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破天涯  作者: 淡井弓命
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いつかとともに



 過ぎていく大切な日々に、温度があれば。

 愛おしい記憶に、手触りがあったのならば。

 私はもっとずっと鮮明に、覚えていられたのであろうか。瞬間に生きていた私の鮮烈な感情と、私の愛した世界が、遠くなってしまわないように。そうしてそれらを、いつでも懐にいれて、ふとした時に取り出せるように。

 詮なきこととは思いながらも、時折、私はどうしようもなく夢想してしまうのだ。



「また一つ、年を重ねたね。縫岳(ほうがく)大帝さん」


 物思いに耽っていた私の意識を呼び戻したのは、久遠劫来に命運を共にした男――白瑞火君はくずいひくんである。出会って数万年を経ても、相も変らぬその美貌に私は嘆息する。


「白髪兄さんよ、白髪兄さん。五万歳も、五万一歳も、それは誤差ですらないぞ」

「うーん。とりあえず、その呼び方をやめてくれたら嬉しいのだけどね」


 籍を天界に移し、人身を辞したこの身は朽ちることを知らず。かつて日々を共にした朋友は、もはや人世にあらず。

 生まれ育った天下八荒に、生きて私の帰りを望むものは誰一人いない。物事は移ろい流れ、結ばれ形を成しては、弾け消えるのは世の定理。


 だけど私は逆らうように、思い出しては、見つめ続けている。


 傍にいてくれた優しさが、掛けてくれた言葉の温もりが。

 愛しき者たちの生きざまが、ともに歩いた軌跡が。

 預けあった心が、永遠を約束したその瞬間が。


 長くを歩くうちに、霞み、滲み、どこか遠くへと消えてしまわないように。

 その境地に至るまで私を導いてくれた男は、今私の前で無邪気に笑って見せている。それの、なんと幸福なことであろうか。


「まあなんだ、我らの妹も支度して待っているのだからね。君の誕生日を寿いで、花見にいこう」


 彼はそういって軽やかに弾みながら、およそ高位神とは思えない朗らかな様子で、私に手を差し出す。


「私より一万年も早く生まれたのが、妹なぁ……」


 割り切れないことは多少あれど、失って傷ついて、生き足掻いた先にある今を悲観はしない。見上げた天は、地上からの景色とは変わってしまったけれど、それでもどこか懐かしくて。


 私は己の遠く遠い旅路を想いながら、差し出されたその手を強く握り返した。







 




 その昔、物事の判別もつかぬ幼少の頃、私がまだ令狐(れいこ)姓を冠し、小花(しょうか)と呼ばれていた時分のことだ。

 冥き異界の洞穴に迷い込み、その先でひとりの青年の相をした神仙に出会った。

 見目は若人とはいえ、その実際は気の遠くなる久遠を生きていたというのは後に知ることとなるのだが、当時の私にとっては、そんなことは知る由もなかったし、さして興味もない些事であった。


ただ印象的だったのは、彼がひどく寂しそうな目をしていたことだ。


「これも何かの導きなのだろうね、坊や」


 その神仙は座して酒を仰ぎながら、遥か遠くに瞬く糠星を見つめていた。


 伸ばしたままの白銀の長髪は、濡れたようにしっとりと垂らされ、朱の糸を織り込んで鳳凰の紋様をなす玄衣との対照が際立っている。

 すうっと通った鼻筋に映えるは灯篭の灯火。切れ長の瞳は冷涼で、物憂げな表情すらも風情があった。


「お兄さん、若いのに白髪って変なの」


 今思えば、とんでもなく恐ろしいことを口にしたものだ。

 しかし彼は気に留めることもなく、微笑しながら鷹揚に手招きをする。


「どうだい、坊やも一杯するか」


 差し出された酒杯には、透明な酒が満たされている。当時、私は幼かったのと体が弱かったのとで、酒は厳格に禁じられていたが、少しの好奇心が勝ってしまった。


「げえっ、辛い。ひりひりするよ」


 口に含んだ酒を吐き出し、濡れた口回りを袖で拭うと、私はすぐに盃を突き返した。

 彼はその反応を予想していて、あえて少し意地悪をしたようだ。特段様子を変えることもない。


「まだ早かったかな、坊には」

「いつか美味しくなるの?」

「大人になればなるほど、酒は旨く感じるものなんだよ」

「んー、ならやっぱり大人にはならなくていいや」

「そうかそうか」


 青年はどこか可笑しいとでもいうように、笑いをこらえていた。そうして、私が突き返した盃をぐいっと煽りこむ。


「坊や、名は」

「……小花」

「悪くない。由来は気になるところだけどね」


 これは、私が生まれてから成年するまで、ずっと言われ続けていたことだ。


 私は令狐氏の嫡男として生まれながら、幼名に女子の名を授けられた。黎州(れいしゅう)令狐氏の景云山(けいうんさん)集落の子どもにもよくからかわれ、いやな思いをしたものだ。

令狐氏宗主である父も、その夫人の母も、本当は男ではなく、令狐家の家術を継げる女の子供を望んでいたという話は、聞きたくなくとも耳にするくらいに有名な話であった。


「父上も母上も、ほんとは男の子じゃなくて女の子が欲しかったんだって」


 私を生んですぐに亡くなった母は、死の間際にありながら、生まれた子は男児ということを知りつつ、私に女子の名を賜ってすぐに息絶えたのだという。その背景も相まって、どこか呪いのようにも感じられる。

――母も父も、それほどまでに女子を切望していたというのか。

 押し黙ってしまった私に何かを感じ取ったのか、青年は、それ以上そこに触れてくることはなかった。


「して、年は」

「六つ」

「六つか、そうか……」


 青年は先ほどの軽やかさを収め、手に持った酒杯を盃台に置き、優雅に立ち上がった。当時の私が小さかったというのもあるのだが、見上げると首が痛くなるほどに長身である。

 その武骨な手がゆっくりと近づき、私は気づけば抱き上げられていた。


「わあっ!」

「六つにしては軽いな」


 抱き上げられると、青年の端正な顔立ちがより近くで見える。

視線が交錯すると、飄々とした先ほどの態度とは打って変わって、彼はどこか切なげに目を逸らした。しかし私には、その背景を推し量る力などあるはずもなく、その瞳が真に映している情景など知る由もない。


 ただ静かに、自らを戒めているような感じがして、私は少し悲しくなってしまったのを覚えている。


「……小花よ、しばしここで供をしていけ」



 そうして、迷い込んだ異界の隅で、私は素性の知れぬ神仙と幾月を共に過ごすこととなったのである。

その異界が、人世にいう冥界地府であったことは、これよりずっと先に知ることとなるのだが、それはまた後の話だ。



 その神仙との追慕に過る景色の一つに、忘川での出来事がある。

 烈鏡山れっきょうざん(死者の魂が最初に集まる山)からの帰りに、私たちは忘川の河岸で足を止めた。

 ほとりから、果てを見渡せば、冥府の暗弥鬼宮あんやきぐうの城下街の明かりが、煌々と連なって輝いている。


 それが鬼火であったのか、灯火であったのかは未だによくわからない。


 もちろん当時私は、今自分がいる世界が冥府であったことも理解はしておらず、わけも知らずに青年の玄衣の裾を掴み、ただその煌めきに見惚れていた。


「……人には」


 上空では、妖烏が数羽群れて飛んでいる。

 青年はそれを見て何を思ったのか、或るいは何も思わなかったのか。

 いつもの軽快さを隠した冷涼な面付きからは、何も読み取ることはできない。

 

「人にはね……それぞれ天命というものがある。ゆえに、これもその一端なのだろう」

「てん、めい?」

「必ず成し遂げなければならぬ、天から定められた使命のことだ」


 そう言った彼の口調は、誰に言い聞かせるでもなく、自らを諭すかのようであった。


 しばらく黙っていた彼は、何かを決心したかのように、しゃがみこんで私を正面から見つめる。


「よいか、小花よ」


 そこには憐憫の情と、縋るような頼りなさがありつつも、私の幼い肩を掴む力の強さが、その激情をよく表していた。

 そうして額を合わせ、青年は息をつく。


「天命は、生涯をかけて成し遂げなければいけない。だけれど、お前は――」


――お前は、己が天命を捻じ伏せなければならないのだよ。



 思い返せば、本当にとんでもないことを告げられたものだと呆れてしまう。


 齢六つであった私は、それが何を意味するところなのか全く知りもしなかったが、天命を捻じ伏せることは、天を破ることと同義である。それは天地開闢以来の秩序を覆す大罪であり、成す成さぬ以前に不可能なことである。


 だが、長く長い旅路の中で、人生とは本当に何があるかが分からない。


 忘川での出来事のすぐ後に、私は人界の黎州景云山の令狐氏に還ったが、その後もまた、世の宿痾に由って来たともいえよう運命に翻弄され、私は令狐の姓を捨てた。

 得ては失くし、傷つき疲れて、そうして眠る。あったはずのものが、確かにそこにあったはずのものが。しかしもはやそれらを確かめる術はなく、思い出に手触りはない。


 でも、それでもいいと思えるのだ。思えてしまえる程に、遠くへ来てしまった。













 半ば無理やりに連れてこられた桃花林の一角で、私の家族ははしゃいでいる。

 その光景のまぶしさに、私は目を細める。


「今年の桃花もきれいに色づいたな」


 咲き誇る桃の花は、己が美しいということを自負しているかのように堂々と花開く。

 ゆるりと通り過ぎた風に、ひらり舞う花弁の一枚をつかみ、私は花びらを透かして天を仰いだ。


 たとえば、去年のものとは違っても、巡る季節の中で必ず花は芽吹くように。砂のごとく攫われたかつての欠片が、いつかどこかで小さな何かを咲かせるかもしれない。

 そんな小さな楽しみのために、私は在りし日々を見つめていよう。


 少し先のほうで、花と戯れる青年の相をした神仙に、私は大きく手を振った。


「白髪兄さーん! 花見をするからには、もちろん?」



 くるりと振り返った彼は、快活に笑い、


「美酒を酌み、花は肴に」


 そうして、いつかの出会いを彷彿とさせながら、手に持った酒瓶は高く掲げられた。


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