第三話『春という距離、透明な壁』
昼前、三時間目が終わった。チャイムの音が鳴ると同時に、教室のざわつきが再び戻ってくる。
僕は黒板のチョークを元に戻し、教科書とノートを無造作に鞄へ突っ込んだ。
生徒たちは各自の机で昼休みの準備を始めていたが、僕に注がれる視線は少ない。いや、いないわけじゃない。ただ、誰も“あえて関わろうとしない”というのが正しい。
そこに“いる”けれど、“話す対象”ではない。
この、微妙に距離のある空気感。教師というより、ただの部外者に近い扱い。
……まあ、そのほうが楽でいい。
教室の扉へ向かい、ドアノブに手をかける。さっさと職員室に引きこもって、昼飯でも買いに行くか。
財布の中は心許ないけど、空腹には勝てない。
「……あ、先生!」
不意に呼び止める声。足が止まる。
振り返ると、巻き髪をふわりと揺らした明るい茶髪の少女が、こちらへ駆けてきていた。笑顔を浮かべながら、鞄を肩にかけたまま勢いよく。
「浅野……だったよな?」
「覚えてくれてる! さすが先生~。ちょっと話していいですか?」
勝手に扉を閉めて、教室の外から中へと逆戻り。浅野は僕の前で足を止めて、まるで旧知の友人にでも話しかけるような軽さで問いかけてきた。
「昨日の自己紹介、わりと衝撃でしたよ。十八って、マジで?」
「昨日も言ったろ。嘘つく意味ないし」
「うん、それはそう。でもなんか、まだ信じられないっていうか……高校出たばっかですよね? なんで教師になったんですか?」
真っ直ぐな視線。悪意はない。むしろ純粋な好奇心。
僕は少しだけ息を吐いた。
「金になるって言われたから。それだけ」
「……え?」
「別に、教えるのが好きとか、教師に憧れてたとかじゃない。頼まれたから来たし、給料出るならやるかってだけ。単純だろ」
「わ、めっちゃ割り切ってる……」
浅野は目を丸くしながらも、なぜか楽しそうに笑った。
「でも、昨日の秋山さんとのやり取り聞いたら、そんな人には見えなかったけどなあ。春休みの課題、即答だったんでしょ? あれ、解けた人ほとんどいなかったですよ」
「見た瞬間に分かっただけ。ああいうのは構造見れば大体読める。時間かけるほどでもない」
「そういうのを普通は“できる人”って言うんですよ、先生」
やれやれと肩をすくめると、浅野はさらに一歩、距離を詰めてきた。
「もしかして、なんか他の仕事してました? 前に塾講とかやってたとか?」
「してないよ。独学。そっちの方が効率いいし」
「ふーん……なんか、謎が多い先生って感じ」
浅野は、くすっと笑ってその場を離れようとした。けれど数歩進んだあと、ふと振り返って小さく言った。
「でも、うちのクラスって、今まで数学苦手な人多かったんですよ。私も正直、あんま得意じゃなかったし。でも今日の授業、なんか分かった気がしました」
僕は答えず、扉に手をかける。
「別に狙ってやってるわけじゃない。分かりやすく教えるのは、ただのスキルだ」
心の中でそう思いながらも、それを口に出す気にはならなかった。
「じゃ、またあとで〜!」
浅野が手を振って自分の席に戻る。その背中を目で追いながら、ふと別の視線を感じて振り返る。
教室の隅。艶やかな黒髪を揺らしながら、静かにこちらを見ていたのは——秋山澪。
目が合った。彼女はすぐに視線をそらす。けれどその一瞬に、何かを測るような光があった。
昨日のことを、まだ引きずっているのかもしれない。
初見で課題の答えを即答したあの時の、自分の違和感。その続きを、まだ考えている。
「……教師ってのは、面倒くさい」
独り言のように呟いて、今度こそ扉を開ける。
教室のざわめきが背後に広がる中、僕は職員室へと足を向けた。