第二章 旅立つ娘 七
全員が黙り込んだまま視線を注ぐ中、ゆなは母の腕から身を起こし、パフスリーブのワンピースに付いた砂を払いながらゆっくりと立ち上がった。どこか動作がぎこちないのは、長く取り憑かれていたせいだろうか。
ゆなの大きな目は瞳孔との境が分からない程の漆黒で、どこを見ているのか分からない。尻を隠すほど伸ばされた髪はくすんだ水色に染められており、つい先ほどまで暴れていた為か、乱れて鳥の巣のように絡まっている。ふっくらとした頬は幼さを残しているが、肌は不健康に青白い。長い睫毛は日本人形のように真っ直ぐに生え、太めの眉はへの字に下がっていた。
「ゆな、何を……」
愛は唇を慄かせ、緊張した声で呟いた。ゆなは呆然と見上げてくる母を、無感動に見下ろす。作られた無表情ではなく、元々表情の変化に乏しい娘なのかも知れない。
「母上様は、ゆなの事を全くわかってくれておりません。父上様もです」
黒江が怯えたように、びくりと肩を震わせた。二人が何も言い返さない所を見ると、思い当たる節があるのかも知れないと、藤堂は考える。
「ゆなは霊媒師になりたいのです。せっかくこの体質に生まれたのですから、宝の持ち腐れはいけないのです」
藤堂は成る程と、そう思った。確かにこの娘は憑かれていたのでなく、憑かせていたのだろう。それが反抗の為か霊媒師になる為かはまだ不明瞭だが、明の言った通りである事は分かった。
明は複雑な表情を浮かべたまま、ゆなを注視していた。しかし白銀の腕は離さない。明に片腕を取られたまま、白銀は困惑したような面持ちで家族を見ていた。
「世のため人のために、ゆなは霊媒師さんの下へ弟子入りしたかったのです。許してくれないから、ゆなは独学で勉強をしていました。それを何故止めるのです」
ゆなの小さな唇が責めるような言葉を吐く度、夫婦の顔は青ざめて行く。しまいに彼らは肩を落とし、気まずそうに娘から視線を逸らした。そしてお互い、顔を見合わせる。
「勉強するにしても、そんなやり方はないだろう! そ、そんな……一ヶ月も憑かれたままにしておくなんて……」
声を震わせた黒江は、それを振り払うかのように語気を荒げる。しかし、ゆなの冷めた目と目が合うと、その言葉は徐々に勢いをなくして行った。
「だって弟子入りを許可してもらえないのなら、それしかないではありませんか」
愛は知っていたのではないかと、藤堂は考える。ゆなが憑かれたのではなく憑かせたのだという事も、その理由も。だから最初に依頼をしに訪れた時、どことなく陰があったのではないか。あれは真実を隠したまま浄霊を頼むという、罪悪感から来るものだったのではないだろうか。
何れ真意は知れない。ゆなのそれも実際はただの反抗だったのではないかと思ったが、咎める気はなかった。そんな事をする義理はないし、親子の問題に口を出す権利は、藤堂のように三十を過ぎて所帯を持とうとしないような男にはない。
「ゆな、あなたはまだ十四歳じゃない。中学校を卒業してから、霊媒師の方に弟子入りすればいいと言ったじゃないの。どうしてそんなに焦るの?」
愛は悲しげに眉根を寄せ、悲痛な面持ちで娘に訴えかける。目尻に浮かぶ涙を拭おうともしないまま。
「この時代、義務教育にどれほどの意味がありますか。ゆなには分かりません。それよりもゆなは、ゆなのような人を助けてあげたいのです」
言っている事は尤もだと、藤堂は思った。藤堂自身も教育に意味はないと斜に構えて、碌に勉強もしない子供だった。しかしそれとこれとは、話が違うのではないかとも思える。
勉強に意味はない。幽霊という、対抗する術を持たない一般人には太刀打ちできないものに脅かされる時代に生まれて、呑気に学習している暇はない。生きていく上で必要な知識と一般常識さえ備われば、他の知識は必要ない。退治屋達に教えを乞うて、自身を守る術を身につけさせるべきである。そう声高に主張する親も多い。
日本政府は昔と変わらず教育を義務とする反面、次代を担う若者達に、出来る限り自衛の術を身につけさせるべきだ、とも提唱している。勉学と、除霊の術を身につけること。それらを両立出来ないとは思わないが、難しい事ではあるだろう。
退治屋になるには並々ならぬ努力が必要だし、霊媒師にはゆなの言うとおり、生まれついての素質が要る。霊を哀れむ心がなければ、浄霊屋も勤まらないのだと明は言っていた。
藤堂にはそれがないし、そもそも霊感もないから、幽霊関係の仕事に就くことは早い内から諦めていた。それでも自分の将来について、彼は何一つ考えてはいなかった。
藤堂は高校も三年になってようやく、このままでは食い扶持を稼げなくなると気付いたのだ。学習することの必要性を理解して、すぐに就職すれば良いところを大学に通った。だから結局藤堂は今も、勉学に励むことは有益であると考えている。
「ゆなは生まれた時から悪いひとたちに囲まれていました。憑かれるのを怖がっていては、ダメなのです。そんな自分は嫌なのです。ゆなは早く助けてあげたいのです」
「あのね、お嬢ちゃん」
一斉に視線が集まり、藤堂ははっとした後、困ったように頭を掻いた。意図して発した言葉ではない。いつしか昂っていた感情に流されるように、気がついたら呼び掛けていた。だから、次ぐ台詞もまとまっていない。
昔を思い出して、感傷的になっていたのかも知れない。だから咄嗟に、言葉が口を突いて出たのだ。藤堂は半ば、自棄になった。
「助けたいってのはいい事だよ。でもなあ、その為に親泣かせてどうすんの」
訝しげに藤堂を見上げていたゆなは、大きな目を更に見開いた。こんな得体の知れない男に説教などされたくないだろうと藤堂は後悔したが、今更止められないので更に続ける。
「ワガママ言って母さん泣かせる霊媒師に、誰が救えんの。父さんだって、あんなに心配してたじゃねえか。子供は難しい事考えず、一番身近な人に孝行しろ。な」
目を丸くしたゆなが、忙しなく瞬きを繰り返した。驚いたような各人の視線が、藤堂の全身に刺さる。たまに長い言葉を喋ると、珍獣でも見るような目で見られる。自分が普段口を利かないのが悪いのだが、これだから嫌だと、藤堂は途方に暮れた。
ゆなは暫くまじまじと藤堂を見詰めた後、ゆっくりと彼に歩み寄る。藤堂は少々身構えた。
「ビビッときました」
「……は?」
一瞬遅れて問い返す。ゆなは真っ直ぐに藤堂を見上げ、頬を赤らめている。藤堂は一気に青くなった。
「ゆなはそんなふうに怒られたのは初めてです」
藤堂は思わず、黒江夫婦を見た。愛は気まずそうに視線を外したが、黒江は呆然としている。娘の発言が信じられないといった表情だったが、当然だろう。こんなうだつの上がらない三十路男に、娘を取られようとしているのだ。
否、こちらからすれば、そういう問題ではない。
「好きです。あわよくば、ゆなをあなたの将来設計に組み込んで頂きたく……」
「ままま、待ちなさいゆな! 早まるんじゃない!」
ようやく我に返った黒江が、動揺した声を上げる。
「その人の年齢はお父さんと大して変わらないぞ! お父さんにしておきなさい!」
明が噴き出した。笑い事ではないと、藤堂はうんざりと空を仰ぐ。藤堂を見る小田原の目が、哀れみの色を湛えていた。お前に哀れまれたらおしまいだと藤堂は思ったが、喋る気力もなかった。
何故にこうなってしまうのだ。口から出たのでとりあえず適当に言っておこう、と思って発した言葉のせいでこんな事になるとは、予想もしていない。藤堂はよく考えて発言しない己を呪った。
疲れ果てた藤堂をよそに、父子の会話は更にヒートアップして行く。
「愛があれば年の差なんて」
「そういう問題じゃない!」
「愛に障害はつきものです。大きければ大きいほど、燃え上がるのです」
そこで黒江は、ぐっと言葉に詰まった。愛が更に俯いた所を見ると、身に覚えがあるのかも知れない。
疲れきった表情を浮かべる藤堂を見ていた白銀が、下を向いて小さく噴き出した。その横で、明が笑いを堪えて肩を震わせている。藤堂は更に肩を落とした。
「笑ってないで助けてくんないかな」
「いいじゃない藤堂さん、幸せになっ……ぷ」
言い掛けて再び噴き出した明はどうも、困り顔の藤堂が可笑しいらしい。箸が転がっても可笑しい年頃とはこの事かと、藤堂は現実逃避気味に思う。
「……藤堂さん」
落ち着いたのか、白銀が呟いて顔を上げる。名前を教えただろうかと一瞬考えたが、そういえば先ほどから、明が連呼していた。
藤堂はその端正な顔に浮かべられた笑みを見て、息を呑む。笑ったせいか、白い頬が僅かに紅潮していた。
「あなたは真っ直ぐな人だ。子供らが懐く理由もわかる」
褒められているのか、からかわれているのか、藤堂には分からなかった。しかし笑うと可愛いと、ぼんやりと思う。彼女の胸しか見ていなかった自分を恥じた。
惚ける藤堂には気付かなかったようで、彼からすぐに視線を逸らし、白銀は黒江夫妻に向き直った。
「黒江さん、学業を修めることは大事です。子供を退治屋にしようと、無理に会社へ入れようとする親御さんも大勢いる」
それは社会問題にまで発展しているのだが、何しろ政府が奨励しているものだから、会社の方も断りきれない部分がある。彼らも慢性的な人手不足を子供達で埋めようとしているようだから、一概に迷惑しているとは言えないだろう。
「子供の知識力低下が危ぶまれている中、今時珍しく賢明なご判断だ。しかし、お嬢さんの言う事にも一理ある」
気がつくと、黒江父子の言い合いは、ぴたりと止んでいた。
「今後お嬢さんに何かある度に逐一、退治屋や浄霊屋を依頼されるとなると、ご両親にはかなりの負担になるでしょう。ご自身に霊を跳ね除ける力がないと、正直なところ、娘さんの体にも精神状態にも影響が出る」
黒江は驚いたようにゆなを見下ろした。ゆなは首を傾げるが、藤堂は既に影響が出ているのではないかと訝る。
「重ねて申しますが、勉強は大事です。しかしお嬢さんは、他の家庭のお子さんとは少々事情が違う。自身を守る術だけでも、身に付けさせてあげた方が宜しいかと」
見た目こそ若いように見えるが、白銀の言葉は逐一重たく感じられた。死と隣り合わせに生きる退治屋と、安穏たる日々を過ごす質屋では、言葉の重みに差異が出るのは当然の事だ。けれど年下であろう彼女の言葉と比べた己の言動の軽さに、藤堂は落ち込んだ。
顔だけを白銀に向けていたゆなが、所在なげに佇む藤堂へ体ごと向いた。
「それでは、是非とも浄霊屋さんにご指導をお願いしたく」
藤堂は嫌な顔をした。明が驚いて目を丸くする。戸惑ったように口元に手を当てていた愛が娘を見た後、意見を求めるように白銀を見た。愛の視線を受けて、彼女は小さく頷く。
「大きな会社に依頼するよりは、自由が利くでしょう。そこの浄霊屋は実力もある……少なくとも、うちの教育課よりは」
自虐的な呟きには気付かなかったようで、明が嬉しそうな顔をした。実力があるという言葉に対してなのだろうが、そこに反応している場合ではないだろうと藤堂は思う。
愛は藤堂と明を交互に見た後、背筋を伸ばした。
「娘を、よろしくお願いします」
愛は静かにそう言って、深々と頭を下げた。これには黒江が非難混じりに驚愕の声を上げる。対照的に、ゆなの顔はぱっと明るくなった。
「な、何言ってるんだ愛!」
「うちの負担は覚悟していた事だけど、ゆなに影響が出るというなら、学校にだけ通わせておけばいいというものではないわ」
「でも……」
「先生にも言われたじゃない。霊媒師になるなら、それ相応の対処はするって。先生きっと、ご存知だったんだわ……よろしいでしょうか、お二人とも」
大きく瞬きを繰り返していた明の表情が、徐々に和らいでいく。そしてようやく白銀の腕を解放し、体ごとゆなを向いて、にっこりと微笑んだ。
「構いませんよ。ね、藤堂さん」
ゆなの目が輝いている。明の笑顔が眩しく見える。愛は不安げに藤堂を見ている。複雑な表情を浮かべた黒江は、半ば諦めているようだ。
これは断ったら一気に白けるだろう。しかし悩まずにはいられない。この申し出を安易に受けてしまったらどうなるか、目に見えている。結局藤堂は何も出来ないのだ。
懊悩する藤堂に、ようやく明から解放された白銀がゆっくりと歩み寄った。落ち着かせるように、そっとその肩に手を置く。今日は手袋をはめていなかった。
「心配しなくとも、あなたのパートナーは有能だ。あなたが何もしなくとも、しっかりやってくれるさ」
見抜かれている。
藤堂は肩に置かれた白い手を暫く眺めた後、諦めたように溜息を吐いた。
「責任を持って、お嬢さんを立派な霊媒師にしてみせます……メイが」
ゆなが歓声を上げた。




