例えば今日の
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けたたましく鳴る目覚ましで起きた。
眠い目を擦りながらぐだぐだと体を起こし、洗面台で顔を洗う。冬になったからか、最近は水の冷たさより体の冷えの方が厳しくあまり眠気が飛ばなくなった。僕はまだ重い体を引きずりキッチンにゆき、トースターをセットしたら冷蔵庫を開け卵を取り出し、焼き始める。
眠くて眠くて仕方がないが、ここまで朝が弱かったかなと考えるとどうもそうではなかったような気がする。ただ最近は目覚ましの音を聞くことが増えた。
ボーッと目玉焼きが出来ていくのを見ながらあくびを噛み殺していればトーストが焼き上がって、回収しながらコーヒーメーカーを動かした。
トーストには何も付けず食べるのがいい。少しかじったら皿に移してテーブルに置き、コーヒーがマグカップに落ちきるまでにフライパンの様子を見に戻ると既に焼き上がった目玉焼きがあった。
が、見るからに黄身まで火が通り固く仕上がっていた。何が問題かといえば僕は生焼けぐらいの目玉焼きが好みなのだ。少し悠長にうだうだと行動しすぎた。そして、――
まあ食べられなくなるわけでもなし。僕は後頭部を乱暴にかきむしり、コーヒーをすすった後ほっと一息ついた。目玉焼きを皿に動かす前に、何となく、黄身をぐちゃぐちゃに潰した。
――そして、固めの目玉焼きは最近までいた彼女の好きなものであった。
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明け方前には目が覚めた。
私はメガネをして廊下を歩き、洗面台で顔のケアをしたらコンタクトをして、そしたらキッチンで朝食を作る。
といっても昨日の内に用意しておいた味噌汁を温めたりその程度だけど。
小鳥の囀ずる声が響いていて、空気の乾きを感じとりながらお玉をグルグル回す。
お鍋は一旦放っておいて目玉焼き用のハムを焼き始める。
ここ数日雪ともつかない雨が続いていたけれど、今日は窓からの日差し的に晴れていそう。寒さが厳しくなってきたときのために買っておいた新品のコートがようやく出番を迎えられそうだ。私にしては大人っぽいデザインを背伸びして買ったし、コーディネートをどう工夫しようかな。
そんなことを考えてたら良い具合にハムが焼けてきたので卵を落とし、味噌汁を一口掬って良い具合になっているのを確認したら寝室に向かいそして、特になにもなかった。
手持ち無沙汰になったところに丁度よく目覚まし時計が鳴り始めて、それを止めてカーテンを閉めた。
本当は、寝室に来たのは、少し前まで彼を起こしに来ていたから。
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僕と彼女の始まりはいつだったか。
そう、多分、一昨年のクリスマスだろう。入っていたサークルでパーティをしようという話になって、雪にまみれながら酒と料理を持ち込んだ記憶がある。
その日はあまり気が乗らなかったし、そうでなくとも大人数はあまり好ましくないから帰ろうと思っていた。そもそも知人に「お前の飯を食べないとなんかテンション上がらないんだよ」と純粋な好意で言われなければ出るつもりもなかった。
僕はちびちび発泡酒を飲んで適当に楽しそうに会話をして、さてそろそろと主催者に声をかけ部屋を出る。
天気予報で夜中に雪が降ると言っていたから早めに抜けられてよかった。引き締めてくる寒さにコートを引っ張りながら帰路をゆったり進む。
駅までの並木通りはイルミネーションで形作られ、遠くまで淡い光が連なって夜空の星と共に辺りを包んでいた。溶け残った雪が照らされて白く、ホワイトクリスマスを静かに見せる。
恋人たちは手を繋いで、あるいは繋ぐか繋がないかの距離で並び歩き、赤い顔にお揃いのマフラーをしてすれ違う。
子供は何やら腕一杯の袋を抱き締めて走り回り、両親だろう、父親が手綱を握ろうと追いかけ母親がニコニコと歩く。
いつの間にかとめていた足をまだ動かそうとしたとき、
「ちょっとだけ時間良いですか?」
と声をかけられた。キャッチに捕まるタイプじゃない人間だと自負していたが、どうもそういう話ではないらしい。
その人は聞いた覚えがあるようなないような、ともかくよく通るアルトで、見ると女性のなかでは背の高い子で、切らした白い息で、そして何より惹き込まれるような大きな瞳であった。
多分一年後輩だったか、さっきのパーティ会場もといさっきの家にいたと思う。
で、だ。追いかけて来たならそれの意味するところに流石に鈍くもなれまい。
そうして良い感じの笑顔を浮かべて「何かな?」と返答してから、長い付き合いになったのだ。
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私と彼の始まりは二年前のハロウィンだ。よく覚えている。
大学の後期講義が始まってからあまり経たないうちに前期の成績についてのアドバイスを貰いに、優実の入っているサークルまで来ていた。
うん。やっぱり誤魔化すのはやめよう。必修科目に落単が出たからすがりつきに行った。幸い友達の特に仲のいい先輩が同じ再履修を受けていたのを知っていたので話が早くてよかった。
最終的に別の教授が持ち込み可の同じ授業をしていることを聞き、出来れば半年前に教えてほしかったなーとか思いながらサークル部屋を出ようとしたとき、その人が入ってきた。
その人の高めの身長、すらりとした立ち姿、長い指先、緩やかな雰囲気、そのどれもに心がざわついて仕方がない。サークルメンバーに挨拶をするその人をずっと見ていると、優実が「やっぱ男のセンスないね」と笑った。
キャンパスですれ違うときや食堂で見かけると眺めてしまう日々が続いて、やっぱり気になるから恐らく彼が入ってるサークルにまで参加して、色んな好みを聞いて回って。
私が分かりやすいタイプだとはよく言われる。今回もそんなに話したことのない先輩が「年末予定ある?」とか、わざわざクリスマスに場を整えてくれたくらいには。それで何だかんだと相談にのってくれたりしてくれて、そして付き合いはじめてあっという間に時間が流れていった。
結論、一目惚れだったのだと思う。
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僕は、今日はコーヒーショップで早めの昼食をとってしまうことにした。こういうお店でナポリタン、とても情緒的で好ましい。
こうして静かに甘ったるく作られた味を啜るのは久々であった。最近はスイーツバイキングやらなんやらショッキングな色味の甘味処に連れ回されることが多く、食傷していたのだ。
そう言いながら甘い味付けのものを食べているのはやっぱり情緒というか、コーヒーショップはナポリタンというありがちな物語描写というか、まあそんなものだ。特にはっきりさせても意味はなし。どうでもいいか。
なんとなくいつもの癖でテーブル席を選んだが、誰かが一緒に座る予定はなかった。その空席をボケッと眺める。
今まで対面で同じくナポリタンを食べていた彼女はよく「この優しい味が口に広がると幸せだし、モチモチの麺も食べやすくて好き」と言っていた。
彼女は色んなものに興味をもって、それがどうして好きなのかを言葉を尽くして話してくれた。
あのブランドは柔らかくて着心地がいいからとか、そのぬいぐるみは昔読んだ本に出てきて可愛かったからとか。
そう話す彼女は幸せそのものであったし、それに影響されて好みが広がっていくのは心地よかったのを覚えている。
同じように彼女は愛している理由をよく噛み砕いて、なぜ好きかをよく伝えてくる人だった。
リラックスしてるときの表情とか、髪をすいてくれてるときとか。
それを聞く僕は人との関係性を明示的な言葉にすることが嫌いで、内心苛立っていたのを自覚している。
お互いの間柄を示すのにおいていくら言葉を尽くせど、鋳型に入れた意味しか伝わらないし、それは繋がりのありかたを陳腐な形に落とし込んでしまう。
何より理由は、それさえ他のものに用意すれば移ろいゆくのではないか。人的魅力の薄い自覚のある僕である必要のある理由はあまりに乏しい。
彼女は伝えることにこそ意味を持っていたようだが、それは僕にはわからない価値観だった。
カラリと、コーヒーの氷がグラスと当たる音がした。止まっていた手を再び動かし始め、麺を巻き取る。
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私は今日お弁当を作ったので、中庭で友達二人とランチにした。今日のは特別上手く作れたと思う。肌寒い季節にはなってきたけれど、日当たりのよいこの場所は暖かで気持ちがいい。
タッパーに詰め込まれた、甘辛く作ったドレッシングのサラダを片付ける。今週はちょっとだけ食べ過ぎたからこういうのでお腹を満たさないと今後の体重計が怖くてしょうがないのだ。
大学に入ってからできた友達の六花は最近気になる男子がいるらしくて、恋話で今日は終わりそうな予感がした。六花はいい子だし人を見る目はあるけど、決心がつかないタイプだ。きっとうまくいくと感じるけど、六花としては不安なんだと思う。
小学校だけ同じだった優実が話を引き出そうとして、いつから意識し始めたのかとかアプローチの仕方とかは話すけれど、好きなのかどうかだけはまごついて話さない彼女を見て、彼のことを思い出していた。
彼は誠実な人だった。
何をするにも必ず一つ一つ自分に意味を与えながら動き、適切に簡潔に話す。
それから物事をよく見通していた。
例えばなんとなくムカムカして彼に一方的に怒鳴ったとき、何故怒っているかわかるか聞いたら「それは君、怒りたいからだろう」と言われたのだ。そのとき私は確かにそうであったことを自覚して大笑いした記憶がある。
そんな彼が理屈を抜きにして好きだと、照れ隠しに顔の前で手を擦り合わせたりそわそわするところが好きだった。
また彼は寡黙な人だった。
何をするにも自己完結していて、なんでこうするとかそういうことをほとんど言わなかった。
悩みも不安も何もかも自分の中に閉じ込めて、心の内を何も共有してくれない。
話してくれないと何もわからないのに、いつも大丈夫だからと気を使う。私はそれが嫌いだった。
恋人は嬉しいことを分け合って喜び合って、苦しいことを吐き出して寄り添って、楽しいことを一緒にして、悲しいことを二人で受け止めて、そうしてお互いのことを深く知っていって愛し合うのだと私は思う。
だから彼のことをもっと教えてほしかったのに、わからないままだった。
いつか彼は言葉は誤解のもとだと言っていた。それはそうだと思う。けど無意味に怖がって何も言わなければ誤解すら出来ずに終わってしまう。誤解して理解してまた誤解して本当に分かり合えるまで努力すればいいのに。
告白するかどうかの話がヒートアップし始めたくらいでもう時間だということを二人に伝えて片付けを始める。六花に励ましをしてリュックを背負った。
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つまるところ、彼女に求めていたものとはなんだったのだろうか。
さっきまで一緒にいたあの娘に、また今度と言った帰り道のアーケード街で、ハートがふんだんにあしらわれたホワイトデーの店内を見ながら考えていた。
あの娘は奥ゆかしいという印象をもたれがちな子だ。彼女とは正反対と言ってもよく、言外に含ませた意味を読み取ると今何を考えているのか、百の言葉よりよく伝わってきて心地よい。
ただ印象とは違い情熱的といってよい。こちらに伝わるように積極的に好意を匂わせてくるし、圧しがとても強い。
もし付き合うとすれば楽しいに違いない。ただ、そのつもりはない。あの娘に対してまだ、何かどうしたいとも思えないのだ。
では、他の人に対してはどうであったか。
もう一度問う。彼女のどこに惹かれたのか。
恋愛は何も要望によってするものでもないが、さりとて欲望もなしに出来るものでもないだろう。ならば、僕の充足の矛先とは?
家事全般の上手い点?いや魅力であることは間違いないけども家庭的なタイプが好みの俺、とかいう程でもない。
快活さ?なるほどさもありなん。僕は除くが。
…好きであることそのもの?ふふ……面白い冗談だ。
己の感情に理由を求めたがわからないもので、まあ、そんなものか。
どうせ僕のことだし、体目当てだったのだろう。映えるルックスをしていたし、多くの人が好感をもつことに疑いはなく。
で、あれば。凡百に収まる程度の僕はまあ、そういうことだと思う。
そう、丁度そこにいるようなすらりとした長身に綺麗な髪にぺったんこに――
――というか、そこにいるのは彼女であった。
カフェでスーツを着た男性と座る彼女の傍らに何かあって、この時期となれば当然マフィンのお返しだろう。
少し気になって歩幅が小さくなる。気兼ねなく笑う彼女を見るにかなり親密であることが伺えて、少なくとも一朝一夕の間柄ではなさそうだ。となれば当然
まあ、親戚だろうな
さすがに元恋人を延々眺めるのは気味が悪い行為なので帰ろうと思い、最後に彼女の顔を見ると、嬉しそうに笑っていた。
あの表情はみたことある。というか何度も見た。最も印象深かった気もするし、気にも留めていなかったかもしれない。だが、僕が彼女を語る上で欠かしてはいけないものだった。
あれは、何かを好きだというときの顔だ。一緒にナポリタンを食べているときのあの顔。デートで服を見に行ったときのあの顔。あのときの。あのときの。
それを見て理解した。ああ、僕は、きっと、
恋に恋する彼女が好きだったんだ。
さようなら、僕の恋する人。
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彼を好きになるきっかけは結局なんだったのだろう。
カフェで待ち合わせした、いとこの友久と話しながらそう思った。
友久は目付きが悪いので、初対面では怖がられるタイプだ。実際私はこの人近づかない方がいいなと思っていた。
けど話してみれば心の底からとても優しい人だとわかる。
印象は結構大事だ。なら私は彼をどうして、と思う。
好きなところを聞かれれば、全部だった。
余すことなく好きだったし、はっきり言って今も好き。でももう彼そのものに対して何とも思わないしただの友達だ。
人の気持ちは簡単に変わらないし、ただその中身と関係性が変わるだけなんだと私は思っている。
例えば、この好きの中身だ。
最初は彼の何もかもを知りたい気持ちに繋がっていた。彼の趣味や生活、手癖や好きな女の子のタイプとか。
それで私は出来るだけ髪の毛を下ろすように心掛けるようになった。好きだから、相手の好きな人になりたかった。
こうやって誰かの好みにしたりとか、逆に私が誇れるものを磨き上げていったり、色んな影響を受けて自分が出来上がって、そういうのが人なんだと思う。
次に彼と付き合ってからは好きが幸せそのものを表すようになった。
好きを受け止めてくれる相手がいて、そして返してくれてそれが幸せ。
彼は多分気づいてないけど、前まで私は別にナポリタンを好きとか嫌いとかはなかった。
ただ彼と食べに行ったことが嬉しくて、彼が好きなもので、だから好きなんだ。頬を緩ませて頬張っておいて好物なのを隠してるつもりだったんだから甘いところも好き。
世界の何もかもが彼となら全部楽しくて、それで大好き。
最後の好きの中身は思い出。もう過去になった形をそっと心の奥にしまっておくための好き。
本当は彼を酷いやつだと罵ってしまえればよかった。
でも今までの楽しかった出来事に嘘をつきたくないし、何より思い出を捨てたらまた彼を愛してしまう。彼とはただ合わないことがわかっただけ。
だからあの夢のような時間を大切にしたいから、「彼が好き」に全部詰め込んで、ときおり懐かしむための箱。
こうやって好きがずっと残ってる。だから私の気持ちのどこかにそうなった理由が落ちているはずなんだけど、見つからなくてずっとモヤモヤしたまま残り続けていた。
友久がホワイトデーのお返しにくれたチョコは限定品で、朝早くから並ばないと買えないやつだった。
私が大変だったでしょと言うと、友久は受け取ってくれる人の笑顔を考えればどうってことないと返してくる。
こうやって感覚が会うような人と付き合えたら楽だろうなと思った。
そう思うほどにあんなに難しい彼のことを好きだったのかと思う。
そうして話しているとふと風が吹いて、顔を背けて受け流そうとした。
そしたらたまたま目に入った人がいた。
彼だ。歩きながらスマホで何かを打ち込み、終わったらポケットに手を入れて去っていく彼を目で追っていた。
彼は珍しい表情をしていた。どれだけかと言えば私と付き合う前に数度しか見たことないくらい。
どこか遠くを眺めるようなそんな表情で、そういうとき彼はこの世の何にも興味が無さそうな浮世離れした雰囲気を纏う。
ああ、それだ。私が好きになったのは。ずっと、心の中に突き刺さっていたんだ。
何にも捕らわれない自由な彼を好きになったんだ。だから、
彼が好きなら、彼を好きになってはいけなかったんだ。
さよなら、私の愛しい人。