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極私的俳句論、super private haiku poem theory その4  俳句の奥義、

作者: 舜風人
掲載日:2014/05/01

では、俳句の奥義とは何だろうか?


それは実はきわめて日本的なものである。


わかりきったことであるが


俳句でローマ風景やパリ風景をを詠ってもそれでは俳句にならない。


そんなものは俳句ではありえないからだ。


その意味では俳句は実に土俗的なものでもある。


日本の風景に根差した四季・自然・風俗・人情、遊行という


きわめて限定的なポエム?ということになる。



そこからはみ出したら単なる1行詩でしかなくなる。


自由律無季俳句ならローマ風景も歌えるが


はたしてそんなものが俳句と言えるかどうか?



俳句とは、いやもっと広義の短歌やらも含めた日本の歌ごごころとは何だろうか?



歌ごごころ?


それは日本人の原風景であり、


万葉集の昔まで坂のぼれるような


ヤマトの詩魂に根差すものなのであろうか。


こんな歌がある



「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」


この歌の意味を西洋人に伝えるのは至難だろう。


だが日本人なら、たとえ歌心の無い庶民でもなんとなくその意味は分かるはずだ。



また西行に有名なこの歌がある。


『願わくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」



この歌も西洋人には解説が難しいだろう。


春に桜の下で死にたい、、、、、、、。


西洋人は、はあ?って思うだけだろう。


だがこの歌は24歳で北面の武者を辞して出家して


妻子も捨て、


まさに遊行僧といえばかっこいいが


乞食坊主?として風雅と歌道を求めて


各地を遍歴して


歌に身を任せた西行の最後の望みだと知れば


その極みが理解できるだろうか。


俳句にしても短歌にしても、


それは大和の詩魂が基底であり、


俳人や歌人である前にまず大和歌の詩人でなければ始まらないのである。


とはいえ日本人なら誰だって生まれながらにその萌芽は持っているのだから


1億総俳人、1億総歌人でもありえるわけだが、、、。



逆説めくが


だから親子代々俳句の宗家?みたいに


〇〇派だとか言って継承できるのもそうした基盤が誰にでもあるからなのだということだろう。


普通なら偉大な芸術なんてその人限りだが


俳句は民族の伝統的な精神基盤からの民謡?みたいな面もあるから


一子相伝?できうるのである。


だからまたなかなか独り立ちした芸術としての


俳句というのも成立しにくいのもそうしたことが元凶なのである。


季語を入れて、四季の風物でも適当に入れて。


575に整えれば誰だって日本人ならば簡単にできちまうからである。



だが歌の道


俳句の道の


奥義は実は根深い。


確かに作るのは簡単で誰にもできる。



しかしそれを極めるとなったら


大和の歌心に触れて


自分の詩魂を鍛え、修行し、


その果てに見えてくるだろう


自由闊達な


遊行三昧の世界まで行かなければならないからだ。


深刻な境涯俳句や社会派俳句がダメなのは


まだこの遊行三昧にまで昇華しきれてない生煮え俳句モドキだからなのである。


その意味では前衛俳句も理論に勝ちすぎて


遊行精神が全くないという大欠点がある。


つまり前衛俳句は、俳句ではなくて1行詩でしかないのである。


むしろ自由律俳句のほうがまだ救いがある。


「咳をしてもひとり」


『分け入っても分け入っても青い山」


これならば遊行精神に近づいているからだ。



いわゆる現代俳句、若い人の俳句は(短歌もそうだが)


トレンドな現在の生活風景を独自のアングルで切り取って


軽妙に歌ったものがほとんどだが


これでは遊行精神から見ればまるで邪道でしかない。


別に俵万智に恨みもないが


誰それが言ったから今日はサラダ記念日、、、、、


これでは大和の歌心の対極にある駄作でしかありえまい。


明治時代にその当時の最新流行を描いて爆発的にヒットした


「魔風恋風」みたいなものだ。


今誰がこんな小説読みますか?


時代に迎合すれば時代が過ぎれば徹底的に忘却される運命が待っているばかりです。



なぜ時代に迎合してはいけないのか?


なぜならそこには基盤が欠けているからです。


たとえば俳句でいえば


その心は


花を見れば花になり


花になりきって遊ぶことです。


遊ぶといっても、


それは遊行するということであって


苦悩の末の軽みであり、


滑稽味です。


単なる軽みでは川柳です。


軽みの奥に秘められた羽化登仙というか


遷化というか


そういう遊行三昧が無ければいけないのです。




ここにきて初めて俳句の極みに達したと言えるでしょう。











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