第三章 向こうは見ない 二
ゆなが異論を唱えなかったので、依頼人宅へは結局、二人で行く事となってしまった。藤堂もとい、藤堂の守護霊がいないと時間が掛かるので、出来ればついて来て欲しかったのだが、よくわからないと言われてしまってはあまり我が儘も言えない。まさか守護霊だけ連れて来るわけにも行かなかった。
何よりあの子供達は藤堂を守る為に存在しているので、彼らの好意に甘えてばかりはいられない。守護霊をそれが守る人間から引き離すのは、たとえ短時間でも良くないことだ。それでも手間が省けるというのは、明にとっては魅力的だった。
物に憑いた霊を浄化するには、まず除霊してからでないと手が出せないので、時間も手間もかかる。しかし藤堂の守護霊は、悪霊に直接触れる事が出来る。つまり、憑いた霊魂だけを直接引っ張り出す事が出来るから、除霊の手間が省ける。普通なら数時間掛かるものが、数分で終わってしまうのだ。
とはいえ今まではずっと、除霊まで明一人で行って来た。藤堂がいなくて不自由する事はないが、依頼人を不安にさせる除霊の時間を短縮出来るなら、それに越した事はない。
「ここから近いのですか?」
村形に先導されて明と共に歩いていたゆなは、依頼人を見上げて聞いた。ふくよかな顔が肩越しに振り返り、柔和に微笑む。
「すぐなのよ。ごめんなさいね、歩かせて」
「構いません。たまには歩かないと、体が鈍ってしまいます。ゆなは一ヶ月ほど動かないでいたので、すっかり足腰が弱ってしまいました」
「え?」
問い返した村形に、ゆなは緩く左右に首を振ってみせた。今度は何を言い出すかと、明は逐一はらはらする。
「典型的な引きこもりの症状です」
引きこもっていた人間が回復して早々、浄霊屋に居着いたりするものか。明は突っ込みたくてたまらなかったが、村形が再び笑顔を見せたので、口をつぐんだ。
「あら……良かったわね、外に出られるようになって」
「はい。娑婆の空気はやっぱり最高です」
納得してしまったようだ。この女性もどこかずれていると、明は思う。そういえば勉強してこいという藤堂の言葉にも、彼女は何も言わなかった。見習いだとでも思われたのだろうか。あながち間違ってはいないが。
村形は繁華街を行く道すがら、何度か咳き込んだ。大丈夫かと聞くと喉が弱いだけだと言うので、明は少々ほっとする。
道中、村形は娘に似せて人形を作ってもらった事や、マンションに一人で暮らしている事などを饒舌に語った。一人暮らしで寂しかったのかも知れない。彼女がゆったりと間延びした口調で語っている間は、明もゆなも、口を挟まなかった。
しかし彼女からは、娘を失って悲しいという感情が、見えて来なかった。所詮、今時の人という事なのかも知れない。成仏する事こそが万人の目指すべき幸福であるとされる今の時代、肉親が死んで寂しいとは思えど、悲しむ人はあまりいない。むしろ、喜ぶような人が増えてきている。
成仏することが人の幸せだという『常識』が、明には受け入れ難い。彼女は浄霊屋になる為に生まれてきたようなものだから、親からは誰かの死を悲しめるように教育された。成仏さえしてしまえば盆にはまた会えるのに、何故死が悲しいのかと聞かれれば、返答に窮してしまうだろうが。
繁華街を抜けた先には、細長いマンションが密集して建ち並んでいた。土地が足りない事が問題となっている昨今では、このような高層マンションが所狭しと建ち並ぶ様子をよく見掛ける。日当たりが悪そうだと、明はぼんやりと考えた。
「うちは一階なのよ」
言いながら村形はマンションの自動ドアをくぐり、エントランスホールへ入った。さながらホテルのロビーのような、小綺麗な造りだ。その奥にあるガラス戸はオートロック式のようで、扉の横に取り付けられた機械のスリットへ、村形はカードキーを差し込んでスライドさせる。ゆなは物珍しそうにその様子を眺めていた。
「狭い所ですが、上がって下さい」
「お邪魔します」
村形の部屋は、日当たりの悪い1LDKだった。室内は彼女の几帳面さを象徴するかのように、整然と保たれている。三階建ての持ち家で暮らしているゆなは、マンションのこぢんまりとした室内が珍しいようで、不躾な視線を巡らせている。
促されるまま小さめのダイニングテーブルに着くと、正面のタンスの上に置かれた市松人形が目に入った。大人びた上品な顔は丁寧に描かれており、纏った衣装も見事で、作り手の腕の良さを窺わせる。ただ一つ髪の長さが不揃いな点を除けば、何一つ違和感のない人形だった。
果たしてこれが、村形の言う人形なのだろうか。髪が伸びたと言われたら、確かにそうなのかも知れないと明は思う。普通の人形なら、おかっぱの髪はしっかりと切り揃えられている筈だ。
「ああ、さすがにもうお気付きですか」
並んで椅子に腰掛けた二人の前にジュースの入ったコップを置きながら、村形は感心したように言った。明とゆなは何も言わずに顔を見合わせる。
「だがしかし、ゆなには何も感じられませぬ」
何がしかしなのか明には分からないが、ゆなの言う通りだった。人形からは何も感じられないし、何かが憑いているような気配も全くない。それどころか、この部屋には霊の気配さえない。
村形はゆなの言葉に、顔を赤らめて口元を掌で覆った。
「それじゃあお人形の髪が伸びたのは、まさか私の見間違い?」
申し訳なさそうに眉尻を下げる村形に、明は首を左右に振って見せた。再び人形へ視線を移し、首を捻る。
「でも確かに、髪が伸びているような気はします。お人形を作る方だって、こんな不揃いな髪のまま、納品したりはしないでしょうから」
ゆなが頷いた。頭を傾けた拍子にヘルメットが僅かにずれたので、彼女は両手で被り直す。重そうな上に何かと不便そうだと明は思うが、ゆなはもう慣れてしまっているのだろう。
村形はまだ、不安げに表情を曇らせていた。確かに勘違いで依頼をしてしまったなら、とんだ赤っ恥だ。その気持ちは明にも分かるが、明もゆなも気にはしないたちなので、逆に当惑する。
どうするべきなのだろう。霊の気配は微塵も感じない。けれど、人形の髪は確かに伸びている。この事実をどう取ればいいのか、明には分からなかった。藤堂を引っ張ってこなかった事を一瞬悔やんだが、どうせ彼にも分からないだろうと思い直す。
藤堂を思い出した所で明はふと、テーブルから顔を背けて小さく咳をする村形へ視線を移す。疲れた様子ではあるが、何かに憑かれているようなふうでもない。そんな気配もなかったし、憑かれているのであれば、彼女が事務所へ来た時に気付いただろう。
明は目を細めて、彼女を注視した。その背後にうっすらと淡い光が見え、白い靄が体全体を覆っているのが確認出来る。
弱い守護霊が憑いていると、稀にこういったものが見える事がある。守護霊自身の、護りたいという強い想いが全身を覆っているのだと一般的には言われているが、詳しい事は誰も知らない。
そもそも幽霊自体についても、誰もが霊感を持っているからこそ、いる、と世間的に認知されているだけだ。その存在や実態について、科学的には何一つ解明されていない。
目を細める明を見て、村形は少し驚いたような顔をした。しかしすぐに霊視されているのだと気付いたようで、何も言わず、そのまま動かない。
村形の守護霊は、どんなに目を凝らしてみても、全く姿形が見えなかった。よほど弱いのか、藤堂の、コウ以外の守護霊達のように、隠れているだけなのか。判然としなかったが、明は二三度忙しなく瞬きをした後、村形に向かって笑いかけた。
「お嬢さんですね。力は弱いけど、確かにあなたを護ってます」
目を丸くして、村形はゆなと明を交互に見た。ゆなは相変わらず無表情のまま、小さく頷く。
「お嬢さんが亡くなってから、何か変わった事は?」
明が問うと、村形は思案するように視線を流した。俯いて少し咳をして、はたと顔を上げる。
「ああ、そういえば、持病の腰痛が治ったんだわ。あの子のお陰だったのかしら」
「そうでしょうね。喉もそのうち、治るでしょう」
明が微笑むと、村形は安堵の息を吐いて、自分の肩に手を置いた。ゆっくりと肩へ視線を落とし、いとおしげに撫でる。娘の手を撫でているような仕草だった。
その姿を見て、明の表情が曇る。ゆなはそれを見て首を傾げたが、見てはいけないと思ったのか、室内へと顔を向けた。そして部屋の隅に置かれた円筒形の機械に目を留め、首を捻る。
「あれはなんです?」
ゆなの問いに、明と村形が同時に視線を向けた。ああ、と村形が声を漏らす。
「加湿器よ。私、喉が弱いから、乾燥すると本当にダメで。この時期は夜しか使わないけれど」
「なるほど」
続いてゆなは人形を見て、納得したように頷いた。そして明を見上げる。
「わかりました」
「何が?」
ゆなは渋い顔をした。
「師匠、何の為にここへ来たのですか。人形ですよ、人形の髪が伸びた理由です」
はっとして目を丸くする明をよそに、ゆなは立ち尽くしたままの村形へ向き直った。自然と見上げる形になって、ヘルメットがずれたので、両手で支える。
「大昔の人形にはビニールではなく人毛が使われていたので、昔の人形師さん達は、お人形を作り終えた後、髪を切り直してから売ったそうです」
明は怪訝に眉を顰めた。何故そんな無駄な知識があるのかとでも言いたげな表情だったが、ゆなは気にせず続ける。
「人の髪というのはですね、湿気で多少なりとも伸びるのです。水分を吸って伸びます。ゆなの髪も、梅雨などそれはもう大変です。その人形には、娘さんの髪の毛を使っているのでしょう」
「ああ……そうなの、それで伸びたのね」
村形は納得した声を上げ、ぽんと手を打った。ゆなはどこか満足そうに、出されたジュースを一口飲んだ。
明とゆなは暫く雑談した後、村形家を出た。依頼料を押し付けられそうになったので、慌てて帰る格好となってしまった。結局何もしていないので、お金を貰う訳には行かない。
帰路に着いてから明はどこか、ぼんやりとしていた。眉根を少しだけ寄せて唇を引き結び、考え込むような表情を浮かべている。
俯いた彼女を怪訝に思ったのか、ゆなは首を捻った。しかし明の様子が普段と違うので、聞きづらかったのだろう。ううむと唸ってから、首を傾げたまま顔を覗き込むように明を見上げる。
「守護霊がいるのには、理由があるのですよね」
ゆなは結局、関係のない事を聞いた。明はうん、と短く答える。
胸がもやもやとする。両親と死別してからかなりの時間が経ったが、明は今も、時折思い出しては悔恨の念に駆られる。自分のせいではないけれど、明の胸にあるのはやっぱり、悔しさだった。
「あの人は多分、体が弱いんだね。お嬢さんはそれを心配して、ああいう形で守護霊になってたみたい」
「藤堂さんも、そうなのです?」
明の顔を覗き込むゆなは、小首を傾げてそう聞いた。明は顎に手を当てて、ううんと唸る。
正直なところ、明は藤堂の事をよく知らない。他愛ない雑談こそすれど、藤堂は元々よく喋る方ではないし、お互いの話をした事も殆どない。何故守護霊がいるのかと疑問を覚えた事もあったが、何しろ年端も行かない子供の霊達だから、藤堂の優しい性根に惹かれて集まったものとばかり思っていた。
改めて聞かれてみると、確かに疑問だ。惹かれて集まったという理由なら、ただなんとなく周囲を浮遊しているだけの筈だ。それなのに、あの子供達は守護霊となっている。更に少し目を凝らせば明確に姿形が見て取れる上、自由意思を持って動き回れるほど強力なのだ。
「……そういえば、どうしてかな」
「帰ったら、聞いてみましょう」
ゆなの提案に、明は苦笑いを浮かべた。
「藤堂さんにだってわかんないよ。あの人、自分に守護霊がいる事さえ知らなかったんだから」
ゆなは腕組みをして、首を捻った。どうやら真剣に考えているようだが、その姿が可愛らしく思え、明は小さく笑った。
「あの人流されやすいから、悪い方向に行かないように、軌道修正してあげてるんじゃないかな」
「結局流されているではないですか」
ゆなの突っ込みに、明はまた朗らかに笑った。今は楽しいので、どうでもいいかな、と彼女は思う。こうして他愛ない雑談をしながら歩けるというなんでもないことが、仕事ばかりしていた明には楽しく感じられた。




