第三章 向こうは見ない 四
鹿倉からの依頼を請けた翌日、三人は彼と最寄り駅で待ち合わせて現地へ行く事となった。明は霊媒体質のゆなの同行を嫌がったが、本人がどうしても行くと言うので、渋々連れて行った。
何事もなければいいと、藤堂は思う。何かあるから行くのだが、下見だけに止まらないような事態に遭遇したら、大変困る。何よりゆなに何かあったら、娘を溺愛する両親に顔向け出来ない。
何かあっても、明がなんとかしてくれるだろう。藤堂はそんな甘い考えで鹿倉と雑談していたが、現地へ近付くにつれ、明の表情が険しくなってきた。元々歩みの遅いゆなの足取りも、段々と重くなって行く。
「ゆなちゃん、大丈夫?」
鹿倉と並んで歩く藤堂の後ろから、明の心配そうな声が聞こえた。
「ノープロブレム、です。憑かれないように弾くのも、霊媒師のつとめ」
「気をつけてね」
しかし大丈夫だと言うゆなの声は、僅かに掠れていた。
想像以上に嫌な空気だ。無論藤堂には何も感じられないが、背後の重い空気が、霊感のない藤堂にさえ危機感を覚えさせる。歩きながら、鹿倉は黙り込んだまま少し後ろをついて来る少女達を、心配そうに何度も振り返った。
なんとなく、足が重い。それが霊障なのか気持ちの問題なのか、藤堂には判断出来ない。しかし一同の歩みが遅くなっている事は、確かだった。
ふと思い立って、藤堂は眼鏡を掛けた。レンズ越しの視界に、ふらふらとさまよう浮遊霊が映る。それも一人二人といった数ではない。大通りを行き交う車の台数より、遥かに多い。通行人が誰一人としてそれを気に留めていない事が、異様に思えた。
「なんだこりゃ」
呆れた藤堂の声に、鹿倉が頭を掻いた。
「悪いなあ、こんな所に来さしちまって。依頼料弾むからよ」
「そりゃいいんだけど……」
良くはない。依頼料が弾むからといって、危険な目に遭わされては堪らない。何しろこちらには、未成年者が二人もいるのだ。今までは危機感など全く覚えなかったが、今回ばかりは、嫌でも危ないのだと思わされる。
言い淀んだ藤堂は、ふと足元を見る。そして目を丸くした。驚く藤堂に気付いて、視線を落としていた明が彼を見上げる。
「コウ君さっきから、ずっとくっついてるよ。藤堂さんのこと、屋敷に近付けたくないみたい」
藤堂の腰にしがみつくようにして、少年の霊がきょろきょろと辺りを見回していた。どうやら周囲を警戒しているらしい。その足は歩くように動いていたが、足で歩いている訳ではなさそうだ。藤堂に引っ張られるようにして、地面を滑るように並行している。
藤堂の視線に気付いたのか、明にコウと呼ばれた少年は、おずおずと顔を上げて藤堂を見た。小学校低学年程度の年齢だろうか。彼の丸い額には、中央にほくろがある。生霊を浄霊した時に明に応えた、あの少年だった。
コウは小さな唇をきゅっと引き結び、不安そうに藤堂を見上げていた。思わず頭を撫でてやりたくなったが、然るべき術を用いなければ、霊には触れない。困ったように眉尻を下げる藤堂の足に、コウはぐりぐりと顔を押し付けた。
その仕草に込み上げるものが胸を詰まらせたが、藤堂は彼に何も出来ない。寧ろ藤堂が護ってもらっている方なのだ。それが彼を、歯がゆいような切ないような、不思議な気持ちにさせる。
「コウくん、怖いんだね」
明がぽつりとそう言った。コウは答えず、その小さな手で藤堂の服を握るような仕草をした。
「あそこだ。……おいお嬢さん方、平気か?」
やがて見えてきた薄汚れた建物を指差して、鹿倉は振り返った。しかし暗い表情でのろのろと歩く明とゆなを見て、顔をしかめる。ゆなは両手でヘルメットを押さえていた。
「ここの人たちは、よくこんな所で暮らしておられますね」
僅かに震える声でゆなが言うと、鹿倉は困った顔をした。
「そう言われてもなあ、俺自身は霊感弱いから。幽霊屋敷って言われても実際、よくわかんねえんだ」
「慣れてるんですね、この環境に。さっきから人通りが少ないし、見る限り、店先に灰皿が多いです。身を守る術が、自然と身に付いているんでしょう」
明は丁寧に説明したが、その表情は強張っていた。藤堂が鹿倉を見ると、彼は訝しげに表情を変えた。
確かに普通の繁華街より、設置されている灰皿の数は多いだろう。繁華街でなく普通の商店街だからこの数なのだと、藤堂は思っていたが、そういう訳でもないようだ。
「理由は分かりませんが、霊はタバコの煙を嫌うようです。喫煙者の七割は霊の影響を受けやすい、または霊媒体質という統計も出ているくらいですから、信憑性はあるでしょうね」
鹿倉は首を捻った。煙草など、意識して吸っていた訳ではないだろう。藤堂も鹿倉も、周りに喫煙者が多かったからそうなった、というだけだ。
屋敷へ近付くにつれ、浮遊霊の数が明らかに減って行く。引き寄せられてはいるものの、浮遊霊の方も危ない場所へは近付きたくないということだろうか。
徐々に、空気が重たくなって行くように感じる。霊感のない藤堂でもそう思うのだから、明とゆなには、余計に強く感じられているはずだ。
屋敷の周囲は空き地や駐車場ばかりで、住民の姿も見当たらない。この一角だけ、異様な空気が漂っていた。
「相変わらず暗いなこの辺は……んん?」
ぼやいた鹿倉は、ようやく全貌が覗えるようになった屋敷の前に屯す人々を見て、目を凝らした。透けていないから、霊ではないだろう。
「全員スーツだな、誰だ?」
鹿倉は更に怪訝な声を漏らす。藤堂はつられて目を凝らしたが、視力があまり良くないので見えない。見えてもどうせ、誰なのかは分からないだろうが。
屋敷の門前で話し込む人々の内一人が、藤堂等に気付いたらしく、体ごと振り返った。明が目を丸くする。
「あれ、鳳じゃない」
こちらを窺う男の襟には、確かに金色の徽章が付けられている。形までは見えなかったが、全員が全員喪服のような黒いスーツに社員章を付けているようだから、確かに鳳の社員なのだろう。今時スーツ着用義務のある会社というのも、中々珍しい。
藤堂は背後の明を振り返って、様子を窺った。目が合ったが何も言わなかったので、そのまま近付いて行く。
不意に、こちらを向いていた男が頭を下げた。つられて鹿倉が会釈する。律儀というよりは、サラリーマンの条件反射だろう。難儀なものだと藤堂は思う。
「この辺りの方ですか?」
青白い顔をした男は、細い目を更に細めて笑みを浮かべていた。瞼は厚いが眉は薄く、見るからに気の弱そうな顔立ちだ。しかしそれでも身構えてしまうのは、鳳の社員という先入観があるせいだろうか。
鹿倉は三人より一歩前へ進み出て、はあ、と曖昧に返事をした。
「この三人は違うよ。……なんだいあんたら、鳳かい。受付の子には、暫く待ってくれって言われてた筈なんだが」
「ええ……ですが、急を要す事態と判断致しましたので、不肖この私ども、東京北第五支店が参りました。ご迷惑でしたか?」
慇懃な返答にペースを乱されたようで、鹿倉は困ったように太い眉を顰めて、頭を掻いた。迷惑という事はないだろう。寧ろ喜ぶべきだ。何しろ鹿倉は初め、鳳に依頼しようとしていたのだから。
困惑した表情のまま、鹿倉は三人を振り返った。藤堂は同じく困り顔だし、ゆなは青白い顔を俯かせている。明は相変わらず硬い表情を浮かべていたが、真っ直ぐに鹿倉を見上げた。
「鹿倉さん、私達には無理です。鳳さんに任せた方がいいかと……お役に立てず、申し訳ありません」
明が頭を下げると、鹿倉は何故か藤堂を見た。見られても藤堂には何も判断出来ない。
眉間に皺を寄せ、藤堂は足元に視線を落とす。腰にしがみついたままのコウが、怯えた表情で何度も大きく頷いた。止めておいた方がいいという事なのだろう。
最早長居は無用だ。明もゆなも様子がおかしいし、何より藤堂自身、嫌な胸騒ぎを感じていた。あまり長い時間、ここにいたくない。人気がないのも野良猫一匹いないのも、皆この空気に晒されたくないからなのだろう。
「無理ったら無理なんだよ俺らにゃ」
「え、いいのお前、百万だよ」
「だから無理なんだっての。正式にそちらさんに依頼しろ。……メイ、ゆな、帰んぞ」
藤堂が促すと、二人は何も言わずに踵を返した。藤堂にぴったりとくっついたコウも、早く帰ろうと言わんばかりに小さく飛び跳ねている。
「なんか、悪いな」
「ああ、無駄足だったわ。電車代ムダんなったから、今度なんか奢って」
藤堂が口角を上げると、鹿倉は安堵したような笑みを浮かべた。じゃあな、と呟いて、藤堂も踵を返した。
「ねえ藤堂さん……本当に、何も感じないの?」
並んで人気のない通りを歩きながら、明がおずおずと聞いた。藤堂は首を捻って視線を宙に流し、思案する。
感じていたといえば、そうだろう。しかしなんとなく嫌だと思っただけで、明やゆなのように、何が危ないのかまでは分からなかった。我ながら鈍いものだと思う。
「わかんねえな。イヤーな雰囲気ではあったけど」
「雰囲気どころじゃないよ。ひどいよあそこ、あんなにひどいの見た事ない」
俯いたまま、ゆなが小さく頷いた。
「すごく、うるさかったのです。師匠に跳ね返す方法を教わっていたお陰で、なんとか大丈夫でしたが」
「うん……あの人達、大丈夫なのかな。任せちゃったけど」
明は暗い表情で俯き、不安げに呟く。またぞろ仕事を取られたなどと怒り出すものと思っていた藤堂は、少々驚いた。
「見たとこ十人はいたじゃねえか。あんだけいりゃ、なんとかしちまうんじゃないの?」
「全員、退治屋としてそんなに強そうには見えなかったよ」
明の言葉に同意するように、ゆなが再び頷く。霊感があると、そんな事まで分かるのだろうか。
「あそこは数で攻めてどうにかなるような場所じゃないよ」
「師匠が三人ぐらいいないとダメなのです。多分」
そう言われても、藤堂にはそれがどれ程の事なのか分からない。明が強いのか弱いのかさえ分からないのだ。そもそも強い弱いと評していいものなのかさえ、彼は知らない。
駅まで辿り着いてようやく、明は深い溜息を吐いて振り返った。生温い風が、彼女の黒髪を撫でて行く。
「何事もなければ、いいんだけど」
明の声が、藤堂にはやけに悲しそうに聞こえた。三人はそのまま終始一言も喋る事なく、帰路に着いた。