第一章 指輪に憑いた想い 一
持ち込まれた時から、怪しいとは思っていたのだ。ショーケースに並べられたダイヤの指輪は、新品同様の輝きを放っている。同じ棚に陳列された商品が、すべて色褪せて見える程に。
質屋に売られてきたのだから、この指輪は中古に決まっている。元の持ち主がどれほど几帳面な人間であったのだとしても、これほどまで綺麗には保てないだろう。
何よりそんな几帳面な人間が、こんな胡散臭い質屋に売りに来るとは到底思えなかった。携帯一つで全て事足りる時代だから、わざわざ質屋まで足を運ぶ物好きも、なかなかお目にかかれない。
本来なら、傷一つないような状態で質に入れられる事など、そうそうない。昔はこういった貴金属類は庶民でも買えるものだったようだが、今は高級品とは買う意味のないもの、という風潮が高まっている。結婚指輪以外の、高価な装飾品は必要ないのだ。
だからこういった希少価値の高い貴金属類やブランド物を売買するのは、一部のコレクターに限られている。その物好きな蒐集家達も、飽きれば別の人間に売り払ってしまう。人々の手を渡り歩く内に、自然と物には傷がついて行く。
質屋に流れてくる商品は、そんな傷物ばかりだ。質屋が取り扱うような物を売る人間も、買う人間もいないから、どちらも貴重ではある。貴重ではあるが高価であるが故に、慎重にならざるを得ない。
疑ってはいたのに、何故あの時易々と受け取ってしまったのだろう。藤堂匡はカウンターからショーケースを眺めながら、ぼんやりと考える。
女好きのしそうな精悍な顔付きだが、瞼が眠たげに落ちている為か、どこか間が抜けて見える。無精髭と伸びかけで不揃いな長さの髪が、それを助長させていた。だらしなく頬杖をついた手元では、吸いさしの煙草が燻っている。
「ネットオークションにでも、出しちまおうかね……」
ぼやきながら藤堂は、カウンターの隅に置かれた灰皿に煙草をねじ込む。この時代、質屋は暇なのだ。全く儲からない。
とはいえこういった自営業を営む人間が、近年目に見えて減少傾向にある為、国からは助成金が出る。けれど、その稼業でもそれなりに稼がなければ、楽には暮らして行かれない。国から出る金のお陰で、ようやく食って行けている。家賃さえも、食費を切り詰めてやっと出しているような有様だ。
藤堂は指輪から視線を逸らし、欠伸を噛み殺した。この所、寝付きが悪い。普段なら布団に入れば三秒で寝付ける彼の不眠の理由は、恐らくあの指輪。
返せ。
そう言われているような気がする。気がするのだから、恐らく言われているのだろう。しかしどこに返せと言うのか。残念ながら藤堂には霊感がないので、幽霊の意図など分からない。
幽霊。数十年前までは、それが本当に存在するのかどうか、分からなかったという。けれど人類の殆どが霊感を持って生まれるようになった今となっては、世間的にも幽霊の存在が認められている。
幼い頃から霊感がない事で揶揄われてきた藤堂には、昔は限られた一部の人間しか霊感を持たなかったという事が、不思議に思える。しかし祖父などは霊の存在自体を不思議がっていたから、本当の事なのだろう。妙な時代になったものだと、祖父は幽霊退治屋の看板を見る度に呟いていた。
見えない藤堂からしてみれば、時代よりも、見える人間の方が不思議に思える。見えない事で時代遅れだなどと言われるのにも、正直なところ、辟易していた。
最近では、儲かるのは幽霊関係の商売ばかりだ。霊の言葉を聞き、生者に伝える霊媒師や、生前最後の望みを叶える拝み屋など、多種多様の職業が存在する。その中でも、悪霊を退治する退治屋は、相当儲かるのだという。
悪霊といえば、生者に害をなすもの。退治屋が儲かるのは、危険な職業であるが故だろう。
危険ではあるものの、幽霊関係の職業は、今や万人の憧れの的であると言っても過言ではない。だから国が救済措置として、それ以外の自営業を営む会社へ、助成金を出すようになった。退治屋や除霊屋を目指す人間が、近年圧倒的に増え始めたからであるという。国民の血税で賄われる雀の涙ほどの助成金など、何の役にも立たないのだが。
幽霊の存在やその影響が認められた今では、警察にまで幽霊討伐部が置かれている。しかし実際動いているのは、退治屋と呼ばれる悪霊専門の業者だ。嫌な時代に生まれてしまったものだと、藤堂は己の稼ぎを見る度にそう思う。
「ああ、うるせえな畜生」
寝不足のせいか指輪に憑いた霊の仕業か、止まない耳鳴りを払うように、藤堂は頭を振りながら吐き捨てる。煙草を銜えながら苛立たしげに立ち上がり、横目でショーケースをちらりと見た。いっそ盗られてしまえばいいのにと、そう思う。
銜え煙草に火を点けながら店を出て、藤堂はふと、我が家を見上げた。三階建てのビルの一階が彼の店兼自宅で、二階と三階を使用している会社は皆、幽霊関係の仕事をしている。
藤堂が借りている一階は、元々は大家が自宅として使っていた。しかし数年前、息子夫婦と同居するに当たって一階も貸し出す事となり、後から店舗スペースを作ったそうだ。だから店舗自体は綺麗なものだが、奥の居住スペースはかなりガタがきている。それでも、家があるだけましだ。
質屋という廃れた業種であるにも関わらず、一階の一番広いスペースを独占させてもらえているのは、大家が古いタイプの人間であるからに他ならない。幽霊なんて見えないし、見えないものは信じないというのが持論であるそうだが、今時それもないだろうと藤堂は思う。
思うが、間借りさせてもらっている恩があるので、言った事はない。何より藤堂自身も、そういった古いタイプの人間だ。見えないものは見えないで、仕方がないと思っている。頑固な祖父のように、幽霊を信じていない訳ではないが。
店を出たはいいが、特に行く当てはない。夕飯でも食べに行こうかと繁華街の方へ足を向けた時、路地の方から高らかな足音が聞こえた。濃い眉を怪訝に顰め、藤堂はそちらを見る。まだ人影は現れない。
「いでっ!」
何かがぶつかったような鈍い衝撃に、藤堂は思わず声を上げた。続いて体の右側から左側へ、冷たい感触が通り過ぎる。自分にぶつかったものさえ見えなかったが、見えないという事は幽霊なのだろう。よろけながら、藤堂は迷惑そうに顔をしかめた。
後ろからは更に、足音が近付いてくる。アスファルトを叩く硬い音は、女物の靴が立てるそれだ。
「伏せろ!」
ハスキーな女の声が響き渡った刹那、藤堂の頭に再び痛みが走った。今度は耳鳴りではない。
ぐう、だかぐえ、だかと奇妙な声を漏らしながら、藤堂はつんのめって情けなくその場に膝をつく。火の点いた煙草がアスファルトに落ちたので、慌てて摘んで揉み消した。迷惑そうに顔をしかめて頭上を見た彼の視界に入ったのは、黒いパンプスのヒール。
藤堂の目には、全てがスローに見えた。視界を通り過ぎる長い足。黒いパンツスーツを纏ったしなやかな体躯。目前で翻る、銀色の長い髪。しゃがみ込んだ藤堂の頭上を通り過ぎた人物は、進行方向へ素早く足を突き出した。
何かが破裂したような音が、藤堂の耳に届いた。軽やかな身のこなしで着地した女が何か蹴ったのだろうと推測したが、藤堂には何も見えなかった。自分に見えないものを蹴ったという事は退治屋だろうかと、些か混乱した頭でそう考える。
通常、幽体に直接的なダメージを与える事は出来ない。だから拝み屋は幽霊の未練を断ち切ることで彼らを成仏させるのだが、退治屋は文字通り、幽霊を『退治』する。
彼らは特殊な道具や呪文を使って、幽体に物理的ダメージを与えられるようにすると聞く。それ以外の詳しい事など、藤堂は知らない。見えない上に質屋を営む彼には、別次元の話なのだ。何より幽霊に迷惑をかけられた事がないし、霊感がないから退治屋を志したことも、興味もない。
「済まない。踏み台にしてしまった」
頭上から掛けられた声に我に返った藤堂の目前へ、白い手袋を嵌めた手が差し出されている。声がした方へ視線を向けると、申し訳なさそうに眉尻を下げた女が手を差し伸べていた。藤堂はその顔を見て、思わず息を呑む。
「大丈夫か?」
形の良い唇が動くのを、藤堂は呆然と見上げていた。
白い細面に、瞳の色の薄い切れ長の目。すっと通った鼻筋。むらなく色を抜かれた銀髪は、途中で蟠る事もなく真っ直ぐに腰まで伸ばされている。髪色の自由が認められた今ではそう珍しい色ではないが、ここまで傷む事なく保たれている事は稀だ。
目元涼やかな凛々しい美人だったが、藤堂の目はそれよりも、スーツ越しにも目立って見える豊満な胸の方に行った。形も良さそうだと考えながら、藤堂は思わず生唾を飲む。飲み込んで喉が鳴った所で、慌てて差し出された手を取った。
「まあ……あんた何だ、退治屋か」
藤堂は手を引かれて立ち上がってから、ジーンズの膝を叩いて汚れを落としながら聞いた。頷いた女の身長は彼と殆ど変わらなかったが、腰の位置は大分違う。日本人ではないのだろうかと、自分の足が短い事を認めたくない藤堂はそう考える。
「ああ……怪我はないか? あれとぶつかっただろう」
「アレって言われても、俺分かんねんだけど」
女は一瞬怪訝に片眉を寄せたが、すぐに得心が行ったようで、ああ、と呟いた。
「あなたは見えないのか、珍しいな」
明るい茶色の目が、藤堂の背後を見た。切れ長の双眸はすっと細められた後、すぐに戻って藤堂の目を真っ直ぐに見つめる。端整な顔と見詰め合っていると、なんとなく気恥ずかしいような気持ちになって、藤堂は視線を逸らした。
こんな美人と会話するなど、滅多にない事だ。そもそも客以外の女とは、最近はめっきり関わり合わない。無駄に使えるような金がないので、恋人を作ろうとも思わない。それでも煙草と酒だけは、やめられないのだが。
「水子が大勢憑いているな」
藤堂は思わず目を丸くした。
「は?」
問い返すと、女は指先を顎に当てて首を捻る。よくよく見てみれば彼女が両手に嵌めた白い手袋には、細かな文字で呪文のようなものが書き連ねられていた。
「いや、子供か。なに、悪意はなさそうだ。危害を加える事はないさ。それに、子供に好かれるのはいい事……」
その先は途切れた。水子に憑かれるような覚えなど、藤堂にはない。そこまで女にだらしないつもりはない。困惑する藤堂を尻目に、女は背筋を伸ばして、藤堂の肩越しに何かを見ていた。
「シロガネ」
怪訝に思った藤堂が振り返る前に、男の声が聞こえた。女の肩越しに見た先にいたのは、きっちりとスーツを着込んだ初老の男性。ゆっくりとした歩みで近付いて来る男の顔立ちは優しげに見えたが、藤堂は何故だか威圧感を覚えた。
「終わったかね?」
男の柔らかな声が、藤堂を通り越して女に掛けられる。白銀と呼ばれた女は一歩下がって藤堂から離れると、深々と頭を下げた。
「はい」
「そうか。……その方は?」
唐突に振られ、藤堂は意味もなく姿勢を正した。どことなく居心地が悪いのは男が発する威圧感のせいか、赤の他人に挟まれているというこの状況のせいか。
「その……逃げた霊と、接触してしまって」
男の眉が顰められた。その険しい表情に、藤堂は何かしでかしてしまったのだろうかと不安を覚えるが、白銀は動じない。性別も違う上、年齢も大分離れていそうな二人を見ながら、どういった関係なのだろうかと、藤堂は疑問に思う。
「怪我は?」
「ないようです」
「ならいい」
白銀が答えると、男は大仰に頷いてから、藤堂に向かって頭を下げた。白髪混じりの頭を見下ろしながら、藤堂は困惑して首の後ろを掻く。どう言葉を発していいものやら迷っている内に、男の方が口を開いた。
「ご迷惑をお掛け致しました」
言いながら顔を上げ、男は懐から名刺を取り出して藤堂に差し出した。一分の隙もない、流れるような動作だ。それがまた、藤堂に緊張感を抱かせる。
反射的に受け取ったものの、藤堂は名刺など持ち合わせていない。携帯さえあれば全て事足りるこの情報化社会において、名刺を持ち歩いている方が稀だ。
「お困りの事があれば、是非当社に。お詫びとして、無料で承りましょう」
「……はあ」
儲かってますね、と口を突いて嫌味が出そうになったが、流石に堪えた。態度や物言いから察するに、彼らは退治屋の上司と部下という関係なのだろう。
気の抜けた声で藤堂が返すと、男はもう一度慇懃に頭を下げ、白銀へ目配せした。それだけで意図を酌んだのか、彼女は頷いてから、元来た方へ歩き出す。
白銀はすれ違いざま、藤堂に軽く会釈をした。さらりと流れた髪からふわりと漂った芳香につられ、藤堂は思わず目で彼女の背を追う。毅然とした長身の女は、一度も振り返らずに去って行った。