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闇の魔女の復活譚

 “馬鹿な人達……”

 

 雪山。

 激しく吹雪が吹いている中を、一人の純朴そうな女が歩いている。まるでどこかの田舎娘のような外見だが、表情だけは別で、怪しい雰囲気を醸し出していた。心の奥の奥の底に別世界の何かを隠しているような。女は防寒具を身に纏ってはいなかった。冬用の服装ではあるが、とてもではないが、それは吹雪の雪山を歩ける装備ではない。

 “この程度の封印で、このわたしを封じたつもりになっているとはね。あの術式ならばよく知っているわ。この娘の身体を殺してしまえば、それでわたしは復活できる”

 女はそんな事を思いながら、高い切り立った崖を探していた。彼女はそこから飛び降り自殺をするつもりでいたのだ。それは死にさえすれば、彼女が自らの魔力を取り戻し、“闇の魔女”として復活ができるからだった。

 “……しかし、寒いわねぇ。いえ、それを通り越して冷たいわね。さっさと復活して魔力で身体を温めたいわ”

 防寒具くらい盗んでから逃げ出して来れば良かったと後悔しながら、彼女は震える身体を委縮させ、両腕で肩を抱きしめながら崖を探していた。

 

 ――その一週間前。

 久しぶりに街に出た闇の魔女“アンナ・アンリ”は迂闊にも油断していて、何の警戒もしていなかった。そしてその所為で呆気なく捕まってしまったのだった。まさか、気まぐれで街に出掛けた自分に対し、罠が仕掛けられているとは彼女は夢にも思っていなかったのだ。

 捕まった後になって思い返してみれば、確かに街にはきな臭い物々しい雰囲気が漂っていたような気はした。ただ彼女は、それと自分とを結び付けて考えてはいなかったのだ。人々が恐れられている“魔女”である彼女を特に警戒していたとしても不思議ではないのに。聞くところによると、そろそろ戦争が始まるらしい。その為に軍事面での警戒や、スパイへの取り締まりが厳しくなっていたのだ。

 “ああ、やだやだ。なんで人間は戦争に熱中してばかりいるのかしらね?”

 彼女は買い物をしながら、そんな街の人達の様子を観察して、そんな事を思った。戦争の為に労力や資源を割くのではなく、他の事にそれらを注ぎ込んで生活の改善を目指せば、そもそも戦争などする必要はないはずだ。何故、人間にはそれが分からないのだろう? こんな馬鹿な人間達に関わるのはまっぴらごめん。さっさと用事を済ませて、自分の棲家の安全な“闇の森”の中へ帰りたい。彼女はできる限り人間同士のごたごたに関わりたくはなかったのだ。

 しかし、ある薬の店に入った時だった。そこに罠が張ってあったのだ。森で採った薬草を売って金に換えようとしたその時に、彼女の足元に突然に魔法陣が浮かび上がり、彼女の動きを封じてしまったのだった。それはかなり強力な魔法で、闇の魔女として恐れられている彼女でも解く事はできなかった。そして彼女は、そのまま捕まってしまったのだ。

 彼女は魔力を何重にも厳重に封じられ、縄で縛られたまま、国が設立した魔法研究所に連れて行かれた。彼女が通されたのは、研究所というよりは、何処かの会社の事務所のような場所だった。応接室のような部屋だ。彼女はそこで魔法の軍事利用研究主任を名乗る男から、こんな提案を受けた。

 「もしも、お前が軍に協力するというのなら、特別のはからいで、お前の魔法を黒魔法ではなく白魔法であるとした上で、高待遇で迎える用意がある」

 その男はまるで石造のような顔をしていた。とても堅そうだ。一度も笑った事などないように思える。

 アンナにはその男の偉そうな態度が気に食わなかったし、黒魔法だの白魔法だの、手前勝手な都合で自分の魔法を括られる事にも反発を感じた。何より、愚かな戦争に協力するなど絶対に嫌だった。だから彼女はその誘いにこう答えたのだ。

 「あら? わたしの得意魔法は闇を使った魔法ですよ? 白魔法を名乗るのは無理があるのではないですか?」

 それは皮肉だったのだが、その主任とやらにはどうやら通じなかったようだった。表情を少しも変えずにこう返す。

 「その程度のこと、まったく気にする必要はない。どうにでも誤魔化せる」

 微生物の分解が、人間にとって有益になれば“醗酵”と呼び、それ以外を“腐食”と呼ぶが、白魔法と黒魔法の区別の仕方もそれと似通っている。天使や神などの聖なる者から力を借りた場合は白魔法で、悪魔から力を借りた場合が黒魔法だとか色々と説明されるが、要はその社会にとって役に立つ魔法が“白魔法”で、害ある魔法が“黒魔法”なのだ。だから、例えば人気のある者が使えば“白魔法”になり、同じ魔法でも嫌われ者が使えば“黒魔法”になったりするし、ある村ではその人物は人気があるから“白魔法”だが、別の村では嫌われているから“黒魔法”になるといった場合もある。

 つまり、それは人間(達)の主観でどうとでもなるカテゴリなのだ。裏を返せば、非常に身勝手な分類だとも言える。

 アンナ・アンリはそれを知っていたのだ。だからそんな分類が好きではなく、だから先の皮肉も言った。

 主任の言葉を聞くと、アンナは口の端を歪めて笑った。

 「わたしの魔法が黒魔法だと、あなた方は困りますものね。自分達が利用している魔法が黒魔法などと言えるはずがない。わたしの為などではなく、あなた方自身の為にわたしの魔法を白魔法という事にすると、はっきりとお言いになれば良いのに」

 流石にその言葉の意味は主任にも理解できたようだった。わずかながら眉を歪める。しかし、それでも何事もなかったかのように彼はこう言った。

 「それで、お前は、私達の提案を受け入れるつもりはあるのかな?」

 「“ない”と言ったら、どうなります?」

 「それ相応の処置を執る事になる」

 それを聞くとアンナ・アンリは微笑みを浮かべた。そして一瞬の間の後で、こうはっきりと述べる。

 「協力する気は“ない”です」

 彼にとってその返答は意外だったのか、一瞬止まったが、主任は数度頷くと、「分かった。後悔する事になると思うがな。私達としてはどちらでも良かったのだ」とそう返した。

 彼は立ち上がると、それからそのまま部屋を出て行く。縛られたまま、アンナは一人、そこに残された。そして一時間も経たないうちに、彼女は別の部屋に連れて行かれたのだった。そこは真っ暗だったが、どこかの知らない女が一人寝かされているのが辛うじて分かった。

 “何をするつもり?”

 一瞬、アンナは迷ったが、それから直ぐに寝かされている女の床に描かれた魔法陣が光り始めた。そこに描かれた術式を見て察する。

 “封印の魔法? まさか、わたしをこの娘の中に封じ込めるつもりでいるの?”

 どうも軍はアンナを殺すのは惜しいと考えているようだ。彼女の魔法には、充分な利用価値がある。だから、取り敢えずは別の女性の中にアンナを封じ込め、利用し易いようにするつもりなのだろう。

 ただ、この魔法は、封じ込める為の身体を提供する者を犠牲にする。早い話がこの寝かされている女性は死んでしまうのだ。

 アンナは大きくため息を漏らす。

 “流石は、国の連中ね。女一人の犠牲くらい何とも思っていないって感じ”

 男性中心主義社会。

 この国では男尊女卑が基本だ。もっとも、例え男であっても犠牲にするだろうが、それが女なら更に躊躇なく社会の、否、自分達の為の犠牲にする。この社会では女性を“生まれながらの奴隷”だと考えている。良妻賢母を理想とすると言えば聞こえは良いが、女性を決して高い地位にしようとはせず、家庭に縛り付ける事で、効率良く人口を増やそうとしているのだ。そしてそれは、ナショナリズムとも結びつき、国体を安定させる為の思想の一つともなっていた。

 アンナは、魔法に対するこの社会の考え方だけでなく、その女性に対しての考え方も嫌いだ。女性だって重要な労働力に成り得るし、だから高い地位につける事の価値だってある。それで彼女は、こうして床に寝かされているこの女性にも同情をしていた。恐らくこの女性は、騙されたか脅されるかをして、この犠牲になったのだ。ただ、だからといって感傷に浸っている場合ではない。それから直ぐに気を取り直すと、彼女はその魔法陣の術式を猛然と読み始めた。光ってくれているお蔭で読み易い。この国の公的機関は、厳格なようでいて案外抜けているのかもしれない。詰めが甘い。術式が理解できれば、復活する手段を見つける手掛かりになるのを分かっていないのだ。そして、アンナは途中までその術式を読んで思わず笑ってしまったのだった。

 “これ、知っているやつだわ。しかも、簡単に封印を解ける”

 その封印の為の術式が、とても甘いものだと分かったからだ。そして、そうしてアンナが安心した辺りで、魔法陣は本格的に稼働し始めのだった。どうやらこの女性を犠牲する“封印の術”が始まるらしい。光が強くなっていく。アンナは自分の意識が、その女性の中に吸い込まれるのを感じていた。

 “いいわ。好きなように封じ込めなさい。直ぐに復活してあげるから……”

 アンナは、心の中でそんな呟きをした。

 

 気が付くと、アンナは先に見た女性の身体に移っていた。灯りが点く。ドアが開くと先の主任が姿を現した。笑顔など作れないかのような顔だと思っていたが、薄らと笑みを浮かべている。彼は言った。

 「さぁ、もうこれでお前は、魔力が使えないはずだ」

 そう言われてアンナは、自分の身体にほとんど魔力が感じられない事を確かめた。

 「そうね。その通りみたい」

 澄ました表情で、彼女はそう返す。

 主任はその返答に満足したのか、頷きながらこう言った。

 「お前の魔力は我々でなければ、自由に解放はできない。つまり、お前は完全に我々の管理下に置かれる事になる。当然、待遇もそれなりのものになるから、充分に覚悟しておくのだな」

 それは“どうだ? 後悔しただろう?”と言わんばかりの口調だった。アンナはそれに何も返さなかった。

 

 ガラス窓で自分の姿を確認すると、アンナが封じ込められている女性の外見は、思っていた以上に純朴そうだった。少しも魔法使いらしくない。それで、恐らくは騙されたのだろうと推測し、改めてこの女性に彼女は同情をした。まさか、命が奪われるとは思っていなかったのだろう。

 それからアンナは馬車に乗せられた。どうも馬車は北の方を目指しているようだった。そして、北には雪山しかない。

 “雪山の中の何かの施設にでも、幽閉するつもりかしら?”

 それで彼女はそう考えた。確かに雪山ならば、そう簡単には逃げられない。だが、魔力さえ復活させれば大きな問題はない。やはり国の計画は少しばかり抜けているように彼女は思えた。自殺さえできれば後は問題なく逃げ出せる。それには、ほんの少しの隙があれば充分だ。

 それから予想通り、アンナは雪山に運ばれた。そこには石造りのやや大きめの建物があり、アンナはどうやらそこに幽閉されるらしかった。中は意外にもそれなりに温かく、思っていたよりも過酷な環境ではなさそうだった。どうも本来は、幽閉施設ではなさそうだ。

 その建物の地下室にアンナは閉じ込められた。地下は岩を削って造られたのか、繋ぎ目がまったく確認できなかった。その中は湿気がやや高く、冬眠中の巨大な未知の両棲類の腹の中にいるかのような錯覚を覚える。過酷ではないが、快適な環境とは言い難かった。それでアンナはさっさと逃げ出そうとそう考えた。

 アンナが驚いたのは、部屋の錠が魔法で制御されていた事だった。魔法使いを幽閉するのに、魔法を用いた錠を使用するなんて、軽率にも程がある。先の魔法陣が、術式を読めるようになっていた事といい、どうにも対応が“抜け”過ぎている。確かにその魔法錠には、もし部屋からアンナが逃げ出したなら、それを監視者に通知するという便利な機能がついているが、それを考えてもリスクの方が大きいだろう。実際、アンナにはその魔法の錠を破る事ができる。彼女には自分以外の魔力を利用できるという特殊能力があり、それを応用して錠を操作すれば、簡単に外せるはずなのだ。つまりはいつでも逃げ出せる。

 ただし、アンナは直ぐには逃げ出さなかった。あまりに愚かであるが故に、罠ではないかと却って心配になっていたからだ。最初に自分を捕まえた国の人間達のその手際は見事なものだった。しかし、捕まえてからの仕事はとてもお粗末だ。いくら何でも落差があり過ぎる。一体、何故なのだろう?

 それでアンナはまずは探りを入れる事から始めたのだった。食事を運んで来る係りの者に対し、彼女は「わたしを捕まえた人達と、ここにいる人達は雰囲気が違っているように思えますね」とそう話を振ってみた。

 幸いにもその男は、アンナの外見が純朴そうな娘であるからか、ほとんど警戒してはいなかった。

 「ああ、組織が根本から違うからね」

 と、あっさりとそう教えてくれたのだ。

 「組織が違う?」

 「そう。君を捕まえたのは、まぁ、厳しい訓練を受けている諜報機関の人間達だ。でも、君をここに閉じ込めたのは普段はデスクワークばかりやっている役人達だよ。今まで実際に魔法使いに触れた事もほとんどないのじゃないかな? だから、全然タイプが違うんだな」

 それを聞いてアンナは察した。

 もちろん全てではないのだが、権力を持った上層階級の役人達は、その恵まれた立場故に駄目になってしまう事がままある。どれだけ怠けても切磋琢磨しても貰える金は同じで、しかも誰からも管理されず、ずっと威張っていられるのなら、自然と仕事内容が杜撰になっていくのは当たり前だろう。捕まえられた後、これだけミスが目立つのはその所為だったのだ。

 アンナはその説明を受けた後で、密かににんまりと笑った。

 “どうやら大丈夫のようね。罠じゃない。逃げ出してしまおう”

 そしてその日の晩に、早速彼女はその幽閉施設から脱走したのだった。魔法で制御された錠は、彼女が考えていた通り、簡単に外す事ができた。本来は、幽閉施設ではないからなのかもしれないが、見張りも見回りの者もいなかった。警戒心ゼロだ。どうもアンナをこの女性の身体の中に閉じ込めた事で、役人たちはすっかりと安心してしまっているようだった。弛んでいるとしか言いようがない。

 これだけ警戒が緩いのなら、防寒具を見つけてから逃げ出しても良かったのだが、それはむしろ自分の方が連中を甘く見過ぎだと思い、アンナはそれをしなかった。それに、身体が凍えたとしても、自殺さえすれば復活して、魔力で直ぐに身体を温められるだろうと考えてもいた。

 ただ、そのアンナの考えは、国の人間ではなく、雪山を甘く見過ぎていたのだが。

 

 “冷たい…… 意識が朦朧として来たわ。そろそろ、まずいかも”

 

 吹雪の中、アンナ・アンリは凍える身体を抱きしめながら、飛び降りれば確実に死ねるような充分な高さのある崖を探して彷徨っていた。いくつか崖は見つけたのだが、死ねると確信できるほどではなかったのだ。その点でも彼女は見通しが甘かったのだが。

 しかし、凍えている所為で、身体が上手く機能しなくなって来た頃だった。ようやく充分な高さのある崖に彼女は辿り着いた。

 “やった! これで、やっとこの身体を殺せる”

 崖の上から下を見下ろし、彼女はそう喜ぶ。しかし、そこでまた彼女にとって想定外の事が起こったのだった。

 “あれ? なんか、思っていたよりも、随分と怖い、ような……”

 そう。実際に崖から飛び降り自殺をしようとする段に至って、彼女は身が竦んで動けなくなってしまったのだ。とてもではないが、飛び降り自殺なんてできそうにない。

 そこで彼女は思い出す。

 長い間、魔女として生きて来たが、未だに自殺をした経験など一度もないという事に(当たり前かもしれないが)。

 “もしかしたら、この元の娘の身体の所為かもしれない”

 などと思ったが、それは恐らくは単なる言い訳だった。彼女は素の自分で怖がっている。そして、そうしているその間にも彼女の体温は急激な勢いで下がっていく。それに連れて、徐々に意識もはっきりしなくなっていった。

 “怖がっている場合じゃないわ。さっさと飛び降りないと手遅れになってしまう。眠ったら確実に凍死する”

 が、そう思って彼女は気が付く。

 “あっ そうか。どうせ、このままでも死ねはするんだわ。なら、放っておけば良いだけかも……”

 それで安心しかけたのだが、薄れていく意識の中で、ふと彼女はこんな不安を思ったのだった。

 “でも、凍死でわたしの魔力が復活した場合ってどうなるのかしら? 意識がはっきりしていなくちゃ、どうにもならない気もするのだけど……”

 例え魔力が復活しても、本人に意識がないのであれば、魔法が使えるはずもない。それで彼女は“やっぱり、飛び降り自殺じゃないと駄目”と崖を目指そうとした。しかしその時既に彼女は身体の自由が利かない程に凍えていたのだった。

 身体が上手く動かない。歩けない。

 一歩進む事すら、困難だった。

 そこで急速に彼女の視界は黒くなっていった。夜の闇の黒さではない。光とはまったく関係がない、意識が閉じようとしている事から発生している黒さ。

 “これは……、まずい、かもしれない”

 失われていく意識の中で、アンナは誰が近付いて来る気配を感じた。もっとも、それが幻覚なのか現実なのか、彼女には分からなかったのだが。

 

 目を覚ますと、彼女は山小屋の中で横になっていた。近くにはたき火がパチパチと燃えている。熱を感じる。彼女には分厚い布団がかけられてあった。臭いは酷かったが、それは温かった。小屋の中はそれほど広くない。何かの獣の毛皮が壁にかけられてある。干し肉が吊るされていた。

 彼女が少し身体を動かすと、突然に、たき火の向こう側にあった黒い大きな影の塊が動いた。どうやら人のようだ。

 それを何かの荷物だと認識していた彼女は、少なからず怯えた。直感的にその影が男だろうと判断する。男だろうその影は、全体的にずんぐりむっくりとしていて、あまり人のようには思えなかった。冬眠から覚めた熊を彼女は連想した。

 男が近付いて来る。徐々にその姿が明確になっていく。だが、たき火を背にした事で、また男の姿は闇に包まれた。闇に包まれる前の男の顔は髭が濃く、粗野で醜かった。男はアンナの寝ている直ぐ傍にまで来ていた。アンナは恐怖したが、身体が上手く動かない。いや、仮に動いたとしても、体力的に圧倒的に不利だろう事は明らかだった。つまり、抵抗しても無駄だ。もしこの男に、彼女に対する害意があったとしたならもう助からないだろう。もっとも、それで殺されたなら、アンナは闇の魔女として復活できるのだが。

 “もしも、わたしを殺したいのなら殺すがいい。だが、その時がお前の最期だ”

 アンナは心の中でそう呟いた。

 ところが、意外にも男はアンナに害を為そうとはしていなかった。暗くてよく分からなかったのだが、どうやら手にスープを持っている。しかも、それからぎこちない手つきで、木のスプーンでそれをすくい、アンナに飲ませようとする。恐らくはこの山小屋に凍死しそうな彼女を運んで助けたのも彼だろう。

 “まさか、この男はわたしを助けようとしているの?”

 アンナはそう思いながら、口を開けてそのスープを飲んだ。食欲はあまりなかったが何かを食べた方が良い。だが、一口飲んで、彼女はそのスープの味に驚いてしまった。

 “なにこれ? 物凄く脂っこい!”

 恐らく動物の脂肪分をたっぷりと入れてあるのだろう。異常な程に脂肪分が豊富だったのである。美味しく感じたのは、最初のごくわずかな間だけで、後はしつこい後味が不快で堪らなかった。

 しかし、アンナがそれを飲んだ事で安心をしたのか、男はもう一度スープをすくうと、それをアンナに飲ませようとする。

 “ちょっと、待って……”

 アンナはそれを嫌がる。せめて、お湯で薄めて欲しい。嫌がるアンナを見て男は言う。

 「食欲がないのか? だが、無理にでも飲まないと駄目だ。おめぇさんは体力が落ちてるから。後少しで、凍死するところだったんだぞ?」

 そして頭を押さえつけると、ほぼ無理矢理にアンナの口にスープを入れた。やはり驚くほどに脂っこい。胃に重く負担がかかるのが分かる。

 “これ、絶対に、病人に飲ませるようなスープじゃないわよね?”

 二口目をなんとか飲み干したところで、アンナはそう思った。そして抗議の視線を男に向ける。しかし男はそれを意に介さず、三度スープをすくい、アンナの口に運ぼうとする。またほぼ無理矢理に口の中に入れられた。これでは看護というよりは、むしろ拷問に近い。

 “もう許して”

 アンナはそう思ったが、結局男は、カップが空になるまでアンナにスープを飲ませ続けたのだった。最後に水を持って来てくれたので少しは楽になったが、それでも悪い気分は完全には治らなかった。

 それからアンナはしばらく動けなかったのだが、それが凍死しかけた所為なのか、それともその異様に脂っこいスープの所為なのかは分からなかった。

 

 男のスープは酷かったが、それでも男が言うように体力を回復させる効果はあったようだった。それから一日ほど寝て、アンナは体力が戻って行くのを実感したのだ。明らかに彼女の顔色は良くなっていた。

 男は食糧を取りに行く時など、時折外に出る事もあるにはあったが、ほぼずっとアンナと一緒にいた。その間、彼はアンナの身体を奪おうとはしなかった。外見に似合わず繊細なのか、アンナへどう接すれば良いのか分からず、緊張しているようにすら見えた。

 しかし、それでも彼はやはり男だった。雄の性には逆らえない。二日目の晩、彼はアンナが寝ている布団に入って来た。アンナはその彼の行動を冷静に受け止める。

 “おやおや、やっぱり我慢できなかったのかしらね?”

 自分に身体を重ねて来た、このずんぐりむっくりとした男をどうするか、アンナは少しの間考えた。彼と性行為をする事は嫌だった。想像するだけで嫌悪感を覚える。だが、その一方で、彼女には無理に抵抗する気も何故か起きなかった。それは男へ好意を持っているというよりは、同情をしているからだった。

 見たところ、この男は山奥のこの山小屋でたった一人で暮らしているようだ。女性どころか、人と接する事もほとんどないだろう。性欲を解消する手段などないはずだ。そんな彼が、突然、ほぼ一日中女性と一緒にいる境遇になったのだ。我慢できなくなっても無理はない。

 それに。平素の男の態度を観る限り、アンナが本気で嫌がれば、男は性行為を途中で止めるような気も彼女はしていたのだが、その場合、この男を酷く傷つけてしまう事になるだろうと彼女は考えてもいた。自分を助けてくれた相手を傷つけるのは何だか気が引ける。

 “まぁ、別に良いか。凍死するところだったのを助けてもらった、その代金だと思えば……”

 それで彼女は自分から積極的にその行為に応じこそはしなかったが、そのまま男のするに任せたのだった。彼女は“性”を特別視する感覚を持ってはいない。だから彼との性行為は不快な体験ではあったが、ただそれだけだった。喪失感も罪の意識も覚えない。

 アンナ・アンリは人間社会の枠組みから外れた“魔女”だ。だから、性に対する感覚も人間社会が女性に求める“それ”とは違っている。

 それに彼女は、いずれ今の身体には死んでもらう予定なのだ。仮にこの性行為で妊娠してしまったとしても大きな問題はない……

 

 ――生物学的性差と社会的性差。

 性行為は、男女間でそのあり方が非対称だ。男性と違い、妊娠や出産、育児という重いコストが伴う分、女性にとって性行為には高いリスクがある。仮に堕胎するにしても、それには身体の危険が伴う。そして、限られたチャンスの中で、より優秀な子供を産まなくてはならない。だから、「男性に比べ、性行為に対して女性は慎重になる傾向がある」と説明されている。

 ただし、人間にとって性行為には“生殖”以外にも“娯楽”や“コミュニケーション手段”といった意味がある。そして、その意味においての性行為は、(当然、避妊するという前提だが)女性にとってもリスクにはなり難い。

 しかし、“娯楽”や“コミュニケーション手段”といった意味であるかどうかに拘らず、性行為に対して抵抗のない女性を、社会の多くでは“淫ら”と蔑む傾向にある。女性に対し強い貞操感を求め、特定のパートナー以外との性行為は忌むべき行為としている。

 これは実は男性中心社会から押しつけられた価値観である可能性がある。

 男性中心社会の場合、産まれて来る子供は男性の血を引いていなければならない。そして産まれてくる子供が、“その男性の子供であること”を確信する為には、その女性が他の男性と性行為をしていない必要がある。そのため、女性に対して男性中心社会は強い貞操感を強いる文化を育てたのかもしれないのだ。女性が多くの男性と性行為をしては困るのである(もっとも、性病の蔓延を防ぐ為に、淫らな性行為を禁じている可能性もあるが)。

 母系社会では性に関して寛容である事が知られているが、それは或いは、女性の場合は生まれてくる子供が“その女性の子供であること”が確実であるからなのかもしれない。

 ならば、男性中心社会の価値観の枠組みの外にいる女性が、性行為に関して、それほど抵抗感を覚えなかったとしても不思議ではない。

 

 朝。男は布団の上で半身を起しているアンナの前で土下座をしていた。もちろん、昨晩の彼の行為について謝っているのだ。どうやら彼は行為中のアンナの態度から、アンナがそれを望んでいなかった事に気が付いていたらしかった。つまり、それでも止められなかったのだ。

 だが。

 少なくとも、自尊心の塊のような手前勝手な男ではないらしい。それでアンナはそう判断をした。

 「すまねぇことをした」

 土下座したまま、男はそう謝罪の言葉を述べた。

 「おで、どうしても我慢できなくで。こんなめんこい女とずっと一緒にいたことなんか今まで一度もなかったもんだから」

 アンナはその言葉を聞くと、呆れたような視線を男に向けながらこう尋ねた。

 「あなた、お名前は?」

 男は「ロナディ」とやはり土下座したままでそう答える。

 「それではロナディさん。聞いてください。わたしは別にあの程度のことは、どうとも思っていません。確かに著しく不快ではありましたが、それほど気にはしていません。だから、どうか顔を上げてください」

 そう言われてロナディは恐る恐る顔を上げた。しかし、アンナの顔がどう考えても怒っている表情だったからか、また直ぐにその顔を伏せてしまった。

 その行動を観て、アンナは彼に顔を上げさせる事を諦める。軽くため息を漏らすと、こう言った。

 「それよりも、わたしとしては、わたしが無理矢理飲まされたあの脂そのもののようなスープに文句があります。一体、あれは何なのです? あのスープのお蔭で、わたしはずっと気分が悪かったのですよ? 美味しいスープにしろとは言いませんが、もっと飲み易くなるよう工夫してください」

 するとロナディは顔を上げると、言い訳をするようにこう言った。まるで困惑している子供のような顔で。

 「でも、あのスープは寒い冬を乗り切るのにはとても良くって……」

 「寒い冬を乗り切る?」

 「あの脂のお蔭で、身体に力が溜まるんだ」

 それを聞くとアンナはじっくりとロナディのずんぐりむっくりな身体を眺めた。そして一呼吸の間の後でこう言う。

 「あなたの身体を観る限り、どう考えても脂分の過剰摂取です! 早死にしますよ。あんなものはもう飲まないでください」

 真っ当な忠告だ。ロナディは目を白黒させると、それにこう返す。

 「でも、もうたくさん作っちまってて……」

 彼はそれから部屋の中央にある鍋に目をやった。火は今は消えていたが、どうもそこで鍋を加熱するようだ。

 アンナは悪い予感を覚えると、その鍋の蓋を開けた。すると、その鍋の七割ほどが、あの悪夢のような高脂肪スープで埋まっていた。彼女は頭を抱える。冷えた脂が浮いてキラキラとしているその光景は、まるで彼女を脅迫しているようにすら思えた。

 「まさか、今日もこれをわたしに飲ませるつもりでいたのですか?」

 「だって、これしか食いもんねぇし」

 また彼女は頭を抱える。

 それから目頭をしばらく押さえる。吹雪は治まっていたが、外は雪が深く、自由に歩けるような状態ではない。しかも彼女には相変わらず何の装備もない。この山小屋から出るのは無謀だろう。そしてここにいる為には、ここで何かを食べなければいけない。つまり、このスープを食べるしかない。それから彼女は腕を組むとこう言った。

 「分かりました。このスープは、わたしがもう少しマシに作り直します。まだ他に大きな容器はありますよね? 水は外の雪を溶かせば十分な量がありますか…… 調味料の類や他の具材がもしあれば教えてください」

 それからアンナはその言葉通り、その脂肪分が濃すぎるスープを真っ当なスープに作り直し始めた。ロナディは彼女に負い目がある為か、不服そうではあったが、それに文句を言いはしなかった。そして、アンナがスープを作り直し続けるのを見守り続ける内に、やがてはその彼女の行為をむしろ喜んでいるような表情を見せたのだった。

 「取り敢えず、こんなもんでどうでしょうか?」

 スープを作り直し終えたアンナが、味見用にカップにスープを入れて差し出すと、ロナディはそれを嬉しそうに受け取った。そして、それをごくりと一気に飲み干すとこう返す。

 「うん。ちょっと薄味だけどんも美味しいな」

 「断っておきますが、それでも随分と濃い味付けですからね」

 アンナはそう返しながらも、自分が作り直した料理を美味しいと言われて悪い気はしていなかった。そしてこう思うのだった。

 “まぁ、変でちょっと迷惑なところもあるけど、悪い人ではなさそうだし、しばらくここに厄介になるのもありかもね。なんか、わたしに対して負い目を感じているみたいだから、居やすいし”

 そしてそう思ってから、アンナはふとこんな疑問を思ったのだった。

 “……にしても、この人は女であるわたしに対して少しも横柄に接しては来ないわね”

 これまで彼女が接して来たほとんど全ての男達には、男性中心社会の価値観が染みついていた。女を見下し、支配の対象として扱おうとする。だが、この男からはそんな態度がまったく感じられない。それはこの男の気の良さだけが原因であるようには彼女には思えなかった。なにかしらこの男からは“異質感”を感じる。一般の社会からはかけ離れている。こんな山の中で暮らしているのだから、それは当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、それにしても、文化が根本から違い過ぎているように彼女には思えた。

 

 「それは、だって、おでの村では、子供の頃から女の方がえらかったし」

 

 アンナがロナディに、どうして女である自分に対して、少しも威張らないのか質問をすると彼はまるで当たり前の事のようにそう返した。

 その言葉にアンナは驚く。つまり、彼の生まれ育った村では、女性優位であった事になるからだ。そんな村など彼女は今まで聞いた事がなかった。

 「そのあなたの村って、何処にあるのですか?」

 興味を惹かれた彼女は、そこを一度訪ねてみたいとそう思ったのだ。

 「今はもうないけんども」

 間抜けな調子でロナディはそう答える。

 「ない?」

 「ああ、おでが子供の頃に、既に10人くらいしか人がいなくてな。なんか、ある日に国のお役人さんがやって来て、村をなくすから街に来いだのなんだのって言ってきて、まぁ、それでなくなっちまった。

 おでの親はそれに反対してな。それで、この山小屋で暮らすようになったんだけど、もう死んでしまった」

 それを聞いて、アンナは“やっぱり、あの脂スープの所為で早死にしたんじゃ?”とそう思ったがそれは言わずにこう尋ねた。

 「もう一度確認しますが、そのあなたの村では“女の方が偉い”事になっていたのですね?

 そして、その村は国によって潰されてしまったと?」

 ロナディは頷く。

 「そうだ」

 アンナは考える。

 ならば、その村は男性中心社会に反する文化を持った村として、国によって潰されたのかもしれない。もっとも、既に滅びかかっていたようだから、安全面に対する懸念や限界集落を維持するコストをなくす為に廃村になっただけかもしれないが。

 遥か昔には、女性優位社会が普通に存在していたという。その社会はやがては滅びてしまったらしいのだが、或いはその村はその生き残りだったのかもしれない。そしてもしそうだとすれば、その村は魔女であるアンナ・アンリとも深い関わりがある可能性がある。

 いずれにしろ、アンナ・アンリはその村を一度調べてみたいとそう思った。

 「ロナディさん。わたしをその村があった場所にまで連れて行ってはくれませんか? 少し興味があります」

 宗教儀式に用いるような何らかの遺跡があれば、是非とも見ておきたい。それは魔女である彼女のルーツの一つであるのかもしれないからだ。

 

 ――生物学的性差と社会的性差。

 太古には男女平等社会も女性優位社会も多く存在していたのだという。では、何故それら社会は滅びたり少数派になっていったりしてしまったのだろうか?

 様々な説明が可能だが、その内の一つにこんなシンプルな説明を提示する事もできるはずだ。それは「男性中心社会の方が“人口増競争”の上で有利である」こと。人口がより多く増えるのならば、当然、生き残りにも有利になる。

 狩猟や採集しかなかった太古においては、戦争に敗北する事はそのままその社会の絶滅を意味したケースも多かったと言われている。理由は極めて単純だ。敗北した社会の人間達を賄うだけの食糧が存在しないからだ。だから戦争に負けると、皆殺しにされたのである。

 ところが、農業や牧畜が誕生すると、その事情が変わる。敗北した社会の人口を賄うだけの食糧を手にする事ができるようになり「戦争で相手の社会を侵略し、相手の社会の人間達を奴隷として利用する」ことが可能になったのだ。そして、当然、その奴隷にされた人々の中には女性も含まれていた。奴隷にされた女性は、勝利した社会の男性の子供を産まされた。このような事をすれば、人口はより多く増える。だが、これが可能なのは実は男性中心社会だけなのだ。“生まれて来た子供が男性の血を引いていれば良い”社会でしかこの方法は使えない。女性中心社会の場合、女奴隷に産ませた子供は、女奴隷の子供という事になってしまう。

 結果として、男性中心社会の人口は増え続け、女性中心社会や男女平等社会を圧倒してしまったのではないだろうか?

 

 ――雪を踏む。

 圧せられた雪から空気が吐き出され、そこで起こった振動が、音となって広がっていく。雪を踏む音はリズムとなり、とても静かなその山中にささやかな音楽を流した。そのリズムには二種類あった。比較的速いテンポの音と遅いテンポの音。速いテンポの音を鳴らしているのは太った男で、遅いテンポの音を鳴らしているのは女だった。やがて速いテンポの音が止まる。先に進み過ぎた男が、女が追いつくのを待っているのだ。

 “なんで、あんなに重そうな身体なのに、こんなに雪道を進むのが速いのよ”

 アンナは息を切らせながら、心の中でそう文句を言った。待っているロナディが自分を馬鹿にしているような気がしたが、それは彼女の気の所為だった。彼はむしろ雪道を進む体力がないだろう彼女の事を心配していたのだ。

 “魔力さえ復活したら、こんな無様な思いをすることもないのに”

 歯を食いしばりながらアンナはそう思う。彼女が傍まで来ると、ロナディは「大丈夫か? 村は後もう少しだからがんばれ」とそう彼女を励ました。彼女はそれに何も応えない。悔しかったし、疲れてもいたからだ。

 「本当に辛くなったら言ってくれ。お前さん一人くらいなら背負っていけるから」

 そう心配され、アンナは彼に対抗心を燃やしているような自分の気持ちを少し反省した。そもそも対抗する意味がないし、山で暮らしている彼と、体力仕事などした事がない自分とでは、比較する事自体が馬鹿げている。

 「いえ、それは流石に悪いです。こんな険しい山道でわたしを背負うなんて」

 反省の意味も込めて彼女がそう言うと、ロナディはおかしそうに笑った。

 「何を言ってるだ? おでは、普段は狩りで捕まえた鹿だの猪だのを背負って山道を歩いているだよ? お前さんくらい紙を背負っているのと変わらないよぉ」

 彼はアンナの前だから強がりを言っている訳ではないようだった。本当に強い力があるのだろう。こんなに深い雪道を歩いているのに、少なくとも外見上は、少しも疲れているように見えない。

 「この装備が大き過ぎるので、歩き辛いんです。もう少しわたしの体型にあったものがあれば……」

 それから彼女はそう言い訳をする。ロナディは直ぐにそれを認めた。

 「それはそうだな。疲れると思う」

 その言葉を聞いて、彼女は言い訳をする事も馬鹿馬鹿しくなった。強がりを言っても仕方ない。

 「すいません。疲れました。少し休ませてください」

 それでそう言うと、その場に立ち止まる。それを聞くとロナディは眉と口を大きくへの字に曲げた。

 「こんな所で休むって言っても、ちゃんと休めないと思うぞ?」

 そしてそう言うと、アンナを抱え上げて背負ってしまう。彼女は慌てて言う。

 「少し休めば、大丈夫ですから」

 彼はその言葉を意に介さない。

 「後少しで村だと言ったろう? 廃村だけどんも、それでも屋根のある所くらいはある。その中なら、ちゃんと休めるから」

 そう言って、そのまま歩き始めてしまった。アンナは抵抗しようかと悩んで、結局はそのまま彼に背負われるままにした。肌が服に擦れて少し痛かったが、それでも随分と楽になった。それからふと思い付くと、彼女は彼にこんな事を訊いてみた。

 「あなたは、あんな場所で一人で暮らし続けていて、寂しくはなかったのですか?」

 このロナディという男が人間嫌いのようには彼女には思えなかったのだ。随分と彼女に優しい。彼は直ぐに答えた。

 「寂しかったよ……」

 そしてそれから無言でしばらく進み、もうそれで返事は終わったのかとアンナが思いかけたところで彼はこう続けた。

 「……だから、お前さんが来てくれて、とても嬉しかったんだ」

 それを聞いてアンナは不安に思う。

 “まさかこの人、わたしがあの山小屋にずっといると思っているのじゃないでしょうね?”

 アンナはしばらくしたらこの山を降りるつもりでいたのだ。長くても冬を越したら、自分が元いた森に帰るつもりだ。当然、ロナディともその時にお別れである。ほんの少しではあるが、その時彼女はロナディに対して同情をし、更に極わずかではあるが罪悪感を覚えた。

 また、彼を孤独にしてしまう。

 

 廃村に着いて、比較的丈夫そうな廃屋で身体をしばらく休めると、アンナとロナディはかつて村の宗教の施設だった場所に向かった。前もってロナディから話を聞いていたアンナは、そこが彼女の魔術のルーツの一つである事をほぼ確信していた。

 そこには古代の女神が祀られているはずなのだ。

 古代、まだ女性中心社会や男女平等社会が確かに息づいていた時代、男神だけでなく女神が重要な神として存在していた。ところがそれら女神達は、男性中心社会が優勢になった事により、歴史の表舞台から姿を消してしまった。

 が、しかし、だからといってそれら女神達は完全に消えてしまった訳ではない。それら女神達は民間の間では相変わらずに信仰され、そして国の宗教とも結びついて習合し、独自の宗教文化を築いていた。ところが、それら宗教文化は国が意図したものとはかけ離れていたのだ。

 だから国はそれら宗教を迫害した。民間の信仰から女神信仰だけを削り取り、そして邪悪な信仰として排斥しようとした。

 もちろん、それが“魔女”という概念を形成する重要な要因となった。古代の女神達に仕える女性達は、“魔女”であるとされ、魔女狩りによって大量に殺害されていった。魔女と呼ばれた彼女達…… 否、古代の女神信仰を受け継ぐ人間達は、一般社会からは逃れて森の奥深くに住み、密かに民間人達と交流し必要な物資を手に入れる事で辛うじて命脈を保っていた。

 そして、そういった人間達の多くは、生き残る力を得る為にそれまでも高かった独自の魔法技術を更に発達させていった。アンナのような魔女が、高い魔力や技術力を持つのはその為だ。そしてそれら魔術の有用性は国の人間達も認めていた。だから自分達に協力する魔法使い達を“白魔法”の使い手であるとした上で利用したり、その魔術を取り入れたりもしたのだ。

 もっとも、国を信用せず、頑なに反抗し続ける魔法使い達も多い。アンナ・アンリもその一人だ。

 廃村にあった古代女神の宗教施設は、とても簡素なものだった。小さな女神像が、とても小さな祠の中に安置されていて、その周りを人の頭程度の大きさの岩のサークルが囲んでいるだけだ。アンナはそれを見ても残念には思わなかった。ささやかなものだったからこそ、国の人間達の目を掻い潜ってつい最近まで信仰を守り続けることができたのだろう。それに、そもそも彼女は学術的に興味関心を持っただけであり、実を言うのなら信仰心自体は希薄だった。

 “これは、女神ディアーナかしらね?”

 その女神像はかなり摩耗していて、元の形状がどんなものだったかは想像に頼るしかなかったが、それでも彼女はそう判断した。月の女神ディアーナ。この女神は元は農民に信仰された多産の神だったとも言われている。その話に、なんとなく彼女は皮肉を感じている。

 「それがそんなに面白いだか?」

 熱心に女神像を観察するアンナに対し、不意にロナディがそう尋ねて来た。女神を軽蔑するかのようなその発言に、アンナは多少の怒りを覚えたが、彼が子供の時代には既に信仰は失われてしまっていたのだろうと考えると直ぐに治まった。

 彼は何も知らないのだ。無理もない。

 多分、信仰が失われていたからこそ、この女神像はここに放置されたのだろう。或いはこれが何であるのか知っている者もあったかもしれないが、国からの迫害を恐れるあまり街へ持って行かなかったのかもしれない。つまり、信仰心が残っていたとしてもその程度のものだったのだ。アンナ自身だってそれは同じなのだから、彼女にそれは責められないだろう。

 「そんなに面白いのなら、それ、持って帰るか?」

 ロナディが続けてそう尋ねて来たので、アンナは首を横に振った。

 「いいえ、その必要はありません。見る事ができただけで充分です。それに、荷物も重くなってしまいすし」

 ただの感傷に過ぎないかもしれないが、この女神像の正しい居場所は、この廃村の中のような気が彼女にはしていたのだ。それにこの女神像が元で、国の人間達に彼女が魔女である事がばれてしまう危険性だってある。

 

 自分と同じルーツを持つ人間だと分かったからなのか、それとも親切にしてもらったからなのか、或いは単に慣れて来たからなのかは分からないのだが、その日を境にアンナはロナディに対して多少の好感を持つようになった。

 国の人間達が自分を探しに来る事を彼女は心配していたのだが、いつまで経っても探しには来なかった。どうしてなのかと彼女が不思議に思っていたら、ある日外から帰って来たロナディが「“女の凍死した死体を見なかったか?”ってお国の人達から訊かれただよ」と、そんな事を言ってきた。それで、アンナにはその理由の予想が付いたのだ。

 どうも国の人間達はアンナは既に死んでいると思っているらしい。否、自分達の失態を隠す為にそういう事にしたのかもしれない。“逃げれられた”と報告するより“死んでしまった”と報告した方が、まだ罪は軽いというのは充分に考えられるし、いかにも国の連中のしそうな卑怯な手段だ。いずれにしろ、国の人間達は本気になってアンナを探してはいない。しばらくロナディの山小屋で暮らしても問題はなさそうだった。

 そして、アンナはそれからもロナディの山小屋で生活をし続けたのだ。ロナディはそれについて彼女に何も尋ねはしなかった。彼女がどうしてここで暮らしているのか、いつまで暮らすつもりでいるのか。

 あの恐ろしい脂スープをロナディに作られては堪らないと思い、家の中でアンナは料理を担当するようになった。そのうちに、特にやる事もないので、料理以外の掃除や裁縫といった家事もやるようになった。ただ、それらはロナディと分担したのだが。ロナディはそれ以外の力仕事もやり、いつの間にか確りと分業が成立していた。

 別に社会的な性役割を意識した訳ではなく、自然とそんな分担になっただけなのだが、それでもアンナには不思議な事があった。どうして自分はこの仕事分担に嫌悪感を覚えないのだろう?

 先にも述べた通り、アンナは社会の魔女差別も嫌いだし、女性差別も嫌いだったのだ。だから、決まりきった性役割を強いられる事も、その役割を果たす事も嫌いだった。だが、今は何の抵抗感もなくロナディとの間で、世間で言われているいわゆる“女性の役割”を担っている。

 何故だろう?

 しばらく悩んで彼女はその訳をこう説明した。

 良妻賢母主義は、家庭の役割を女性に押し付け、安定した人口増を行う為に考え出されたイデオロギーだとも言える。良妻賢母主義には「母親としての役割の重要性を強調し、その役割を全うするのだから女性の価値も高いのだ」と主張する一面もあるし、一部では実際に高い評価を受けた女性もいた訳だが、社会全体を観ればそれは極一部に過ぎず、女性の立場は弱いのが普通だった。

 つまり、社会が女性にその家庭での役割を強いる事は、女性に低い地位を強いる事とほぼ同義なのだ。だからこそ彼女はそれに反発をしていたのだが、ロナディとの生活には地位が高いも低いもなかった。ロナディは相変わらず威張るような事もなく優しかったし、そもそも地位が高いだの低いだのといった概念すら持っていないように思えた。

 多分、だからだ。

 だから、アンナは何の抵抗感も感じず、世間一般で言うところの“女性”の役割を受け入れられたのだろう。家事の道具が発達した今の社会においては、母親を家庭に縛り付ける事にあまり意味などないが、その山小屋の中にはそんな便利な道具などない事もその一因になったのかもしれない。

 

 ――生物学的性差と社会的性差。

 人口を支えられるだけの資源があるのならば、人口は増えた方がそれだけその社会にとって有利になる。それは社会の規模が大きくなるという事を意味し、だからこそ軍事力だって増大するからだ。

 その為、“戦争”という時代背景において特にそれは求められ、結果として国家主義とも結びついて、人口を安定して増やす為にある良妻賢母主義が強く主張された。

 つまり、奴隷制が野蛮であると否定された後も、女性を人口増の為の装置と考えるような社会体制が存続していた事になる。

 育児や家事には重い負担がかかる為、社会的地位の向上を目指して女性に働かれては人口増が達成できないという要因もそれにはあった。早い話が女性に損な役割、犠牲を強いたのだ。これは子供を産むことが女性にしかできないという生物的な特徴を考慮に入れても責められてしかるべき社会体制だ。

 時代が流れ、家事の道具が発達をし、既に出産と早期の育児以外では女性を家庭に縛り付けておく必要はなくなっている。ある程度成長すれば育児は社会でカバーする事が可能だし、家事はかつて程重労働ではなくなっているからだ。しかし、良妻賢母主義という考えは残り続けた。男性だけでなく、女性も社会に出て働いてくれた方が労働力が増えて社会全体にとって利益になる、という機能的な意味を理解せず、国家主義者達は未だにその前時代的なイデオロギーにただただ囚われ、社会に不利益をもたらしているのだ。

 だから、国家主義者達が女性の社会進出に反対するようならよく気を付けた方が良い。“女性の社会的地位の向上を否定する”という問題点だけでなく、そこからは合理性が欠如している危険性が大いにあるからだ。

 

 生活の中で、ロナディがアンナに身体を求めて来る事は度々あった。魅力的な女性と長く一緒に暮らしていれば、健康な男性である彼が性欲を抑え切れなくなるのも当たり前で、それをよく分かっているアンナは、“まぁ、仕方ないか”という曖昧な理由で彼の事を受け入れていた。

 ただ、彼女が彼の事を受け入れ続けた理由はそれだけではなく、彼との性行為への嫌悪感が減っていた事も大きかった。

 フィクションの中では、女性が男性を容姿でとても高く評価する場面がよく出て来るが、実は女性は男性ほど異性を容姿で評価しない傾向にあるらしい(もちろん、それでも容姿は大きな要因の一つだし、個人差だってある訳だが)。

 女性は妊娠から出産までの期間、身体的に著しく弱い立場になる。また、子供を育てる為にも他者の協力があった方が良い。その為、パートナーとしては、生活を支え、自分を守ってくれる男性の方が望ましい。だから女性は、容姿よりも自分を守ってくれる性格と力のある男性を選ぶ傾向にある、などとその理由が説明されている。

 この説明がどこまで正しいのかは分からないが、もしかしたらアンナがロナディとの性行為を嫌悪しなくなっていった事には、単なる慣ればかりではなく、そういった要因もあったのかもしれなかった。

 

 アンナがロナディと暮らすようになって、数ヶ月の時が過ぎた。山の雪は徐々に溶け始め、所々に地面が顔を出し始めている。気の早い新芽が、白と黒が基調だった景色にささやかな彩りを与えていた。ロナディはそれを見ると、山菜を採りに行きたいと言い出した。新芽の状態でしか食べられない美味しい山菜もあって、それを採るチャンスはこの時期しかないらしいのだ。それでその日、ロナディはまだ寒いのに、朝早くから新芽の山菜摘みに出かけていったのだった。

 “新芽の山菜は美味しいって、彼の舌でも繊細な味の違いが分かるのね”

 それを聞いて、アンナはそんな事を思った。植物の知識なら彼女も持っているが、標高の高い山の上の植物は多少守備範囲から外れていたし洗濯したい衣類が溜まってもいたから、彼女はロナディの山菜摘みは手伝わず、その日は一人で山小屋で洗濯をする事にした。昼間近になった頃に一度洗濯に区切りをつけ、ロナディも恐らく一度帰って来るだろうからと二人分の昼食の準備をし始める。

 そんな時だった。台所に立っていたアンナは外に人の気配を感じたのだ。しかもそれは複数人の気配だった。

 こんな山の中に人が来る事は珍しい。しかも何も声をかけずにこっそりと近づいて来ている。不審だ。

 アンナは息をひそめると、料理に使っていた包丁を強く握った。やがて、気配が出入り口を塞いだことをアンナは察した。

 “わたしの逃げ道を塞いだ…… こんな山奥の小屋の中に金目の物があるとは普通は考えないわね。なら、狙いは食料とわたし自身かしらね?”

 アンナは冷静にそう分析する。恐らくは山の中に逃げて来た強盗か何かが、偶然に女の姿を見つけて身体を弄ぶ目的でここに近付いているのだろう。

 “こういう場合、普通は抵抗をしないのが一番。抵抗をする女を、強姦魔達は殺傷する事が多いから。でも、それは逆を言えば、殺傷して欲しかったなら、抵抗をすれば良いという事でもある……”

 そう。どうせ襲われるのなら、彼女はここで悪漢達に殺されて、後回しにしていた“復活”を遂げようと考えたのだ。この身体を殺しさえすれば、彼女は闇の魔女としての魔力を取り戻せる。その方がこの山小屋だって守れていいだろう。

 “幸い、今はロナディもいない。あの人に見せるのには、ちょっと酷な光景でしょうからね”

 そう心の中で呟くと、彼女は口を開いた。

 「いつまでも隠れていないで、出て来たらどう? まさかここにかくれんぼをしに来た訳じゃないのでしょう?」

 すると、その一呼吸の間の後で、手に剣を持った恐らくは強盗だろう者達が入って来た。人数は六人ほど。様子を探るように慎重に足を運んでいる。罠である可能性を疑っているのだろう。実際に罠なのだが。

 “もしロナディがいたら殺されていたかもしれないわね”

 それを見てアンナはそう思う。包丁を強盗達に向けて構えた。

 「無駄な抵抗はやめろよ」

 飢えた獣のような目つきで強盗の一人がそう言った。剣の先をアンナに向ける。彼女を犯したくて仕方ないといった感じだ。

 「殺されたくはないだろう?」

 アンナは心の中で呟く。

 “残念。わたしは殺されたいのよ。ただ、わたしを殺した時は、あなた達は終わりだけどね”

 できる事なら、乱暴をされる前にアンナは殺されたいと思っていた。こんな強盗達に犯されるなんて冗談じゃない。その為には、できる限り相手を怒らせるのが一番だ。

 「わたしを犯したいのなら、殺しなさいな。生きていたら、絶対にあなた達となんてしないわよ、わたしは」

 そして軽く包丁を突く真似をする。ただ、剣術の類を身に付けた事のない彼女のそれはまったく様になっていなかったのだが。強盗達はそれを見て失笑した。

 「ハハッ! なんだそりゃ?」

 それに怒ったアンナは、傍にあった皿を強盗の一人に向かって投げた。強盗の頭にそれが当たる。

 「イテェ! 何をしやがるんだ?」

 怒ったその強盗は剣を振りかざしてアンナに向かっていった。アンナは口の端を歪めて笑う。単純な男で良かった。これで殺される事ができそうだ。

 しかし、そのタイミングだった。

 「アンナァ! 逃げろぉ!」

 そう叫んで、ロナディが山小屋の裏手から飛び込んで来たのだ。そしてアンナを庇って強盗の前に立ちはだかる。どうやら彼は山菜摘みから帰って来ていたらしい。相手が男だったからかどうかは分からないが、強盗は躊躇なくロナディの腹を刺した。

 「ロナディ!」

 アンナはそう叫ぶと強盗に向かって包丁で斬りつけた。が、それは相手の腕の肉を浅く切っただけだった。

 「何をしやがるんだ、この女!」

 次の瞬間、強盗はそう叫ぶとアンナの胸部に剣を突き刺す。ちょうど心臓のある部分だ。大きく目を見開くと、アンナはそのまま何かを抱えるような姿勢で倒れ込んだ。

 それを見ていた他の強盗達はその成り行きに顔を見合わせた。そして、そのうちの一人が肩を竦めるとこう言った。

 「おいおい、女を殺しちまったら意味がないだろうが。勿体ないな」

 「やかましい! 俺はこの女に腕を切られたんだぞ?」

 「そんな掠り傷で大袈裟なんだよ、お前は」

 そう言うと、仕方ないといった顔でその強盗は山小屋の中を眺め始めた。何か食べ物はないかと探しているようだ。干し肉が吊るされているのを見つけると、それを引き千切って口の中に入れる。

 「まぁ、こうなっちまったもんは仕方ない。もうこんな所に用はねぇよ。てきとーに食いもんを見つけてさっさと出て行こうぜ」

 別の強盗が同じ様に干し肉を千切って口の中に入れた。

 「そうだな」とまた別の者。アンナとロナディを刺した強盗はまだ少し興奮していたが、剣を鞘に収めると台所に目をやった。アンナの作りかけの料理で食べられるものはないかと探しているようだ。

 しかし、そこでふと気が付く。

 「おい。なんだか、妙に外が暗くないか?」

 台所にある窓から見える外の景色が、急速に暗くなっていたのだ。いや、むしろそれは“黒い”と表現した方がより適切だったかもしれない。まるで黒の塗料で空間が塗られていくように、急速に光が消えていく。山小屋の出入り口から差し込む光も失われ、中を一気に暗闇が支配した。

 「山の天気は変わり易いからな。雨でも降るんじゃないのか?」

 そう言った者がいたが、それは“天気”で説明できるレベルの暗さを遥かに超えていた。

 「いや、これ、絶対におかしいだろ?」

 他の強盗がそう震えた声を上げた次の瞬間だった。外の闇の一部が切り取られ、影となったそれが小屋の中に入って来たのだ。しかもその影には目があった。白くぼんやりと光るそれが、強盗達を見ている。

 そして。

 『フフフフフ』

 そんな笑い声が。見ると、さっき刺されて絶命したはずの女が笑っていた。

 『ありがとう。わたしを殺してくれて。お蔭で魔力が復活したわ』

 そう言っている彼女の周囲からも幾つもの影が沸き出していた。その影には手があり、顔があり、口があった。

 強盗達はそのあまりの事態に驚愕し、戸惑いながらも一か所に集まって、一斉に武器を構えた。一人が叫ぶ。

 「なんだ、お前は?!」

 『わたし? わたしは闇の魔女、アンナ・アンリ。聞いた事がないかしら? まぁ、知っていても知らなくても変わらないわ。もう、あなた達はお終いよ。運がなかったわね。よりによって、このわたしがいる山小屋を襲うだなんて』

 アンナがそう言っている間で、山小屋の中の影達は集合して大きな一つの影となった。怪物のように大きな影。そして、大きな目。大きな口。

 強盗達は唖然とした表情でそれを見つめ、恐怖で凍りつき動けなくなっていた。一体、なんなんだ、これは?

 『死体とか血とかを掃除をするのも面倒だから、一気にあなた達を呑み込んであげる。バイバイ』

 それからアンナは手で獣の口の形を表現すると、「バクッ」とそう言って手で噛みつく真似をした。その動きに合わせて、影が強盗達を呑み込む。誰かの腕を一本だけ残して、強盗達は影の中に消えてしまった。そして、その一瞬後で、辺りは再び明るくなる。

 「ロナディ……」

 完全に元の明るさに戻ると、アンナはそう彼の名を呼び倒れている彼に寄っていった。彼女が身体に触れると、それでロナディは意識を取り戻したようだった。

 「……アンナ、だか?」

 弱々しい声でそう彼は言う。

 「ええ、そうですよ」

 「良かった。無事だったか。連中は?」

 「強盗達なら消しました。今は別の世界の闇の中です」

 その言葉でアンナ・アンリは自分が本当は魔女である事を彼に分からせるつもりでいたのだ。しかし、魔法の知識のない彼にはその意味が理解できないようだった。

 「よく分からないけども、とにかく、もう安全なのか……」

 そんな事を彼は言う。

 剣は彼の腹部に深く刺さっていたようで、助かりそうにない。それから彼は血を吐いた。それを見てアンナは言う。

 「ロナディ。わたしは本当は“闇の魔女”だったのです。隠していてごめんなさい。今の魔力が復活したわたしなら、あなたを助ける事もできるけど、それはしないつもり。あなたにわたしがまだ生きている事を国の人間達へ伝えられたら、厄介な事になりますからね。だから、このままあなたを見殺しにします」

 アンナはそれを聞けばロナディはショックを受けるだろうと考えていた。これから死ぬという事だけではない。信頼していた相手から裏切られるという喪失感。ところが、それから彼はふっと微笑んだのだった。

 「おでには難しくてなんの事だかよく分からないけど、とにかく、おめぇさんは無事なんだな? それなら良い。良かった……」

 そして仕合せそうにする。

 アンナ・アンリは恨み言の一つでも彼から聞く覚悟でいたものだから、その彼の言葉に戸惑いを覚えた。

 「わたしの言う事を聞いていなかったのですか? わたしはあなたを助けられるのに、助けないと、見殺しにすると言っているのですよ?」

 が、それを聞いてもロナディの表情は相変わらずに穏やかなままだった。

 「ごめんな。おでにはおめぇさんの言う事は難しくで分からなくて。ただ、おめぇさんは何にも悪くないと思うから、そんなに泣きそうな顔はしないでくれ」

 そして、そんな事を言う。

 「ですからっ!」

 アンナはそれからまた同じ説明をしようとしたのだが、そこでロナディは目を瞑ってしまった。もう意識はないのかもしれない。そしてその時にアンナは気が付いた。彼女に食べさせるつもりで摘んで来ただろう山菜が、袋に入れられて彼の直ぐ傍に転がっている事に。彼女はもう一度呟くように言った。

 「ですから……」

 

 ……ロナディが目を覚ますと、小屋の中には料理の美味しそうな良い匂いが漂っていた。いつもとは違って、そこには新鮮な草の薫りが混ざっていた。少し考えて彼は気が付く。“ああ、これはおでが摘んで来た山菜だな”と。見ると、台所でアンナが料理を作っていた。

 ロナディが起き上がると、「やっと目を覚ましたんですか?」とアンナは台所からそう言った。

 「目を? ああ、そうだ。確かおめぇさんが強盗に襲われてで、おでは助けようとして剣で刺されて……」

 それを聞くとアンナは笑った。

 「何を言っているんですか? 悪い夢でも見たのじゃありませんか? あなたは山菜摘みから帰って来て、そのまま疲れて眠ってしまったのですよ。まだこんなに寒いのに、朝早くから山の中を歩くから」

 彼はそれを聞いて首を傾げる。

 「いや、そんな… だって、確かに」

 そう彼が言っている間で、アンナは料理を運んできた。小さな机の上にそれを置く。

 「“確かに”もなにも、実際、あなたには刺された傷なんてどこにもないじゃありませんか」

 そう言われてロナディは自分の身体を見てみる。手でも触れてみたが、彼女の言う通り傷などない。

 「さぁ、食べましょう。もう夕飯の時間ですよ」

 アンナがそう言うので、ロナディは納得のいかない表情のまま料理を食べた。

 「少し薄味だけど美味しいな」

 一口食べて彼がそう言うと、アンナは「これ以上味付けを濃くしたら、山菜の良さが消えてしまいます」と呆れた声でそう返した。その時にロナディは気が付いた。彼女の顔に少しだけ涙の痕がある事に。

 「なぁ、闇の魔女って何の事だか分かるか?」

 ロナディはそれからそう尋ねる。アンナは澄ました顔でこう答えた。

 「闇の魔女? さぁ? どっかの森にいる魔法使いの事じゃありませんか?」

 それを聞いて、まぁ、いいかとロナディは料理をまた食べ始めた。小屋の隅では、小さな影がその光景を黙って見ていたが、やがてここには自分は必要ないと悟ったかのように、その姿をゆっくりと消していった。

 呑気に料理を食べ続けるロナディを見つめながら、アンナはこんな事を思っていた。

 “いつまでかは分からないけど、もうしばらくはここにいましょう。なんだか、この人は放っておけないし”

 そう。

 いつまでかは分からないけど。

 

 ※注記 魔女関連の話はヨーロッパの女性蔑視をモデルにしましたが、国家主義と良妻賢母主義が結びついているという話は日本の近代以降の女性蔑視をモデルにしました。ただし、舞台設定に応じて内容をわずかに変えてありますし僕が考えた仮説も混ぜてありますので、もし興味を持たれた方がいたなら、専門の書籍を当たってみた上で、自分の知識とする事をお勧めします。

参考文献:『魔女狩り (ヨーロッパ史入門) 著者 ジェフリ・スカール ジョン・カロウ 翻訳 小泉 徹 岩波書店』

『魔女狩り 西欧の三つの近代化 著者 黒川正剛 講談社選書メチエ』

『近代日本の国民統合とジェンダー 著者 加藤千香子 日本経済評論社』

『男性支配の起源と歴史 著者 ゲルダ・ラーナー 三一書房』

『ジェンダーの心理学ハンドブック 著者 青野 篤子 ナカニシヤ出版』


※ 作中、家事労働は道具により軽減していると書いてしまいましたが、「それほど軽減していない」という調査研究結果もあるそうです。


 最近、”ジェンダー”という表現が国によって言葉狩りにあっているそうです。

 何故だろう?と思っていたのですが、国家主義と良妻賢母主義が結びついているということを知って「もしかしたら」とそう思いました。

 最近、国家主義的な傾向が強まってますからね。政治。

 女性の社会進出が進まない訳だ。

 因みに直観に反して、どうも女性だけでなく、男性にとっても男女平等社会は住み心地の良い社会になり易い傾向にある、という話もあります。

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