傾斜の上で
朝倉は、部室裏の芝生でアップをする。
少し傾いたその場所は、誰も使いたがらない。
地面が斜めだと足首に負担がかかるし、雨の翌日はぬかるむ。
でも、朝倉は毎日そこに立つ。
黙々と、無駄なく、音を立てずに走る。
高瀬がそれに気づいたのは、入部して三週間が過ぎた頃だった。
自分のフォームが安定せず、何かヒントが欲しいと思っていたある日、
芝生の傾斜でストレッチをしていた朝倉に声をかけた。
「ここ、走りにくくないですか」
「傾斜があると、足の感覚がわかりやすい」
それだけ言って、朝倉は足首を回した。
高瀬は、少しだけ真似してみた。
朝倉は中距離のエースで、2年生。
フォームもタイムも部内トップクラスで、顧問よりも的確なアドバイスをくれると言われていた。
その評判を聞いて、春先には何人もの1年生が「フォーム見てもらえませんか」と朝倉のもとを訪れた。
けれど、最初の朝倉は無口で、何を考えているのか分からない。
指摘も簡潔すぎて、返事に困ることが多かった。
それを乗り越えると、今度は急に口数が増える。
練習中の水分の取り方、ストレッチの順番、靴紐の締め方までダメ出しされ、
「口うるさいおばさん」扱いする1年生も出てた。
高瀬は、気にしなかった。というより気にならなかった。
口うるさいのは母や妹で慣れていた、という環境のせいもあるかもしれない。
だが何より、高瀬は、朝倉の言葉が間違っていないことを知っていた。
結果的に、朝倉の指導は高瀬に集中していった。
六月の終わり。
高瀬がフォームに悩んでいたとき、朝倉が言った。
「明日、ペース走付き合うわ。ひとりだとリズム崩れてるから」
いつも通りの、淡々とした表情だった。
それから朝練の度、朝倉は高瀬のペースに合わせて走った。
朝倉の指導は容赦なかった。
「腕、流れてる。肩甲骨から動かしてって言ったよな」
「言われた通りにやってるつもりなんですけど」
「つもりじゃなくて、背中の真ん中から引っ張る。肩じゃなくて」
「背中って、どこからどこまでですか」
「肩甲骨の下から腰の上まで。ざっくり言えば」
「じゃあ、肩は力抜いていいんですね」
「そう。力むと腕が跳ねる」
「了解です」
高瀬は、何事もなかったようにスタート位置に戻った。
インターバル走の休憩中。
高瀬がペットボトルを手にした瞬間、朝倉が言った。
「水、飲むなら今。次の400で呼吸乱れる」
高瀬は少し首をかしげた。
「それ、ほんとに関係あるんですか」
「ある。腹に水が入ると横隔膜の動きが変わる。呼吸が浅くなる」
「じゃあ、飲むタイミングって決めてるんですか」
「200ごとに少しずつ。一気に飲むとペースが崩れる」
「じゃあ、今ちょっとだけ飲みます」
「そう。ちょっとだけ。あとで文句言うなよ」
「言いませんって」
高瀬は笑いながら、ほんの一口だけ水を飲んだ。
七月のある朝。
「ちょっと足が重い」と朝倉が言った。
高瀬が「無理しないでくださいよ」と言うと、彼女は「平気」とだけ返した。
翌日、朝倉は練習に来なかった。
顧問が言った。
「朝倉は疲労骨折だ。大会は見送りになるな」
高瀬は、喉の奥が急に詰まったような気がした。
自分のせいだと思った。
彼女は何も言わなかった。
それが余計に苦しかった。
大会前日。
高瀬が最後の調整を終えると、朝倉がジャージ姿で現れた。
足にはテーピングが巻かれている。
高瀬は思わず声を上げた。
「大丈夫なんですか、折れてるのに」
朝倉は立ち止まり、淡々と答えた。
「折れてない。ただのヒビだから」
それから、芝生の傾斜を見下ろすようにして言った。
「明日、スタート前に深呼吸三回。あと、靴紐は二重に結んどけ」
「はい」
高瀬はうなずいたが、すぐには次の言葉が出なかった。
少し間を置いて、視線を落としたまま尋ねた。
「……朝倉さんって、大会前、何考えてます?」
朝倉は目元が、わずかに緩んだ。
「風の向きと、最初の200の入り方」
「それだけですか」
「それだけ。余計なこと考えると遅くなる」
「じゃあ、僕もそれだけ考えます」
「うん。あと、ちゃんと寝な。今日のうちに」
大会当日。
高瀬は、スタート地点の手前でスパイクの紐を結び直していた。
「使ってみな。長いけど、結びやすいから」と渡された黒いシューレース。
少し長くて、二重にしても結び目が余った。
でも、それがちょうどよかった。
「男子1500m、第2組、スタート位置についてください」
アナウンスが響く。
高瀬は、スタートラインに立った。
心臓が、いつもより速く打っていた。
号砲。
最初の200mは抑えた。
朝倉の言葉を思い出す。
「前半は風を読む。焦らない」
周囲が前に出る。
でも、高瀬は自分のペースを守った。
800m。
呼吸が整ってきた。
前を走る選手の背中が近づく。
高瀬は、腕を振った。
肩甲骨から。
朝倉に言われた通り。
残り100。
脚が重い。
でも、芝生の傾斜を思い出す。
朝倉と並んで走った朝。
風の音。
「無駄なく、静かに」
そう思って、最後の直線に入った。
ゴールラインを越えた瞬間、何も聞こえなくなった。
呼吸も、歓声も、風の音も。
ただ、脚が止まった。
そのまま惰性で数歩進み、トラックの外へ出る。
傾斜の上に朝倉がいた。
ジャージ姿で、膝を抱えてこちらを見ている。
「2位、お疲れ」
高瀬は黙って彼女を見つめた。
肩で息をしていて、顔にまだ熱が残っている。
朝倉が、眉を寄せて言う。
「……なに。どうした」
高瀬は、息を吐いてうなずいた。
「……やっぱり、うるさい方が落ち着きます」
朝倉は何も言わず、手に持っていたペットボトルを軽く高瀬の肩に押しつけた。
高瀬は肩をすくめ、少しだけ笑った。
風が、芝生の傾斜を静かに撫でていた。
「ZARD『心を開いて』」




