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名前も顔も声も知らない、君の元へ

作者: くろっく

 本や服が散乱する小汚い部屋に置かれた、電子ピアノ。全長はおよそ2メートル。小学生でも弾けるよう、小さく設計された物だが、それでもやはり場所を取る。

 時が経っても色褪せない、立派なピアノ。大学生の一人部屋には、明らかに場違いな代物だ。しかし、捨てたり売る気にはならなかった。

「ピアノを弾け、か」

 午後十時。決まって僕は、この時間にピアノを弾く。

 右手で鍵盤を撫でる。もう何度、この鍵盤を叩いたのだろう。どれだけの楽譜を演奏したのだろう。数えきれない程の音符を繋ぎ、紡いだ。

 小学生の頃からずっと使っている背付ピアノ椅子に座る。椅子の高さを調整して、背筋を伸ばす。全身から力を抜き、深呼吸をして、鍵盤の上に両手を添えた。軽く鍵盤を叩き、音の調子を確かめる。自分の中の音程とピアノの音程を脳内で合わせていく。

 目を瞑り、頭の中で五線譜を描く。スコアの上を跳ねる音符を一つずつ捕まえて、自分の音にしていく。

 音符と音符が完璧なタイミングで噛み合った瞬間、僕は演奏を始めた。

 十の指で、千の音色を奏でる。

 名前も顔も声も知らないあの人の為に、今日も僕はピアノを弾く。


 小学生の頃の記憶なんて、ほとんどない。母親と一緒にピアノを弾いていた記憶しかない。


 小学校に入ってから、僕はピアノを習いだした。僕が習いたいと言い出したわけではなく、母親にすすめられて、面白そうだったからなんとなく始めたのだ。母親が大の音楽好きなので、僕にも音楽に触れてほしかったのかもしれない。

 特に深く考えることなく、軽い気持ちでなんとなく触りだしたピアノだが、僕は見事にハマってしまった。

 リズムに合わせて鍵盤を叩くのが楽しかった。鍵盤を叩くと、音が鳴る。そんな当たり前のことが新鮮に感じた。間違えることなく完璧に演奏できると、他では味わえない達成感があった。難しい曲をピアノの先生と一緒に練習している時間に幸福感を覚えた。

 気付けば、ピアノの虜になっていた。

 音楽に魅せられてしまった。

 いつからかピアノ教室だけでなく、家でも弾きたいと思うようになった。しかし、当然の話だが、ピアノはレンタル出来るような物ではない。実際に買おうとすると、かなりの値段だ。五百円玉を与えられただけで喜ぶその頃の自分は、十万円という金額がどれだけの物か知らなかった。

 ピアノだけじゃない。習い事の月謝もあるし、本格的に始めるなら楽譜などの教材を買う必要も出てくる。

 決して安くはない習い事。しかし、両親は嫌な顔一つせずピアノを買い与えてくれた。当時の自分は買ってもらえて当たり前だと思っていたのかもしれないが、今こうやって振り返ると、感謝してもしきれない。

『大切に、弾いてあげなさい。ピアノを大事に使ってあげなさい』

 父親のその一言を、僕はまだ覚えている。小さな頃に印象に残った言葉はいつまでも胸に刻まれるのは、本当に不思議だ。

 早くからピアノを触り始めて良かったと、心から思う。ピアノは僕に様々なことを教えてくれた。音楽の素晴らしさ。道具を大切にするという道徳心。僕と同じく、ピアノが好きな子との交流。色々なものを与えてくれた。

 子どもには不分相応な電子ピアノ。教室でしか触ることが出来なかった代物が家に来た時は舞い上がった。こんなに立派な物が自分の部屋にある。そのことが嬉しくて、誇らしかった。このピアノが僕を一つ大人にしてくれたような気がした。

 家では母親と一緒にピアノの練習をした。時を忘れて、ピアノを弾いた。

 周囲の男の子たちは、ピアノなんて女の子がやるものだとバカにした。

 ピアノを習っていることをバカにされると、僕は酷く機嫌を悪くした。まるでピアノそのものを貶されているようで、怒りを覚えた。

 ある日、そいつらを家に連れてきて、実物のピアノを見せてやり、そして実際に演奏してみせた。

 人前で演奏することなんて滅多に無かったし、その時の自分は頭に血が上っていた。リズムはズレていて、何度か鍵盤を間違えて押してしまった。

 それでもなんとか、最後まで演奏することが出来た。……酷い出来だった。またバカにされるだろうと思った。

 けれど、彼らは拍手を送ってくれた。目は輝いていて、僕の演奏を悪く言っている様子は一切無かった。

 ピアノって凄いな、それを弾くお前も凄いなと賞賛してくれた。

 その拍手が、とても嬉しかった記憶がある。

 人に褒められることを覚えた僕は、さらに調子に乗った。

 ピアノ教室の先生から推薦され、演奏会に出ることもあった。

 楽譜通りに弾くと、褒めて貰える。拍手が貰える。それが嬉しくて嬉しくて仕方なかった。


 中学生になってからも、僕はピアノを弾くことをやめなかった。むしろ、小学生の時よりも触る時間が増えた。部活動には入らず、授業が終わったら即帰宅して、延々とピアノを弾いていた。習い事も、小学生が通うようなピアノ教室ではなく、もう少し踏み込んだ、専門的なスクールへと通うようになった。

 ピアノの腕は日に日に上達していった。指が勝手に鍵盤に吸い付き、楽譜を見なくても勝手に頭の中で音楽が流れた。十本の指が自在に動き、コンクールで賞を取ることも多くなった。

 毎日が楽しかった。

 けれど。

 そんな日はいつまでも続かなかった。

 高校受験。

 とても現実的な不可避の壁にぶつかった。

 音楽科のある高校はとても少ない。県内に一つか二つある程度だ。そしてそれらは、家から通える距離ではなかった。

 今まで両親に甘えて生活してきた自分に、寮生活なんて出来るのだろうか。不安で一杯だった。

 音高や音大は、医大進学と同じくらいの金がかかる。音楽に特化した高校だけあって楽器も多数あり、設備費も高額だ。コンクールへの出場もタダではない。小学生の頃に通っていた小さなピアノ教室や、中学時代に通っていたスクールよりもより高度で、より高額なレッスンを受けることになるだろう。今まで使っていた子ども用の電子ピアノではなく、百万円を軽く越える、本物のグランドピアノを必要とする時も出てくるかもしれない。

 果たして、それだけのお金をかける価値があるのだろうか?

 そもそも、僕は音楽の道を本気で歩む気があるのだろうか?

 ピアノは、言ってしまえば趣味だ。楽しいから弾いているだけだ。音楽科に進んで、自分は挫けることなく道を歩むことが出来るのだろうか。ピアノの技術は充分にあると、自負している。しかし、ピアノ以外の楽器に関する知識はからっきしだ。他の楽器を触る機会も当然あるだろう。周りに付いていくことが出来るだろうか?

 ……将来について考えると、頭痛がした。

 そもそも、音楽の道を歩んだ先にはなにがあるのだろうか?

 ピアニスト?

 音高や音大の職員?

 フリーの演奏家?

 楽器店?

 ……分からない。その頃はまだ中学生で知識も想像力も足りていなかった僕には、ピアノを主とした職業に就いている自分の姿が上手く想像できなかった。

 けれど、中学の頃の自分でも「芸術」で食べていくことが難しいことくらいは分かっていた。

 もちろん、音楽専門の高校に通ったから音楽への道を進むことが確定するわけではない。言ってしまえば、高校なんて通過点でしかない。地元の高校に入学して、その後、音大に行くという選択肢もある。

 ……そもそも。

 芸術って、なんだ?

 アートってなんだ?

 僕はピアノを楽しく弾きたいだけなのに、どうしてこんなに迷わなきゃいけないんだ?


 僕は家から電車一本で通える、公立の高校を第一志望とした。無難な選択だ。

 十五歳に具体的な将来を描けと言うのが、無理な注文だ。


 地元の公立高校だろうが都会の音高だろうが、受験勉強をしなければならないことに変わりはない。

 夏休みが終わると、次第にピアノを弾く時間が減っていった。ピアノを弾くと、両親に怒られた。ピアノは高校に入ってからでいいじゃないかと、注意された。時間が足りないので、習い事もやめることになった。両親が家に居ない時間帯に少し触る程度になってしまった。

 日に日にクラスメイトの雰囲気も変わり、受験勉強が本格化していった。色褪せて、乾いた毎日が続いた。

 埃が積もるピアノを見て「これが大人になるということなのかな」なんてことを思ったりもした。


 ピアノを触らなくなって二ヵ月が経った頃、一通のメールが届いた。

 差出人の名前は無かった。メールアドレスも見覚えが無い。

 そのメールには、たった一文。


『ピアノを弾け』


 ……新手の迷惑メールだろうか。それとも、送信先を間違えたのか。僕は不信感を覚えながらもそのメールを削除して、勉強に戻った。

 しかし、次の日もそのメールは届いた。『ピアノを弾け』と、一文だけ記されたメール。

 次の日も、次の日も、次の日も、それは届いた。

 勉強の最中にうるさいな。命令口調をやめろ。正体不明のメールに返信する気になどなるはずもなく、僕は無視し続けた。

 ……着信拒否に設定しなかったあたり、内心、この不思議なメールを楽しんでいたのかもしれない。


『ピアノを弾け』


 そのメールは毎日二十二時に届くのに、なぜか休日は十五時に届いた。せっかくの休日なので、久しぶりにピアノを弾いてみることにした。

 タン、と鍵盤に指を降ろす。それに合わせて、音が生まれる。僕は楽譜も見ずに、指を動かす。

 音符が頭の中で踊る。音符と共に、指も鍵盤の上で舞う。打鍵感が心地良い。音色を創作して、アレンジを加え、自分の感情を叩き込む。

 ああ、やっぱり……ピアノを触っている時が一番楽しいな。

 アーティスト気取りの、中学生。

 別にいいじゃないか、気取っても。

 その日から、僕は無理やり時間を捻出して、二十二時になるとピアノを弾くようになった。


『ピアノを弾け』


 最初は命令口調に苛立ったものだが、いつからか、このメールが届くと「ああ、もうこんな時間か。じゃあ少しだけ弾くか」と思えるようになった。いつの間にか、不審なメールは原動力となっていた。

 空気がほどよい冷たさを帯び、季節の色が秋めく頃。受験勉強はより過激化していき、ピアノを弾く時間は無くなった。放課後も塾に通って勉強をした。遊ぶ暇など無かった。


『ピアノを弾け』


 ……そんな中、飽きることなくメールは届いた。

 うるせえな。

 勉強しなきゃいけないんだよ。

 …………しなきゃ、いけないんだよ。

『僕だって弾きたいよ』

 気付けば、僕はメールの返事を送っていた。

『弾きたいのに、弾けないんだよ。なのにピアノを弾け? ふざけんなよ。バカ言ってるんじゃねえよ』

 どうせ返事は来ないだろう。苛立ちをぶつけるように、連続してメールを送る。

『やりたいのに、やれないんだよ。勉強しなきゃいけないんだよ。このもどかしい気持ちがお前には分かるか?』

 受験勉強で、ストレスが溜まっていたのだろうか。顔も名も知らない宛先人に、僕は内に秘めた思いをぶつけた。

『ピアノ、弾きたいよ。勉強なんてやめて、延々と弾いていたいよ』

『地元の高校じゃなくて、音高に通いたいという気持ちもあるよ。けれど、どっちが正解か分からないんだ』

『不安だらけなんだ。一寸先の未来すら見えなくて、不安しかないんだよ』

『教えてくれよ』

『なんでやりたいことを我慢して、やりたくないことをやらなくちゃいけないんだよ』

『これが大人になるということなのかよ』

『なんだよ、それ』

『めんどくせえんだよ、色々と』

『子どもじみた考えだと言われてもいい。ガキだと罵られてもいい』

『弾きたいんだよ』

『ピアノを、弾きたい』

 メールを、送信する。

 言いたいことを言うだけ言うと、突如、虚無感に襲われた。返事が来ない宛先にメールを送るなど、この上ないほどに滑稽だ。これでは、壁に向けて話しかけているのと同じだ。思わず自虐的な笑みを浮かべてしまう。

 時間を空費した。勉強に戻ろう。そう思った、その時だ。

 着信音が、鳴った。


『君の音楽が聴きたいんだ』


 目を、疑った。

 午後十時に、必ず届くメール。しかし、とっくに時間は過ぎている。

 そして何より、文面が違う。

 なんだこれ。

 返事を送ればいいのか? 文章に従って、演奏すればいいのか? いや、ピアノを弾いたところで、メールの送信者に音が届くはずがない。

 どういうことなんだ? どうすればいいんだ?

 困惑しているところに、再び、着信音が響く。


『ピアノを弾いてくれないかな。君の音楽、好きなんだ』


 ……おいおい。いつもの命令口調はどこにいったんだよ。なんで急にお願いなんかしてくるんだよ。

 調子が狂うだろ。

 好きとか言われると、困るだろ。

 今まで僕は、自分の為だけにピアノを弾いてきた。

 演奏会やコンクールだって、楽しそうだったから出ただけだ。スクールも、技術向上の為に通っていただけだ。

 いつからか、母親と一緒にピアノの練習をすることは無くなった。

 一人で、弾いていた。

 孤独に、延々と演奏していた。

 誰も聴かない音楽を、弾いていた。

 僕の音楽を好きと言ってくれる人が現れて、嬉しくて、泣きたくなった。


 一台の、子ども用の電子ピアノ。大切に使うように言われた、僕の宝物。

 右手で鍵盤を撫でる。演奏を始める前に必ず行う、小学生の頃からの癖だ。

 今ではサイズが合っていない、座るたびに軋んだ音を鳴らす小さな背付椅子。ボロボロにかすれた楽譜。月日の経過に連れて摩耗した電子ピアノ。

 目を、瞑る。

 脳内で、五線譜を描く。

 ピアノも楽譜も古くなってしまったが、音楽は今も新しいままだ。

 生まれる音符を優しく摘まみ、鍵盤を、軽く押す。開演の合図。

 自分一人しかいないコンサートの、幕開けだ。

 小学生時代の初めてのコンクールで弾いた曲を、僕は弾いた。思い出の曲だ。

 軽やかに動く二本の腕。小学生の頃とは比べると遥かに洗練され、鍛えられた音符の集合体。暗く薄汚れた部屋に響く、全身全霊。魂の音。

 十本の指が五線譜の上で弾む。ピアノの端から端まで全て使い、音は次第に増えていく。増幅する音楽たちを、僕は指揮する。際限なく生み出される音が暴れないように、壊れないように、優しく丁寧に、鍵盤を叩く。

 やがて、終わりに向かって、音楽は一本の線となり、譜面の上を走る。

 最後の一音を、叩く。

 今まで積み上げてきた音楽を、全て出しきった。

 ああ、本当に。

 ピアノは、楽しいな。




 演奏が終わった後、再び着信音がした。

『これからもピアノを弾け』

 ……また命令系かよ。素直じゃないな。

 僕はそのメールに返事を送り、再び鍵盤に手を添える。

 次はどの曲を弾こうかな。

 この音色が、君の元に届くといいな。

 名前も顔も声も知らない、君の元に。




END

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