第二話『その距離は、まだ春のまま』
始業式が終わり翌日
帰り支度にざわつく廊下の音を背に、僕はすでに教卓前の椅子でぐったりしていた。
この空気が日常になると思うと、少し気が重い。
「……あの、先生」
控えめな声。顔を上げると、黒髪ストレートの小柄な生徒が立っていた。
秋山澪。出席番号2番。さっき、質問タイムで真っ先に口を開いた子だ。
「これ……春休みの課題なんですけど、最後の問題がどうしても分からなくて」
彼女が差し出したのは、A4サイズの復習プリント。
……見たこと、ない。
そりゃそうだ。僕は今日、ここに来たばかりだ。
「……あー、うん。それって、前の先生が配ったやつ?」
「はい。終業式のときに……。その……先生は、もう見てますか?」
軽く目を伏せながらそう尋ねる彼女に、僕は小さく肩をすくめた。
「いや、初見。今日ここに来たばっかだし」
「あっ……そうですよね。すみません……」
気まずそうに引っ込めようとしたその手から、そっとプリントを受け取る。
目を通したのは、ほんの数秒。
「——これ、最後の問題。答え、√13-2にならなかった?」
ぴたりと動きが止まった。
「……え?」
彼女は、思わず聞き返す。
「いや、そこ。解き方わかんなくても、式変形してくと、√13-2でしょ。定義域の範囲も考慮すれば自然とそこに落ち着くはずだけど」
「……あ……はい、そう……です……。なんで……」
言葉が続かない。
僕は特に気にせず、ノートに軽く図を描きはじめた。
「たぶん、ここで詰まったでしょ。平方完成が途中でぐちゃってなった?」
「……はい」
「うん。こう見ると分かりやすい。文字の動き、追いやすくなるから」
問題の構造を、3ステップで視覚化して説明する。
秋山の表情がみるみる明るくなり、数分のうちに「分かりました」と笑顔を見せた。
「ありがとうございます……!」
「……ま、今日は特別だよ。基本、質問対応とかはあんまり……好きじゃないんで」
少しだけ笑って、彼女を見送る。
ドアが閉まり、教室に再び静けさが戻る。
「……しかし、あのプリント。結構いやらしい構成してたな。前任、誰だよ……」
苦笑してから、椅子の背にもたれ直した。
ーーー
廊下。教室を出た秋山澪は、自分の手元に戻ってきたプリントを見下ろす。
(——√13-2。たしかに、そこに行きつくには時間がかかった。でも……)
(先生、あの答え……どうしてあんなにすぐに……)
目を細め、足を止める。
(……だって、先生……今日、初めて来たんじゃ……)
小さな違和感が、胸の奥にすとんと沈む。