。この店で偶然会えば世間話をするぐらいで、お互いの名前は知らないし、言うつもりもない。だから向こうも、藤堂を質屋と呼ぶ。
気楽な間柄だ。友人関係とはその程度でいいと、藤堂は考えている。そのぐらいの方が愚痴を言いやすいし、個人的な事に関して深く突っ込まれる事もない。たまに会って軽口を叩ける程度の関係が、彼にとっては一番望ましい。
「別に知り合いじゃねえよ。偶然。つうか、鳳コーポレーションてな何だ」
「お前鳳知らねえのか。ホンット時代に逆らってんな」
藤堂は軽く肩を竦めて、深く吸い込んだ煙を長く吐き出した。自分が時代遅れである事ぐらい、彼は重々承知している。
「鳳っていやァ、退治屋ん中じゃ一番の会社よ。日本と言わず世界中に支店持ってやがってな。取締役社長は毎年、世界規模の長者番付で、十位以内」
「なんだそりゃ。幾ら稼いでんだか全然想像出来ねえ」
「俺もだ」
金貸しは大声を上げて快活に笑った。その笑い声を聞きながら、金貸しというのはいつから儲からなくなったのだろうと、藤堂は考える。昔はそれなりに儲かっていたような印象があるのだが、時代が違うという事なのだろうか。
なんにせよ、質屋も金貸しと同じようなものだ。質屋が儲からなくて首が回らない状態なのだから、金貸しも似たような状況だろう。金がないのに明るいこの金貸しを見ていると、自分も腐ってはいられないと藤堂は思う。
思うだけで元来無気力な藤堂は、何をするわけでもないのだが。精々大型デパートや他の質屋と提携して、年に二、三度バーゲンを催すぐらいだ。
「でもなあ質屋よ。俺らはこの仕事してて命の危険に晒される事なんか、ねえだろう。あちらさんは違うからなあ」
「ああ……そうねえ」
藤堂の生返事にも、金貸しは大様に頷いた。
一瞬会話が止まったのを見計らったように、厨房にいた店主がカウンターに塩鮭定食の膳を置く。藤堂は煙草をもみ消しながら軽く片手を挙げ、親父に挨拶してから、カウンターに備え付けの割箸を取った。
「幽霊関係の仕事なんざごまんとあるが、退治屋が一番儲かるのは、その辺が理由だわな。下手すりゃ死ぬかもわからねえ。あぶねえから依頼料も弾む」
切り身の鮭を口に運びながら、藤堂は投げやりに頷く。話に興味がない訳でも、中年親父の薀蓄めいた長話を鬱陶しいと思っている訳でもないが、彼は喋るのがあまり得意ではない。つまりは口下手なのだが、口から産まれたような男よりはいいはずだと、本人は思っている。
「まあ、国に金まで出してもらってダラダラ仕事してる俺らじゃ、奴ら羨むのもおかしな話だな」
金貸しがそう締めくくった時、彼の前にも膳が出された。艶やかに照り輝いて一粒一粒から湯気を立てる白飯を見て、金貸しは舌なめずりをする。
藤堂はそれを横目で見ながら、黙々と箸を進めた。金貸しという職業には実に似つかわしい仕草だと、どうでもいい事を考える。藤堂は時代劇ファンだ。
「おじさん」
隣で生姜焼きを口にかき込んでいた金貸しが、声のした方に視線を遣る。つられて藤堂も、そちらを見た。
「元気? 儲かってる?」
溌剌とした声で言いながら近付いてきたのは、セーラー服姿の少女だった。今時珍しい黒髪は肩口で真っ直ぐに切り揃えられ、歩く度にさらさらと揺れる。大きな垂れ目に、幅の広い唇。緩やかなラインを描く頬は薄紅色に染まっており、少女の整った顔立ちを際立たせていた。
しかし藤堂の目はその可愛らしい容貌よりも、制服の薄い生地を押し上げる胸の方に行った。そこそこ、と心中独りごちる。紺の襟に白い袖、赤いリボンとのコントラストがやけに眩しく見え、藤堂は思わず目を細めた。
「相変わらずだ。メイちゃんは……儲かってるよなあ」
少女は大きな目を細くして、快活に笑った。
どういう関係なのかと藤堂は訝しんだが、この少女が常連だとすれば、やたらと人懐こいこの中年親父と仲がいいのも頷ける。彼女の歳で、こんな親父の憩いの場のような定食屋に入り浸っているというのも、考えにくいのだが。
「いつも通りだよ。……隣の人、知り合いなの?」
メイと呼ばれた少女は金貸しの横に腰を下ろし、カウンターに身を乗り出して藤堂を見上げた。
儲かっているかと聞いたという事は、この少女も何かしらの職に就いているのだろう。才能ある人材を教育するという名目で、心霊関係の企業による青田買いが流行っている昨今では、高校生が正社員として雇われる事も少なくはない。
「会うとよく話すんだよ。質屋やっててな、こいつも貧乏だ」
「一言余計だっての」
味噌汁を啜っていた藤堂は、横目で迷惑そうに金貸しを見てぼやいた。メイはふうん、と呟いて、金貸しの向こうから藤堂の顔を覗き込む。物怖じする様子もなくじろじろと己を観察するその視線に、彼は居心地の悪さを感じた。
「あなた随分、疲れた顔してる」
がつがつと飯を食いながら、金貸しはつられて藤堂を見る。言われた当の本人は二人の視線には応えず、実に不味そうに漬け物を齧った。実際に不味い訳ではない。
「こいつはいつもこんな顔だよ」
「そうじゃなくて、霊障が……」
メイはそこで言葉を止めて、首を捻った。怪訝な面持ちだ。
霊障と言われたら、藤堂にも心当たりはある。しかしタダでなんとかして貰おうという腹積もりなので、この少女が退治屋や除霊を主な仕事とする祈祷師のような類であったとしても、指輪の件を任せるつもりはない。何か言われたら面倒だと考えながら、藤堂は箸を置く。
「お兄さん、子供の霊が沢山憑いてる。子供に好かれるんだね」
煙草に火を点けようとした藤堂の手が、止まった。金貸しが片眉を顰めて、口の中のものを咀嚼しながら藤堂の顔を覗き込む。一体何の事なのだろうかと、藤堂は些か辟易する。
「さっきも言われたぞ、それ。退治屋に」
藤堂は改めてタバコに火を吐け、煙を吐き出しながら疲れた調子で言った。金貸しが箸を持ったまま、合点が行ったとばかりに手を打つ。
「ああ、それで鳳の名刺貰ったのか」
「鳳? 鳳コーポレーション?」
メイは更に身を乗り出して、金貸しに聞き返す。
「そうそう、常務と偶然会って名刺貰ったっつうから、何があったのかと思ったわ。商売敵だよなあ、メイちゃんは」
藤堂の位置からメイの様子は窺えなかったが、商売敵という事は、やはり退治屋なのだろうと彼は考える。こんな少女まで命を張るような職に就かなければならないとは、嫌な時代になったものだ。
しかし藤堂にとってはそれも、別次元の話だ。どうせ幽霊など見えないのだから、実害さえなければ、子供が憑いていようがいまいが関係ない。
「そうだよ。私、仕事取られて大変なんだから。でも、常務で良かったね、お兄さん」
「なんで?」
気のない調子で問い返すと、メイは体ごと藤堂の方を向いて、椅子から身を乗り出した。
「他の過激派グループだったら、問答無用で退治されてたよ。その子たち」
藤堂は視線だけをメイに向けて、怪訝に表情を変えた。
「社内でグループに分かれてんのかよ」
「そう。常務のグループには白銀様がいるから、悪意のない霊には、無闇に手を出したりしないの」
「シロガネサマ?」
その響きに、藤堂は一瞬神社を思い浮かべた。しかし金貸しがメイを見たので、それ以上口は挟まない。元々、余計な事は言わない主義だ。
「退治屋だの拝み屋だのやってる女の子は皆、憧れてるんだったっけな」
金貸しが補足すると、メイは目を輝かせて何度も頷いた。藤堂は彼女から視線を外し、立ち上る煙を目で追う。
「……あのねーちゃん、そんなにすげえのか」
確かに男よりは女に好かれそうだと思いながら呟くと、メイの表情が変わった。孫でも相手にするように、にこやかに彼女を見ていた金貸しが、驚いた様子で身を引く。藤堂は片眉を上げて、メイの方へ顔を向けた。
「会ったの?」
メイの声は真剣そのものだった。上げた眉を更に怪訝に歪め、藤堂は短く聞き返す。
「は?」
「背が高くて、銀髪で、凛々しくって」
「巨乳? 会ったけど」
藤堂の発言に突っ込もうと金貸しが口を開いたが、言葉を発するより先に、メイが椅子から飛び降りて藤堂の腕を掴んだ。引っ張られて椅子から転げ落ちそうになりながら、藤堂は慌ててその場に踏みとどまる。
「ちょ、何よ。危ねえよ」
「どこで会ったの? 案内して!」
「はあ? もういねえだろ、流石に」
「いいから早く!」
藤堂はメイに引っ張られるまま、まろびながら店の出口へ向かう。随分と押しの強い娘だと、銜えたままの煙草を指先で摘みながら呑気に考える。そしてふと、カウンターで呆然とする金貸しを振り返った。
「あ。カネさん、金払っといて。次会った時返すわ」
「流されやすい奴だな」
メイに引きずられるようにして出て行く藤堂の背中を見ながら、金貸しは呆れた声で呟いた。