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田中有栖は嘘を吐かない  作者: 宇佐見レー
2/3

二年後の再会

二十と五日ぶりの投稿。

めちゃくちゃ遅くなってしもたん。


執筆は楽しいんですけれど、何分書くのがめちゃくちゃ遅い。えーぺっくすやったりでっどばいやったりで忙しい。

本当に申し訳ない。

 紫陽花を辿る水滴が乾かぬ間に訪れた、積乱雲輝く青空。

 頭上を浮かぶ太陽は傾きながらもアスファルトを焦がし続けた。

 既にエアコンが生活必需品となって二十数年、古ぼけたソファと床が見えるガラス製のテーブルが鎮座する中央の更に奥。

 黒佐藤恭介は熱を帯びたカーテン越しの窓を背に、葉巻を嗜んでいた。

 時代錯誤と言われればそうかもしれないが、黒佐藤は趣味に他人の意見は反映させない。

 カッターで吸い口を整え、マッチでじっくりと火を点ける。

 口を付け、なるべく肺には入れず、味を楽しもうと軽く吸う。

 同時に進む時間が遅くなるのを感じながら、手元に置かれた資料へと目を通す。

 どれも武装警備員としての仕事とは言い難い、普通の警備としても扱えるもの、その他にも料金は格安、なんでも屋に近い仕事も多い。

 独立して一年程度じゃ仕方ない、と彼は思う。

 けれど、問題は次の紙だ……せっかくのストレスフリーの時間、全うに進み始めた時間に嫌気が差す、大家からの事務所の家賃催促。

 特殊警備業法を行える国家資格の更新費用。

 この二つが彼の主な頭痛の種だった。

「……」

 三センチ弱ほどになった灰を、灰皿に弱く押し付けてへし折り、彼は立ち上がる。

 効かないエアコンの設定温度を見て、一つ二つと温度を下げて舌打ち――二十一度で効かないのは壊れたからか、それとも年々暑くなる異常気象か。

 カーテン越しでも嫌になる熱気、隙間から細く差す日光に目を細め、都市らしい喧騒の街並みを眺めるが、ふと左目の端に映ったガンロッカーに意識が引っ張られる。

 今は別れた彼女から勧められた独立であったが、二年前の事件から状況はあまり変わらない。

 ロッカーへ手を置けば埃が舞う、そうなった物を見ると思い浮かべる言葉は『無駄』だ。

 得た知識も、得た経験も、使い込んだ装備も、使われなければ埃をかぶっていく。錆が付き、確実に鈍る。

 特注の防弾ベストも、銃も整備をするだけ……片手に葉巻を持ったまま、埃を払わず右の足に吊るされた拳銃嚢に触れ彼は思う、きっぱりと辞めて、まともな仕事を探そうか、と。

 十年前、殺される瞬間まで自分の正義を信じ続けた父は――生きていても、そう決めた自分を責める事はない、父を通して見た信念が揺らぐ程、自分は大人になったのだろうと考える。

……気づけば葉巻の灰が、灰色の尾を引いて落ちていた。

 思わず出てしまう溜息を連れたまま、自分のデスクの灰皿へ葉巻を置き、適当な雑巾を手にとって隣の居住スペースにあるキッチンへ足を進める。

 まともに料理をしない様子が、汚れ一つ無いコンロとシンクに窺え、我ながらダメ人間だ、と彼は更に暗鬱な気分になる。

 あるのは今朝、元彼女が置いていってくれた弁当箱……の空。

 大きなボウルに溜められた水の中で輪郭を揺蕩わせる水玉模様の弁当箱、元彼女の独立という選択は、間違いだったのかと問う言葉が流れ、否定の為に頭を振った。

 間違いではなかった、不甲斐ないからだ……蛇口を捻り、心地の良い透明な流水に晒し、雑巾をきつく絞る。

――――汚れた雑巾から溢れ、指の間をするりと抜けては、ぼたぼたと音を鳴らして排水溝へ流れていく、その様子にかつての部下達が見えた。

 ただ雑巾に晒されただけで捨てられる水が、運が悪かったとは言え、ブリーフィング時にあの仕事に対して意見を述べなかった事が結果として、命を失う事になった部下達と重なったのだ。

 他人が言えば、仕事は全うした。また別の他人が言えば、部下を死なした……結局、慰められようと結果があまりに大き過ぎた。

 俺は、一人独立することになった。

……朝胃の中に入ったゴーヤチャンプルー、ウィンナーなど、とかく入った物が喉をひりひり焼く液体と戻ろうとする。

 縁に手をかけ吐きかけた吐瀉物、歪んだシンクに映る自分がどうしても憎い。

「部下全員だなんて、滑稽だ……そりゃ死神とも呼ばれる」

 黒佐藤はやがて収まった吐き気に深呼吸、雑巾を放って口内を漱ぎ、顔を洗う。

 鏡など見なくとも自身への怒りと後悔が、彼の心を虚無へと押しやり、感情を殺し、その表情を狂った笑顔に変えつつある。

 黒佐藤も根本を理解している、部下達は死ぬ覚悟であの場にいた事を。

 決して自分を責めていない事を……全て、自責である事を。

 けれどそれが、責任者である者の相応しい末路である事を、信じていた。

「……ふぅ」

 生乾きの臭いがするタオルで顔の水気を拭き取り、雑巾を手に事務所へと戻る。

 先程よりも角度のついた日差しに目を細めながら、灰を拭き取ろうと屈み、そこで彼は気づく。

 この事務所に直接繋がる外階段を上る二つの足音。

 一つは普通の、革靴らしき音だが、もう一つは……ヒールだろうか?

 カツン、カツン、鉄を高く打つ音だ。

 ふと、どこかにしまった手帳を思い出し、今日の午後の予定を思い返すが……特に予定はない。

 アポ無しの直接依頼か、このテナントの管理人……いわば大家の催促か。

 ただ考えてみれば大家は男だ。ヒールなど履いていない。もしや弁護士か……?

 嫌な予感に外よりは涼しい事務所内で、彼の背中にひやりとしたものが伝う。

 思考を巡らせど答えは出ない、そうこうしているうちに二人と思わしき人間が、事務所の扉の前で止まった。

 二人は数秒言葉を交わすと、恐らく革靴を履いているであろう男の声が、彼の名を読んだ。

「恭介、開けてくれ」

 野太くはきはきとした通る声は、良く知る声。

 黒く灰のついた雑巾をロッカーの上に放って、気怠く扉へと声をかける。

「開いてます」

「……本当に彼が?」

 開けられた鉄扉、漏れ聞こえた女性の声は訝しげでどこか聞き覚えのある声だったが、黒佐藤は意にも介さず、来客用に冷えた麦茶を用意し始めるのだった。


 来客用のソファに座った、二十代……いや十代後半にも見える外国人風女性が、一口麦茶を含み、こくんと白い肌に覆われた喉を鳴らした。

 その姿はあの時と変わらない……いや少しだけ、ブロンドの毛先の白さが根元へ伸びたか。

 けれどふわふわとした掴みどころのない……まるで空中を漂う綿毛のような雰囲気に宿る眼光の鋭さに、一切の変化がない。

 だがこれでクオーターの日本人であるのだから不思議だった。

 此方を値踏み、しているのかじっと見つめる彼女に、いや彼女を連れてきたであろう、もう一人に恭介は嫌味ったらしく客人用の口調で投げかけた。

「……それで、今日は何の用で?」

「この方は……いや、知ってるな……」

 バツが悪そうに丸められた頭をザラザラと掌で撫でる男は、この女と黒佐藤の関係を知った上でここに案内したようだ。

 関係と言っても二年も前の話だが……重々しい空気を晴らそうと、咳払いをして男は言う。

「まず、ある理由で再度帰国して頂いて、今の今まで国内の治安維持を担当する我々警察が私立探偵である田中有栖氏を護衛してきた」

 胸ポケットから、口頭での説明通り、書かれた一枚の紙を差し出してくるが、彼は受け取るのを拒否する。

「……様々な事情を加味した上で、田中有栖氏の命を狙う『傾国の旅団』が、日本国内に氏がいる事には気付いておらず、ならば公機関による護衛はかえって危険であるという結論に至った」

 恭介は、対面に座る二人へ交互に視線を移し、大きな溜息を吐き、乾く口内に麦茶を流し込んだ。

 だがそこで有栖は「失礼」と一言断ると、立ち上がり、事務所内を見回り始める。

 まあ、見られてまずいものは無い。

「それで、人的資源を大いに消費しながらも、二年前一度は護り切った俺に白羽の矢が立った、と」

 精一杯の皮肉に、お笑いだ。と彼は心の中で失笑する。

 部下を殺し、のうのうと生き延びた者、しかも心に大きな傷を負った者に……というよりは一度は見放した隊員に、まさか仕事を流すとは。

 もし失敗したら誰が責任を取る? 依頼を受けなかった国か? 俺にこの仕事を流した奴か? それとも――

「そう言うな」

 本人がいる、そう言わんばかりに眉を顰めた男に窘められる。

「……とにかく、その仕事は受けられません。俺一人で出来る事に限りがある」

 二年前はあの人数だったからこそできた事、と続け顔を横に振る。当たり前だろう。

 襲ってきた連中にも大きな損害は与えただろうが、死傷者百人を優に超える銃撃戦を、日本国内で繰り広げた。

 武装警備隊員側は彼を残し全員殉職。

 アメリカの海兵隊連中と自衛隊の中央即応連隊によってやっと鎮圧された。

 それを一人でやれというのはあまりに無茶な話だからだ。

「高村さん、貴方は俺に良くしてくれた。貴方にとって先輩であった男の息子……ほぼ他人なのに」

 黒佐藤は立ち上がり、背後にある自分のデスクで、天井に一つ煙の柱を上げる葉巻を手に取り、一度吹かす。

 そのまま背中越しに言葉を続ける。

「上からの話かはわかりません。私の古巣からかもしれません。けれど例え貴方からの言葉であっても、その仕事は無茶で心に傷を負った者にできる仕事じゃない」

 お帰りください、出かけた言葉を、彼はなぜか飲み込んでしまう。

 一瞬の間に、一瞬の隙、彼女はそこを見逃さなかった。

「――言い値」

 事務所内を、彼のデスク以外、ガンロッカーを含めた私物が散乱している居住スペースすら覗いていた彼女が、早々に見飽きたのか、満足したのか――それともタイミングを見計らっていたのか。

 汗を掻くコップを持ち上げ、冷えた麦茶を三度口にして、田中有栖はぼそりと言う。

 気のせいだ、振り返らず背中を見せたまま彼は黙るが、今のが幻聴や言い間違いでなかったことが、彼女の言葉で証明された。

「報酬は貴方の言い値で。お困りなのでしょう?」

 恭介は思わず振り返って聞き返した。断っているというのに。

 視界に入る有栖は張り付けた笑顔を、二年前出会った際と同じものを、ボロボロのソファに座り直し……まるで色気の感じれない様相で彼女の人差し指がソファをなぞる。

 白人らしい血が受け継がれた透明さを持ち、彼女自身の不健康そうな肌が、薄汚れたソファの上で、浮く。

 恭介は再度問いかける、聞こえなかったのか、と。

「私はこの話を聞いた時」

 彼女はスーツ姿で勢い良く立ち上がった、まるで子供が座っていた椅子から飛び降りる様に無邪気に。

 張り付けられた笑顔はニヤニヤとしたものに移り変わり、切られた言葉の続きを薄い口紅が塗られた唇が、ぽつりと、だが雄弁に語り始めた。

「勿論反対しました。理由は簡単、軍や公機関、武装警備もしくは警察組織によって行われるべきだと思っていたからです……ですが蓋を開けてみれば、二年前に私を命を賭して、自らの未来をも賭して守ってくれた」

 再び事務所内を歩く彼女は、やはり変わっていない。

 私語厳禁とは言われつつも、二年前と同じ話し方、ふわふわとしていて、話の核が掴めない。

「貴方は評価されるべきであった。貴方の過去についてもあの時に粗方調べさせて頂いておりますよ、もちろん今回も」

「くどい、帰っ……」

「貴方は丁度十年前」

 被せられた彼女の言葉、彼の眼前に出された彼女の手が、まるで誰もが想像する探偵の様に、犯人を指し示す様に、人差し指が伸びていた。

 黒佐藤は悪事など働いていない、それどころか誰よりも規律や法律、ルールを重んじる男だ。けれど彼女の気迫が、何十回と犯罪者へと向けられたたった一つの人差し指が、悪事を働いたと、彼自身を騙す。

 これから名探偵の、血と汗と脳を流し燃やし続けた、他人の決めた正義の下に、勇ましくも同情を誘う、やむを得ない動機が陽光に晒される、答え合わせの時間の様に。

「……私もあの場に居合わせていましたが、テロ事件で警察官であったお父様を亡くしていますね?いえ、相槌だけで結構です。法による正義に従っていたお父様はさぞ子であった貴方に真っ直ぐな教えを説いたはず」

 この時間は邪魔をされたくないのか、口を開こうとした黒佐藤に、暗に邪魔だと伝え、それに彼が従うと「ふふん」と笑って、気持ちよさそうに彼女は続けた。

「そうですね、恐らく貴方は当初警察官を目指していたが、お父様の死に警察組織へ不信感を覚え、それきっかけに自衛隊へと入隊、教育隊時代に大隊長から優秀隊員として選ばれるほどの努力を行った」

 ああ、覚えてる。と思わず頷きそうになるのを、彼は心の内に押しとどめる。

 忘れる訳が無い父の言葉、彼が小学生の時の、いじめられていた転校生を、喧嘩で助けてしまった出来事、決して声を荒げる事はせずに、諭すように説教をしてくれた。

 彼に、相談さえしてくれればいい、と。

 この出来事は彼自身の性格に直接影響のあった事だと、自負すらしている。

――――だが彼女の気迫が、記憶を打ち消す程に彼の負の感情に上書きされつつあった。

 彼女の無意味な言葉が、今関係あるのだろうか? と。

 彼は既に有栖自身の内では、自身を納得させる『答え』が出ているだろうに、とっくに下ろしている右手で顎に触れては考える素振りを見せたりと、随分劇的である事に少しだけイラついていた。

 決められた台詞を喋っているのに、わかりづらく、遠回し。

「やがて、武装警備隊員の話が貴方の耳に入り、転職、天下り……天下りとは些か違うでしょうが、やはり優秀な人材であった貴方は会社内部でも優秀で、優秀過ぎた」

 一度瞼を閉じ、大きく深呼吸を挟む。

「失敗ではなかった、私に大した傷をつけず、アメリカ側へと護送してくれた――部下を全員殺されるという、ハプニングがあった上に自分自身が撃たれながらも」

……瞬間、今まで黙っていた彼が、自責の念を纏う拳を、無言のまま自身のデスクへと叩きつける。

 事務所で反響する鈍い音、机上にあったペンは跳ね転がり、静まり返る室内でいやに響きながら床に落ち、シンと静まり返る事務所内で外の環境音が、三人の呼吸音がはっきりとわかった。

 黒佐藤は持っていた葉巻を無意識に込められた力で、無残に潰していた。

 手指の合間から落ちる乾燥した葉っぱが、自身の現状を示すように僅かに滞空しながら床へ落ちていく。

 火種は、微かに彼の指を炙るが、手指の合間を滑った。

「……田中さん、貴女も言い過ぎだ。人には触れらたくない過去があるのも貴女はお分かりでしょう、また後日改めて窺いましょう」

 高村が、相手の事など一切気にかけない有栖の言葉に、幾ら彼女を任された立場とて看過できなかったのだろう。

 噴きあがる怒りを、静かな口調で抑えつつ、彼女の肩に手を置き、引くように促している。

「大切なお話です」

 けれどそうしても彼女は引かない、その様子に恭介が後ろへ視線を送らずとも高村の怒りが、既に我慢の限界を超えていたのに気づいた。

 大きく息を吸い、警官らしい力強さで彼女を引かせようと引っ張り、怒鳴ろうと息を吸う。

「いい加減に……ッ!!」

――――それ以上に、彼女が声を張り上げた。そこには気持ちよさげな顔も、ニヤニヤとした表情も、探偵らしい様子など影も形もない。

 この場で誰よりもはっきりとした怒りを高村へ……いや同時に黒佐藤にもあらわにした。

「私は大真面目だ!!」

 人間としての気迫が、この場を完全に彼女色へと支配させる。

 黒佐藤も、高村も修羅場を潜り抜けて来たが、彼女は、それを遥かに凌駕する気迫だ。

「……失礼、続けます。ここにいる高村警部に貴方がしている頼み事も私は事前にお聞きしました。既に巻き込まれている黒佐藤さんは当事者と言っても過言じゃない。ましてや職業柄捜査協力もするでしょう」

 黒佐藤は彼女の後ろにいる高村を睨む、言ったのか、と。

「悪い、田中さんも関わっていた事で、上層部からは何にしても協力しろとのお達しでな……」

 眉を逆ハの字に歪ませ、申し訳なさそうに頭を下げる高村刑事。

「はぁ……とりあえず、それはいいです。結局田中さん、貴女は何が言いたいんだ?」

 それ以上責めたところでしょうがない、大きな溜息を吐き、今一度有栖へと視線を移し、問いかける。

 怒りから移り変わった呆れを隠そうともせず。

「失礼、これ以上は蛇足になってしまう、本題へ」

 有栖は満足げな表情を浮かべ、まるでここが自分の事務所である様に、家主である恭介へソファに座るよう促した。

 立っていた高村もソファに座らせると、最後に彼女が座り……この事務所に入った最初の位置へと戻る事となる。

 床が丸見えのガラステーブルにある湯呑みに入った、麦茶は少しぬるく……熱くなりかけた体には物足りない。

 場が静寂に包まれたタイミングで、彼女がやっと、核を話し出した。

「私の考えでは、十年前の事件と二年前に襲ってきた連中はどちらも傾国の旅団、同じだと考えています……そう、話し始めてからで申し訳ありませんが、これをどうぞ」

 思い出したのか、それとも思い出したフリなのか、内ポケットに入っていた封筒を恭介に差し出す。

 彼が手に取ると、表にはテレビイベント襲撃事件、と書かれていた。

「これは……」

「黒佐藤さんが高村警部に頼んでいたものです。さて戻しますが、身体こそ神体の会、言わば新興宗教団体が起こしたとされる十年前の事件、そちらの資料にも書かれている通り、怪しげな薬を使っていました」

 一枚、二枚、重ねられたものを捲っていくと、まさに今彼女が言っていた『薬』について書かれていた。


 テロ組織認定された身体こそ神体の会の家宅捜索にて押収した物の中に、神の水、と称された少量の薬品を押収。

 抵抗した信者達は後の調書で、それを飲めば神との交信ができて超人的な能力を得れる……現人神である、教祖に、神に近い存在になれる、と。

 事実、抵抗した信者の多くが、教祖である『矢原剛』と似た容姿となっており、毛髪が毛先から根本へ徐々に白くなり始め、目が赤くなっていた。症状は信者によって違い、個人差があった。

 そしてどの信者も、聞き取り中、泳ぐ目に恍惚とした表情で新手の禁止薬物の可能性がある――――教祖の矢原剛は襲撃事件の際、その渦中で国外へと逃亡した。


「この症状ってのはもしかして」

「おや、話が早く助かりますね」

 また麦茶を一口含み、まるで馬鹿にしているかのような彼女の容姿は……まさに、その報告書のコピーにあった通り。

 彼女の毛髪はこの文章通りのもの、一体何故か、不思議そうな顔の恭介になんでもない様に有栖は答える。

「十年前、何か容器を抱えていた外国人に不注意でぶつかったのが始まりです。ケース内部から落ちた容器が割れ、溢れた薬品を頭から被った結果が、これと言うわけです」

 肩甲骨ぐらいに伸ばされた美しい髪を束で持ち、なんでもない様に言う彼女に、彼はそこでようやく思い出す。

 二年前の冬、補佐をやってくれていた熟練隊員と、警察組織からの応援で来ていた隊員が言っていた言葉と、同じ特徴を見せていた傾国の旅団の連中、謎ではあったが部下達の事ばかりを考えていて忘れていた。

 それどころか今目の前にいる彼女の瞳は、碧眼であるが二年前追われる際の一瞬、緋色に燃えていたのをはっきりと覚えている。

 何故、と聞く余裕すらなく、繋がった全てに、彼は茫然とし、蚊の鳴くほどの小さな声で彼女へ言葉を投げかけ、手元の資料へ指を向ける。

「二年前からずっとこれを追っていたのか……?」

 彼女は、もったいぶる事もなく、淡々と頷く。

「ええ、高村警部も既に関係のある事なのでお話しますが、二年前はそこに記述のある薬品について調べる為に帰国していました。それと、身体こそ神体の会と傾国の旅団、両方との関連性です」

 高村さんにも関係のある――ああ、既に深く踏み込んでしまっているからか。

 彼女は言葉を続ける。

「当時、私は既に傾国の旅団に関係のある事件、施設などを各国の警察組織と手を取り合い、押収、逮捕、解決を行っており、目を付けられていました。ブラックリスト入りするぐらいに」

 一拍置き。

「そして、黒佐藤さんとその他の方達のおかげで私は死ぬ事なく、傾国の旅団の弱体化が出来ました。再びここに生きて来れたのも、偏にあの場で命を賭してくれたからこそ」

 彼女は、一つ大きく息を吸った。

「社長さんの演説に文句を言っていた木村さん、私の両隣に座っていた黒沢さんに関根さん、車両が横転してから敵に囲まれた中で仕事とは言え勇敢に先頭で外へ出ていった金田さん、必死に恐れることなく車両の運転をし続けてくれた武田さん、助手席でルートの確認を常にしていた佐中さん、最初の攻撃で爆発に巻き込まれた竹中さん芦田さん古好さん山星さん、そして昇進したばかりだった貴方の補佐を担当していた熟練隊員の近藤さん」

 思い出そうという素振りもないまま一息に挙げられた名前は、彼の聞き間違いでなければ、二年前殉職した隊員達の名だ。

 黒佐藤の脳を目まぐるしく記憶が駆け回り、足元の、地面の感覚が徐々に喪失していく不可思議な感覚にとらわれた。

 有栖に悪びれる様子は無い、もちろん彼女が悪い訳でもなければ、彼らも、黒佐藤もそれを覚悟していた――同時に思い出される二年前の車内での会話。

――――彼女は決して忘れないと言い、嘘は吐かないと言ったあの時を……田中有栖は忘れていないのだ。

 これまで自身の為に死んだ者を。


 自身の信念道半ばの為に命を賭した者達を。


「これでも嘘だと思うのであれば、他車両にいた全隊員、関わった者すべて名字だけでなく名前も言う事が出来ますが」

 まるで鈍器で殴られたようにくらくらする頭を、どうにか深呼吸で正常に戻し、

「……いや……大丈夫だ……」

 と答え、心が微かに、ほんの微かに軽くなったのを感じた。

 彼女は目を瞑り、何かを考える。

 やがて開くと同時に満面の笑みを浮かべ、尋ねた。

「私は、貴方の優秀さに惚れてここに居ます。それに、この仕事を受ければ貴方は今の立場のまま、自分の人生を変えた事件を見届けれる、言い切りましょう」

 彼女の言葉が事実かどうか、いや考えるまでもない。彼女が嘘を吐いていなければ、全て本当の事を言っている。

 そして彼女は嘘を吐かない事を、黒佐藤に証明してみせた。

――十年前のテロ事件、二年前の襲撃、そして彼女の容姿。

 彼は、自分の人生が変わった事件の、最後に興味はあったが、とうにどうでもよかった。

父は帰ってこないから。

部下達を死なせてしまった事も己の力不足である事だと理解しているし、その悪夢を振り払おうともしたが、背負うべきだと覚悟をしようとしている。

 ならば、今大切な事は何か……

「……」

 彼は、じりじりと暑さを増す日差しに身を任せ、ゆったりと思考の中に身を投じた。

 場を支配する静寂の中で、コップの底に沈んだ氷が、からりと滑り転がる。

 やがて目を開けた黒佐藤は、自分のコップに入った氷の無い麦茶を一息に飲み干した。

「……日数は?」

「私が日本を発つまで」

「一日、二十四時間の身辺警護、百万」

 相場など無視をした金額。免許の更新も、事務所の家賃もかかっても十数万、大分吹っ掛けた金額だ。

 この条件で諦めるならそれでいいし、了承するならば、露骨に命を狙われている人物に対して行う『個人』での仕事ならば十分すぎるくらいだ。

彼自身の立場も失われないし、家賃という頭痛の種に苛まれなくもなる。

 傍から見ている高村刑事の、生唾を飲み込む音が聞こえる。

「いつからか教えてほしい」

「今から、と言ったら?」

 黒佐藤は溜息を吐き、呆れたように頭を掻いた。

「……はぁ、事務所の窓ガラスは全て防弾性、一部の家具や扉、壁は大体の弾丸は通さない、そこらの建造物よりも安全である事を保証する」

「うんうん……え?」

 それほど広くない事務所の説明を行うと、有栖はそれらの単語に頷くも、何か思う事があったのか、動きを止めた。理解できていない様子で。

 黒佐藤はその様子に心の中で「ああ、なるほど」と数秒の思考後、合点し、ここを活動の拠点にする事を断っておく事にした。

「申し訳ないが、身辺警護でも俺一人となるとカバー出来る場所が限られてくる。どこに行ってもついていくが、拠点だけは此方で指定させてもらう」

 先程までの雰囲気と威勢は一体どこへ、有栖はその不健康な白さの肌を赤くし「だだだ男性一人とこ、ここここで?」と壊れた機械になっているが、当然だ、身辺警護なんだから……

 呆れる黒佐藤を余所に、置いてけぼりだった高村が、少し穏やかな表情で立ち上がった。

「……んじゃ、話もまとまったみたいだからな。帰ろうと思う」

「もう帰るんですか?」

「おう、俺の仕事は終わって、お前の元気な顔が見れたからな。今日は十分だ」

 振り向き様、ふっ、と高村は笑う。

 ピカピカに磨かれた、黒佐藤が見ない間に新調された革靴が、打ちっ放しのコンクリート床を叩く。

 重厚な鉄扉の、ドアノブへと手をかけたところで、高村が立ち止まった。何かを思い出したかのように。

 ゆっくりと振り向き、胸ポケットにあった分厚い封筒を取り出し様に、意識を再び背後にいる黒佐藤へ向ける。

「もう一つ、頼みたい事があった」

「……なんです?」

「そんな顔するなよ、依頼だ、依頼」

 露骨に嫌な顔をしていたか、と彼は思う。

 まあ、面倒事を押し付けられた後だ……彼は高村が手に持つ封筒を見て、粗方予想は付いていた。

「酷いんですか?」

 ふと、顔を赤らめて恥ずかしがっていた有栖が興味深そうにこちらを見ているのに気づくが、とりあえずは置いておこう。

「タイミングは最悪だが、どちらにしても頼まれてた資料と一緒に相談しようとしてた事だ。まあ……出来ればでいいぞ。有栖さんの護衛で暫く通常通りの業務をしてなくてな……今日から少し帰りが遅くなりそうなんだ」

 近くにいる有栖の事を気遣っての事か、最初の言葉だけは小さかった。

 申し訳なさそうに言う高村は、その封筒を差し出し「余裕がある時でいい、これは先払いだ。例え出来なくても使ってくれ」と。

 帰り際、小さく頭を下げた彼の姿は、娘想いのどこにでもいる父親だ。

「ふむ、どうするか……」

 渡された厚い封筒は、あきらかに数十万を超える額、出来ればこの仕事は受けたかったが……と、ちらと有栖の顔色を窺おうとすると。

「今のお話、詳しく聞かせてもらっても?」

 彼女の知的好奇心か、探偵としての探求心か、はたまた野次馬根性か、いや三つ目はないだろう。

「高村さんには娘さんがいるん……ですが、どうやらクラスメイトからストーカーをされているらしく」

 今更ながら依頼者であるというのに口調が軽いのはあまりいい事ではない、取って付けた丁寧語に、少しの迷いもなく有栖は重ねる。

「砕けた口調で結構、なるほど、彼女を優秀な貴方に守ってもらいたいと?でも今回私の話と重なってしまった」

「……そうだ」

 だから高村さんは出来れば、という言い方をした。

 前回黒佐藤が相談された時は、その内容も結構酷く、襲われていないのが不思議なくらいだという。

 有栖は眉を顰めた。

「高村警部は警察官では?」

「そうなんだが、当の本人がクラスメイトを警察に突き出すのは嫌だと言ってるらしい」

 至極真っ当な質問だ、彼女は小さく「なるほど」と言って何かを考え始める。

 数秒程度だが、その間にぽつりと「随分と……」や「どうするか」などと呟いていたが、さてどうするつもりなのか。

 彼が彼女の言葉を待ちつつ、空になったコップへ麦茶を注ごうとしていると、

「行きましょうっ!!ちょっと正義の探偵としては、少しばかり気になりますんでね」

 パァっとした子供の様な無邪気な表情で、冷蔵庫の前にいる黒佐藤へ、ヒールから鳴らない様な擬音、ずんずんと近づく。

 大金の入った封筒を手に、注がれたばかりのキンキンに冷えた麦茶とそれを強引に替え、一気に喉へ通す。

「いや、命を狙われているから俺に仕事を頼んだんだろ?」

 やるかどうか悩んでいた黒佐藤は、困惑気味だ。

 だがそれを跳ね除け有栖は、肩と肩甲骨の中ほどの、白と金のグラデーション気味の髪を手でさらりと内側へ流し、目を細め憎らし気に両の口角を上げた、まさに得意げに答える。

「傾国の旅団は既に弱体化しつつある。全盛期は私がこの世界に入るまで、という事は、日本国内に前回、前々回までのように軍を送れるほどの余力はない」

 コップをガラステーブルへ置く。

 異様と言える容姿があって尚も、日本人離れした「絶世の」美女と言える彼女のその仕草は、堅物と言われた彼の心すら動かすのにそう時間はかからない。

「そ、そうだとしても……」

「しーっ、依頼人が行くと行ったらその後についてくるんじゃなかったかな?」

 僅かに顔を近づけてくる彼女は、化粧など殆ど必要のない様に見えたが、もちろん薄く施されている。

 人差し指を口元に近づけ、子供を宥める様な姿は、幼く可愛いとすら思えてしまう。

 それら全てをひっくるめた、年相応なのか年不相応なのかわからない彼女に、彼は言葉を失う。

 有栖による彼の発言の指摘も反論は許さない二重構造。

「ふふん、わかったかしらね?じゃあ早速……」

 と無理やり言いくるめた彼女は、恐らく常習犯なのだろうが、そのまま事務所の扉の前に行ってしまう。

 ドアノブに、白くしなやかな指を這わせたところで、黒佐藤はようやく言葉を発せた。

「わ、わかった、わかったから待ってくれ。早すぎる……」

「行動こそ全てよ?」

「まず話をまとめる……ふぅ、結局高村さんの依頼は受けるのか……いや違う、受けた方がいいのか?」

「何度も同じ事を言わせない、気になったら行くのが私なの」

「それは今知ったが、今回日本に来た目的を果たさなくていいのか?」

 前回来た際も目的があったと彼女は先程言っていた。

 となれば今回の帰国も理由があって、それを果たさなければならない筈だ。正直ここであまり寄り道なぞしてる暇はなさそうだが、有栖は彼の言葉に深く溜息を吐いた。

「詳しい話を聞きたいとなると、貴方も一生を追うか追われるかの人生になるけれど、その覚悟はある?」

――――背中をひやりと伝う死に、彼女がくぐった死線から、気のせいだとわかりつつも硝煙と血錆の嫌な臭いが混ざり漂ってくる。

 瞬きの間に変わった彼女の雰囲気は、幾つもの修羅場を潜り抜けては生き延びた、化物としか言えない。

「とりあえず、そんな事にはなりたくないでしょう?では今度は私がお話を聞く番、私がここまで来たというのに引き留めた理由がある筈だから」

 お見通しだ、と言わんばかりの有栖は握っていたドアノブから手を離し、ガラステーブルのある中央の、再びボロボロな客用のソファへと腰かける。

「……まだ時間じゃないんだ」

「ほう?」

「高村さんの娘さん、凛という名前の女の子なんだが、体が昔から弱い。週に一度は必ず大学病院へ通院してるんだが……」

 そこまで言ったところで黒佐藤は壁にかけられてるカレンダーへ視線を移し、それにつられた様に有栖も向ける。

「検査が終わる予定は、七時から八時だな。それを過ぎれば」

「か弱い少女は危険に晒されながらも一人で帰路につく」

「……その通り」

 有栖は再び「ふふん」と鼻を鳴らし、黒佐藤へ視線を戻した。

「ならその時間までに何をするのか決めましょうっ!」

 うきうきとした表情の彼女は、向かい側の、黒佐藤のデスクの上へ視線を向け、何か言わせようとしている……彼は、彼女のわざわざ見え見えの態度に大きな溜息を吐く。

 そこにあるのは、近隣住民からの、格安の依頼だ。

 物によっては万行かないもの。

「勝手に見たのか?」

「まさか!!私は勝手に人の机の上のものを、わざわざ凝視して見る趣味は無いよ。たまたま本当に『たまたま』見えてしまったのだよ」

 はてさて嘘か真か。

 それを追求するだけ、多分、恐らく、いや絶対に労力の無駄だろう。

 事実彼の記憶の通り、有栖が机の上を凝視していた様子は無かった。

「悪いが、一般市民にまで危険が及ぶかのうせ――」

「しつこいよ、男のくせに。危険は無いから、二年前とは違って」

 流石に彼女もジト目で睨んでくるが、しつこくなって当然だろう。相手は何をするのかわからない連中だ。

……だが、これ以上拒否しても、彼女はそれ以上に引き受けるまで押し問答を続けそうだし、『世界的に有名な名探偵様』が言うんだ。信じてやろう。

 もし万が一何かあれば、俺が命を張って彼女と依頼主を守り通せば、汚名を着るのはあの名探偵の方だ――――卑怯ではあるが、最終的に行き着く最善はそこである。

 黒佐藤は、手に持っていたコップをシンクの流しに置き、今日何度目かもわからない溜息を吐いた。

 有栖へ向き直ったその表情を見て彼女が、

「君は嘘を吐けないタイプだね。そんな事考えたって、私には汚名を返上するだけの権力があるもの」

「……人の心を読むのは探偵の常識か?」

「探偵の?私の、常識だよ」

「探偵さん、無駄話はもうやめよう。頭が痛くなってきた……」

 ああ言えばこう言って、二年前からなんとなくはわかっていたが、随分とのらりくらりとしたお嬢様だ。

 頭痛が痛くてしょうがない……

「はぁ……」

「あら、私が悪いの?」

「下のガレージに高機動車がある、俺から離れずに――――来てくれ」

 完全に面白がっていた田中有栖さんを、黒佐藤は半ば無視する事でどうにかふつふつと湧き上がるイラつきを抑えた。

 ソファに座る彼女は「むぅ」と分かりやすくむくれているが、今はとりあえずガンロッカーから愛銃であるHOWA556を取り出さなければ。

 自分の手形が埃の積もった上部にはっきりと残っていた。

 カーテンの隙間から差し込まれた陽光が、巻き上がった埃が気流として可視化させる。

 ついさっきまで辞める事すら考えていた事を思い出し、鍵を差し込み開けたガンロッカー内を見つめる。

 立てかけられた、埃一つ付着していない、一丁の銃。

使わなくとも一日に一度は必ず点検を怠らず、使えばオーバーホールを行い、次に備える。

 その傍らにかけられたつい一ヶ月程前に買い替えた防弾ベストを手に取り、そのまま着用し、もう一着を手に、デスクにあった一枚の紙と一緒に差し出した。

「これに記入を」

「ふむ、実は契約の為に紙媒体を使用しなければ、踏み倒す気でね?」

 小悪魔? いや可愛らしい表情の微笑みだが、言葉の中身はあまりにゲスだ。悪魔だろう。

 けれど彼は彼女がそんな事をしない確信があった。

「冗談はいい、それも着てくれ」

「……?なぜ冗談だと?」

 きっぱりと言った彼の心の内が、本当に読めなかったのだろう田中有栖は、微笑みを消し心底不思議そうに首をかしげた。


「あんたは俺の部下を確かに覚えていてくれた『あの時の言葉通りに』」


 黒佐藤恭介は表情を少し穏やかなものに変え、鉄製の弾薬箱から弾丸を取り出し空の弾倉に一発ずつ挿入しながら――言った。


 走り出して間もない真夏の車内は、地獄に等しい。幾ら三時過ぎとは言え、だ。

 電子画面に映るエアコンの温度を十九度にまで下げ、車を走らせた。温かった風はエンジンが本格的に動き始めると徐々に冷たくなる。

「さて最初の仕事は、と」

 座席を名一杯に下げ、偉そうに足を組み、なぜか助手席に座った有栖が、これまたなぜか手に持った依頼書へ目に通す。

「あっおいっ!守秘義務だってあるんだぞ!!」

 運転をしながらとなれば、黒佐藤は動けない。

 ちらと横目で見た彼女に、やめさせようと右手を助手席へ動かすが、悲しい事に空ぶった。

 くそ、ここら辺か……?そう右手を更に前後に動かすと、

「――へぇ、依頼人の胸部の布をまさぐるなんて、正義が怖くないのかな?」

 随分と冷たい声が、彼女から放たれた。

 背筋が凍りそうなそれに、前方に向けていた視線を逸らし、助手席へと向ける。

 そこには、当たってるか当たっていないか――彼女のスーツの胸元の、瀬戸際で止まる自身の右手があった。

「わ、悪かった。だがその前に守秘義務があるんだから」

「貧乳って言った?」

「一言も、言ってない」

「……これ、ほとんどなんでも屋の仕事じゃない?」

 どんな聴覚をしているのか、耳鼻科でも紹介したいところだったが手を退け、事故を起こしてしまってはしょうがない、と視線を前方へ戻す。

 ハンドルを左へと切り、巻き込み確認をしつつ彼女へとちらと目をやれば、そんな事を言いながら手放そうとはしていなかった。

「日本で銃を持つ仕事ってなると、地域住民からの信頼が一番になるんだよ」

 銃を持つ仕事、警察官始め自衛隊、それ以上に武装警備員。

 法改正がなされ、警備業務に新たな項目が追加されて、警察組織だけでなく自衛隊との連携が必要となった現在、若者を含めた四十代以下の国民からの支持で成り立っているこの職業、六十代……下手すれば五十代から上の世代は未だに『武装をしない事を平和』だと信じているのが多い。

 自分で調べる事を止め、他人の言葉を鵜呑みするだけの、無辜の民衆――――いや、他人にそれを強要するのだから、無辜の怪物と表現するのが正しいかもしれない。

 ただしそれらは改善できる、一人一人の、意識で。

「ま、テロが起きて尚警官の非武装を願う連中が、国を守れる訳がないからね」

 そう言って倒した座席に凭れ掛かり、何かを考えているのか車の天井を仰いだまま、彼女は動かなくなる。

「俺は独立という道を選んだから尚更だ。周囲の確認をするから合図をするまで出てこないでくれ」

 黒佐藤は、彼女に思考の間を与えず、そのまま車外へと出て、周囲を見渡す。

 降りる際の、探偵様の茫然とした顔に含み笑いをしながら、スーパーマーケットに停めらた場違いな軍用車の周囲を、彼は注意深く確認していった。


「もう十八時……君は探偵と呼ばれる私の能力を、数時間に渡って無駄にした」

 隣に座る依頼主、田中有栖が時代錯誤な懐中時計を片手に口を尖らせ、まるで駄々をこねる子供の様に言った。

 丁度、屋台からクレープを三つ程買った黒佐藤恭介が帰ってきて……彼は呆れて物も言えない様子。それは当然、彼女が言い出した事で、更にこの場所このクレープも、

「私の命が狙われてると知った上でこの場所を選んだの?」

 彼女が言い出した事だった。ジト目の有栖に、黒佐藤は今まで我慢していた溜息を思わず吐いてしまう。

「はぁ」

「なに」

「この見晴らしの良い川辺のベンチを選んだのは?」

「私だけれど?」

 チョコクレープとチョコクリーム、バニラアイスクレープを両手に受け取り、小さく感謝の言葉を洩らした彼女は、我慢していたものが溢れた様に、けれど彼女の不思議な雰囲気を壊すことなく、笑った。

 柵の先を流れる夕日を映す川、悠々と流れ続ける姿は清閑そのもの、背後の自動車達は騒々しさを流している。

 遥か先にある山々の影法師に、その輪郭に沿って白南風が吹き抜けていく。

 有栖の美しい髪が風になびき、笑いながらクレープを食べる姿が、あまりにも『できて』いて言葉を失うほどだった。

 彼は自分でも思わないほどに彼女に見惚れていて、怪訝そうに眉を顰めた有栖にハッとする。

「今のは、もぐもぐ、聞き返す、もぐもぐ、ところだよ」

「あ……そうだな、なんで笑ったんだ?」

「君を茶化すのが面白くて……怒らないなんて良い人だ」

「怒らないんじゃない、怒れないんだよ。一日百万も払ってくれるクライアントなんてそうそういない」

 良い人、そんな訳が無い、と彼は首を振る。

「まあ私にさっき皮肉を言ったくらいだ」

 ジト目で彼を見る、が有栖は自身の言動を否定する様に言葉を重ねた。

「私は人と喋るのは得意じゃないけど、知るのは好きなんだ」

 彼女らしい、そう言うには傲慢な関係だが、面妖な趣味だ、と彼は内で言う。

「君……いや、恭介くん、君は良い人だよ。トラウマを植え付けた私の仕事を受け、私が受けろと言った仕事すら熟して、加えて他の依頼主に文句すらつけず笑顔で対応する」

 今日の、なんでも屋に近い依頼の話だろう。たった数十分ほど前までやっていた仕事だ。

「猫を探してたあの少女、君に酷く感謝をしていたよ。何度もごめんなさい、ありがとうって」

「そう言えば、もう三回目だったな」

 黒佐藤は思い出したように言い、呆れたような、嬉しそうな、そんな表情を浮かべてクレープを口に含んだ。しつこい甘味に、スッキリとした甘味が後から追いつく。

「そういうところ、私のような偽善者にはできないこと、なんだ」

 有栖は風船の空気がまるで抜けていく情けなさと、悲哀を混ぜた随分と小さな微笑みを浮かべた。

「……」

 黒佐藤は、何か言おうと考えた。

 彼女の横顔に、けれど何かを言うにはあまりにも彼女のことを何も知らない。

 傲慢な関係、そう形容した言葉が頭の中に響き渡った。

 やっと見つけた陳腐でどこにでもある言葉は、彼女の何か覚悟を決めた表情と、立ち上がった西洋人形のような美しさの容姿に掻き消される。

「さ、行きましょう。まだ最後の仕事があるでしょう?……ってドロドロだよ!?勿体ないっ!!」

 先程の表情はもうない。

 黒佐藤へ向けた彼女の意識はそれを隠す様に、中身の溶けたアイスクリームが作る雫を垂らす彼への怒気へと変わっていた。


 見晴らしのいい川辺のベンチから、車で数十分程の場所、都市の郊外にあたる道路が真っ直ぐ繋がる平原と山に囲まれた大学病院、その手前の道を走っていた。

「んぅ甘い……」

 田中有栖は途中のコンビニエンスストアで買ったシュークリームに舌鼓を打つ。

 黒佐藤恭介はそれを後目に呆れかえっていた。

 当然だ、川辺のベンチでクレープ二つをまるで丸飲みしたように消えていたし、溶かしてしまった彼自身のも食べてしまい、挙句今も彼女の膝の上には大量の……指の数じゃ足りないくらいの『包み紙の残骸』が置かれている。

「食べ過ぎじゃないか?」

 眉を顰め、諌めるような口調の彼は、心底呆れた物言いだ。

「あら知らないのかしら?探偵は頭を使うのよ?」

 溜息を吐き、前照灯が無ければ見づらくなった前方へ目をやり「探偵は関係ないだろ……」とごちる。

 けれどむっと口を尖らせた有栖が何故だか心底心外そうに答えた。

「探偵であることを信じられないの?なら君の事を言い当ててあげようか?」

「いやそういう意味ではないんだが」

「君が売った喧嘩だよっ」

 目的地である大学病院までは、もう十分もないが、彼女も退屈なのだろう。

 快く、とまではいかないが、それなりに黒佐藤も乗り気で肯定した。

 すると――助手席に座る彼女は、再び座席を後ろに目一杯下げて偉そうにふんぞり返って足を組んだ。

 ちらと見やった有栖の表情は真剣そのもの、黒佐藤に二年前、十年前の事件と自身の関係を指し示した、あの時の『名探偵』としての彼女がやってくる。

 車内は暗く、微かであるが、有栖の目が紅く淡く光っているように見え、

「銃を持つ者としての資格を問う事になるけど、君は精神科に通ってるね」

 彼の前方へ向けた目が、僅かに見開かれた、それは言い当てられた驚愕による、微かな揺らぎだ。

「それと、どうやら一緒に住んでいる……とまでは行かないが、事務所兼家であるあそこに出入りするための合カギを持った女性がいる」

 彼女は指をぱちんと鳴らし、自尊心に驕った非常に腹立たしい顔を浮かべながら「ふふん」と鼻を鳴らした。

 フロントガラス越しの外と彼女の方へ揺れ動く眼球が、沈黙が、彼女の推理を肯定する。

 彼は否定をせず、心のうちで精神科については納得が出来た。有栖は事務所内を自由に見て廻っており、彼の住居スペースに続く扉も開けっ放しだった事もあり、テーブルに置かれていた処方箋を見られたのだろう。

 だが他については『事実』である事が解せない、黒佐藤は大きく深呼吸して、有栖へ問いかけた。

「……俺から質問を。なぜ一緒に住んでいない事が分かったのか、なぜ女性だと決めつけているのか、教えてほしい」

 彼女は宙に指で円を描く。

「簡単な事だよワトソン君。まず事前情報として私は二年前に君が女性と交際中だったことを知ってる。確か……城嶺命、さんだったかな?」

 赤信号に引っかかった際に、ちらりと彼女を見れば、顎に指を当て個人情報保護などに興味が無いのか、記憶を探って答えている。

「俺からすればあんたはホームズというよりもピンカートンに近い」

「私は君にそこまで酷い事をした覚えはないけど?」

 個人情報もそうだが、人の心の傷を抉っておいて良く言うもんだ、と口には出さない。

「じゃ続き答えるけど、随分可愛らしい水玉模様の弁当箱が流しにあったじゃない?でも君の事務所内に君以外が住んでいるような様子が無かったからだよ」

……確かに言われれば簡単な事だ、が気分がいいものではない。全てを見透かされた気分で。

「気持ちいいもんじゃないな」

 肩を竦ませると、心の内すら見透かしたように彼女は言った。

「私は正義の為に人を見透かすのが好きなんだよ……あむあむ」

 悪趣味な事だ、そう軽口を叩き、再びシュークリームを口に運び始めた彼女を見て、いつの間にか淡く紅く光っていた目が元になってる事に気づく。いや、あるいは気のせいだったのかもしれない。

 目的地である大学病院の敷地内、随分と広い駐車場へとウィンカーを焚き、ゆっくりと入っていく。

 時刻は夜の七時少し過ぎ、駐車場の車もまばらで、地平線の境界も曖昧であった。


 煌々と光が漏れるロビーを過ぎ、待合室へと入る。

 もちろん銃は抜かないが、辺りに危険が無いかどうかだけ先に入って調べ、有栖へと合図を送る。

 その様子に物珍しそうに此方を見つめる受付カウンターのスタッフ、と一般人。

 待合室にいる人間は我々を含め数名だったが、その誰もが五十を超えた老人ばかりだ。

「どうみても女の子はいないね」

「ちょっと聞いてくる」

 あまり身辺警護してる人間から離れるのは良い事ではないが、本人からの許可は得ている。

 黒佐藤は自分が武装警備員である身分証明書を提示して、受付にいた若い女性スタッフへ「高村凛、という子を探してるんですが」と尋ねた。

「あぁ凛ちゃんの!!お話は凛ちゃんと凛ちゃんのお父様からもお聞きしてます。ただ今日いらっしゃるとは思っていなかったので待合室で待たせてなくて……」

「あー、私の方から行きますのでどこにいるかだけ教えて頂けますか?」

 すると女性は病院の、簡易的に作られたA4くらいの大きさの案内図を差し出し、説明をしてくれる。

 ここは、大学病院という事もあり結構な広さなのだが、全体図は図形でいう真四角で中央がくり抜かれ、中庭が存在している。

 どうやら夜なのにわざわざ暗い中庭にあるベンチに座っているとのこと。

 道順もそれほど難しいものではなく、受付を過ぎて真っ直ぐ進んだところに中庭に出るガラス戸があるという。

「このまま真っ直ぐだそうだ。離れずついてきてくれ」

「はーい了解」

 黒佐藤は有栖へとそう告げ、言われた通り、受付カウンターの先へと歩いていき、死角は出来るだけ体を晒さず確認する。

 特に異常はなく、それが良い事だが、多少歩いたところでガラス戸を目視出来た。

 とっくに太陽が地平線の先に落ちた真っ暗闇に包まれた外、けれど照らされた建物内の他に、医療従事者が急いで移動をする為だろう明かりに照らされた渡り廊下があった。

 渡り廊下の中央には、恐らく入院患者の気分転換に設置された鉄製のお洒落なベンチが置かれており、そこに一人制服姿の少女が座っていた。

 雨避けの天井につけられた電灯を頼りに、夜闇を払って読書に興じるその姿は、彼女がまだ中学生であることを忘れそうになる。

 黒佐藤は見つかった事へと、今のところ何も問題の無い日常に安堵の溜息を吐いた。

「よし無事そうだ……っと大丈夫ですか?」

……不意に黒佐藤の話が止まる。

 中庭に通じるだけの通路ではない、彼ら二人が歩く左手側にトイレがあり、不意にハンカチで手を拭きながら出てきた足腰があまり良くなさそうな一人の老人とぶつかってしまう。

 彼も不意の事で多少バランスを崩すが、すぐに立て直し、同じ様に後ろへよろめいた老人へ手を貸そうとするが、そんな事をするまでもなく、老人は倒れようとする体をすぐさま壁で支えた。

「あぁすまないね、大丈夫、だよ」

「前を見てなくてすみません、どうぞ」

 しわがれた年季の入った声で「優しいねぇ、ありがとう」と老人は彼が譲った道を待合室がある方向へと歩いていく。

 黒佐藤は少しの不注意に気を揉むが、怪我をさせる事が無くて良かったと胸をなでおろした。

――――だが、有栖だけは受付カウンターへ歩いていく老人の背中を、じっと睨んでいた――――


 あまり病院内のエアコンに期待はしていなかったが蒸し暑い夏の夜、外に繋がるガラス戸を開ければ不快な暑さだけは防いでいるのがわかる。

 ガラス戸が鳴らす軋み音にも少女は気づかず活字へ目を走らせ続けている。

 意外にも、高村凛を知っている彼が近づくよりも速足で、有栖が彼女に近づき、声をかけた。

「隣、いい?」

 最初、きょとんとした表情で有栖を見上げた少女は、多少戸惑いつつもそれを了承し十分に空いているのに、置かれていた学校指定のバックを更に自分の方に寄せ、読書へと戻る。

 黒佐藤は……どうするべきか、悩んでいた。

 人見知りなところがあるにしても、知ってる人物の知り合いならばあの警戒も解けるかもしれないが、有栖に考えがあるのかもしれない。と悩むも結局行動に移せず、彼はただ傍観する事にした。

「ん?それってもしかして武装する探偵と学園ものが主題の最近映画にもなったラノベ?」

 横目で本を見た有栖は、少女へとそう言葉をかける。

 どうやら彼女も知ってる有名な作品らしい、黒佐藤は知らなかったが。

「そ、そうです……知ってるんですか?」

「もちろん!探偵ものは大好物でね」

 有栖はにこやかに笑うと、饒舌に語りだした。

「ラノベながら百巻近くシリーズをずーっと書き続けてるのにめちゃくちゃ面白い凄腕作家さんだから、心の底から尊敬してるんだこの先生のこと」

「わ、わたしが生まれる前から書いてる人で、わたしも、尊敬、してますっ」

 同じく熱のこもった言葉に、本当に好きなんだというのが伝わる。

 有栖は一瞬、開いたままの、少女が大事そうに寄せたカバンの中に、興味深い一冊のノートを見つけていた。

「お姉さん暇だからさ、ちょっと探偵ごっこでもしちゃおうかなっ!ルールは簡単、相手の事を言い当てられたら勝ち!」

 無邪気な笑顔の有栖に、まだ警戒心を解いていない少女は悩むが、特別どこかに連れて行こうと言われてる訳じゃないからか、頷いた。

「先行私でいい?」

「えっと……はいっ」

「あ、その前に自己紹介だけしちゃおっか、私は――シャーロック・ホームズ」

 間を開け微笑み言ったそれは偽名、ほぼ誰もが知る物語上の人物の名前だった。

 凛はそれを聞くと、ぱぁっと眩しい純粋な笑顔を浮かべ、一瞬の間を開けて飛び跳ねる勢いで答えた。

「わたしは、えと……アリア!!」

 凛は自身が読んでいたライトノベルのヒロインの名で名乗った、お互い自己紹介を終え、えらく真剣な顔で少女を……凛を見つめる有栖。

 目線はちょこんと座る少女の全身を見渡し、やがて胸元で光るペンダントへ留まった。

 それは鮮やかな小さな翡翠が表にはめ込まれ、閉じられた本の形をしており、背表紙にあたる箇所に小さな蝶番が付けられており、どうやらそれが開ける、いわゆるロケットペンダントと言われるものだ。

 少女はそれを大切にしている様だが、年季の入り方が少女の年齢と伴っていない事に気づく。

「そのペンダント、翡翠は誕生石で五月。それがアリア、貴女の誕生日で誰か大切な人――例えばお母様が使っていたのを頂いた物、とか」

 有栖は指を鳴らし、再度少女へと尋ねた。

 数秒して驚愕と感嘆を混ぜ合わせた、少女らしい純粋無垢な表情で声をあげる凛。

「す、すごいです!これ実はもう死んじゃったお母さんから小さいときに貰ったものなんです!!」

 有栖は、やはり得意げに「ふふん」と鼻を鳴らすと中学生相手の褒め言葉に嬉しそうに「そう?」と自己顕示欲を満たそうと再度問いかけ始めていた。


 何をするのか、黙って見ていた黒佐藤だが流石に無意味な行為をされ続けてはたまったもんじゃない。

 酷く呆れた様子で溜息交じりに言う。

「躊躇わずに真っすぐ行って何をするのかと思ったら……自己顕示欲を満たしたいならもっと他に方法があるだろ」

「おっと忘れてたよワトソン君」

「あんたはピンカートンだろ――金払いは良いが」

「わからないよ、当時ピンカートン探偵社はもしかしたらとてつもなく金払いが良かったかもしれない」

 それを自分で言うか、と呟きながらきょとんと少女らしい表情の凛へ近寄る。

 この間会ってから、一年どころか半年も経っていない筈だが、よその子の成長は著しいというのは本当らしい。

 伸びた身長に、徐々に女性らしくなっている少女に、どこか叔父というか年の離れた妹というか……彼の心を温まる何かが包む。

「お久しぶりです恭介おじさん!」

 元気よく礼儀よいところは、きっと高村さんに教えられたのだろう。

 お辞儀をすると隣に座る有栖と彼の顔を交互に見る。あまり状況が飲み込めていない様だ。

「あー、このお姉さん俺の知り合いなんだけど、まあまあ……その、気にしないでくれ。お父さんに頼まれて迎えに来たんだ、今日は遅いらしい」

 じろりと白い目で有栖を見て、遠回しに「大人しくしてくれ」というのを伝えるが、口角を上げた腹立たしい笑顔を黒佐藤にしか見えない位置で行う。

 依頼主である以上、強くは言えないがこれくらいなら許してくれるだろう、それを守ってくれるかは別の話になるかもしれないが。

 大学病院、入ってから特に異変も無いし、安全だろうが……と黒佐藤は痛む頭を抑えた。

「そうですか……えっと、お願いしますっ」

 凛は、父の帰りが遅い事に、儚げで悲しそうな表情を一瞬だけするが、次には元気のよいただの女子中学生に戻って頷いていた。

……父のいない黒佐藤は、不憫に思う。

 一般的な家庭とは違い、片親の家族の子供は心の内に寂しさを隠している。

 親が大変である事は理解しており、それほど我儘は言わない、言おうとはしない。けれど多感な時期での異性同性の親と関われないのは、ただ悲しく……家に帰っても常に一人なのも虚しい。

 そして自分の考えを理解してくれる者がいないのだから。

「嘘を吐いてたつもりはなかったんだけど、私も凛ちゃんのことは知ってたの」

 黒佐藤にとって初耳だったが、知っていてもおかしくはない、親バカなところがあるから。

「そうなんですか?」

「えぇ、お父さんに少しの間守ってもらってたからね」

「ホントっ!?」

 悲哀の映った少女の顔が我慢ならなかったらしい有栖が、ニコリと少女へ笑いかけ、高村刑事の話をしている。

 少女の荷物を持ってやり、前を歩きながら警戒する黒佐藤は、その様子にほほえましさを感じつつも、ガラス戸を開け、再び病院内へと入る。

 汗ばむ体に柔いエアコンからの涼風が、ほんのすこしだけ肌寒い。

「きちんとした自慢の娘だって言ってたよ、毎日毎日ね」

「えへへ」

 父親に知らないところで褒められているのが嬉しかった様で気恥ずかしそうに笑う、だが和気あいあいとした少女の雰囲気が、急に表情を変え、恐る恐る有栖へと尋ねた。

「お父さん、お仕事でどんな感じですか……?」

 暫しの沈黙、思いがけない質問に一瞬目が点になる有栖だったが、そのまま我慢できずに含み笑いしてしまう。

 病院内ということもあって控え目でこらえてはいたが、凛は少しむっとした表情を浮かべた。

「ごめんごめん、あなたくらいの子があれだけ真剣な顔になると身構えちゃうんだ。そんなに怒らないで?ね?」

 凛の手を握り、宥める彼女の顔に悪意はない。

 それを確認すると少女はもう一度問いかけた。

「……お父さんってどんな感じですか?」

「んーと、真面目で頼りになる人だったよ。他にもいっぱい人はいたけど、凛ちゃんのお父さんは段違いだった!」

 わざとらしく顎に指を当てて記憶を探る彼女はそういうと「あと、敬語なんか使わなくていいよ、私は凛ちゃんの友達だからさ」と穏やかな笑顔で少女に語っている。

 こう見れば見た目の違いを抜きにすれば、年の離れた姉妹と見えなくもない。

 背後から聞こえるきゃいきゃいと楽しく話をしている二人に、多少の冷や汗を掻きながらも黒佐藤は先導していく。

 待合室部分に入り、医療事務員から小さくお叱りを受けるも、すっかりと仲良くなった二人は小声でも楽し気だった。

「すみません」

 と苦笑の事務員に頭を下げつつ、待合室を出る扉へと向かおうとするが――――

「ねぇ……さっきのおじいさんまだいたみたいよ」

「そうみたいですね。診察時間もとっくに過ぎてたのに、トイレと待合室を往復してましたもんね」

 受付カウンターの先から男女二人の声が耳に入った。

 声は耳を澄まさなければ聞こえず、憚られる内容らしい。

 けれど待合室にほぼ人はおらず、テレビも消された状態で良く集中すればよく聞こえた。

「そう言えば誰も注意しなかったんですか?」

「しようとしたんだけど、強く睨まれちゃって……」

「警備員は?」

「それがさっき言ったんだけどもういなかったのよ」

 不審人物いたという話、注意しようとした時には既にいなかった……なんとも物騒な話だが、老人だという。

 ならそう警戒することもない筈だ。

「あ、じゃあね凛ちゃん」

「来週もお願いします」

 ここに入った時に対応してくれた事務員が、手を振って挨拶をしてくれる。

 行儀よく、育ちの良さを感じさせる凛の挨拶にほっこりとする事務員に、彼もまたほっこりとしていると……有栖が真剣な眼差しでその端正な顔を此方に近づけていた。

 何事かと刹那冷静さを欠くが、彼女の言葉に眉を顰めた。

「この子のストーカーって同級生だよね」

「あ、あぁそのはずだが……」

「だとしたら誰か別の人間がこの子を狙ってる。車の中に入るまで警戒棒とその拳銃から手を離さないように、信じて、私は嘘を吐かない」

 全てを見透かすような真っすぐな碧眼が、右の大腿に括り付けられた銃嚢の拳銃と防弾ベストの左わき腹部分に引っ掛けられている警戒棒を見、言った。

 声は至って真面目で嘘を吐いてる様には見えない、吐く理由もなく彼女は宣言通り嘘は吐かない。

 黒佐藤は問う。

「今の従業員の話か?なら詳しく聞く方が……」

「聞いて警察でも呼ぶの?未だ大勢が働いて入院してるこの大学病院で?笑わせないで、相手が何人かも分からないのだから、とりあえずはここを離れる」

……確かに彼女の言う通りであった。

 世界で活躍する田中有栖が何を感じたのかは分からないが、凛ちゃんを狙うのがストーカーでない、そう言うのであればそれは正しく、であれば警察官である高村さんに個人的に恨みを持つ者――という可能性。

 武装していない方がおかしい。

 まだ荒事は起きてないが、これはお礼参りだ。いつ起きてもおかしくない。

「俺が合図をするまで絶対に出てくるな」

 彼は有栖へ小さく耳打ち、頷く彼女を確認し、腰にある拳銃へ手を置き、あくまで何も気付いていないフリをして自動ドアの前へ立った。

 静かに開いた外と内の境界は生温い空気が充満し、もう一つ開けば肌に纏わりつく嫌な湿気が流れ込んでくる。

 ガラス張りの出入口に死角はない、左右を見れば駐車場に置かれているLEDの外灯と屋内からの明かりで大学病院の壁のシミすらはっきり見える。

 駐車場も来た時より車が減っているだけで、それほど変わりもなかった。

 けれど駐車場の造りが病院側から見れば横になるように作られていて、駐車されてる車に死角は多くある。

「ちっ」

 誰が潜んでいるか分からない状況に、思わず舌打ちが出る。

「ん……?」

 病院の入り口手前に停められていた軽自動車から、一人の老人が降りてきた。

 よく見ればそれは彼らが凛を探していたあの廊下で、トイレから出てきた老人だった。

 相変わらず足腰が悪そうで、出入口近くにあるスロープをよぼよぼと、今度は杖を頼りにしていた。

 多少の緊張と夏の夜の蒸し暑さに噴き出てくる汗に包まれながらも、階段を一歩――下がった時だ。

「そこにいる老人が敵だ!!」

 後ろの、少し離れた場所で凛の傍にいた有栖が、そう叫んだ。

 反射的に振り返った視界に入った老人は、杖状の仕込み刀だったそれを構え病院内の二人へ視線を向けている――――「みんな頭を下げて警察を呼んで!!」カウンターへ叫ぶ有栖は、素早く左脇から拳銃を抜き、そのM60の銃口を真っすぐこちらへ向けようとしている。

 傍らにいた少女の頭を下げるように半ば力づくだが、一応の安全は確保してくれている。

流石は手慣れてる。

 黒佐藤は感心と安心をするが、それほど余裕は無い。拳銃に気づいた老人――いや老人に変装しているらしい奴が、黒佐藤へぐるんと首を半回転させ、その不気味な紅い瞳を光に反射させて向け――仕込み刀を大きく振りかぶった――――

「あ、ぶねッ!」

 手すりを掴み落ちる事は無かったが、階段の段差を落下するように数歩下がった。

 ギリギリ左肩からの袈裟斬りを回避できた、が老人の格好をしたそいつはそのまま階段下へ身を躍らせ、飛びかかる様に刀の切っ先を彼に向けた。

「躊躇ないな……!!」

 例え受け身が出来ても落ちている事に変わりはない……一瞬は動けなくなる筈だ。

 刹那の思考に、大腿にある拳銃を抜くよりも先に、例え抜いたとしてもその刃は自分を貫く――警戒棒を手に取り素早く延ばし、刀を正面に体重と落下の勢いを乗せた巨大な銛のような老人を受け流す。

 耳を、鼓膜をつんざく金切り音が夜の駐車場に響き、数度火花が彼の手元で散り、精巧に人間らしく作られた老人の顔をパッと照らす。

「動く――――」

 動くな、言葉は最後まで続かない。

 彼は右手で素早く銃嚢から抜いた拳銃を、下で倒れている筈の老人へ向けた筈だったが……その姿が見えなかった。

 理解するのにコンマ以下の須臾を要する。

「なっ」

 眼下で揺らめき煌めく刃が迫っている事に。

 ギリギリで引っ込めた右腕、手首があった場所を通り過ぎていく鈍色の刃を見送って、黒佐藤は全体重をかけた前蹴りを放つ。

 はっきりとは見えてはいなかったが、確かな手応えがあった、けれど老人の姿をした何者かも、彼も階段を転がり落ちていった。

 黒佐藤の蹴りは踏み抜きにまでは及ばず、というより払われた事に踏み抜けれず転がった。

「動くな」

 だが、顔面を蹴られ、階段を転がった相手よりも、ただ転がった彼の方が体勢を立て直すのが早い。

 膝立ちで、警戒棒を脇に挟み両手で構えた拳銃は、安定し相手の真ん中で照星照門は合わせている。

 何者かは、それでも尚一瞬遅れで体勢を立て直して、その刀を構えている。

 瞳が紅く、紅く、怪し気にぼんやり光ってる気がする。

「警察官でも武装警備員でも武器を手に人を襲うのは立派な犯罪行為だ。さあ手を挙げて後ろを向け」

 何者かは、黒佐藤の言葉を聞くが、静かに動かない。

 刀を離す素振りも見せず、怪しげな瞳の紅色が、徐々に強くなっているようにも見え、老人の仮面を被った何者かの手からは一滴一滴、まるで水を浴びているかのように汗が垂れ――――

「恭介くんっ大丈夫か!?」

 酷く慌てた様子で、まだ合図も出していないというのに凛の元にいた有栖が自動ドアから外へ出て来てしまう。

「まだ終わってない!!」

 なんで出て来たんだ――!? 

 一瞬黒佐藤の意識が階段上へと逸れる。

「……運がよかったな警備員」

 何者かは――――目と鼻の先にあった軽自動車へ滑るように乗り込み、空転するタイヤに興味も示さず、駐車場をジグザグに走り去っていった。

 片膝立ちのまま、車両へ照準を合わせるが、安定しそうもなければ、あいつに当たってしまっては元も子もない。

「くそっ」

 黒佐藤恭介の悔し気な声が、焼けるゴムの臭いと、生暖かい夜の風にさらわれていく。

ちなみに次の投稿予定は未定です。

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