第三章 向こうは見ない 三
明とゆなが出て行ってからも、藤堂は相変わらずクロスワードパズルを解いていた。こんなに静かなのは久しぶりだ。ゆなが明を師と仰ぎ始めてから店番は一人でしていたが、二人はカウンター裏の扉から続く藤堂宅で、何やかやと騒がしかった。だから今日は本当に久々に、店内が静寂に包まれている。
換気扇の音だけが微かに響く中でパズルに頭を悩ませる藤堂は、分からない言葉を現役の学生達に聞いておけば良かったと、後悔する。少なくとも藤堂よりは、ちゃんと言葉を知っているだろう。
暫くそのまま考えていたが、やがて鉛筆を置いてのっそりと立ち上がった。分からないものは考えても仕方がないのだ。藤堂の取り得は、諦めの早さだけだ。
藤堂は背後の扉を開き、家の中へと入って行く。程なくして戻ってきたその手には、雑巾が握られていた。たまには拭かないと、ショーケースのガラスが黄ばむばかりなのだ。ガラスが曇っていると一度常連に怒られて以来、定期的に掃除するようになっていた。
騒がしいのは好きではないが、いないならいないで寂しいものだと、藤堂は思う。一人でのんびりと店番をするのが常だった筈なのだが、案外少女等が居る事に慣れてしまっていたようだ。少し、可笑しくも思う。
藤堂が億劫そうにショーケースを拭き始めて間もなく、自動ドアが開いた。気のない視線を入店してきた人物に向け、藤堂はあからさまに顔をしかめる。
「何だよタヌキ、珍しい」
狸と呼ばれた男は髭を蓄えた顔に人なつこい笑みを浮かべ、よう、と軽く挨拶した。
「相変わらず儲かってなさそうだな、匡。もっと愛想良くしろってば」
「なんで客でもねえ奴に愛敬振り撒かなきゃなんねえんだよ。俺に歓迎して欲しけりゃ、なんか買ってけ」
突っぱねるような藤堂の言葉を豪快に笑い飛ばした男は、狸ではなく建設会社の社長だ。名前を鹿倉清澄というが、全く似合っていないので誰からも狸と呼ばれている。聞けば部下からもそう呼ばれているらしいから、呆れたものだ。
狸というあだ名に恥じない丸々と太った体型と、常に柔和に細められた目。髪は短く刈り上げられており、頭の丸い形が際立って見える。体格のせいかどう見ても中年の親父なのだが、彼は藤堂と中学の同期なので、そう歳は行っていない。
「そりゃ無理だわ、カミさんに殺されちまう」
言いながら鹿倉はカウンターに近付き、手前の椅子を引くなり、どっかと腰を下ろした。椅子が壊れるのではないかと心配になる程大きな音が聞こえたが、藤堂は気にしない。
「お前、零感のくせに浄霊屋始めたんだってな。同窓会で話題になってたぞ」
もうそこまで広まっていたのかと、藤堂は少々驚いた。客が少ない割に、噂が広まるのは早いものだ。明もそれなりに、宣伝しているという事だろう。
藤堂は中学校の同窓会など、大学生の時に一度しか行った事がない。社交辞令の誘いは来るが休みが取れないので、社会人になってからは行った例がなかった。そもそも影の薄い子供だったから、自分の事など忘れられているものとばかり思っていた。
藤堂は懐から煙草を取り出す鹿倉を振り返って、肩を竦める。
「成り行き。金もらえなくなっちまったし、客もそんな来ねえし、いい事ねえよ」
「バカ言うな、少なくとも俺らよりは遥かに儲かってんだろ。ただでさえ普通の仕事するヤツ少ねえのに、これ以上減るんじゃねえよ」
「俺のせいじゃないって……まあ、酒屋がどんどん減ってくのは困るけど」
確かに、あまり良くないことではある。幽霊関係の仕事ばかりが流行るから、政府も助成金を出して他の仕事を推奨するしかないのが現状だ。大手スーパーや葬儀屋、IT関係はともかく、家具屋や工務店、滅多に使わないがいずれは必要になる店が、かなりの速度で減っているという。日本は昔から幽霊と共に生きてきたような国だから、そちらの仕事が普及するのも早かったようだ。
学校で習ったものの何年前の事なのか藤堂は忘れたが、不況の煽りを受けて多くの会社が倒産した所へ、幽霊問題が上ってきたそうだ。元々は倒産した会社に勤めていた人々が、起死回生をかけて創めた幽霊退治という仕事が、今やここまで普遍化している。
最初に始めた者からすれば大成功だろうが、社会的には大問題だ。生活に必要な職業に携わる人が減り、死後の問題を解決する職に就く人ばかりが、増え続けているのだから。
死ぬために生きている。そんな言葉が、藤堂の脳裏をよぎる。現代人の傾向として、学者達が好んで使う言葉だ。それは決して哲学的な意味ではなく、言葉のままの意味で使われている。ならば今生きているこの時間は無駄なのだろうかと、考えたりもする。
「女子高生と二人で営業してるんだって? いや羨ましい」
黙りこんだ藤堂を見かねてか、鹿倉はにやにやと笑みを浮かべて問いかけた。反対に、藤堂は嫌な顔をする。
「このロリコン。俺だって好きで女子高生と仕事してるワケじゃないの」
何故にそこまで知れ渡っているのかと、藤堂は些か辟易した。明はどこまで公表しているのかと訝しんだが、何れ人の口に戸は立てられない。浄霊屋など珍しいようだから、仕方のないことなのだろう。
藤堂は雑巾をカウンターに置いて、灰皿を引き寄せながら腰を下ろした。
「またまた。嬉しいよ俺は、巨乳好きのお前もやっと、膨らみかけの素晴らしさに目覚めてくれたん」
「ないから。大は小を兼ねるから」
鹿倉の言葉を遮り、藤堂は早口にそう言った。言いながらカウンターの隅に置かれていた煙草を取って、火を点ける。
「つうか何、そんな事言いに来たの?」
カウンターに頬杖をつくと、鹿倉が身を乗り出して来たので慌てて避けた。迷惑そうに眉を顰める藤堂とは対照的に、鹿倉は真剣な表情を浮かべている。何やら嫌な予感がした。
「そうじゃなくてな、依頼しに来たんだよ。依頼を」
「依頼ィ?」
問い返した藤堂の声が裏返った。鹿倉は吸いさしの煙草を揉み消しながら、大きく頷く。
「そう。うちの事務所の近所にな、幽霊屋敷があるんだよ。そこに屯してる霊がここ数年、やたらと悪さするようになって来てよ。一応近所にも退治屋はいるんだが、強力すぎて手出せねえって言うんだこれが」
「……そんでまさか、自治体を代表して来たってんじゃねえよな」
鹿倉が驚いたように眉を上げると、藤堂の顔が引きつった。
間違いない。ついこの間、祐子が話していた件だ。自分とは無関係と思っていた事がこんなにも身近なものだったのかと、藤堂は心中溜息を吐く。
「なんだよお前、そういう話疎いくせに。知ってんのか」
「ああ……まあ」
曖昧に濁して、藤堂はざらざらとした感触の顎を撫でる。果たして安請け合いしていいものなのか、迷っていた。明は幽霊屋敷がどこにあるのか知りたがっていたようだから、元々どうにかしたいと思ってはいたのだろう。
しかしそれほど有名な幽霊屋敷を、二人でどうにか出来るとは藤堂には思えなかった。それならまだ、鳳に任せてこちらは大人しくしていた方がいい筈だ。
「つーかな、なんでうち? 鳳に任せろよ」
「ああ、それがさ、あっちに依頼はしてあるんだよ。でも白銀さんが忙しいとかで、先延ばしにされてよう……」
語尾に近付くにつれ、鹿倉の声が段々と小さくなって行った。情けなく眉尻を下げた彼が真実困っているのは、その声から充分に理解出来る。鳳には白銀しかいないのかと、藤堂は訝った。
「こっちも切羽詰まってるんだけどなあ。どんどん評判悪くなるし、最近じゃ引っ越す奴も増えてきちまった」
つまり、向こうが駄目だからこちら、という事だろう。プライドなど欠片ほども持たない藤堂でも、消去法で依頼されるという事に、あまりいい気はしない。
思わず渋い顔をした藤堂を見て、鹿倉は両手を合わせて額の高さまで上げた。彼がよくする、懇願の姿勢だ。
「頼むよ匡ちゃん、他にねえんだって請けてくれるとこが!」
「結局消去法かよ」
藤堂は、鹿倉のこの仕草に弱い。滅多に顔を合わせなくなった今では、昔から変わらないこの仕草が、懐かしく感じられてしまうからだ。
思えば鹿倉とは、随分と長い付き合いなのだ。性格も趣味嗜好も正反対だが、なんだかんだと関係が続いている。相反するからこそ、反発しないでいられるのかも知れない。
藤堂は溜息と一緒に煙を吐き出して、これも運命、と心中独り言ちる。
「俺は別にいいんだけどさあ、どうせ何もしねえし」
「他人任せなのは相変わらずか」
「いちいち口挟むんじゃねえようるせえな……メイがなんつーか」
「女子高生?」
「いちいちうるせえよロリコ……あ」
鹿倉の巨体の向こうで、自動ドアが開いた。思わず声を上げた藤堂につられて鹿倉が振り向き、硬直する。
「ただいまです」
言ったのは、ゆなだった。後からドアをくぐった明は、鹿倉を見て目を丸くする。続けて依頼人が訪れる事など、今までなかったからだろう。
「あ、ご依頼ですか?」
明が問うと、鹿倉は無言のまま頷いた。藤堂はあからさまに嫌な顔をする。
「藤堂さん、ただいまと言ったらおかえりと返すのが伴侶の責務なのです」
「知らないからそんな責務。誰が伴侶だよ」
小走りに藤堂に近付くゆなの姿を追って、鹿倉の頭が動いた。藤堂の腕にしがみついたゆなは、鹿倉を見て首を傾げる。この熱い眼差しを受けて、変に思わない方が変だろう。
「この防犯カメラのような動きの方はなんですか。人里に降りてきた熊か何かですか」
「ちょ、ちょっとゆなちゃん!」
慌てて咎める明に、藤堂は顔の前で手を振って見せた。
「いいのこれ、俺の知り合いだから。あとタヌキ……じゃねえ、鹿倉な」
「おやまあ、狸でしたか。これは大変失礼をば致しました」
顔を強ばらせていた明が、ゆなの発言に脱力した。そのままカウンターの中へ入り、通路側に置かれた椅子に腰を下ろす。そこで改めて鹿倉を見て、明は怪訝な表情を浮かべる。
藤堂は一層、嫌そうに表情を歪めた。鹿倉の肩がわなわなと震えている。
「女子高生と女子中学生に囲まれて仕事たァ、いいご身分だな匡。両手に花かコラ」
「いや俺どっちにも興味な……」
鹿倉が大きな手で、カウンターを叩いた。明の肩がびくりと震えるが、ゆなは冷めた目で、今にも泣き出しそうな表情の鹿倉を見ていた。彼女は藤堂以外の人間に、あまり興味を示さない。
「ふざけんなよおめェ、俺なんかな、むせえオッサンとうるせえヤンキー共に囲まれて仕事してんだぞ。なんだよこの差は、天国と地獄じゃねえか。交換しろ!」
「職場を? 従業員を?」
藤堂は鹿倉から目を逸らし、溜息混じりに問い返す。鹿倉は答えなかったが、代わりに恨めしげな視線を藤堂に注いでいる。これさえなければいい奴なのにと、藤堂は思う。
ゆなの小さな頭が、藤堂の顔を覗き込んだ。彼は視線だけを、ゆなの人形めいた無表情に向ける。
「なるほどこの方は、いたいけな少女に性的興奮を覚えるような、ある種倒錯的な嗜好をお持ちの方なのですね」
「ある種じゃなくて充分倒錯してんだろ」
「違います。少女とは見て楽しむものです」
「黙ってろロリコン」
三人のやり取りを呆れた表情で眺めていた明が、深々と溜息を吐いた。鹿倉は彼女に視線を移して、何故か姿勢を正す。
「あの、依頼の件はどうなったんですか?」
鹿倉はおお、と手を打って、恥ずかしそうに頭を掻いた。彼が何か言いかけるのを見て、藤堂は遮るように口を開く。
「ああ、もう請けちまった。幽霊屋敷の件だとよ」
新しい煙草に火を点けながら藤堂が言うと、明は目を見開いてカウンターに身を乗り出した。藤堂は慌てて煙草を避ける。明はどうも、興奮すると周りが見えなくなるようだ。
「本当! いいんですか鹿倉さん、鳳さんじゃなくて」
「勿論。お嬢さん方に請けて頂けるなら、至極光栄……」
藤堂は下げられた鹿倉の頭を、拳の裏で小突いた。
「キャラ変わってんぞタヌキ。依頼の話しろ依頼の話」
鹿倉は迷惑そうに藤堂を見たが、藤堂はその日焼けした顔から視線を逸らした。迷惑なのはこちらの方だと、藤堂は思う。仕事さえ持って来なければ、追い返していただろう。
ひとつ咳払いをして、鹿倉は懐から擦り切れた手帳を取り出した。かなり使い込まれているようで、黒い革製の表紙は手垢や泥で汚れ、所々破れている。携帯を持つと汚れて壊れ放題だから、彼は今時珍しくスケジュール帳を持ち歩いている。
「ええと、依頼は幽霊屋敷に集まった幽霊の退治……いや、ここは浄霊屋だから、浄霊すんだな」
「退治も出来ますよ」
え、と藤堂が呟いた。ゆなも珍しく、目を丸くしている。初耳だった。
「なんで驚くの? ただの悪霊なら、浄化する必要ないじゃない。基本的に悪いことしてるんだから。今までは理由があったから、浄化してただけだよ」
驚く二人に、明は不思議そうに言った。そういえば、指輪の時は生霊だったし、ゆなの時は依頼人本人が、浄化してくれと申し出てきていたのだ。
明の言葉に、鹿倉は大きく頷いた。
「そう。ただの悪霊なんだ、あそこに屯してるのは。霊感の強い奴が言うには、生前悪行を重ねてた輩が死んで、ああして悪霊になって集まってるそうだ」
「悪霊は一箇所に溜まりますからね。そういう事なら、遠慮する必要なさそうだけど……」
明の表情が僅かに曇った。
「でもそうなると、私達だけで出来るとは思えない」
それは藤堂も、懸念していた。ゆなの件での彼らの行動を見る限りでの推測だが、鳳が渋るという事は、相当な場所なのだろう。白銀がいないという事が主だった原因なのかも知れないが、なんにせよ、それだけ危ないという事には違いない。
鹿倉は少し考えた後、それなら、と呟いた。
「なら、一緒に来てくれねえかな。見に行けば、出来るか出来ないか分かるだろう」
明は藤堂と顔を見合わせ、少し悩んだ後、首を縦に振った。




