表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明なひと  作者:
16/75

第三章 向こうは見ない 一

「ゆな、やっぱり今日も行くの?」

 学校から帰宅して早々、荷物を放り出して再び玄関へ向かった娘に、黒江愛は不安げに問いかけた。夫である黒江小吉も、どこか浮かない顔をしている。人形のように無表情の少女は、両親を振り返って胸を張った。

「ゆなには天から与えられた使命があるのです。どんなに名残惜しくとも、行かねばなりません」

 娘はゆっくりと、言い聞かせるようにそう言った。

「そんな……」

 愛はがっくりと肩を落とし、その場に座り込んだ。力の抜けた妻の肩を抱き、小吉は毅然として立つ娘を見上げる。

「ゆな、やっぱりあの男はダメだ。お父さんにしておきなさい、同じ三十路じゃないか」

「近親相姦はいけません。それにゆなは、あの人が好きなのです。何人たりとも、この想いを妨げる事など出来ませぬ」

「ゆ、ゆな……」

 悲痛な面持ちで、小吉は呟く。そして打ちのめされたように、妻と同じく肩を落とした。彼女の意思は、岩のように硬いのだ。最早夫婦に、娘を止める事など不可能だった。

「父上様母上様、さらばっ」

「ああっ、ゆな!」

 三文芝居を繰り広げる家族を、知恩院明は開け放たれた扉の向こうから、冷めた目で眺めていた。

「何してるんですか……」

 黒江ゆなは力の抜けた声で呟いた明を振り返り、何事もなかったかのように行きましょうと告げた。明は俯く黒江夫妻をちらりと見てから、頷いて扉を閉める。

 明がゆなを迎えに来たのは初めてではないが、この場面に出くわしたのは初めてだ。人攫いにでもなったような気分だった。

「ねえ、毎日ああなの?」

 ゆなは長い前髪の隙間から、上目遣いに明を見上げた。

「はい。概ね」

 明は更に脱力し、頭痛を堪えるように額を押さえた。彼女の見た目は十七、八の少女だが、都内でも有数の浄霊屋だ。常に長袖のセーラー服を着ており、浄霊もこの格好のまま行う。学生の正装は制服だから、不自然ではない。

 目尻の下がった大きな垂れ目も、おかっぱに切り揃えられた髪も今時珍しく真っ黒で、彼女の生真面目さを窺わせる。整った顔立ちを、ばら色の頬が幼く見せていた。

「どうかしましたか」

 歩みの遅い明を振り返り、ゆなは細い首を傾げる。その頭全体を覆う、幾重にも札が貼り付けられた大きなヘルメットが、僅かに傾いた。

 彼女はつい数週間前、大手退治屋と明が営む浄霊屋を巻き込んで、大騒ぎを起こした張本人だった。黒目がちな大きな目も、垂れ下がった眉も表情に乏しく、ぱっと見では感情が読めない。くすんだ水色に染められた尻を覆う程長く伸びた髪は、傷んで所々跳ねている。丸い頬のラインも小さな唇もふっくらとしており、華奢な体とのコントラストが、少女ゆえの危うさを感じさせた。

「なんでもないの、なんでも……」

 明は疲れたような表情で首を振り、少し早足になってゆなの横へ並んだ。黒江一家は、明の理解の範疇を遥かに超えている。見ている方が脱力してしまうのに、毎日あんな事をしていて疲れないのだろうか。

 電車に乗り込んだゆなは、どこか険しい表情を浮かべていた。明は俯く彼女を怪訝に見ていたが、やがて下を向いていた顔が徐に上げられると、驚いて僅かに身を引く。

「メイさんは、藤堂さんとはどういったご関係ですか」

 いつか聞かれるような気はしていた。明は困ったように、曖昧な笑みを浮かべる。ゆなの表情は真剣そのものだったが、感情が読み取り難いからそう見えるだけかも知れない。

「パートナーだよ」

「それは人生においての伴侶という意味で」

「違うから。そんな深い関係じゃないから」

 明は僅かに顔を赤らめ、怒った素振りで、もう、と呟く。ゆなが浄霊の勉強を始めてからというもの、先生役を買って出た明は、彼女の突飛な発言に振り回されてばかりいる。藤堂との支離滅裂な会話を聞いている分には面白いのだが、自分に矛先が向くと恐ろしく疲れてしまう。

 二人は並んで電車を降り、藤堂の店兼、浄霊屋事務所へ向かう。ゆなは足が遅いので、明だけなら二十分で済む距離も、ゆうに三十分はかかる。

「藤堂さんはね、依頼人だったの」

 ゆなは大きな目で明を見上げ、小首を傾げた。口は挟まず聞く姿勢を保っているので、明はそのまま続ける。

「あの人流されやすいでしょ。私未成年だし、事務所欲しかったし、誘ったら流されてくれるかなと思って」

「己の私利私欲の為に、霊感のない哀れな藤堂さんを巻き込んだのですか」

 責めるようなゆなの言葉に、明は小さく肩を竦めた。自分でも、良くなかったとは思う。けれど藤堂を見ていたら、声を掛けずにはいられなかった。

「なんかあの時は、藤堂さんが寂しそうに見えたの。言い訳じゃないけど」

 ゆなは不思議そうに首を傾げた。言い訳ではないと言ったが、言い訳じみていると、明は自分でも思う。

「今は、孤独な人が多い時代だから」

 ぽつりと呟いた明を、ゆなは相変わらず無表情のまま見つめていた。思う所があったのか、それとも理解し難いままなのか。

 定かではないが、分かってもらえなくてもいいと、明は思う。なんにせよ、藤堂に恋するこの少女にとって、明は障害でしかないだろう。そう考えると、明には寂しくも感じられた。

「……メイさん」

 見ると、ゆなの華奢な指が、明の制服の裾をちょんと摘んでいた。

「ゆなは、メイさんの優しいところ、好きです」

 明は目を丸くして、まじまじとゆなを見た。見上げてくる視線は真っ直ぐで、迷いがない。しかし常から紙のように白い頬が、僅かに紅潮していた。

 自然と頬が緩むのを抑えきれず、明ははにかんだように笑う。ゆなも少し、唇の端を上げた。

 ようやく辿り着いた質屋のドアをくぐると、見慣れたカウンターが視界に入った。換気扇が強力なので気にはならないが、微かに煙草の臭いがする。

「お疲れ様、藤堂さん」

「こんにちは」

 カウンターで書き物をしていた店主が顔を上げ、おう、と素っ気なく返した。しかし反応はそれだけで、すぐに手元へ視線を落としてしまう。珍しく熱心に頭を捻っている。

「何してるの?」

 怪訝に思った明が近付いてカウンターを覗き込むと、藤堂が熱心に書き込んでいたのは懸賞雑誌だった。賭事はやらないようだが、それにしても随分渋い趣味だと明は思う。

「ここまできたらね、運に頼るしかねえの」

 藤堂匡は視線だけ上げて二人を見ると、銜え煙草のままにやりと笑った。目と眉の間が近い精悍な顔付きだが、奥二重の瞼が常に半ばまで落ちている為、どこか間が抜けて見える。まばらに生えた無精髭と中途半端な長さの髪が、更にそれを助長させていた。

 目さえしっかり開けば、それなりだ。本人も言っていたが、確かに昔はもてたのだろうと明は思う。しかし今は親父と呼ばれる年齢に片足を突っ込んだ、だらしない男にしか見えない。実際の年齢より老けて見えるのは、間違いなく髭のせいだろう。

「そんな事をせずとも、ゆなが今に物凄い霊媒師になって、ガッポガッポと稼いで差し上げるのに」

「遠慮しとく」

「何故です。藤堂さんには、死ぬまで楽な暮らしをさせてあげますよ」

 ゆなはカウンターの内側へ入り、煙草を持った腕に両手を回して抱き込んだ。藤堂は、あぶね、と小さく声を上げる。呆れた明の視線にも藤堂の迷惑そうな表情にも、ゆなは動じない。

「仮にも客商売でしょ。カウンターでクロスワードなんて、銭湯の番台じゃないんだから」

 藤堂は明を見ないまま、鉛筆を持った手を軽く振った。

「パチンコだの競馬だのでスるより堅実だろ」

「今時そんな事する人あんまりいないよ」

「ゆなは藤堂さんのそういう所も好きです」

「はいはい。痛えよ」

 ヘルメットを被った頭を擦り寄せるゆなに、藤堂は非難の声を上げた。しかし振り払おうとはしない辺りが藤堂らしいと、明は思う。ただ単に面倒なだけなのだろうが、そういう態度が勘違いさせるのだ。

 基本的に藤堂は優しい人間だと、明は思っている。だから彼を慕って集まった子供の霊が、守護霊として彼に憑いている。これほど強力な守護霊がいるのに、貧乏な理由が分からないのだが。

「依頼人は?」

 明が聞くと、藤堂は緩く首を横に振った。明は肩を落として落胆する。諦めているのか客が来ない事に慣れているのか、藤堂は平然としていた。恐らく後者だろう。

「……そういや、白銀ってアレ、本名?」

 きょとんと目を丸くして、明はカウンターに鉛筆を置く藤堂の指先を見る。藤堂は空いた手に煙草を持ち替え、火種を灰皿に押し付けた。きな臭い煙を吸い込むのが嫌で、明は藤堂から少し距離を取る。

「違うよ。世間的な認知度が高いのに、本名出して仕事してたら危ないじゃない」

「ああ……そうか」

 自分で聞いた割に、さして興味もなさそうな口振りだった。しかし何を言ってもこういう反応しか見せないから、藤堂が実際どう思っているのかは分からない。

 彼が何かについて聞くという事は、少しでも興味があるということなのだろうか。何に対しても興味がなさそうだから、明には些か意外だった。芸能人に興味を持つようなタイプでもないし、考えれば考えるほど訝しく思う。

「ごめんください」

 明が怪訝に口を開きかけた時、入口から声が掛かる。三人同時に顔を上げたが、その声にはいと応えたのは明だけだった。藤堂は元々反応が鈍いし、ゆなは厳密には従業員ではない。しかし明は、そんな二人に呆れた。

「あの……こちらで浄霊して頂けると伺ったのだけど」

 不安げに店内を見回す中年の女性は、ためらいがちに言いながらカウンターへ近付いて来る。ふくよかな体格だが頬が少々こけており、顔色も悪い。

「ここは一見高価な品が並ぶ質屋ですが、実は質屋です」

「結局質屋じゃない」

 ゆなの発言に、明は思わず突っ込んだ。女性は怪訝に眉を顰める。

「はい?」

「ゆな、ややこしくなるから黙ってろ。……すいません、浄霊屋です」

 藤堂はゆなを制して訂正し、ついでに明の肩を掴んでカウンターの正面から退かした。藤堂は、こういう時だけはきびきびと動く。意外にも思えるが、元々客商売をやっているのだから、このぐらいはやって貰わないと明が困る。

 明は慌ててカウンターの下から椅子を引き出し、女性に勧めた。訝しげに表情を歪めながらも、依頼人は腰を下ろす。

「藤堂です。それは知恩院、こっちは気にしないで下さい。まずはこちらにご記入を」

 藤堂は雑誌を隅へ避け、受付用紙と先ほどまで使っていた鉛筆を女性の前に出した。明に任せるとまた締りがなくなると理解したのだろうが、明本人は不満気な表情を浮かべていた。

「はあ、すみません」

 女性が言われるまま記入を始めると、藤堂はゆなに向かって虫でも払うように手を振る。腕にくっついたままだったのだ。藤堂に払われると、ゆなは存外素直に離れた。

 記入を終えた女性が用紙を差し出すと、明がそれを受け取った。藤堂にばかり任せていては、接客には慣れないと思ったのだ。

村形梓むらかたあずささん……ですね。……人形の髪が伸びる?」

 思わず声を上げた明は、その先を読み進める内、徐々に表情を険しいものへと変えて行った。ゆなが用紙を覗き込み、ことりと首を傾げる。藤堂はどうでも良さそうだった。

「ええ、よく聞く話でしょう。でもまさか、自分の身に起こるなんて、思わなかったものだから」

 村形は溜息を一つ漏らした後、小さく咳き込んだ。

「娘さんの毛髪を、使われたんですか」

「ええ、形見のようなものよ。……昨年、病気で先立たれてしまって」

「それは……」

 明が弔辞を述べようとすると、村形は首を横に振ってそれを制した。藤堂の表情が俄かに曇る。

「人形は形見だから、お払いを頼む訳にも行かないでしょう。もっとも何が憑いているのか、生憎私はそう霊感が強くないから、分からないんだけど」

「娘さん、という可能性は?」

 明が聞くと、村形はまた咳をした。具合が悪いのだろうかと、明は心配になる。

「そうかも知れません。でもねえ、お人形に憑いていたら、娘は成仏していないって事でしょう。お人形に憑いて髪を伸ばすなんて悪さをしているとしたら、もしかしたら……」

 その先は、明には容易に想像が出来た。藤堂は怪訝な面持ちだが、ゆなは表情を硬くしている。ここ数週間でかなりの事を教えたから、彼女にも分かるのだろう。

 物に取り憑く霊は、悪霊と決まっている。人に憑いた場合は悪さをすると悪霊、護るなら守護霊となり、後者の場合は無理に成仏させる必要はない。

 しかし前者の場合は、そうは行かない。悪霊は必ず人に害を為す。巷に蔓延する怨念を吸って、甚大な被害を出すようになる前に浄霊するか、存在を抹消させるしかない。それを知っているから、村形は浄霊屋に訪れたのだろう。

「わかりました、伺います」

「そう、良かった。出来れば今日、いらして頂きたいのだけど」

 明は面食らって、思わず藤堂を振り返った。藤堂は眉間に皺を寄せている。

「ゆなと行って来い、勉強がてら」

「藤堂さんは?」

「俺にはわかんねえ。店番してるわ」

 言うだろうと思った。明は溜息を吐いて依頼人へ向き直り、わかりました、と答えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ