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田中有栖は嘘を吐かない  作者: 宇佐見レー
3/3

正気と狂気の境

章書き終わりました!!

 二十分弱ほど前に通った廊下のトイレから出てきた老人が、今し方外に出た彼の背後にいた。

 異様な挙動に気付けたのは田中有栖の、これまでの人生とブーストされた能力のおかげだろう。

「そこにいる老人が敵だ!!」

 叫ぶ声に振り返る黒佐藤を確認し、彼女もM60をスーツの内側に隠れた銃嚢から引き抜き、構えた。

 同時に、彼女は気づく……あそこにいる老人に化けた何者かは『傾国の旅団』である事を、白い電灯に照らされた中でも微かに淡く光る瞳は、識別するのに十分だ。

 そいつは仕込み刀だった杖を抜刀すると、最も近くにいた黒佐藤へ刃を向けた。

「あぁそんな――――」

 また奴らに罪の無い者の命を奪わせるのか? いいや、そんな事はさせない。

 漏れた弱音を掻き消す心の彼女が自問自答を繰り返し、やがて「行動は全ての基本だ」と囁き始めた。

 黒佐藤が、視界から消えた。階段下に行ったのだろう……時間はあまりない。

 受付、待合室の老人達、と視線を動かし、他に怪しい動きをする者はいない、そして不幸中の幸いだ。あの老人に化けた何者かは銃を構えようともしなかった。

 要するに武器はあの刀のみ――――

 銃を持ったまま周囲を見渡し、田中有栖はほっとした。傍にいた少女を倒した待合室のソファの陰に伏せさせ、

「アリア君、頭を上げずそのまま。避難誘導されたらそれに従って、少しの間待ってて」

「ど、どこに行くの……?」

 銃を急に取り出した事に、周囲もそうだが、黒佐藤が襲われるところを高村凛は直接見ている。その恐怖は尋常ではない。

 有栖は、肩を震わす少女の頬を撫で、その恐怖を緩和しようと微笑んだ。

「大丈夫。恭介おじさんもいるし、なんたってここにシャーロック・ホームズがいるから安心して。絶対に帰ってくるよ」

 ほぼ初対面の人間を信用することなど、そうできないだろうが、少女の事を知ってる人間がいる。

 恐怖震える肩を抱き、有栖は立ち上がった。

「警察を呼んで早く避難してください!!」

 突然の異常事態に固まってる者達へそう声をかけ、医療スタッフによる避難誘導がようやく始まった。その怒号を背に、彼女はガラス張りの自動ドアが開く時間すら惜しそうに両手でこじ開けるように通り抜けた。

 すぐに彼女の目に彼ら二人が映る。

 階段下で銃を構えた黒佐藤と、その数メートル先で仕込み刀を構える敵を。

……同時に彼女は無事であるかを問いかけた。

「恭介くんっ大丈夫か!?」

 ハッとした様子で振り返った彼は、彼女の行動を責めるように言う。

「まだ終わってない!!」

「……運がよかったな警備員」

 有栖を確認した老人は、紅色を強めていた瞳を静かに収まらせ、何かをぼそっと呟くとそのまま軽自動車へと乗り込み、走り去っていく。

 黒佐藤は静かに拳銃を構え、集中している。

 握られた拳銃は左右へ揺れる軽自動車を追うように動き――――不意に、有栖の記憶にこの光景が呼応した。

 どこかで見た事のある光景は、有栖の中ですぐに思い当たる。

――十年前彼女を守って死んだ、一人の警察官。

 横顔、勇ましい後ろ姿が――――違いはあれど、田中有栖の、初恋相手に良く似ていたのだ。


 三日後、梅雨が戻ってきたような雨模様が遠くの空を覆っていた。

 多少の空が見えるだけで、そのうち此方も雨が降りそうな、そんな天気だ。

 窓の外に目を向ければ車庫に作られたツバメの巣から親鳥が飛び立っていく。

「何をそんなにイラついてるんだ?」

 事務所の主が、主の席であるデスクに座る有栖へと尋ねる。

 朝、目を覚まし朝食、支度を終えてから、雇い主――田中有栖はその椅子に座ったまま目を瞑り、腕を組み右手の人差し指で自身の二の腕を叩いていた。

 焦りは感じられない、だがイラついているのが目に見えてわかった。

 それに、この状態が続いて三日目、言える立場ではないがどうにか機嫌を直してほしい。

「凛ちゃんだって気にしてたぞ」

「……」

 保護した少女の名を口にするものの、彼女は黙ったまま、思考を続ける。

 黒佐藤恭介は、溜息を深く吐くと、これまでの自身の行動を顧みた――――この三日間、思いつくものと言えば、丁度三日前だ。

 何者かに襲撃された際、合図も無しに彼女が出てきた事を口調強く責めた事。

 まあその理由を問いただしても、結局彼女は答えず、だんまりだった。もしあれが原因ならまず理由を聞かないといけない、と彼は思う。

その前に、彼女は――優秀だ。彼は溜息を吐くと客人用のソファから立ち上がる。

 高村刑事の娘、凛ちゃんと打ち解けたのも、彼女の尋常ではない洞察力によるもの。

 話を聞けば凛ちゃんは自作小説を書いてるらしい、それも自分が好きな探偵モノ、病院内の中庭で、有栖は凛ちゃんが持つバックの中にそのノートを見つけ、見事に打ち解けた。

 しかも、襲撃者の影――――トイレから出て来た足腰の悪そうな老人を装った襲撃者の、よろめきながらも即座に壁に手をついた反射速度を見抜いた上での行動、だと有栖は言っていた。

 優秀だ、同じ人間とは思えないほどに。黒佐藤は自身の元居住スペースへ歩いていき、棚からコップと冷蔵庫から麦茶を取り出して。

「入るよ」

 ノックを二回だけ、少女の声が聞こえる。

「はい」

 既に麦茶が注がれたコップと、横着してそのままキンキンに冷えた麦茶をテーブルに置き、凛の隣に座った。

 いつもはゴミがたんまりと積み重なった丸テーブルは、塵一つない。

 電灯の光がそこに座る少女の胸元にある大切そうに身につけられたロケットペンダントの翡翠をキラリと光らせた。

「麦茶持ってきたよ……ってすごいね朝から勉強なんて」

 今時、彼の時代もそうだったが、朝からテレビも見ずに、スマホも手にせず、紙媒体のノートへペンを走らせる姿に、黒佐藤は感嘆とした少し腑抜けた声を出す。

 凛は彼の様子に、恥ずかしそうに頬を染め、ノートを両腕で覆い、言いにくそうに否定した。

「えと……違うんです。小説を書いてて……」

 さっき考えていた事だ。自慢ではないが、黒佐藤も子供の頃によく絵を描いており、父に漫画家かイラストレーターになるのもいい、警察官だけが全てじゃない、と言われた事があった。

 彼にとってももうそれも、遠い、情景であるが。

「創造っていうのはいいもんだ。俺も子供の頃に絵を描いてた事があったから」

「そう……なんですか?」

「父さんは警察官が、会社員が全てじゃない、なんて言ってくれて。まあ結局似たような職業に就いて絵なんか暫く描いてないけど」

「恭介おじさんのお父さんって」

「高村さん……凛ちゃんのお父さんの元上司だよ」

 当時はよく一緒に仕事をしてたって聞いたよ、と続ける。

 母や高村さんから聞けば、署内では規則に堅実な高村、規則に緩い黒佐藤、と凸凹コンビだったと彼は聞いている。

 高村さんは言わずもがな、どうやら父は一度の違反は見逃すなど、仏、などとも呼ばれていたとか。

 凛は隠していた自作小説から腕を退け、悲しそうに俯いた。

「えと……実は作家になりたいんです」

 ちらと見れば、ノートにはびっちりと文字が書かれ、丁度最後のページに差し掛かっていたところだ。

 あまり見つめるのも悪い、彼は視線をノートから少女へと戻し、妹を溺愛する兄の様に答えた。

「いいじゃないか!俺は応援しよう、どれだけ突飛で叶うものでも叶わないものでも夢を持つ事はいいことだ。夢は人を昇華させる、それに見合うようにね。それに自分の物語を、自分だけの物語を作るのはどんなことよりも気持ちいい」

 けれど、彼女がそんな顔をするのは、少しおかしい話だ。夢は笑顔で語る物、笑顔がなくなった時点でそれは夢ではない、彼はそう教えられた。

「夢なんだろう?夢は笑顔で語らなきゃ」

「父に、反対、されてるん、です」

……高村さん、か。あの人ならさもありなん、だ。心の内で静かに溜息を吐く。

 黒佐藤は凛の事も、高村警部の事も知っているが、高村警部の過去に何があったのか、あまり夢というものを好んでいなかった。

 彼自身上司の子供というだけで、何度も助けられた事はあっても、流石に夢の否定はしなかったが、それが自分の子供となれば現実を突きつけるのも当たり前だろう。

 高村警部は、現実的だからこそ、一課の中心人物となれた人間だ。

「分かった、俺から高村さ……お父さんに言っておくよ。多分少しは聞いてくれるはず」

「ほ、本当ですか……? ありがとうございますっ」

 梅雨が戻ったような天気に似た物憂げな表情を、満面の笑みに変え浮かべた少女に、仕事中である事を忘れかける黒佐藤だったが、立ち上がり、頭を掻く。

 無邪気である事は、子供の特権、これもまた彼の父の言葉で、これが仕事じゃ無ければいいのに、とすら思う。

 何故なら目前の少女は、命を狙われているからだ。

「ん?」

 事務所への扉を開けようとした時だ。

 酷く不機嫌そうだった探偵が、誰かと喋っている……恐らく、電話だろう。

「……早い、約……う……私が直接……」

「仕事か……?」

 重厚な鉄扉を通して聞こえる声も言葉も不明瞭で、その内容までは精確に聞こえなかったが、誰かが有栖との約束を違えたような感じだ。

 あの探偵との約束を破るとは中々……彼氏か? 

 口調も、彼の椅子に座っていた今朝の不機嫌さというよりも、明確に怒っているのがわかる。

 触らぬ神に祟りなし、とはよく言ったものだ。と何を言われるか分からない中に、黒佐藤でも突っこんでいく訳にいかない。

 少しの間様子を見つつ、声が聞こえなくなったタイミングで鉄扉を半分ほど開け、問いかける。

「電話は終わったか?」

 少しの間をあけ、

「……盗み聞きとは言い趣味だね。カップルが入るようなホテルに盗聴器を仕掛ければもっと良いものが聞けると思う」

「気を利かして、わざわざ入らなかったんだが」

 十中八九、今し方していた電話の主に対し、怒りを表しているのだろう、彼の机に両肘をつき、両手の指を絡め、橋を架けるとそこに顎を乗せ、小さく溜息を吐いて「ありがとう」と言った。

「それで、朝からそんなにイライラしてるのは今の――約束云々の話か?」

 インスタントの珈琲を淹れてやろうと熱々のブラックに砂糖を異常に入れ、カップを差し出す。

 断片的に、というよりもその部分しか聞けていなかった黒佐藤の言葉に、一瞬、ほんの一瞬だけ眉間に皺を寄せ、眼光鋭くなった有栖だが、それも見間違いほどの一瞬だけ、実態のない幽霊のような雰囲気を再び纏い、彼女は言った。

「やっぱり盗み聞きかい?」

「俺は追うのも追われるのもゴメンだな」

 彼は来客用のソファにどか、と座り否定した。

「それが一番だよ。話を戻すけど、ワトソン君当たりだ」

 黒佐藤の反応は薄いものだが、どうやら彼女にとってカップ片手に静寂を破るほど大きな溜息を吐くのに、価値があるらしかった。

「恋人か?」

「恋人と言ったら妬く?」

「出会って間もない女性に誰が妬くか」

「そりゃそうだ」

 まあ、二年前に一度会ってるが、と黒佐藤は心で呟く。

「お客さんが来た」

 彼が気づくよりも前に有栖がそう言い、その後階段を上がる足音が一つ、、黒佐藤の耳にも届く。話題は逸れ、

「誰だ?」

「敵だったりしてね」

 不敵に笑いながらのその言葉は、即座に黒佐藤の思考の中で否定される。

 防火性のカーテンで塞がれた防弾ガラスの外、眼下を見れば制服姿の警察官が数人見えるからだ。

 やりとりの数秒後、内と外を隔てる鉄扉が慎ましく叩かれ、黒佐藤が開けた。

「あ、すみません」

 雨に少し濡れながら眼鏡をかけた黒スーツ姿の私服警官が、そこに立っていた。両手一杯にコンビニの袋を手にして。


「いやあ、シュークリームが売ってなかったのでエクレアなんですが」

 申し訳ない、と七三分けの濡れた髪を崩したくないらしく、貸したタオルでちょんちょんと拭きながら言う彼は、高村警部と同じ捜査一課とは思えないほどに気弱に見える。

 黒佐藤と三つも四つも違うが、彼の方が明らかに年上だ。と、そんな事よりも現職の警察官をコンビニへパシらせるという暴挙に出た有栖に、言葉が出なかった。

 その上、謝罪させるのだからもう……探偵を過ぎてる……

「あんた本当に何者だ……?」

「はむはむ?」

「……」

「あ、防水加工の手帳も買ってきました」

「あ、あいあふぉ」

「……」

――――そのやり取りに、また言葉を失ってしまうが、すっかりと不機嫌さが無くなり小首をかしげ、ハムスターのようにエクレアを頬張り、手帳を友達感覚で片手で受け取る有栖に聞く気が失せ、来客用のソファに座る後輩警官に向き直る。

「本題ですが今日は高村警部からの代わりに来まして、ここ三日間、ご協力ありがとうございます」

「いえいえ、私としても久しぶりに凛ちゃんとお話できましたから、お礼は全然、と」

 タオルを手に、座ったまま恭しくお辞儀をする後輩警官。

――――数日前に凛ちゃんを襲おうとあの老人に変装した何者か。

 すぐさま警察、高村警部へと連絡をし、そのまま署内での保護となっていたが、準備が出来ておらず、数日間だけ警官の護衛付きでの彼、武装警備員である黒佐藤の事務所での保護となった。

 その間、凛ちゃんも会った事のある後輩警官だけが、事務所内に入る事が許可され、日用雑貨なども買いにいってくれた。随分と好待遇な事に多少の違和感を感じ、初日に尋ねた時は教えてくれなかったが……

「初日に聞かれました理由を、お話しようと思います。もしかしたら田中有栖氏の力を借りる事になるかもしれません」

 なるほど、と黒佐藤は頷く。他言できない理由だったが、彼女の力を借りなければいけないほど切羽詰まってるらしい、それを黒佐藤にまで聞かせる理由は分からなかったが。

 そう言った後輩警官の顔は、明らかに曇っているが、有栖は変わらずエクレアを頬張って話を進めるような気はなさそうだ。

 しょうがない、代わりに、と溜息交じりに黒佐藤が進める。

「……それで、理由をお聞かせください」

「これは、この三日間で公安の管轄になったんですが、どうやら襲撃者と共謀した内部の人間がいるらしく……」

 密告者がいる。情報を流す裏切り者が。だが、

「なぜそうだと?」

 問題は、裏切り者がいると判明した経緯だ。この件と関係があるのかどうか。

「先輩……高村さんの娘さんの所在は警察内部でしか知られてません。重要性の高い仕事を割り振られる事も多く、もし娘さんを誘拐された場合の事を考えて……」

「病院は普通に一緒に来てるような様子だったが」

 と思い出す病院スタッフの反応。

 高村警部を知っているような様子なのを彼は覚えてる。

「その辺りも注意はされてたみたいですが、我が子ですから病院くらいは送迎をしていたようでして」

 後輩警官は先程のお辞儀よりも深く、深く頭を下げ、エクレアをただただ食い続けていた有栖へ懇願するように言った。

「どうか、高村警部を……先輩を、助けては頂けないでしょうか」

 黒佐藤はちらと有栖へ視線を向け、様子を窺う。

 口内のエクレアがまだ残っているのだろう、もぐもぐという擬音がぴったりな状態だ。

――数秒後、名探偵という肩書に疑問を抱かせかねない様子のまま、彼女は今朝みたいに大層機嫌良く言った。

「お任せください」

 ただ、ここ数日一緒にいる黒佐藤ですら見た事の無い、満面の笑顔は背筋にひやりとしたものが伝い、不気味としか感じれなかった。


「ご協力ありがとうございました」

 開けられた鉄扉、大きな傘を片手に少女の斜め後ろに立った警官が、きっちりと九十度で頭を下げる。

 わざわざ言われなくとも、黒佐藤は分かっていた。

 理由を話してくれた事から、何かしらの進展があった事は――――少女の、高村凛の保護環境が整ったのだ。

「また遊びにきますっ」

 同時に、凛ちゃんも頭を下げるとにこ、と無邪気に笑い、おさげが揺れる。おしとやかな雰囲気の中に気丈さが垣間見えた彼女に、黒佐藤は応援する人間がいる事を伝えておく。

「頑張ってね。お父さんの方にはきちんと言っておくから」

 漫画家にしても作家にしても、応援をする者がいてこそだ。

 黒佐藤の後ろへ手を振る笑顔の少女に釣られ、振り向くと有栖が手を振っていた。いいところを取られた気分だ――二人は姉妹というには容姿が違い過ぎるが、趣味嗜好は随分と似ていた、と彼は思う。

……やがて重々しい音を立てながら閉まっていく。

 街の喧騒に混じって雨がしとしと、ぴちゃん、肌に纏わりつく湿気さえなければ優しい音に耳を澄ましたくなる。

 鉄扉が閉まり、室外機が働き詰めのくぐもった音が事務所に響く。

 窓の外へ目をやれば、赤色灯の点いたパトカーが二台ほど停車している。

 階段を下がる音も、徐々に遠くなり始めた。

「さて名探偵?ここからが本題か?」

 彼は、安いが自分の椅子に座り、ふんぞり返る依頼主へ声をかける。

 この三日間、彼女もここから動けず、随分もどかしい思いをしていた筈だ……が、彼女の口調は穏やかで、少しの焦りも感じられない口調だった。

「私は名探偵ではないけれども、私は自身の目的を理解してるからね。じゃあ出発しようか――――?」

 立ち上がりかけた有栖が、何かに気づいた。

 言い終わった言葉に疑問が付き、背後にある窓外へ視線を向けている。

「どうした?」

 それ以上彼女の口は動かず、じっと外を見ているだけ、黒佐藤も気になり赤色灯が回っている眼下のパトカーを見た。

「敵かッ!?」

 濡れた窓ガラスに付着する滝のような水滴群の先に、朧げながら制服姿の警察官が誰かを囲んでいるようだった。

 その手前には数分前に降りて行った後輩警官が持つ黒い傘のような影が見え――彼がそう叫ぶよりも先に、椅子を乱雑に押しのけ鉄扉へと駆けていく有栖の後ろ姿が見えた。

 どこかその姿に少しの違和感を覚える黒佐藤であったが……敵だと言うのであれば、依頼主である有栖は当然ながら、狙われている非力な少女も助けなければ。

 ソファの背もたれへ足をかけ、一息に飛び、室内をショートカットしそのまま閉じかけた鉄扉へ体当たりの要領で階段へ飛び出る。

「ッ」

 鈍い音が左肩から鳴るが、折れたわけではない。

 先程なんかよりも明らかに強まった雨足に、階段を駆け下がる有栖の背中が再び見えた。

 階段からはまるで太鼓を叩くような腹に響く音が鳴り、けれど気にしている暇など無い。

「大丈夫ですか!?」

 拳銃嚢から拳銃を引き抜き、やっと足を止めた有栖の前に弾避けの為に立ち、警察官へ問いかけた。

 あの病院での襲撃者か、警察官が取り囲む中心に、目を凝らす。

 動きも俊敏で、今度は銃を携帯している可能性もあり……だが助けを求める、聞き覚えのある勝気そうな女性の声に、彼は目を点にする他なかった。

「ちょっと待ってくれっ、ここの事務所にいる男に聞けばわかるって!!」

「近づくなと言ってるだろうが!」

 拳銃をしまい、身を挺して凛を守る後輩警官の横を通り、複数の警察官達の元へ歩き続ける。

「こいつ銃を持ってるぞ!」

「許可証は持ってる、って痛い痛い!」

 半ば抑え込まれつつあるそれほど長くない茶髪がかった髪を、後ろに一つ纏めている女性を見て、彼は声をかける。

「何してるんだ……命?」


「あぁ……びしょびしょだ……」

 濡れた体が肌に張り付く嫌な感じに忌々し気に眉を顰め、黒佐藤の事務所の前でひと悶着を起こしていた女性、城嶺命が呟いた。

 ブラジャーの紐が殆ど見えているというなんとも自身の姿に関心の無い、白いタンクトップにジーンズの彼女。

 巨乳というのに相応しい丘を二つ持つ命は、事務所に入ると同時に脱ごうとし……

「おい!風呂場に行ってくれ!!」

 鍛え抜かれた腹筋を見せたところで黒佐藤にそう言われる。が 

「え?いつもなら気にしないのに?」

「いつもなら……?」

 随分と面倒な言い回しをしてくれた……客人がいる前ではやめてほしいと彼はいつも思うし、語弊がある。

 そして、なぜ有栖は恨めしげに自分の胸部を触っているのか。

「命、お前が来るのは大体朝だろ?俺は寝てるんだよ……」

 寝たふりをしてるんじゃなかったの?と小悪魔的な微笑みを作り、分かり切った事を聞く命。

「まさか不健全なお付き合いをしてる?」

 朝、という単語に反応したのか、なぜかただでさえ鋭い目を更に鋭くさせた有栖は、不快感と若干頬を紅潮させるおかしな反応をしている。

 彼は大きく溜息を吐き、

「もうとっくに俺達は別れてるんだよ、今は――」

「そういうこと。今は友達みたいなもんだ」

 自分から言った言葉を、自分で否定するのか。相変わらず態度というか、人の事をおちょくってるのか、安定しない彼女に、また溜息が漏れた。

 お前なぁ、と声を荒げかけた彼に命は、その様子に満足そうに笑うと、素直に濡れた服を着替えに、風呂場へと歩いていってしまう。

「私は、他人にあまり不快感を示さないが、欲求をただただ発散させるだけの男に好感は抱けないね」

「誤解だ。断じてそんな関係じゃない」

 頭痛が痛い、そんなアホな事を言いたくなる……と額を押さえる黒佐藤。

「まあそんな冗談はともかく、だよ。彼女が噂の元彼女か」

 人の事を疑うような目さえなければ、彼にとって確かに冗談だったが、その目も、明らかに無い自身の胸部を触る手は、何も冗談にはなっていないが、とりあえずは無視することにした。

「そうだ。別れてからもなぜか色々手伝ってくれるんだ」

 ふぅ、と黒佐藤は疲れたように息を吐き、来客用のソファに腰かけた。

「いわゆる、元カノというのがそこまで尽くしてくれるなんて、憎いね」

「俺は断ってるんだ。もういい、って」

「なんでまた?」

「ただただ申し訳ないんだよ。俺が二年前からこんな状態で」

 今目の前にいる有栖が原因、ではなくともそれがきっかけではある。本来恨むべきなのはあの車列を襲った、有栖を襲った、傾国の旅団だ。彼はもちろん、城嶺命も、きっとそれは理解している筈だ、とも彼は有栖に伝える。

「それに本人が何を受けても根に持たない性格だから、普通に自己紹介して、普通に挨拶してくれ」

「……」

 そんな会話をしていると、着替え終わったらしい彼女が事務所に戻ってきた。

「えっとお客さん、でいいんだよな?」

 改めて彼の椅子に座る有栖へ向き直った彼女は、どこにあったのか少しぴちぴちのタンクトップに裾が少し長そうなジーンズを履き黒佐藤へ確かめるように問いかけた。

「いや、今は依頼主だな」

「へぇ!やっと武装警備員として仕事が来たのか!」

 当の本人よりも喜び、飛び跳ねそうな彼女は、ソファに座る黒佐藤の背凭れ部分に手を付いて身を乗り出した。

「本人の俺よりも喜ぶな」

「当たり前だ!恭介なら絶対成功するって思ってたから勧めたんだし!!」

 良ければ名前を教えてくれ、天真爛漫なんて言葉が似合う年齢ではないだろうが、その言葉が良く合う女性だ。

 有栖はその言葉に、テンションに、若干気圧され気味ではあったが、黒佐藤からも普通に挨拶をしろと言われている。

 僅かな戸惑いが、彼女の口を二度三度と開かせては閉じさせ、気まずい沈黙が流れ始めた。

 頭にはてなを浮かばせ、見つめてくる命に彼女の目が動揺で揺れる。

「彼女は、命も良く知ってる筈だ。二年前の、あの事件の時に護衛していた人物だ。名前は田中有栖、私立探偵との事だ」

 その時だ。にこやかに笑い、代わりに黒佐藤が答えてくれた。

――――二年前、その単語を聞いた瞬間、空気が変わる。

 刹那命の顔が、怒りに歪み始めた。

 眉間に皺をよせ、喜んでいた様子が一変、有栖の眼光とはまた違う、ただ殺意が宿る瞳を、まるで……いや、仇を睨んでいた。

「お前が……」

 地の底から響いてくる低い、低い声。

 既に別れた彼氏の境遇を、なぜここまで呪えるのだろう。それは黒佐藤の内心であった。

 間に入るように立った困惑気味の彼が後ろをちらと見れば、視線を下げ、俯く有栖の姿があった。

 たった数日、それでも傲慢だろう。だが彼女の様子は初めてで、似つかわしくないものに思えた。

「もう、いいんだ。俺は気にしてないからこの仕事を受けた、もちろん高い給料をもらう事になってる……命、お前は用があったからここに来たんだろ?」

 この二人を離した方がいい、彼はそう判断し、聞こうと思っていたここに来た理由を尋ねた。

 外での騒ぎは、たまたまタイミングが悪かっただけの筈だ。

 彼女に凛を襲う理由はない。

 命は、黒佐藤が庇った事があまり気にくわなかったようだが、本人の言葉だ。多少不機嫌そうだが。

「お弁当箱、取りに来た」

「あぁ水玉模様のだな、洗っていつもの食器棚に置いといた」

「……カップラーメンよりもちゃんとご飯食べて、薬も飲めよ」

「割と最近は食ってるよ……まぁ、できたらな」

 そう言って居住スペースの方へ歩いていく命。

 姿が見えなくなったのを確認し、できるだけ静かに、聞こえないように彼は有栖へ声をかけておく。

「気にするな。俺もちょっと驚いたが……この後、出るんだろ?準備だけしといてくれ」

 俯き綺麗で艶やかで、ブロンドの毛先が白くなりつつある髪をだらんと下げ、彼女から返答はないが、彼の言葉に頷いており声は届いている。

 命の様子に内心ハラハラで、涼しい室内に反して背中に少なくない汗を掻いているのが良く分かった。

 外の喧騒すら聞こえなくなりそうな気まずい静寂が、訪れる。

 だが、彼は一つだけミスを犯していた。

 ここから離れるのも、彼女らを離すのも、確かに良案であった。ならば何がミスなのか……城嶺命は、彼と同じ元自衛官の武装警備員として引き抜かれた優秀な隊員、そして数少ない狙撃手であった。

 その五感は研ぎ澄まされており、特に視覚聴覚は非常に優れている。

 彼女の前で、小声など意味を為さず――――だからこそ彼女は、社内での辞める前の彼の評価を良く知っていたのだろう。

「なに、どこかに行く予定が?あるんなら私も行かせてもらおうか」

 不機嫌そうな態度を、隠す素振りも見せず、聞いていたらしい命が彼らの方を見て言った。

 黒佐藤は自分の失態に気づき「これは自分の仕事だ」と断ろうと声を出したその時……

「あなたも優秀な隊員であると聞いています。今日一日だけですが、彼と同等の報酬を払いますので、護衛としてお願いいたします」

 それまでの感情を押し殺したのか、俯かせた顔を、その瞳を真っすぐに命へ向け、数日前に黒佐藤を納得させようと浮かべた勇ましい表情が作られた。

 彼はまるで目から鱗が落ちたような気がし、その先に続けようとした言葉が出なくなる。

 最初、断られると思っていた命も、彼女の申し出に驚き、憤懣の籠る目を見開いていた。

 有栖の真意は分からない。数秒の間を開け、たじろぎ気味だった命は動じていない有栖がまた気に食わないのか、威嚇の為か高圧的に大股で歩き、彼女が座る机の前に立つ。

 瞬間、命が両手を前に出した。

「命!!暴力は……ッ」

 命の肩を掴み、依頼人を守ろうとするが、彼女の次の行動はただ机に両手を叩きつけただけだった。

 細いがゴツゴツとした無骨な手指と、鉄製の机とがぶつかると、風船が割れたような音が響き、机にあったペンが数本床に落ちた。

 同時に、命は上半身を前に出し、日本人離れした有栖の鼻先ギリギリまで顔を近づけ、許すつもりの無い言葉を放った。

「私が守るのは『彼』だけだ。あんたと居たらどれだけ命があっても足りないのは痛感してる」


 車のエンジンが付くとカーラジオから台風の急接近を告げる放送が流れていた。

 日本列島から逸れていた台風の進路が、どうやら大きくズレたようだ。男性の声で明日には直撃するらしい。

 昼十一時すらまわっていない時間、真っ暗な空に激しく打ち付ける雨音に、納得がいく。

「あー……命に話していいのか?」

 気まずそうに黒佐藤がなぜか事務所にあった命の戦闘服に着替えた助手席の彼女を見て、後部座席に居る有栖に問いかける。事情を話すかどうかを。

「……なに?」

 心ここにあらず、思考や思索、思慮などではない。彼が知る彼女は、ぼーっと何を考えているのか分からない表情はしない、思惑は分からずとも何かをはっきりと見据えている筈だった。ルームミラー越しに見る彼の視線に気づかない訳が無い。

「ほらその薬品とかあんたの髪の事とかだ」

 探偵らしくずっと、もっと真剣だ。

「あ、あぁ問題ない。命さんにも関わりのある事のようだか、ら」

 シートベルトを閉めながら、横目で眼光鋭く睨む命、彼がそれに気づき諫める為か車両を走り出させた。

「その前に行き先だけ教えてくれ……」

 短い黒髪を押しのけ、頭を掻く彼に命は黒佐藤に肘打ちし、聞こえるように言う。

「庇う必要なんかないだろ」

「……静かにしててくれ」

 頭を傾け雨が降り続ける外を眺めていた有栖が、少し顔を俯かせ、その表情を隠した。

 車の揺れと一緒に揺れる彼女の金色の髪が、探偵の何もかもを覆う。

「……旧市街、有名だと思うけれど、ここから二時間ほどの場所に凛ちゃんを襲った犯人が行ったとの情報が入ったわ」


「時間も時間だ。ちょっとコンビニでなんか食おう。俺が行ってくるが……大丈夫だよな?」

 テレビを見ていなかったが、というより見る価値が無いが、備え付けのディスプレイを見ると時間だけが表示されており、それを見た彼が提案した。

 時刻は十二時と少しを過ぎたところ、左右対称のように窓外へ視線を向けていた二人に酷く心配そうだ。

「ん、チキン」

「私は……エクレア」

命の後に有栖が続ける。

「命、少しは落ち着け」

 ぶすっとした様子の彼女に、眉の皺を寄せ問うが……

「はぁ、落ち着いてるって」

 腕を組み外を見続ける彼女が、思春期の女子学生のような態度で答え……目線だけを命に向けたままだが、口調が強かったのを気にしてる風にも見て取れた。

 黒佐藤は呆れ、よりか気掛かりなのが見てわかった。そのままコンビニに併設されてる駐車場に入り、白枠に収まるよう停めるとすぐに車両から出て、小走りでコンビニへ向かう。

 車内には、より一層気まずい雰囲気が流れる。

 黒佐藤がいる事で、多少の緩衝材になれていたが、無くなったことで二人の肌に直にその空気が触れる。

 タタンと銃声のように車両の天井を叩き続ける雨と重なって、ずしりと重い空気、クーラーがついているのに嫌になる蒸し暑さに、命は苛立つ。

 外を見れば、朧げな輪郭をした他人が、何も無い田園風景の続く緩やかな上りのカーブを、傘だけを手に歩いていく。

 常に車の出入りがあり、分厚い雲に覆われ真っ暗な中を前照灯が照らし、ブレーキランプが眩しい。

 嫌な事というのは、どこまでも記憶にこびり付く。

 意外にこの空気を破ったのは、命であった。

「結局何が目的なんだ?」

 淡白な問いかけだ。怒りを抑えているのだろう。

 こちらに瞳すら、横顔すら見せないのが良い証拠である。

「……私は、無辜の人々が理不尽に死ぬ事を許せないだけです」

 そうだ、私は許せない。十年前に見たあの光景を、二度と起こさない為に。

 幼い少女を身を挺して守った一人の警察官……彼女の、記憶だ。

「それは」

 命の語気が強まる、数秒の間を開け、ルームミラー越しに有栖を睨んでいるのに気づく。

彼女の、切に願う言葉が、続いた。

「あいつじゃなきゃダメなのか」

「……」

 別にそんな訳はなかった。

 田中有栖にとって、利用できるものはし、その道中でその者達が倒れれば、彼女はその名前を心に刻み続け前進する。有栖が前に進むのには個人的な理由も大きく関与しているからだ。

 今回、様々な理由があり、警察組織からの援助が期待出来なくなった以上、信用ができ、且つ有栖を守り続けられる人物というのが必要なだけだった。

 日本でそれだけの人物は、有栖にとってゴマンも居るが、彼を――――黒佐藤恭介を選んだのは、他に理由はあれど、ただの罪滅ぼしだ。

 彼の部下を想い続ける心は過剰ではあるが、間違いなく上に立つべき者である。それを……潰したのは、間接的だが、自分だ。

 言い値でいいと言ったのも、それがあるから。

「あいつは真っすぐな正義を持ってる。あんたの仕事を受け入れたのも、ただの金だけじゃない筈だ」

「……どういうことです?」

「自分の部下を奪った奴らから、もう何も奪われたくないと思ってるんだよ。本人は、自分すら誤魔化してるかもしれないが」

 命はそういうと、仕草少なく何かを思い出しながら「小学校からそうだった」と郷愁を漂わせ、言葉に若干呆れが含まれる。

「……?」

 呟きの真意は分からない、が彼女も巻き込みたくて巻き込んでる訳では無い。

「今回の件は私から恭介く……黒佐藤さんの想いを利用しました、けれど」

 命がルームミラー越しの視線が有栖を更に鋭く睨むが、彼女は臆さない。慣れてるようだ。

「けれど、二年前、いや十年前から続くこの事件のラストにまで付き合って頂くつもりはありません。機を見て私だけ進むつもりです」

 十年前、という単語に思い当たる節が、彼女にもあるのだろう。

 一瞬眉を顰めたが、雨の中を走る一人の人影に、それ以上彼女達は何も話さなかった。

 開く運転席側のドア、気まずさの流れる雰囲気に変わりはなく、彼女達の交わした言葉には気づけない。

 黒佐藤はお茶を二本、炭酸水を手に、それぞれ頼まれていた物を二人に渡すのだった。


 元々の都市開発計画では、建造途中のまま止まった高層ビル群が並ぶ旧市街は、都内へは三十分、その他の関東圏に対し一時間以下での走行を目指し、網目状に高速道路を繋げ、物流や防衛上の流れを良くさせる目的があった。

 開発されていた当時誰もが知る都市になる、筈だった。

 その半分程がベッドタウンとなり、高層ビルも多くがタワーマンションとなる予定で製薬会社を筆頭に多くの企業が出資し、アパレルから工場までが並び、日本最大級の歓楽街と開発途中ですら呼ばれるほど。

 完成していれば、都と並ぶ都市だ。

 だが、結局その名を聞く事は二度となかった……十年前の事件だ。

 ここが放棄され、元々あった現在黒佐藤らが住む地方都市の更なる開発に切り替えられたのは、この旧市街に多額の出資を行っていたのが『身体こそ神体の会』であったからだった。

 元々、怪しげな薬を用いると彼らに良い噂はなく開発途中であったその都市も『宗教都市』と裏で呼ばれ、大手製薬会社の出資によっておひれがつき、拍車がかかった。

 最終的に『身体こそ神体の会』によるテロ行為によって開発は中断、現在は犯罪組織の温床となっている、らしい。

「この辺だな」

 雨が降っているからか、人のいない、当時の華やかさなど影も無い陰惨としたベッドタウン。

「……えぇ」

 いや、人はいる。

 この旧市街に、仕事も、娯楽施設もありはしないが、建てられたマンション、一戸建ては今も人が住み続けている。

 一部の電車も通ってるし、市営バスも運行はされているが、完成された場合での収益を大幅に下回っているだろう。

 夢を見てここに引っ越して来た者達、金がある者はここを去り、ない者はここに人生もろとも立ち往生だ。

 道路もあまり整備されておらず、自治体もあまり機能をしていない様子。

 法定速度内で走り続ける彼らの車両は、何かを探す様に走る。

 ぽつりぽつりと電灯が漏れる閑静すぎる住宅街を通り抜け、歓楽街となる予定だったビル群に景色が移り変わった。

 一日の終わりを告げる暗さに包まれる街路は、煌びやかだった筈の街路灯に照らされて、落ちる雨粒を可視化させた。

「――――この辺りの裏道に車両を停めて」

 外を注意深く見ていた有栖が、不意に黒佐藤へそう言った。

 彼は頷くと、近くの裏道へ車両へ停め、有栖へ問いかける。

「あったか?」

「私の情報通りだったよワトソ……黒佐藤さん」

 嬉しそうに、腹の立つ得意げな表情を浮かべかけたが、有栖の目線が彼から見て右へ一瞬揺れる――気にしているようだ。

「今更なんだが、有栖、勝手に踏み入ってもいいのか?」

 場の空気を穏やかなままにしようと、彼は問う。

 最もな意見だ。彼女が世界で活躍する探偵であろうとも、それはその国の法律内での話ではないのだろうか、と。

 確かにあの夜襲われたが、いわばこれは、強盗に近いものだ。言い知れぬ不安が、黒佐藤の心を疑問へと繋げた。

「理由はお話できませんが加盟国での法を外れた調査は、全てお咎め無しとなりますから、貴方は私を守る事だけを考えてください」

 なぜか他人行儀な笑顔を浮かべて、彼女は雨が降りしきる中を、さっさと躊躇いもなく降車していった。

 傘の無い雨の中は、思案顔を浮かべる彼女の衣服を濡らすのに十分過ぎた。


……台風の接近が間近に迫った不明瞭な視界の中で、台風がなくとも寂れた商店街を歩いていく。

 防弾ベストを着た三人、二人は周囲を見て、強風に叩きつけられる雨に表情一つ変えない一人は真っ直ぐ前方を見据え、下着が、ズボンが肌に張り付く嫌な感触すら気にも留めていない。

 後ろの二人にその様子は見えてないが、唐突に、前を歩く有栖が足を止めた。

「あった」

 吹き荒ぶ風が、聴覚を奪いつつあったが有栖の声は、黒佐藤の耳に届く。

 雨避けに左腕を掲げていた彼は、その先を見て、大きな深呼吸をする。命を捨てる覚悟だ。

 ここから先は死ぬ可能性があるから。

「車両のナンバーも同じですね」

「あぁ……同じだ」

 掲げていた腕を下げ、有栖の隣に立った彼は、頷いた。

 五階程のそれほど大きくないどこにでもある雑居ビルの、私有地であろう駐車場にそれはあった。

 見た目はどこにでもある軽自動車だ。小さい体躯通りの馬力の、坂道すらまともに走れない車両。

 だがそれは、あの夜、あの病院で、あの襲撃者が乗っていなければ。

 そしてその場で珍しい光景が広がっていた。襲撃者が乗っていた車両以外にも、その駐車場には複数の車両が停車している、まるで何かの集会を行っているように。

「なんでこんなに……?」

 二台以上の車両が同じ所に、目的を同じとするように停められている事自体が、旧市街に入ってから初めての光景。

「……不思議ですね」

 有栖の言葉はどこかニュアンスが違う気がするが、そう思っていたらしく、襲撃者の車両内を窓ガラス越しに張り付きながら中を窺っている。

 当然、手を掛けても軽自動車のドアが開く訳が無い。

 ジーっと後部座席にある白い布が被せられた荷物を見るが、それが何なのか確かめる術は無い。あっても多少荒事になってしまい、ここに来た目的を忘れる事になる。

 彼はカーテンが閉め切られたビルを仰ぎ見ていたが、視線を変える、その先は有栖だ。

 有栖の長い睫毛からぽたぽたと集約した雨粒が落ち、車両のフレームを辿り地面に落下していく。

 日本人離れした容姿の彼女は、雨に濡れて尚――美しい。と、言うより濡れ、怪しく艶やかで、紫陽花の可憐さを彷彿とさせた。

「なぁ」

 強さなど粉微塵もない、手折る事も簡単な、涙を流しいるようにすら見える有栖に、思わず声をかけようと彼は近づいた。何があったのかと。

「行きましょう。逮捕出来ればお手柄ですよ黒佐藤さん」

 きっと聞こえていた筈だ。だがそれを無視した上で、儚げさなどどこへ、呼び方も、態度も違う、他人行儀としか言えない彼女は張り付けた微笑みでそう言うと、着用している防弾ベストを軽く検めて、ビルへ入っていく。

「ほら行くぞ」

 唯一何かを知っていそうな命も、自前の拳銃のスライドを後退させ、弾丸を送り込み、貸し出した防弾ベストの胸部部分を気にしながら黒佐藤へそう告げた。

 訝しむ彼に、何も知らないフリをして。


 濡れた体に、ガラスを揺らす強風に打ち付ける雨と、誰もいない受付カウンターを前に三人は立つ。

 先頭はなぜか有栖であったが、カウンターを凝視、次にしゃがむと地面を注意深く見ている。

「受付はもう暫く使われていない。だけど地面にはまだ新しい泥がついてる……」

 他人に聞こえるか聞こえないか程度の声は、独り言だ。

 有栖の真横に立ち、同じ様にしゃがみ床を見る黒佐藤は、彼女へ分かりやすく注意する。

「あんまり先に前に出るなよ」

「もちろん分かってるとも……今更何をやってるんだ……?」

 前者の言葉は受け答えだが、後者は、分からない。今更……? 有栖の言葉がそれ以上続く事は無く、一つ、不信感が募る。

 けれど深く気にする暇はない、報酬をもらってる限り、自分は彼女の弾除けだから。

「さ、行きましょう」

 ひとしきり何かを考えた有栖は、立ち上がり人の気配の無い受付から、エレベーター前へと歩く……どうやら故障して動かないようで、彼女が上階へ上がる為のボタンを押すが反応はない。

「階段ならこっちだぞ」

 と拳銃を手に親指で指示したのは、命だ。

 切れそうなのか明滅を延々と行う非常階段の電灯、見れば床にある足跡はそちらに続いていた。

「では私が」

「いいや、あんたは俺と命の間だ。何かあれば俺が弾除けになる」

「おい恭介」

「命、お前には感謝してるが元々俺の仕事だ。大人しくしてくれ」

「……」

 ったく何が気に食わないのか……黒佐藤にすらわかり切ってる事だが、この場で先頭に立つのに相応しいのは、彼だ。

 愛銃を構えながら、目に悪い点滅の中、階段を一歩、また一歩と上がっていく。

 三人がここに来ている事はバレてはいないだろう。あの襲撃者がどうやってあれだけの人数を集めたのか分からないが……見たところ出入口はこの階段のみ、足跡からあのエレベーターは確実に動かない。

 万が一襲われた時の経路さえ間違わなければ、この人数でも問題は無い。

「……」

 黒佐藤の心の内で湧き上がる不安は、口に出そうとした言葉は、多少安心の出来る情報達によって飲み込む。

 そして、二階に辿り着く。

 火の回りを遅くさせる、重厚な防火扉が見える。

 変わらず二階の電灯も、下手なホラー作品のように点滅していた。

「人の気配はある、な」

 喋り声は扉によって聞こえないが、耳をあてがい集中すると、誰かが動いているのがわかった。

「何をしてくるか分かりませんが、相手が銃を使わない限り、撃たないでください」

 万が一、襲われた時の事を考え抜いていた銃だが、敵と思われる人数は多数、有栖の言う通り拳銃嚢へと入れる。

 襲撃者は襲ってきたというのに銃は使わず、仕込み刀を抜いていた、殺すつもりで護衛である黒佐藤を襲ってきたが、対応できなくはない。

 彼は道中それを命に軽く伝えておいた。

 二人はそれぞれ警戒棒を取り出し、延ばす。

 それを右手に、正面きって防火扉を黒佐藤は開けた。

――――明滅を続ける電灯を背に、視界に入った中は、ただ『異常』であった。

 非常階段の先、少し出た部分はエレベーターの乗降口だ、次に正面ずっとビルの端まで続いている廊下と左右に壁と扉があり、各部屋になっているようだが……何年も換気されていない埃っぽい空気と明かりが欠如した暗晦とした室内に、更に重なる『不気味な落書き』。

 はっきりと視認は出来ない、が何かに見られているような感覚に、目を凝らせばそれは――――

 最初、壁紙の柄に見えた。

 恐る恐る指の腹で触れて、それが妙につるつるとした感触でようやく気付く。

「目?」

 幼い子供が書いたとしか思えない下手な目、アーモンドを横にし、その輪郭に沿って睫毛と思われる触手のような黒い線。

 中心に黒く黒く塗りつぶされた瞳が鎮座し、此方をずっと見ていた……黒佐藤よりも早く、暗闇に強い命が『それ』を口にする。

「これ……全部そうじゃないか……?」

 指を差す必要もなかった。彼女のポニーテールが、首より下へ向いている。

 天井を見上げている命の言葉に、釣られ上を見れば、この蒸し暑い中、真冬が、氷点下を迎えたような。

……目だ。無数の、目。

 本物であれば、それはそれで猟奇的であるが、違う。

 黒いペン、クレヨン、鉛筆で幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も塗られているのが、心に霜を降ろす。

 更になんの規則性もない、情緒が不安定としか言えない様々な目を模した落書きが、壁から天井、びっしりと書かれていた。


 やがて酷く自分が見ている景色が、自分の感覚と乖離し始めた。

――まあるくくろくぬられたひとみがうごくわけないのにすべてこちらにむいているきがして、こちらをみているきがして。

 あたまにながれこむきょうきのへんりんは、こたいかえきたいかさだまらないせいぶつがあまねくほしぼしをことばにかえかたりかけ、おおうやみをまるでははのしきゅうのようにみゃくどうさせて――

 

「イカレてやがる……」

 命は、内に広がる生理的嫌悪感を、その一言で言い表せないらしく、眉間に皺を寄せ、ぽつりと呟くが顔色は良くない。

――――同時にその言葉に黒佐藤は現実へ引き戻された。

 彼は眼前に広がり続けるその異常さ、あまりの異質さ、『恐怖の本質』に似たそれらに、体の力が抜けていく。

 立っている感覚すらなくなり、壁に手をついて次に片膝をつく。

「あぶねぇぞ!?」

 隣にいる命に支えられ、どうにか立ち上がるが……目の落書きを見た瞬間、頭の中に流れた映像は、生物とすら言えない化物だった。

 黄土色、鮮やかなピンクから、土色、人間の内臓を連想させる体に大小様々な目に見える何か、伸び続ける触手から粘液の絡まる水音は遍く星々の声を使い聴覚を犯し、闇を纏う体から噴出する液体は想像が出来ないほど甘ったるく思考を緩ませた。

 何もかもを否定する化物、冒涜的としか言えない姿形は神が造形したとは信じられない。

……だが、心のどこかで『あれ』を考え始めてしまう。

 そして、まるで『あれ』が眠りから覚め始めたような気がして、鳥肌がいっこうに収まらない。

 言いようのない不安感に駆られ、それと同時に有栖の事を思い出す。

 彼の仕事だ。彼が守るべき相手だ。

「大丈――――」

 彼女の視線は、意識は、壁に向いてなどいなかった。

 この心を削るような落書きを意にも介していない。最初から知っていたように。

 刹那、二人は異変に気づく。

 有栖の視線の先、風と雨に揺れる窓の前に、人影が立っている。いつからそこにいたのだろう。

 このフロアに入った時に、そんな人影はいなかったのだ。一瞬で、気配も音も立てず、そこに立っていた。

「……ここに、老人の姿をして仕込み刀を持った人物が来た筈だ」

 黒佐藤はちかちかする頭の奥を気に留めまいと有栖の前に立ち、人影に問いかけた。敵なのかどうなのか。

「……」

 言葉が返ってくる事はない、けれどその代わりに人影の右手が動く。

 ゆらり、分厚い雲に覆われた空の色を映す鈍色の果物ナイフが、正気と狂気、光と闇の狭間で微かに動く。

「――――」

 瞼の裏に隠されてた血のように紅い二つの双眸が、三人を見た。

……目前の人影は、人の形をしているが既に人とは言えない。

 瞬きすら、光の尾を引く果物ナイフの軌跡すら置いていく速度で左右の壁を跳ねた。

 異常な膂力に奴の足先と壁から二度火花が散り、破裂音が静寂に包まれているビルに鳴り響く。

「う」

 叫び声すら上げれない。

 数メートルはある左右の壁を跳ね、飛びかかり振り上げられた奴のナイフを警戒棒で受け止めるが、未だ空中にいる奴は筋肉を打ち鳴らし、どういう原理か上半身と下半身を捩じ、そのまま回し蹴りを放つ。

「がッは」

 防御の隙間を縫った蹴りは、黒佐藤の左脇腹にめり込み、反射的に威力を消そうと右に動いた彼の体を、壁に叩かせた。

 鈍い音が鳴り、あまりに人間離れした光景に対応出来ていなかった命が、ようやく反応する。

「離れろォッ!」

 蹴りを放った足を地面につけると、奴は素早く彼へナイフを突き立てたが、命が一歩足を開き警戒棒を中段に構え、右手に握られたナイフ、もしくは腕を無力化しようと振るった。

 明かりの無い闇の中で、真っ黒な警戒棒をなんなく捌く人影。摺り足で攻め続けるが、当たらない。

 火花が幾度も散り、どうにか作られた数秒で体勢を立て直した彼の元へ、命は並び立つ。

「二人なら、大丈夫だよな」

「……当たり前だ」

 彼は痛みとあの映像で乱れる精神を研ぎ澄まし、体に集中する。左脇腹に酷い痛みは無い、熱も帯びていない。

 あれだけの力だったが運よく肋骨が折れるような最悪にはならなかった。

 それだけ分かれば十分、彼は再び警戒棒を構え直し、奴の動きを注視する。先程のような失態が二度と起こらないように。

 二人の様子に気づいたのかまだ動かぬ奴に、暫しの沈黙が流れる。

「それで、目標はあれでいいのかい?」

 隣にいる黒佐藤にしか聞こえない声で命が問う。

 話は伝えていたが、それの確認だろう。

「……あぁ多分、特徴は同じだ。あの夜見たあいつと」

 正直ここまでの抵抗は彼にとってもびっくりだったが、同じ特徴、化物じみた身体能力に答えない質問、大当たりだと思ってよかった。

 すると、奴が動いた。

 果物ナイフを逆手に持ち、腕に隠す。恐らく、ナイフの動きを悟られない為だ。

 次に身を屈めた――――それは水平線に近いほど、地面に顎を擦るほどにおかしな体勢。

 やがてあの病院の駐車場で対峙した時のように、暗闇に浮かび上がる双眸が、徐々に徐々に強く光り始めた。

 刻々と強まる光は、思い違いなどではない。理解の出来ない理屈で、張り続ける糸がいつ切れるか分からないカウントダウン。

 すうっと静まる空気が、奴の殺意に纏められ、息が詰まりそうになる。

――その殺意を、ものともしない人物が一人いた。

 それはここまで黙って見ていた有栖だ。二人の間を突き進み、あまり高くないヒールのまま、二人の前に立つ。それも、守るように。

「何して――――」

 彼女の気配に、振り返った黒佐藤は、その姿にそれ以上言葉が続かない。

「……ッ」

 隣にいる命も、それに気づき振り返るが、言葉をただ失う。

 当然だ。当然だろう。

 目の前に立ち塞がる、襲撃者と同じ……いや比にならないほどに炎のように深紅に光らせ、美しいブロンドの髪を真っ白に染めていたのだから。

「任せて」

 目を、疑うしかない。

 そう言った有栖は、果物ナイフを持ち、異常な身体能力で襲い来るその人物を、たった一呼吸で地面に伏せた。

 突っ込んでくるタイミングに合わせ、ただ背負い投げを行う。

 明らかに人の技ではない。あれだけ恐ろしい膂力の人物を、相殺したようにすら見えた――――うつ伏せに倒れた奴に、間髪入れず腕を捻り上げる。

 容赦など皆無、有栖が力を込め肩の関節を外し、奴はやっと握られていたナイフを落とした。

 逆光気味で見えなかった顔が窓から入る光に、ようやく晒され、その正体を見る事が出来た。

「違う……!?」

 有栖自身の変化よりも、黒佐藤は困惑の声を上げた。

 黒々とした雲を透過した僅かな太陽光に照る人物の顔は、黒佐藤が、有栖が見た襲撃者のような、老人ではない。

 まだ三十代ほどの、どこにでもいる一般的なサラリーマンだが、真っ白な髪は実年齢よりも明らかに老けて見える。

……そして、何より黒佐藤と命の背筋を凍らせたのは、関節が外された激痛に、尚無表情でいる事だ。

 額に浮かぶ大粒の汗、光の無くなった瞳、どこをみているのか焦点すら定まっていない魂が抜けたような状態の男。

 有栖は、それに驚く素振りも無ければ、先程よりも落ち着いた深紅の目を向け、無力化された男へ小さく耳打ちを行う、すると……

「我らは騙された……現人神であられる教祖様はもういないのだ……騙された……力を授けたのに……」

 虚空を恨めしそうに睨み、悔しそうに呟き、啜り泣き始めたのだ。

 何を耳打ちしたんだ? 有栖に組み伏せられ、それが悔しく泣いているわけではない、彼女は何を言ったんだ……?

 いや、そもそも、

(彼女はまだしも……あの男は、なぜ瞳が赤い?)

 有栖の瞳は、二年前のあの時、確かに赤かった事を彼は覚えていた。

 黒佐藤は一つ確信する、この仕事を受けるにあたって、まだ有栖から聞かされていない話がある事に。

――――脅威を一つ無力化するが、人ならざる者の凄まじさに圧倒され、この場所に複数の人物がいる事を、彼らは、少なくとも二人は抜けていた。

 不意に四方八方不気味に軋む扉達、それが……侵入者への対応の為だと、察するまで一秒もいらない。

 一人、二人、三人、四人……二十人ほどの大小さまざまな人物が、全員ではないが確かに二つの双眸を血に飢えた動物のように光らせ、深淵から除くように此方を覗く。

「……私が先に。できる限り後ろは頼みました」

 組み伏せた男の手を離し、相も変わらず似合わない敬語を使って、前に立つ彼女は黒佐藤が護衛であるのに不覚にも彼に頼もしく思わせるほど。

 しかし、彼女の顔を見れば、瞳の光は若干弱まり大粒の汗を顎にまで垂らし、全く反撃を受けていないというのに、右足を引き摺っている。

 既に満身創痍の装い――――それでもこの場は彼女に任せるほか、なかった。

「ふっ」

 肉薄する一人の化物を、彼女は口を窄め息を吐きそいつの腕を絡め取ると、ついでと言わんばかりにへし折った。

 鈍い音が痛々しく、崩れ落ちる男は折られた痛みで低い呻き声を上げていた――けれど違う。

 呻き声なんかじゃない、すれ違い様の男は、

「ほごにされたのになぜわれらをたよるほごにされたのになぜわれらをたよるほごにされたのになぜわれらをたよるほごにされたのになぜわれらをたよる」

 見開かれた目を、瞼を縫い付けられたように閉ざすことなく、呪詛のような言葉を延々と乾き、切れた唇から繰り返している。目は、紅い。

「警察に連絡を、最悪発砲を許可します」

 ひとしずく、有栖の髪間から流れる汗が、構える左手の甲に落ち弾けた。

 二十人弱と対峙する有栖。

 二人は頷き、命が警察へ、黒佐藤が銃と警戒棒を持ち替えた。

――一瞬後方隙が出た瞬間、ふっ、と背後から凄まじい気配を感じる。

「あッ」

 後ろを振り向くも、そこに人はいなかった……けれど視線を戻すよりも前に、苦しげに呻いた有栖に、彼の体が動いた。

「有栖!!」

 恐らく背後から飛びかかってきた巨体を持つ男に、上から覆い被さるように腕を掴まれ、今にも押し潰されそうになっていた。

 彼は誤射を嫌がり照準を外し、全体重をかけた前蹴りを行うが――

「なっ」

――足底に届く鉄の壁を押しているような感覚に、目を丸くし、一瞬反応が遅れた。

「神より賜った力を持つ者が現れた!」

 巨体の男の歓喜の声と同時、横槍を入れた黒佐藤を顔と同じ大きさの拳が襲う。

 ぐるんと捻った腰、彼の真下から来るそれは、身を屈め腕を盾にした咄嗟の防御すら打ち破る威力だった。

 三メートルほどある天井に彼の背中が付き、胃の中が洗濯機のように回る感覚に襲われる。

「うぉ……」

 視界がお化け電灯のように光っては消え、思考がぐちゃぐちゃになり、前後の記憶が入れ替わり、焦点がズレていく。

 激痛というよりも、衝撃が脳を揺らしたようだ。

「恭介っ!」

「神はいるのだお客人、我らはやがて空へ至りエントロピー色のインクを使って異なる次元へその存在を新幹線の如く早く早く特殊相対性理論の中で須臾に浸った金の卵を産み、ジェヴォーダンの獣を銀の弾丸で貫いて神を!!神を起こすのだよ!!」

 狂乱状態の大男は、銃を持つ有栖の言葉になど耳を傾けていない。

 他の連中と同じように目を血走らせ、紅く光らせ、その拳を振り回していた。

 仲間である他の者達に当たろうが当たらなかろうが、興味もない。腕を折られ、頭を潰され、内臓が破裂しても、意味の分からない言葉を羅列し、叫ぶ。

「そこを退け!」

 有栖と二人の間で暴れ続ける大男に、やむを得ない発砲。

「離しなさいッ!」

――――だがそれより先に有栖が早かった。拳銃を構えようとした命へ振るわれかけた拳をそのか細い手で、丸太の如く太い腕をはじき落としたのだ。

 与えられた一瞬の隙に、命は拳銃を構え、定まった照準の先の大男へ、二発三発四発と撃ち込んだ。

 肩、腹部、足、と当たると流石の大男も地面に膝をつく。

「神はぁ……見ているぞ、空の端で、宇宙の中心で、星々の合間でうたた寝をしながら……」

「早く!」

 叫ぶ有栖、暗闇の中で一つ光が差すように、切り開かれた活路を、命は死に物狂いで彼の銃と彼の肩を支えて走る。


「ああくそ……まだ頭がぐらぐらしやがる……」

 痛む脇腹を助手席でおさえ、ここがどこなのかまだ整理の出来ていない黒佐藤。

 徐々にあのビル付近から離れつつあるが、銃声を聞きつけた連中が街路にまで出てきた時は、死を悟った。

 結局拳銃に頼る事になったが、警察とさえ協力すれば問題ない。

……だが、気になる事が、増えた。

 事務所についてから問わなければならないし、同時に運転してる命の代わりに礼もしなきゃならない。彼はルームミラーを通して今朝受け取っていた手帳に何かを書き込む彼女を見る。

 姿はすっかり戻り、淡い赤目に日本人離れした容姿、金髪も白いグラデーションだ。

 襲撃者の逮捕は出来なかった、目的は達成できなかった――――後部座席に彼女は、一体何を隠してる? そこまでして何を隠そうとしてる? 

 彼には一言礼をする気力も、それを今問い詰める気力は無く――――恐怖か興奮か、震える体を誤魔化し、目をゆっくりと瞑って、正気と狂気の境から出られた事に、安堵する。

……瞼の裏に浮かぶ彼を品定めする異形の存在に、侵されながら。

とりあえず誤字脱字、整合性チェックは終わったので、次の章に取り掛かります。

更新日は……きっと遠くない……

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