第二章 旅立つ娘 五
藤堂には、黒江家までの電車で三駅の距離が、恐ろしく長く感じられた。明はそわそわと落ち着かないし、藤堂は彼女が持ったバットを奇異の目で見る周囲の視線に晒され、やはり落ち着かない。店先で埃を被っているバイクにでも乗ってくれば良かったと後悔したが、バットを持ったまま乗ったら、それはそれで変な目で見られるだろう。
それ以前に藤堂のバイクは二人乗りではないので、そんな事をしたら奇異の目で見られるどころか、警察のお世話になってしまいそうだ。二人乗りは禁止されているし、ヘルメットも二つはない。流石に捕まってしまっては困る。
電車の中で既にそわそわしていた明は、駅を出た瞬間駆け出した。碌に話を聞かされていない藤堂は、勘弁してくれ、と閉口しながらもその後を追う。何があったのかさえ判らないのに、何故走っているのかと疑問を抱く。
駅前の人ごみを器用にすり抜け、スカートの裾がはためくのも気にせず、明は住宅街を疾走する。翻ったプリーツのスカートから伸びる、白い太腿が僅かに見えた。恥ずかしくはないのだろうかと、藤堂は呆れる。気にならないほど必死なのかも知れない。
「あの、メイさん、ちょっと……」
藤堂の呼びかけに、明は反応しなかった。ただひたすら前だけを見て、黒江家を目指す。明と出会ってから走ってばかりいると、藤堂はうんざりした。
「知恩院さん、藤堂さん!」
玄関先で待っていたらしい愛が、二人の姿を見つけて大声で叫んだ。相当切羽詰った様子だったが、藤堂は既に疲弊しきっていたので、反応出来ない。明が家の前まで辿り着くのを見届けると、面倒になって走るのをやめた。
荒い呼吸を繰り返しながらゆっくりと歩く藤堂を振り返り、明が溜息を吐いた。溜息など吐かれても、藤堂は明のように若くはないのだ。持久力がないし、そもそも体力さえない。人間、昔のままではいられない。
重い足取りの藤堂がようやく二人の元に辿り着くと、愛は彼と明に向かって、深々と頭を下げた。
「突然呼び出してしまって、申し訳ありません……まさかまた、こんな事になるなんて」
愛は元々下がり気味の眉尻を更に下げ、震える声で言った。目に見えて狼狽する彼女を落ち着かせようと、明はその両肩に手を添える。藤堂はまだ、しつこく肩で息をしていた。
「いいんです。それより、ゆなちゃんは……」
明が問うと、愛は大きな目いっぱいに涙を溜め、小さく息を吐いた。見るからに辛そうなその様子に、藤堂は呼吸を整えながら痛ましげに眉根を寄せる。
「中にいます。どうか……どうか、助けてください。私もう、見ていられないの……」
両手で顔を覆い、愛は左右に首を振ってよろめいた。藤堂は慌ててその体を支える。細い体は、小刻みに震えていた。
泣き崩れた愛を支えて途方に暮れる藤堂と顔を見合わせた後、明は玄関の扉を開けた。室内の空気に触れると同時に、彼女は昨日ここへ来た時と同じように、あからさまに顔をしかめる。結局聞きそびれたままだったが、今日は藤堂にもその理由が分かった。明らかに、空気が淀んでいる。
どことなく重たい空気を怪訝に思い、藤堂は明の背後から玄関を覗き込む。しかしその奥の光景を見る前に、この世のものとは思えないような叫び声が聞こえ、藤堂は思わず身を引いた。明は反射的に玄関へ飛び込んで行ったが、愛を支える藤堂は、その場から動くことが出来なかった。閉まりかけた扉を慌てて足で押さえ、室内を覗き込む。
廊下の奥、リビングでは、黒江が娘を羽交い絞めにして押さえ付けていた。悲痛に歪む父親の表情とは対照的に、ゆなの顔は憎しみに歪んでいる。
何があったのかと藤堂が思うより先に、飛び込んで行った明がゆなの首へ手を伸ばした。触るな、と凡そ少女の発したものとは思えないような怒鳴り声が聞こえてくる。あれは少女に憑いた霊が発した声なのだろうか。
激しく暴れる娘を、黒江は更に力を込めて押さえつける。表情が苦しげなのは、消耗しているせいだけではないのだろう。明は怒鳴り声にも構わず、後頭部に掌を添えてうなじを握った。
途端、娘の動きが目に見えて鈍くなる。具体的に何をしたのか藤堂の位置からは確認出来なかったが、ああすることで大人しくなってしまうものなのだろうか。
黒江が明に向かって、済みません、と呟くのが聞こえた。謝っている場合でもないだろうと藤堂は思うが、向こうは彼より遥かに動揺している筈だ。狼狽して怒鳴られなかっただけ良いだろう。
「藤堂さん、来て!」
明がゆなの後頭部を押さえつけたまま、玄関先に立ち尽くす藤堂を振り返って怒鳴った。来いと言われても、藤堂は愛を放り出して行ける程非情ではない。どうするべきかと悩む藤堂の、その背後を見た明の表情が、驚愕に歪んだ。
「失礼しますよ」
掛けられた声に振り返る間もなく、背後から黒い影が藤堂の横をすり抜けて室内へ入った。鬼の形相で明を睨みつけていたゆなが廊下へ顔を向け、更に苦々しく表情を歪める。
「鳳……」
明が驚いた声を漏らすと、藤堂に支えられるようにして立っていた愛が、涙に濡れた顔を上げた。しかし醜く変貌した愛娘の顔を目にした瞬間、再び深く俯いてしまう。困り果てる藤堂は結局、離れた位置から室内の様子を見守るしかなかった。
黒江が疲れた顔をスーツの男に向ける。昨日は三人いたものと記憶しているが、今日は一人しか来ていないようだ。
「ああ、小田原さん……」
「また憑かれたのですね。残念です」
あまりにも白々しいその台詞を聞いた瞬間、明の目つきがきっと厳しくなり、小田原を睨みつけた。
「何言ってるの、除霊しただけのくせに! これも、昨日のと同じ霊じゃない!」
小田原は語気を荒げる明を無表情に一瞥したが、その言葉には反応しなかった。代わりに沈痛な面持ちで、黒江に深く頭を下げる。散々明の愚痴を聞いていたせいか、藤堂にはその姿がどうにも嘘臭く思えてしまう。
「再びこうなったのも、私どもの不手際が原因。贖罪の意味を込めて、今回も誠心誠意努めます。お嬢さんは、この鳳にお任せ願えませんか」
藤堂は耳を疑った。この状況で、悠長に何を言っているのだろうか。これでは明が怒る理由も分かる。
黒江はしかし困惑したような表情で、頭を下げる小田原を真っ直ぐ見ていた。何も知らない者からすれば、昨日の除霊は成功していたのだから、彼が迷うのも当然だろう。何しろ藤堂にだって、成功したように見えたのだ。
明はきつく歯噛みして、小田原に掴みかかろうとした。
しかし。
「ゆな!」
愛が突然、悲鳴じみた叫び声を上げた。藤堂には、一瞬何が起きたのか分からなかった。
明が手を離した瞬間、ゆなは父親の手を振りほどいて駆け出した。黒江は青褪め、明はあきらかに狼狽する。小田原は慌ててゆなを捕まえようと腕を伸ばしたが、彼女はその手をすり抜けて廊下へ飛び出した。
突然の事に反応できないでいる藤堂の横をゆなが通り過ぎた刹那、愛が反射的に身を翻して娘を追った。ついさっきまで泣きじゃくっていたとは思えないような機敏な動きに、藤堂は母の想いを感じる。そんな事を考えている場合ではないのだが、動揺するあまり、頭の中が真っ白になっていた。
小田原が廊下を振り返り、愛の後を追うように駆け出した。我に返った明と黒江は、慌ててその後を追う。藤堂は明に背中を叩かれたところで、また走るのかと少々うんざりした。しかしそうも言ってはいられない。
これも仕事だと腹をくくった藤堂は、明と黒江が玄関を出た後、ドアを閉めて彼らの後を追う。ゆなも愛も小田原も、既に姿が見えなくなっていた。
「すみません皆さん、僕がしっかり、あの子を捕まえていなかったばっかりに……」
耳元をかすめる風切り音と忙しない己の呼吸音に混じって、申し訳なさそうな黒江の声が聞こえた。既に息を上げている藤堂には、何も答えられない。
「いいんです。気にしないで下さい、仕事ですから……でも、絶対に変だよ。ねえ藤堂さん」
同意を求められても、藤堂には頷く事しか出来なかった。頷きはしたが、何が変なのか藤堂は分かっていない。昼間の話は覚えているが、結局疑問を残したままだったように思う。
結構な速度で走っているにも関わらず、明の声は平常時と少しも差がなかった。よほど腹筋が強いのだろう。
「あれは昨日の霊だったよ。あんな強い霊があの子にこだわる理由なんてないし、よっぽど居心地が良かったのかな……でも昨日の今日じゃ流石に早すぎるし、もう、何なのよあいつ!」
苛立ち紛れに怒鳴りながら、明は片手に持ったバットを振った。目の前を掠めたバットに怯えた表情を浮かべた黒江は、走る速度を落とす。疲れた訳ではなく、明と並ぶのが怖かったのだろう。
藤堂は、早くも息切れしていた。黒江の方がどう見ても歳上と思われるが、忙しなく辺りを見回しながら一定の速度を保っているのを見る限り、彼はまだそう疲れてはいないはずだ。藤堂は己の体力のなさを呪う。
空はもう、大半が藍色に染まっていた。黄昏時の薄闇を必死の形相で駆け抜ける彼らは、傍から見たら異様だったろう。しかもその内の一人は、片手にバットを持っている。
穏やかならぬ光景だ。犯罪の匂いさえする。主婦達がそろそろ夕飯の支度に取り掛かるであろう時間帯で、通行人が疎らだったのが唯一の救いだろう。
路地を曲がった所で、ブロック塀に手をついて肩で息をする愛の姿が見えた。彼女は地面にしゃがみ込み、頭痛を堪えるように額を押さえている。
愛を見た途端黒江の表情が凍りつき、慌てて明を抜かして行った。まだそんな体力があったのかと、藤堂は呆れる。
「愛、大丈夫か? ゆなと小田原さんは……」
「小吉くん……」
愛は立ち止まって傍らに屈みこんだ夫を潤んだ目で見上げ、途方に暮れたように呟いた。少し遅れて黒江に追いついた明が、足を止めて二人を見下ろす。
「ゆなちゃんと鳳の人は、どっちに行きました?」
顔を上げて明を見た愛は、無言のまま三叉路の右側を指差す。相変わらず息一つ切らしていない明は大きく頷いて、のろのろと歩いてくる藤堂を振り返った。彼には最早、走る気力もない。
「行こう、藤堂さん!」
明確に疲労感を表す藤堂の顔が、更に疲れきったものへ変わった。そんな彼に、黒江は哀れんだ視線を送る。愛は心なしか気まずそうに、藤堂から視線を逸らした。
再び駆け出す明に、藤堂は深い溜息を吐いた。済みませんという愛の声に答える気力は、もう残されていない。
「後から僕らも行きますから!」
背後から黒江の声が聞こえたが、藤堂は振り返らなかった。振り返る事が出来なかった、と言った方が正しいかも知れない。それほど疲弊している。
なんだってこうも走ってばかりいるのだろうと、藤堂は茹だった頭で考える。しかし酸素不足でまともな思考も出来ないので、半ば自棄になって明の背中を追った。
三叉路を右に曲がると、突き当たりに公園が見えた。明はそちらへ駆けていく。あの公園にいてくれればいいのにと考えながら、藤堂は最後の力を振り絞って追いかける。自分の呼吸音だけが、やけに煩く聞こえていた。
「藤堂さん、遅い!」
公園の入り口で立ち止まった明が、振り返って藤堂を怒鳴りつける。そう言われても歳が違うのだと思ったが、事実なので何も言えなかった。走るのは速い方だったのだが、やはり十年近い月日は、人を老化させるに充分という事だろう。
「早くして!……ああ!」
公園と藤堂を忙しなく交互に見ていた明は、何かを見て大声を上げた。ようやく追いついた藤堂は、肩で息をしながら明の視線の先を見る。
「な、何やってんの、アレ」
藤堂の目には、小田原がゆなの頭を地面に押さえつけているようにしか見えなかった。うつ伏せに倒れた少女の細い腕が小田原に掴まれ、背後で捻り上げられている。僅かに上げられたゆなの顔は、退治屋に対する憎悪に歪んでいた。
周りに人気はない。公園の中央に設置された時計は、午後五時半を差している。何の変哲もない静かな公園の中で、彼ら二人だけが異質だった。
「取り憑いた霊を、無理矢理追い出そうとしてるんだよ……あれじゃ意味ないのに」
小田原の手が、ゆなの背中の上で九字を切る。野太い絶叫が、ゆなの口から発せられた。
「だ、ダメよそんなんじゃ! 今すぐやめなさい!」
バットを握り締めたままその様子を見守っていた明が、慌てた声を上げて二人に駆け寄った。その瞬間。
「やめろ、小田原」
凛としたよく通る声が、場を静まらせた。ゆなを押さえ込んでいた小田原が、驚愕に目を見開く。それは明と藤堂にとっては初めて見る表情だったが、二人はそれよりも声の主を探していた。
明は不思議そうな顔をしているが、藤堂はこの声に、聞き覚えがあった。いつの間に現れたのか、公園の入り口には黒塗りの車が停まっている。声は確かに、あの中から聞こえてきた。
車のドアが開いた瞬間、明が息を呑んだ。