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透明なひと  作者:
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第二章 旅立つ娘 三

 高いような低いような、抑揚のない声が、室内と言わず廊下にまで響き渡る。三者三様に緩急を付けて唱えられる長い呪文は、聞く者を落ち着かない気分にさせた。彼らが淀みなく発する呪文の意味が解るのは、明だけだろう。

 黒江夫婦は肩を抱き合い、時折口汚く退治屋を罵っては全身を震わせる愛娘を、心配そうな面持ちで見詰めていた。明は彼らと同じく不安げに眉根を寄せ、成り行きを見守っている。その表情は訝しげにも見えた。

 藤堂は、ここにいてはいけないような気分になっていた。外国人だらけの部屋の中に一人放り込まれたような、心細い気分だ。

 彼は恐らく、この場にいる人間の中でただ一人だけ、霊感を持たない。そんな木偶の坊がここにいても、何も出来る事はない。精々見守るだけが関の山だが、見守ろうにも人一倍霊的な事に疎い藤堂には、何かがあっても何が起きたのか分からない。そもそも幽霊など見えない。

 藤堂は胸ポケットにしまい込まれていた眼鏡を取り出し、暫し悩んだ後、結局掛けた。黒いセルフレームの眼鏡は明から譲り受けたもので、霊感がない者でも霊が見えるようになるという代物だ。

 藤堂はその存在すら知らなかったから、明が特別に用意したものと思い込んでいた。しかしよくよく聞いてみれば、防犯グッズとして一般的に売られているらしい。藤堂のように霊感を持たない人間も、少なからずいるという事なのだろうが、それにしても全く便利な道具があるものだ。

 眼鏡を掛けても、視界に変化はなかった。霊感が備わるわけではなく、霊が見えるようになるだけのようだから、それも当然だろう。悪霊は今、椅子に縛り付けられた娘に憑いているのだから、見える筈がない。

「長い……」

 明がぽつりと呟く。きつく拳を握った華奢な手は、痛々しいほど白く変色していた。

 退治屋達の額にうっすらと汗が浮いているのが、離れた位置からでも見て取れた。そこで藤堂は、ようやく明が呟いた言葉の意味を理解する。

 除霊が長引いているという、その事実が何を意味するのか考える間もなく、娘が雄叫びを上げた。その小さな体から発せられているとは思えないような、野太い不気味な声。息継ぎもされないまま長々と続く叫び声は聞くに耐えず、藤堂は耳を塞いだ。

 全身の毛穴が開いたように、触覚が過敏になっている。空気の震えが直に皮膚に伝わり、指先が震える。

 霊感がないということは、即ち霊の害意に対して抵抗する術がないということ。強く影響を受けるのは霊感がある者の方だが、彼らはそれなりに、抵抗する術を持っている。だから藤堂には、腹の底から湧き上がる嫌悪感と背筋を這う悪寒に、どう対抗すればいいのか分からない。

「出た!」

 明が小さく声を上げ、僅かに身を乗り出した。藤堂は耳を塞いだまま、目を凝らす。

 レンズ越しに見た少女は、顎が外れるのではないかと心配になる程大きく口を開き、尚も声を上げていた。その喉の奥から、濃い灰色の塊が吐き出される。

 まず見えたのは先の尖った長い爪と、枯れ枝のように節くれ立った指だった。そして、干物のように乾いた皮膚。ただの塊に見えたのは、拳を握っていた為だろう。

 少女の口から出てきたのは、手だった。灰色に変色した、骨と皮ばかりの腕。それが際限なく幾つも幾つも、逃げるように少女の体内から這い出して来る。体内から追い出された腕は何かを探すように空中を彷徨い、退治屋達が作った円の中で這い回った。

 吐き出されたものがなんなのか認識すると同時に、藤堂は反射的に顔をしかめた。幾つもの手が、退治屋の声に呼応するかにのた打ち回る。苦しんでいるようにも思えたが、何しろ手だから、実際の所どういう状態なのか見た目には判断出来なかった。

 体内から異形の霊を吐き出し終えた少女が、がっくりとうなだれた。退治屋の内の一人が自らの腕を前に突き出し、手刀で手の群を切るような動作をする。その手の甲には、緻密な紋様が描かれていた。皮膚に直接描かれているので、刺青か何かだろう。

 絹を裂くような悲鳴が木霊する。きつく目を閉じた藤堂は、耳を塞いだままの両手を更に強く押し付けた。

 永遠に続くのではないかと思われる程長く続いた悲鳴が途切れると同時に、耳が痛くなるほどの静寂が室内に落ちた。

「終わりました」

 静かな声に目を開けると、あれほど大量に浮かんでいた腕は、影も形もなくなっていた。退治屋の一人が身なりを整え、もう一人が少女を縛っていた縄をほどく。最後の一人、手の甲に刺青の入った男が振り返って、黒江に近付いた。

 それまで固唾を呑んで見守っていた愛が飛び出し、椅子から下ろされた娘の体を抱く。口元に掌を当てて呼吸を確認した後、深く安堵の息をついた。

「小田原さん、ゆなは……」

 黒江は不安そうに問う。乱れた白髪混じりの髪を撫でつけながら、小田原と呼ばれた退治屋は鷹揚に頷いた。彼のスーツの襟元では、羽を広げる鳳凰を模った徽章が光っている。鳳コーポレーションの社員章だろう。

「大事ありません。そこのお嬢さんに心配されるまでも、ありませんでしたよ」

 明がむっとしたように眉をつり上げた。向こうは答えなかっただけで、聞こえてはいたようだ。答えられなかったのかも知れないが、何にせよ嫌味たらしい。

「今回は上手く行ったかも知れないけど、このまま同じ方法で続けていたら、どうなるか分かりませんよ」

 肩を怒らせて反論した明を、小田原は鼻で笑った。仕草が逐一、明の癇に障るようだった。

「結果が全てですよ……黒江さん、依頼料の件ですが」

 明は暫くの間、黒江と向き合って電卓を叩く小田原を睨み付けていたが、やがて藤堂へ向き直った。頬が紅潮し、これ以上ないほど眉がつり上がっている。

 相当怒っている。客の目の前で電卓を叩く小田原の遠慮のなさにも、藤堂はうんざりする。彼の行動が頭にきても、明にかけてやる言葉は見付からない。

 なんと言って宥めればいいのか、口下手な藤堂には思い付かないのだ。目で訴えられても上手い言葉は掛けられないし、小田原に言い返す事も出来ない。

「藤堂さん、知恩院さん」

 力の抜けた娘の体を抱きしめたまま、愛が二人を呼ぶ。藤堂は明から視線を外し、体ごと愛を向いた。

「済みません、ご足労お掛けしまして……また何かあったら、お世話になります」

 愛は少し、疲れた顔をしていた。彼女に文句は言えない。彼女には何の落ち度もないし、結局期待に応えられなかったのはこちらだ。謝るべきは寧ろ、藤堂達の方だろう。

 明は藤堂の方を向いたまま、顔を隠すように俯いている。藤堂は困り果てて小さく頷き、頭を掻いた。

「何かあったら、連絡下さい。すいません、何も出来なくて……それじゃ、これで」

 複雑な表情を浮かべ、愛は深々と頭を下げた。それにつられたように頭を下げ、藤堂は踵を返す。彼が部屋から出ると、明は黙ってついて来た。

 そのまま二人は、家の外へ出た。複雑な心境だった。


「もう信じらんない!」

 黒江家から少し離れた所で、明が唐突に声を上げた。藤堂は肩を竦めて、少し後ろにいた明を振り返る。

「何よあの悪徳業者、あんなやり方じゃいつか被害者殺しちゃうよ! 最後だって、追い払っただけだもの!」

「……そうなの?」

 歩きながら聞き返すと、明は上目遣いに藤堂を見上げて小走りに近付き、横へ並んだ。藤堂は明の歩幅に合わせて、少し歩調を緩める。

「そうだよ。何のつもりよ、あれ……ちょっと大きい会社だからって、何よ威張っちゃって! あれ絶対、依頼料ぼったくるつもりだよ」

「いやそれは……」

 返答が全て愚痴になっている。今の明に説明を求めても無駄だろう。

 憤慨する明に、藤堂はほとほと困り果てて溜息を吐いた。怒る理由も分からなくはないが、こうも一人で憤られては、藤堂が困惑するだけだ。何も解決しない。

 そしてふと、思い立って明を見下ろす。

「追い払っただけなら、また憑かれるかも知れないって事?」

「可能性はあるよ」

「それが狙いなんじゃね?」

 目を丸くして藤堂を見上げ、明は忙しなく瞬きを繰り返した。そして徐々に、その表情を変えて行く。また怒らせてしまった。

「ひどすぎる!」

 明は更に憤慨して語気を荒げた。藤堂には最早、何を言う気も起きない。怒らせようと思ってした発言ではなかった。

 言ってから冷静になって考えてみれば確かに、火に油を注ぐだけの発言だったと思えるのだが。

「悪徳業者みたいなやり方した上に初歩的な除霊しか出来ないなんて、何が大手退治屋よ。これだから大きい企業って嫌い。白銀様見習って欲しいよ」

 発言が矛盾している。彼女が敬愛する白銀も、鳳の社員の筈だ。藤堂は口を挟むのも嫌になって、明から視線を逸らした。

「大体支店によって落差が激しすぎるよあそこ。人材を均一に振り分ければいいのに、人事もなってない」

 言いたい放題だ。これでは頭が冷えるまで、何を言っても無駄だろう。

 藤堂は宥める事も諦め、明が延々愚痴るのを黙って聞いていた。

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