第一話『春の空気と、自己紹介』
春の空気は、眠気を誘うには十分すぎた。
ほんのり花の匂いが混じる風に吹かれながら、坂道を上る足取りは重い。登校中の女子生徒たちが時おりこちらを振り返っては、ひそひそと何かを囁いている。
「……別に、見られ慣れてないわけじゃないけどさ」
ぼそりと呟いて、ネクタイを緩めた。
この年でスーツなんて、どう考えても似合わない。鏡で見ても笑ってしまうのに、制服姿の生徒たちからすれば余計に違和感だろう。
桜丘女子学園——今朝から、僕の“職場”だ。
校門をくぐると、案の定というか、教員らしき人に呼び止められた。事情を話すと少し戸惑ったような表情のまま案内され、職員室に通される。
「桐原悠くん……いや、桐原先生。2年C組の担任をお願いすることになってます。今日は始業式なので、自己紹介とクラスの顔合わせだけで大丈夫ですよ」
校長らしき人物が、やけに丁寧な口調でそう告げた。
僕は小さくあくびを噛み殺しながら、面倒くさそうに返事をする。
「……はい、わかりました。とりあえず教室、どこですか」
色々言いたいことはあるだろうけど、僕としてはただ、“頼まれたからやってる”だけだ。
言い方を変えれば、向いてるからやってるわけじゃない。できるからやってるだけ。
——まあ、そこに多少の面倒ごとがくっついてくるのは、想定の範囲内。
教室のドアの前に立って、ひとつ息を吐く。
中ではすでにざわつきが始まっている。今さら逃げる理由もない。
ノックもそこそこに、ドアを開けて一歩踏み出した。
「……おはようございます」
僕の声に、教室のざわつきが一瞬だけ収まる。
「今日からこのクラスの担任になりました、桐原悠です」
ざわっ……と空気が波打つ音が、確かに聞こえた。驚きというより、混乱だ。
「年、近いのは自覚してる。別に隠すつもりもないけど、僕は十八です。まあ、色々あってこうなってるけど、その辺は気にしないでいいから」
軽く片手を上げてごまかすように笑う。特にウケを狙ってるわけでもない。
「担当は数学。嫌いな人は多いと思うけど……まあ、ぼちぼちやっていこう」
僕は黒板に背を預けながら、クラス全体を見渡す。
彼女たちはまだ僕のことを知らない。というか、知る機会が与えられていないだけだ。
年齢や見た目で測れるような人間じゃないってことは、なるべく長く知られずに済ませたい。
その方が、何かと楽だから。
「……さて、自己紹介はこんなもんで。逆に、質問があればどうぞ。何でもいいから」
教室はすぐにざわつき始めた。
出席番号順、あいうえお順に並ぶ35人の顔ぶれをちらりと確認する。
1番、青木結菜は柔らかな栗色のセミロング。穏やかな表情でゆっくり手を挙げる。
「はい、青木結菜です。先生、本当に十八歳なんですか?」
「そうだよ。嘘ついてまで歳増やす理由もないしね」
僕の答えに教室から小さなざわめきが起こる。
2番の秋山澪は小柄で声も小さいが、はっきりした口調で続ける。
「大学には行ってないんですか?」
「行ってない」
僕は淡々と答え、軽く肩をすくめた。
「けど、そのぶん自分で勉強はしてた。普通の進路じゃないと思ってくれていい」
「じゃあ、どうして教師になったんですか?」
5番の飯島ひなたが笑顔で手を挙げる。赤みのあるボブヘアが元気いっぱいに揺れる。
「正直に言うと、頼まれたからってだけだよ」
僕は肩をすくめる。
「別に教師目指してたわけじゃない。けど、数学は嫌いじゃないし、教えるのは嫌いじゃない。むしろ好きかも」
「……えー?!」と数人から驚きの声。
「先生って、スマホとか細かく注意するタイプですか?」
9番の岩瀬楓が鋭い目つきで尋ねてきた。背が高く引き締まった体型のスポーツ系。
「授業中にTikTokは無し。でも連絡見るくらいなら構わない」
「好きな食べ物は?」
13番の小川結月が控えめに笑いながら聞く。
「チョコレート系とコーヒー」
「意外と大人っぽいですね」
彼女の声に少しだけ笑みを返す。
やんわりとした質問が続き、教室の空気がほぐれていくのが分かった。
最後に、16番の神崎ほのかが手を挙げる。薄い色の目と儚げな雰囲気が目を引く。
「……先生は、教える以外に何か得意なことがありますか?」
一瞬、答えに迷った。
「そうだな……まあ、数学だけじゃないけど、専門的なことは秘密ってことで」
僕は曖昧に言って、軽く笑った。
「……じゃあ今日はこれで終わり。始業式も終わったから、解散だ」
窓の外では、桜の花びらが一枚、風に吹かれて静かに舞っていた。