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言の葉を綴る者

作者: 徳山かずき
掲載日:2026/03/26

言葉は、不思議なものだと思う。


口に出せば簡単に消えていくのに、言えなかった言葉だけは、ずっと胸の奥に残り続ける。


あの時、どうして言えなかったのか。


どうして飲み込んでしまったのか。


そんな後悔は、時間が経てば消えるどころか、形を変えて積もっていく。


やがてそれは、重さになる。


息苦しさになる。


時には、人を遠ざけてしまう。


けれど…。


もし、その言葉を誰かが掬い上げてくれるとしたら。


自分でも気づかなかった“本音”を、形にしてくれるとしたら。


それは、救いになるのか。


それとも、さらに痛みを伴うものなのか。


この物語は、言葉にならなかった想いと、向き合う人たちの話です。


伝えられなかった気持ちが、ほんの少しでも誰かに届くように。


そんな願いを込めて。



時は、明治中期。


東京下町の外れ。


賑わいから少し離れた路地の奥に、その平屋はあった。


壁は剥げ戸は軋み、風が吹けば隙間から冷気が忍び込む。


雨が降れば、軒先からポタポタと雫が落ちる。


誰もが一度は目にするが、二度と見ない。


そんな家だった。


けれど、その入口に貼られた一枚の紙だけは妙に目に残る。


『本音を書きます。どこへでも届けます』


歪な文字だった。


だが、迫力がある。


笑う者もいる。


怪しむ者もいる。


だが本当にどうしようもなくなった人間だけが、その前で足を止める。


言葉にできないものが、胸の奥に溜まりきったときだけ。


だから、客はあまり来ない。


その日も、家の中は静かだった。


文机の上には白い紙が整然と並び、筆と硯がきっちり置かれている。


古びた家の中で、そこだけが異質だった。


縁側で座り空を見上げている少女――神崎茜(かんざきあかね)


黒髪を低く結び、背に流している。


藍色の着物にえんじの帯、まだ17という若さで妙に落ち着いて見える顔立ち。


饅頭を頬張る姿は、まだ幼い。


「うまっ」


縁側の柱に寄りかかる青年――片桐柊一(かたぎりしゅういち)が苦笑する。


「朝からもう四つ目ですよ?」


「数えるなっての」


「ちゃんとご飯も食べてください」


茜は極度の偏食で、柊一も困り果てていた。


「魚なら食う」


「じゃあ、味噌汁もつけますね」


「いらない」


軽口のようで、これがいつものやり取りだ。


饅頭を噛む口が、わずかに止まる。


「今日は…来るな」


ぽつりと茜が言うと、柊一の目が細くなる。


「依頼者ですか?」


「あぁ…」


「本音の重さはどうですか?」


茜は一瞬考えて、首を横に振る。


「少し…重いな」


「そうですか」


柊一は、それ以上何も聞かなかった。


茜の感覚は、外れない。


その時…。


コンコン。


戸が叩かれた。


「来た…」


茜は、残りの饅頭を口に頬張った。




柊一が戸を開けると、男が立っていた。


五十手前、日に焼けた首筋で節くれだった手。


長く体を使う仕事をしてきたのが一目で分かる。


だが…その目は、どこか空っぽだった。


「ここが…代筆屋か…?」


「えぇ、どうぞ」


柊一は静かに答えて、中に促すように言う。


男はしばらく張り紙を見上げていた。


それから、諦めたように中へ入った。


文机の前に促されて、畳の上に座る。


膝の上の手が、何度も開いては閉じる。


落ち着きがない様子だ。


まだ迷っている。


それでも来た。


それだけで十分だった。


茜は男を一瞥した瞬間、内心で舌打ちする。


視える。


黒いものが漂っている。


怒りでも、悲しみでもない。


もっと粘ついたもの。


それは…後悔。


「アンタの名前は?」


浅田源蔵(あさだげんぞう)だ」


「誰に書くんだ?」


「…息子だ」


「生きてるのか?」


茜の言葉に源蔵は少し沈黙する。


「多分…生きてる」


その一言で、もう分かる。


この男は、逃げ続けている。


現実からも、自分からも。


「何を書きたい?」


「…っ…帰って来いと…」


茜は鼻で笑った。


「浅いな…」


茜は鼻で笑って源蔵を見る。


空気が凍る。


源蔵の顔が強張る。


「なんだと?」


「その程度なら、他の代筆屋に行け」


「俺は本気でっ…」


「嘘つけ」


ぴしゃりと言い切った。


源蔵の言葉が止まる。


しばらくの沈黙。


それでも源蔵は立ち上がらない。


逃げない。


「書いてくれ…」


その声は、さっきよりずっと小さかった。


茜は文机の引き出しから、白いたすきを手に取る。


肩に掛け、袖が垂れないように結ぶ。


その瞬間、部屋の空気が一変する。


外の音が遠のき、外から入ってくる光が少しだけ白くなる。


時間が、ゆっくりと流れるように感じる。


何本かある筆を選び、まだ紙には触れない。


「アンタの本音、書かせてもらう」


源蔵の喉が動く。


「三年前…息子を追い出したな」


「あぁ…」


「理由は…?」


「家を継がせるつもりだった…」


茜の目が細くなる。


「怖かったんだろう?」


源蔵の顔が崩れる。


「なんで…」


「置いていかれるのが…怖かったんだろう?」


「あぁ…」


源蔵は、コクンと大きく頷いた瞬間…。


茜の中に、源蔵の記憶が流れ込む。


木屑の匂い、幼い息子の背中、ぎこちない源蔵の笑顔、病で痩せた女、怒鳴り声、閉まる戸。


そして、動けない源蔵。


筆が、紙に落ちる。


さらり、と。


本音が文字になっていく。


これが源蔵の“本音”だ。


源蔵の癖のある字になって紙に落ちていく。


「アンタの本音を言え」


「…帰って来てほしい」


「足りない」


「謝りてぇ…」


源蔵の肩が震える。


「三年だぞ…三年も経てば、あいつの怒った顔、悲しそうな顔…笑った顔が薄れていく…」


茜の持っている筆が速くなっていく。


源蔵の感情が流れ込んできて、茜の呼吸がわずかに乱れる。


「会いたい…息子に会いたい…」


その一言で、全てが決まる。


そして、ようやく筆が止まった。


「これが…アンタの本音だ」


そう言って、源蔵に手紙を渡す。


「っ!?」


源蔵は驚いた。


息子の名を告げていないのに、書かれている。


それにまるで自分が書いた文字のように、癖のある字で書かれている。


字を見せたこともないのに。


――――


修一郎(しゅういちろう)


帰ってこい、と書けばそれで済むと思っていた。


そう書けば、親らしいと思った。


だが、違う。


俺はお前に会いてぇ。


あの日、お前を追い出した。


あの時、足は動いた。


追いかけようとした。


だが、止めた。


親の意地なんてものに、負けたんだ。


あの一歩を、三年経った今でも後悔してる。


お前が言った言葉、覚えている。


学問に進みたい、帳場で働きたいと。


あの時、本当は少しだけ分かっていた。


お前に向いてるのは、そっちかもしれねぇと。


だが、認めたくなかった。


俺と違う道を選ぶお前を、認めたくなかった。


だから、怒鳴った。


出て行けと。


本当は、待てと言いたかったのに。


三年だ。


三年も経てば、顔も声も薄れていく。


怒鳴った記憶ばかり残る。


笑った顔が思い出せなくなる。


それが怖ぇ…。


どこで何をしている?


飯は食ったか?


風邪は引いてねぇか?


笑ってるか?


一人じゃねぇか?


前に元気でやれと書いた。


あれは嘘だ。


元気ならそれでいいわけがねぇ。


生きてりゃそれでいいわけでもねぇ。


俺はお前に会いてぇ。


それだけだ。


一度でいい。


顔見せろ。


帰らなくてもいい。


許さなくてもいい。


ただ、お前の顔が見てぇ。


それが本音だ。


父より。


――――


源蔵の手が震える。


ぽたりと、涙が落ちる。


「俺…こんなこと思っていたのか」


「アンタの本音を掬いとってやった」


茜は淡々と言う。


それがこの男の救いとなった。


柊一が手を差し出す。


「届けてくれ…」


「えぇ、もちろんです」


柊一は丁寧に受け取り、革鞄へしまった。


源蔵に一礼する。


「あなたの本音、お届けに上がります」


外へ出ると鞄の中の手紙から、淡い光の糸が伸びた。


柊一にしか見えない導きだ。


路地を抜け、橋を渡り、人通りの多い通りを横切り、また少し寂れた一角へ入る。


糸は迷わない。


たどり着いたのは小さな長屋だった。


戸の前は掃き清められている。


誰かがきちんと暮らしている場所だ。


コンコン。


柊一は戸を叩く。


中から若い男が出てきた。


二十代前半。


源蔵によく似た目元をしている。


だが、その目はもっと冷えていた。


修一郎の部屋は、整っていた。


帳面が並び、筆も手入れされている。


食事は一人分。


誰かと笑った形跡がない。


「誰だ」


戸を開けた青年が睨む。


「届け人の片桐柊一と申します。浅田修一郎様にお手紙です」


「いらねぇ」


即答だった。


「読むまで離れません」


「は?」


「届け人ですので」


柊一のしつこさに渋々手紙を受け取る。


少し乱暴に手紙を開ける。


文面に視線を向ける。


久々に見る、父の癖のある字だ。


最初は無表情だ。


だが、次第に崩れる。


“俺はお前に会いてぇ”


そこで止まる。


喉が鳴る。


最後まで読む。


「遅ぇよ…今さら…」


手が震える。


「追い出したの、あっちだろ」


沈黙。


そして。


「…会いてぇのは、こっちだって同じだよ」


その声は、ほとんど泣いていた。




その日の夜。


源蔵の家の戸が開く。


「親父」


源蔵が顔を上げる。


止まる。


「…修一郎」


声が震える。


二人、動けない。


言葉が出ない。


ただ、立っている。


長い、沈黙。


そして…。


「…飯、食ってくか」


やっと絞り出た言葉。


修一郎は顔を逸らす。


「…食う」


それだけで十分だった。


一つの本音が届いた夜だった…。




茜は机に突っ伏していた。


片腕を枕みたいにして、もう片方の手はだらりと床へ落ちている。


指先がわずかに震えていた。


「柊一…遅い」


掠れた声だった。


いつもの棘は、ほとんどない。


ガラッ。


戸が開く音。


「遅くなって、申し訳ありません」


柊一が静かに入ってくる。


足音を殺すように歩いて、机の端に包みを置いた。


「…饅頭か」


顔を上げずに言う。


「はい」


「…気が利くな」


茜はゆっくり顔を上げる。


顔色は、少し青い。


だが、目はまだ死んでいない。


包みを引き寄せて、一つ取る。


口に運ぶ。


もぐ、と噛む。


甘さが、じわりと広がる。


喉を落ちる。


それで、ようやく息が整う。


「…どうだった?」


柊一は少しだけ間を置いた。


その間に、答えが含まれている。


「修一郎様、ご実家に帰られました」


その一言。


茜の手が止まる。


饅頭を持ったまま、動かない。


沈黙。


外から、遠くで子供の笑い声が聞こえる。


鍋の蓋が鳴る音。


下町の、いつもの音。


「…そっか」


ぽつり、と。


それだけだった。


それ以上は、聞かない。


聞けば、自分の中に流れ込んでくる。


だから聞かない。


柊一も、それ以上は言わない。


少しだけ視線を落とす。


茜の指先が、ほんのわずかに力を抜く。


「本音が伝わるなら…最初から、そう言えよな」


ぽつり、と。


独り言みたいに零れる。


怒っているわけでもない。


呆れているわけでもない。


ただ…少しだけ、寂しそうだった。


「言えないから、ここへ来るんですよ」


柊一が静かに言う。


茜は鼻で笑う。


「…分かってるよ」


小さく頷いた。


残りの饅頭を口に放り込む。


甘さが、少しだけ重い。


「…甘いな」


ぽつり、と。


それが饅頭のことなのか。


さっきの親子のことなのか。


柊一は聞かない。


ただ、少しだけ目を細める。


茜は再び机に突っ伏した。


今度はさっきより、少しだけ力が抜けている。


「…一日一通が限界って、ほんとだな」


ぼそりと呟く。


「今日は、少し深く掬いすぎましたね」


「あぁ…そうだな…」


目を閉じる。


さっきの感情が、まだ残っている。


胸の奥に、じんわりと。


「会いてぇ、か…」


誰に向けた言葉でもない。


ただ、残った余熱みたいに零れる。


柊一は何も言わない。


その沈黙が、ちょうどよかった。


外では、いつもの下町の音が流れている。


変わらない日常。


その中でこのぼろい平屋で、今日もまた一つ。


言えなかった言葉が、形になった。


少しだけ、誰かの人生が動いた。




END

お読みいただきありがとうございます。


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