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帰国

突然、大きな音がして、琴原奏音ことはら かなとは受け取った300万円を落としそうになった。

「大丈夫ですか、お客さま」

カウンター越しの女性銀行員が反射的に手を伸ばしかけた。だが、奏音は彼女の手が届くよりも早く、厚みのある封筒をかばんにしまった。

「ええ、少しびっくりしただけです。この音、生演奏ですよね」

奏音の素早さに唖然としていた女性は、思い出したかのように笑みを浮かべた。

「はい。当行の地域の皆様とのふれあいを大切にしようという活動の一環で、毎月二十日にはこの本店のロビーで演奏会を行っております」

おそらく何度も同じことを聞かれているのだろう、台詞を読むみたいに流暢に話し出す。

その女性の声も、階下から聞こえてくる旋律は、奏音の耳には入っていなかった。心臓が胸を突き破って出てきそうなほど激しく脈打っていて、それどころではなかった。

「ありがとうございました」

話の途中だったが奏音は席を立った。そしてまたのお越しをお待ちしておりますと頭を下げた銀行員に構わず、足早にカウンターを立ち去った。

かばんの中には奏音の母親の通帳と、印鑑が入っている。母親が光という男女ともにありそうな名前だったおかげで、少しも怪しまれることなく全額引き出すことができた。

悪いことをしている自覚がないわけじゃない。でもこれは、俺の金だ。奏音はたすき掛けにしたショルダーバッグをきつく抱く。右肩に掛けたバイオリンが少し邪魔に感じた。

階段を下りながら何度か自分に言い聞かせているうちに、鼓動が収まってきた。

先ほどの女性が言ったとおり、一階のロビーでは十数人の合奏が行われていた。演奏者は皆制服を着た行員たちで、パイプ椅子で設えられた即席の観客席には高齢者が二十人ほど腰を下ろし、熱心に聞き入っている。奏音を驚かせたモーツァルトの通称「びっくりシンフォニー」を聴きながら、気持ちよさそうに舟を漕いでいる老人がいて、それが奏音の胸に苛立ちを生んだ。

――あんな音でびくびくしてた俺がバカみたいだ。

ちょうど演奏が終わったのでそのまま銀行を出ようと思ったが、不意に観客席の会話が耳に飛び込んできた。

「倉島さん、上手に弾かはるわね」

「それにとっても楽しそうよねえ。いつもにこにこしてはるけど、バイオリン弾いてはる時はほんまに楽しそうやなあ。今日もかわええわ」

最前列に座る二人の老女たちだとすぐにわかった。彼女たちは丁寧に髪を整え、はたから見てもわかるよそ行きの服で、ついでにその席に座った老人たちの中では浮いて見えた。バイオリン奏者のよく見える左側を陣取っていて、倉島の固定ファンなのだろうと察しがつく。

奏音は五人のバイオリン奏者の中に「倉島」を探した。すぐに第一バイオリンの男だとわかった。制服の左胸に名札をつけていたが、本当に楽しそうにバイオリンを弾いているのは彼だけだった。

年は二十八の奏音と同じか、少し下くらいだ。癖のある黒髪のボブに、瞳の大きなはっきりとした顔立ち。女に勘違いされてもおかしくないような中性的で柔らかな印象だ。なるほど老女たちがかわいいと色めき立つのもわからなくはない。

次の曲が始まったので奏音は最後列に座った。ヴィヴァルディの「四季」だ。夏の第一楽章は途中から第一バイオリンのソロがあって、段々と盛り上がっていく。

そのパートに差しかかり、奏音は違和感の理由に気づいた。第一バイオリンの音程が微妙にずれているのだ。普通の人ならわからないかもしれない微妙なずれだが、ヴィヴァルディの第一バイオリンをこなせるような人がわからないはずがない。奏音の耳には、そのずれはなおさら歴然として聞こえた。そしてそれだけ音をはずしているにもかかわらず、楽しそうに弾いている倉島の姿が、癇に障った。

――所詮アマチュアだろ。関係ない。

奏音は演奏の途中だったが席を立った。自動ドアを抜けると、真夏の熱気に息が詰まった。屋根があるので直接日差しを浴びることはないが、観光客と修学旅行客でごった返す京都の四条通りは奏音の不快指数を更に上げる。のろのろと歩く人の隙間を縫うように歩く。頭の中にはまだ調子はずれの「夏」の第一楽章がこびりついていた。

奏音は倉島を思い出し、そして自分があんなに楽しんでバイオリンを弾いたことがあっただろうか、と思い返した。

奏音がバイオリンを始めたのは三歳のころだ。箸を使うことさえまだままならなかったらしい三歳の誕生日にバイオリンを買い与えられた。奏音自身そのころのことは覚えていないのだが、「箸よりもバイオリンの方が上手に持てた」とたびたび母の光から聞かされている。

母の光はプロのバイオリニストだ。祖母は宝塚歌劇のファンで、幼い割に細くて背が高かった光をなんとか歌劇学校に入学させたかったらしく、まずにバレエを習わせたそうだ。ところが光が興味を持ったのはバイオリンで、祖母はバレエと両立できるならと言って習わせたらしい。

学業はもちろん、その二つを光は大学受験を控えた高校三年になるまで続けていた。大学を決めるに当たり、光は頼み込んで音楽大学に入学した。華やかな実績のある海外の大学ではなかったが、光は自分の努力一つで世界をまたに駆けるプロになった。

その苦労があるからだろう、光は奏音にバイオリニストにさせるための努力は惜しまなかった。フランスのパリ音楽高等院に留学させるために、バイオリンは早々にプロを引退した母に教えられた。高校は国際科でフランス語を学ばされた。反対を押し切ってオーケストラ部に入ったが、部活が終われば家で母のバイオリンのレッスンだった。

だから、奏音には友達とゲームセンターでたむろしたり、女の子と始めて手を繋ぐのにどきどきしたり、なんて甘酸っぱい青春の思い出はない。あるのは高校のころのたった少しの楽しかった部活での合奏の記憶だ。でも、そのほとんどが、牢屋みたいな家の防音室で、母の厳しい指導に耐えた記憶に埋もれてしまっている。

大学に留学した時には一生家に帰ってやるものかと思ったものの、二十七歳になった今年、奏音は下京区にある実家に帰ってきた。

母は毎日午後から教室でバイオリンを教えているし、国際的に有名な作曲家である父の奏司そうしは、そもそもめったに家に帰らない。時々国際電話をするくらいで、顔を見るのはテレビや雑誌でのことの方が多い。

京都駅から歩いて十分ほどのところにある実家は、奏音が渡仏中にリフォームをしたのか、外壁が白からグレーに塗り替えられていた。だから一瞬、それが自分の実家だったかと奏音はうろたえた。もちろん合鍵は持っているが、人の家に上がり込むような気まずさだ。無人だとわかっていても、知らずと足音を忍ばせてしまう。

奏音は突き当たりのリビングに行く手前にある光の部屋に入った。母も父も、それぞれ自分の音楽に向かい合うために個室を持っている。母は一階のリビングの手前、父は二階。奏音はその隣で、父が作曲をしている時は息を潜めるように生活していた。バイオリンは一階の防音室で弾かなければならなかった。

母の光は一つのことに集中すると周りが見えなくなるタイプで、コンサート前なんかは部屋の中が荒れ放題になっていた。だからだろうか、昔から大事なものをひとまとめに置く癖がある。そのおかげで、八年ぶりに帰ってきた奏音にも、通帳と印鑑の場所はあっさりとわかった。

その二つを机の上にある引き出しの一番下に戻したとき、左手にある棚に並んだ本が数冊倒れた。たったそれだけの音でも奏音は飛び上がりそうになった。倒れた本を元の位置に戻す。侵入した状況証拠を消しているような気になって、そんなことをする必要もないのに、と思った。ここは俺の家だし、母の部屋とはいえ入るなと言われたことはない。それに、かばんの中のこの金は、俺が仕送りを続けていた金だ。決して盗んだわけじゃない。自分に奏言い聞かせながら、奏音はしかし、鍵の音にまで注意を払って家を出た。

フランスのアパルトマンに部屋を持っていた奏音にはこちらに家はない。いや、たった今出てきたのは紛れもなく実家なのだが、そこに滞在する気はなかった。他人の家みたいに居心地が悪かった。


夜は高校の部活仲間の嵯峨俊幸さが としゆきと会う約束をしていた。高校一年の時、同じクラスで、琴原と嵯峨という苗字のために前後の席になったのが話すきっかけだった。人と接するのが苦手な奏音は自分から話しかけることはなかった。だが、嵯峨に話しかけられて、眺めていた楽譜に気づいて音楽の話をしているうちに、すぐに意気投合した。

渡仏してからも時々思い出したように、嵯峨とはやり取りしていた。顔を合わすのは高校卒業以来だった。引き出した金をすべて自分の口座に移し、約束の六時半まで本屋で時間を潰した。

阪急烏丸駅と地下鉄四条駅の連絡通路の間にあるドーナツ屋の前。六時半ちょうどに着いた奏音は、人の往来の中に嵯峨を探した。

「ごめんごめん、帰る前に仕事飛び込んできてさ」

十分ほど待つと嵯峨がやってきた。奏音を見るなり小走りでやってきた嵯峨は、当時茶色だった髪が黒になったくらいで、八年前とあまり変わっていない。奏音よりも五センチ高くて、細身の奏音が横に並ぶと、より男らしい体つきが際立つ。

「奏音、お前その仏頂面全然変わってないな」

「仕方ないだろ、元々こういう顔。行こう」

地上に上がって錦市場の途中で横に逸れた。少し行ったところに、嵯峨がたびたび行くというワインバーがあるらしい。

店の入り口前には立ち飲み用のテーブルもあり、そこは既に人で埋まっていた。嵯峨が予約をしてくれていたので奥のカウンターに着く。落ち着いた照明の、でも気取った感じのない雰囲気だ。BGMにいかにもといった感じでクラシックでもかかっていたら、きっと奏音は顔をしかめていただろう。背中にはバイオリンを担いでいるから矛盾しているが、今は、バイオリンからも音楽からも離れたかった。

まず初めはビールだよな、と言って嵯峨がふたり分のビールを店員に注文する。ほどなくして突き出しとともに、細身のグラスに入ったビールが出された。

「じゃあまず、奏音のプロ凱旋公演成功に。あと、遅くなったけどデビューおめでとう」

「ありがとう」

グラスを軽く当てる。小ジョッキよりも小さいが、滑らかな泡は喉越しがよい。奏音も嵯峨も、半分ほどを一気に飲み干した。

「渡仏してから一回も帰ってきてなかったんだな」

「いや、一回だけ。じいさんの葬式の時に帰ってきた」

「そっか。でもその時オケ部の人たちに会ってないだろ。まず近況報告したほうがいいか。って言っても、俺も全員把握してるわけじゃないけどな」

嵯峨がビールを一口あおり、

「バイオリンの真坂兄弟はふたりそろって経済学部の大学院、チェロの葵は信用金庫の本店勤務、コントラバスの宮古はえーっと……名古屋で車のメーカーの営業、クラリネットの坂本は東京でSE。これくらいだったか、仲いいのって」

「ああ。皆見事にばらけたな」

「しかも音楽なんてちっとも関係ないところにな。音楽関係ってことになると俺が楽器屋に就職したくらいだぜ。ほんとに楽器続けてるのは、たぶんお前ひとりだ」

嵯峨が大手楽器屋に就職したのはその年に聞いていた。デモ演奏をするのは、オーケストラで吹いていたオーボエではなく、ピアノだけどなとこぼしていた。

仕事なんてそんなものなのだろう。初めから思いどおりになんて行かない。自分は慣れたバイオリンを弾いて食べていけるのだから、恵まれているのかもしれない。

奏音はビールでくちびるを湿らせながら、高校のころを思い出す。

母の光にはオーケストラ部に入るのは大反対された。そんな時間があるなら家で練習しなさいと言われた。

だが、入学して同じクラスで仲良くなった嵯峨に誘われて、部活動見学でオーケストラ部を見に行った時の感動は忘れられない。皆が一生懸命、そして楽しそうに楽器を奏で、それが音にも表れていた。奏音にとってそれは衝撃だった。

記憶にないころからバイオリンを弾き続けてきた。周りの友達のように遊びに行ったり一緒にクラブ活動をしたりする時間がないのはつらかった。でも、バイオリンが嫌いだったかといえばそうではない。奏音にとってバイオリンはもう、それこそ家族のように手に取るのが当たり前だったからだ。

それまでと違って、高校で飛び込んだ合奏という海は、奏音の全く知らない海だった。水の温度も、その水が塩辛いということも新鮮だった。

そして、ひとりで広い海を泳ぐよりも、皆で泳ぐほうが、つらいこともあるけれど楽しいこともあるのだと知った。今までの人生の中で、バイオリンをあんなに楽しく弾いていたのは、後にも先にも高校の三年が最後だろう、と奏音は思う。

「好きなことを続けていくのはなかなか難しいな」

できれば今回、集まって合奏できたら、なんて思っていたのが甘かったと思い知らされた。

ふと、その時先日信用金庫で聞いた合奏を思い出した。第一バイオリンの、音がずれているのに、楽しそうに弾いていた――あの男。

「どうした?」

「いいや、なんでもない。次は? 白ワインか?」

羨ましい、だなんて思った心と一緒に、奏音は嵯峨にワインのメニューを押しつける。嵯峨が頼んでくれたチリのシャルドネは、白ブドウをそのままかじったようなみずみずしさと甘さ、そして香りが絶妙で、きのこのマリネがよくあった。

「奏音さ、向こうで何かあったのか」

嵯峨がそう聞いてきたのはそれからグラスを二回空けた後だ。気持ちよく酔いがまわりはじめていたが、まだちゃんと意識を保っている。嵯峨は気を遣って今まで口に出さないでいたのだろうと思うと、言わないのも悪い気がした。

「バイオリンが……いやになった」

「その割にはしっかり抱えてるじゃないか」

嵯峨が喉の奥で笑ったのも無理はない。

店に入ってすぐ、奏音のバイオリンに気づいた店員が奥で預かろうかと言ってくれたのを奏音は断った。何となく人に任せるのは気が引けて、バイオリンは今も奏音の足にもたせ掛けている。いやだと言いつつも、これがなくなると食っていけない、という強迫観念は奏音の隅々にまでこびりついている。

「言葉が悪かったな。バイオリンが嫌いになったんじゃないんだ。なんというか、プロとして脚光を浴びて、弾いていることが本当に楽しいのかな、とか考え出すととまらなくて」

「好きなことを仕事にするって、いいことも多いけどつまずいたときにつらいよな」

必要以上に説教じみたことを言わない嵯峨の言葉が、奏音の胸にしみる。

「バイオリンを弾くことが好きだった。確かにプロになりたいと思っていた。でも、プロになって、自分の演奏に値段がついて、弾いている俺も値踏みされるような眼で見られるのが、いやだった。甘えてるだけだって、わかってるけど……」

「奏音は人付き合い苦手だもんな。急に人の目にさらされてちょっと疲れたんだろ。すぐに慣れるさ。お前本番強いし、大丈夫だって」

嵯峨の手が肩に触れた。それだけで胸につかえていたものが溶けてなくなっていく気がした。嵯峨みたいに、奏音の過去を知っているからこそかけてくれる言葉は心強くて、そうだと納得できる安心感がある。

嵯峨は酔っているのか、しきりに奏音の頭を撫でてくる。そういうことを、結婚指輪のはまった左手でするなんてずるい、と思う。気があるわけでもないだろうに。

「あと、女の人がすごく色目使ってくるのもいやなんだ。バイオリンやってるのを口実に近づいてこようとするし」

だからせいぜい嫌いになってくれればいいと思ってわざと愚痴を吐いてみるのに、嵯峨は完全に子供をあやす手つきでよけいに頭を撫でてくる。日本人だと印象づけたくて、元は明るい茶色の髪をわざわざ黒く染めた奏音の髪が、嵯峨の手のひらの下で軋む。その音はまるで、奏音の心の軋みのようだった。

向こうでのプロとしての生活は、ぜんぜん思いどおりにいかなかった。そんなの当たり前なのに、当たり前だからこそどうしようもなくて、悲しくなる。異国で打ち明けることもできず、胸の奥深くに必死で押し込んでいた感情が、嵯峨に撫でられるたびにあふれてくる。

「奏音、おい、どうしたんだよ。泣くなよ。お前泣き上戸だったのかぁ」

「違う! ……ちが、う」

嵯峨の手が触れていることも、それを心のどこかで喜んでいることも認めたくなくて、奏音はいやいやと首を振る。

どうして嵯峨に会おうなんて思ったんだろう。奏音は帰国して一番に嵯峨に連絡したことを悔いた。

フランスでもずっと自分を信じられずに悩んできた。その答えを知りたくなかった。だが、嵯峨に会って、やっぱり自分は男しか好きになれないのだと、思い知らされる羽目になった。


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