なぞとき『幻の絵馬』
この「なぞとき」シリーズは、鏡花小説の解説でも解釈でもなく、作品の表面的な叙述から別種のストーリーを読み取ってみようとする、一種のパズラー小説です。
とくに『幻の絵馬』は、精読した最初の鏡花小説であり、現代語訳を終えた勢いに任せて書いたこの「なぞとき『幻の絵馬』」も、今読み返すとあまりにも鏡花や近代文学に関する知識に欠けた部分があって、ちょっと恥ずかしい。とはいえ、思っていた以上に面白がってくださった方も何人かいらっしゃって、自分でも、これはこれで残しておいたほうがいいのではないかという気になっています。
あるいは気が変わって、書き直したり、削除したりといったことになるかもしれませんが……。
先に上げた「泉鏡花『幻の絵馬』 現代語訳」と「泉鏡花『琵琶伝』雑感」を読んでくださったことを前提にして書いていこうと思う。もちろん、つまらない現代語訳よりも、『幻の絵馬』の原文にふれていただくに越したことはない。
この小説に鏡花が隠しているものを見つけようという話なのだけれど、まずはどんなものを隠そうとしたのか、探す対象を探さなければならない。
○
『幻の絵馬』は長くはないといっても原稿用紙二百枚以上とそれなりの分量があるので、「泉鏡花『幻の絵馬』 現代語訳」では最初に [登場人物・動物・人形] を置いてみた。当然ながら今のことばに置きかえるという作業をする前に何度も読んでいたのだけれど、あらためて登場人物を眺めてみると、波瀾万丈な伝奇ロマンを期待させる顔ぶれがそろっている。おまけに不思議な動物や人形までまざっている。
じっさいに読んでみると、前半は古めかしくて描写過剰気味な風俗小説といった趣ですこし我慢が必要なのだけれど、醜悪な一寸法師が姿を現すあたりから不穏な空気が流れはじめる。狂犬トーマスや、謎の長髪青年、白菊様と霧之助殿人形、レイプ魔の按摩といった狂ったキャラクターが次々に登場・紹介されて、第四章で「しかし、やがてこの魔鳥が、(中略)子爵槙ヶ原家の破風口から侵入して館を襲うことになる」とティザー的に予告されたミミズクの活躍が終わるころには、江戸川乱歩や横溝正史、夢野久作といった作家の怪奇探偵小説を読んでいる気さえしてくる。
鏡花と乱歩とには、嗜虐趣味やエロティシズム、人形、見世物への興味といった資質的な共通点があるし、『踊る一寸法師』などは本作の前日譚のような気さえする。第十章の末尾にある「萬年堂の溝板を、ひた/\ひた/\と赤面の侏儒、横歩行して出來たる」という一文などは、まさに「探偵小説の挿画のやう」(『日本橋』二十四)で、それも乱歩作品の挿絵の趣だ。横溝作品とは怪奇趣味や古謡、歌舞伎への興味が共通して、『悪魔の手鞠唄』で土蔵に映る腰の曲がった老婆の影などは、槙ヶ原家襲撃のさいに屋敷の庭に落ちる和歌子の影の描写と紙一重で類似している。オノマトペや笑い声のカタカナ書きを多用する文体は夢野久作作品を連想させるし、和歌子のロシア彷徨時代の描写は短いながらも、『氷の涯』の雰囲気と似通っている。もしかしたら『幻の絵馬』は、のちに雑誌「新青年」で、より刺激の強い捕物帳や探偵小説を探求することになる次世代の大衆作家たちにインスピレーションを与えたのかもしれない……などと想像してしまうのだが、発表当時の文壇の評判は、あまりかんばしくはなかったようだ。
当時は「大正の鏡花」とまでいわれて、大正十三年の「文藝春秋」の文壇諸家価値調査表なるもので鏡花よりも高得点をたたき出すことになる里見弴は『幻の絵馬』の感想を求められて、
「あの御作を『批評』しろといわれますと、私はどうしても、先生の御作として出来の悪かったものの一つに数えなければなりません」
と、かなり手厳しい不満を述べている。鏡花作品としては、幅広いジャンルの代表作が出そろったあとに発表された(大正6年(1917年)1月)作品なのだから、人間性にそっぽを向いて怪奇をばらまき散らしたようなこの作品は、文壇からの期待をはぐらかして余りあるものだったと想像できる。
好意的な同時代評として「全く人生をかけ離れた幻の領域の物語である。さう考へる時に、この作の表面に浮んだ小さな幾つかの不調和な泡は跡方もなく消え去るのである」(中谷徳太郎)という一文を目にしても、たしかにヘンな小説だけど、それを補って余りある何かがあるんだよなあ、という自分が抱いている感情と大差はなさそうな、つかみどころのない好意であって、いや、その「不調和な泡」が消え去ったあとに残るはずの「何か」をはっきりさせたいから、この一文を書いているのである。
発表当時から継続して評価されてきたような鏡花作品にみられるような、抽象的だと思えるほどに高められた緊密な文体とは違って、『幻の絵馬』のそれはくだけて、ときおり筆者のジョークまで挿入される通俗本めいたものになっている。唐突な飛躍の多いストーリーテリングからは、あの手この手の趣向を貼り混ぜて書き散らしているような印象を受ける。ヒロインや敵役の槙ヶ原子爵夫人の描写には紋切り型すぎるところもあるし、現代語に移していて、なんだか船橋聖一みたいになってやだなあ、なんて思った部分もあった(いやいや、それはこちらの力量の問題なのだが)。
ならば鏡花は、気を抜いてエンタメ志向の作品を書いたのかというと、一概にそうともいえない。鏡花作品の読みにくさの原因でもある暗示的な省略や文脈のもつれ、故事や芸能に絡めたレトリックはますます旺盛だし、紋切り型かと思える人物描写にも、それでしか書けなかっただろう真実が含まれている。
たとえば、第二章で花政の娘お光が二本目の傘を貸すのをためらうそぶりを見た子爵夫人が、有無を言わせず自分の言うことに従わせる、いかにも使用人を使い慣れた態度の的確な物言いだとか、そのお光の、初心で店じゅうから愛されているほほえましい娘っぷりだとか、あるいは第九章、第十章での花政と酒屋の越中屋長助の、ほとんど描かれていない越中屋の職場環境が如実に浮かびあがるような会話の妙だとか。
リアリズム描写ではあり得ない語り口で、まるでオペラのアリアのように歌いあげられる、第八章での与四郎少年の、和歌子の涙と雀の親子をからめた回想や、第十章末尾で死んだ長女のことを思い出す花政の独白、あるいは第十四章から第十六章にわたる和歌子の新婚時代の思い出話は、異例なまでに心情を照らす美しい詩情にみちている。
サマセット・モームはエッセイのなかに、こんな逆説的なことばを残している。
「人間はまったく同じ人など一人もいない、どの人も独自である、というようなことを、よく本で読む。それはある意味では真実だが、誇張されやすい真実だ。実際には人間は大同小異である。比較的少ない数のタイプに分けられる。」
鏡花もまた、そんな裏の真実を突く原則に従っているかのように、反リアリズムの姿勢を貫きながら真実を描こうとしている。
○
先輩作家の森田思軒が、鏡花の小説では激情や執着の原因が描かれていないと批判したにもかかわらず、鏡花は人物の心理を掘り下げるという近代文学的な方向には向かわなかった。それどころか逆に、旧時代の読本や歌舞伎のように、シンメトリカルな因果律の糸を二重三重にもつれさせることで、激情や執着の必然性を固めていった。――こういうことを、以前に上げた「泉鏡花『琵琶伝』雑感」の末尾に書いたのだけれど、『幻の絵馬』はまさに、そのとおりの複雑性を張りめぐらせた作品である。そのような傾向は西洋文学でいえば、マルキ・ド・サドを掉尾とするリベルタン文学にも通底している。
ただし『幻の絵馬』には、サドの小説や、それと奇妙に類似している『琵琶伝』に共通してみられる明快な対立関係や筋道だった展開が欠けている。あの手この手の趣向の貼り混ぜのような筋立てからは、落語の三題噺のような印象さえ受ける。じっさい鏡花には「X」「蟷螂」「鰒」「鉄道」という四つのことばをお題として四題噺をこしらえた『X蟷螂鰒鉄道』(明治29年)という短編もあるのだから、この小説も、鏡花が実生活で見て興味を示した「花屋」「ミミズク」「一寸法師」「人形」の四題噺としてこしらえた、ただそれだけの物語であるかのようにも見える。
にもかかわらず『幻の絵馬』を最後まで読むと、なにかが極まって、最後にはすべてが解決したという強烈な達成感がある。表面的には、やけっぱちヒロインが、はた迷惑な言動のすえに大地主の家を混乱に陥れるという話なのだけれど、ラストにはヒロインの死とともに、謎のカタルシスが待ちかまえている。
それは和歌子が槙ヶ原家への復讐を遂げたという達成感ゆえなのか。というと、そういうわけでもない。和歌子が死をもって強情を通しても、槙ヶ原家が潰れたわけでもないし、御霊本体の白菊様も無傷なままである。
では、和歌子がプラトニックな愛を貫徹したというカタルシスなのかというと、そういうふうにも物語は組み立てられていない。霧の助殿に対する和歌子の思慕は最終章で唐突に湧きおこるにすぎず、その激情を支える要素はそれ以前にほとんど準備されていない。愛を知らなかった女が本物の愛に目覚めた物語なのだと考えようとしても、それに対する伏線や、人形愛に至る必然性がまったく欠落している。
むしろ深川芸者に類する性格を与えられたヒロインが、張りと意気地を貫き通した物語だと考えたほうが筋が通るのだが、和歌子は徹底してそう描かれているわけでもない。地下のあなぐらで色按摩や一寸法師に犯されそうになって「お母さん」と叫ぶところなどからすると、『湯島詣』の蝶吉と同じく、ふだんは粋がって刹那的な生き方を貫いているが、絶対的な危機に陥ると実年齢以下の少女のような一面を見せる、ギャップ萌え的なキャラクターの系譜にも属している(蛇足ながら思わず漏らしてしまうと、デレマスでいえば渋谷凜のポジションである)。
花政や与四郎のような、一貫して登場する人物の物語が隠れているのではないかと読み取ろうとしてみても、どう考えても彼らはサブキャラクターなのである。
考えても進退窮まってしまうのだが、それならばいったん、なんだかそんな気がしてならない、という直感に立ち返ってみるのはどうだろう。
サド公爵のいわゆる「適法の小説」や、あまりにもシンプルではあるがほぼ同様の世界観を達成している『琵琶伝』のような、明白に図示できるような構成美が『幻の絵馬』にも隠されていて、それが、なにかが極まって最後にはすべてが解決したという物語的な達成感を生みだしているのではないか。
しかしこの、次から次へと怪奇残酷絵図を繰りだしてくる見世物小屋のようなグラン・ギニョール小説に、どんな構成美を見いだせるのだろうか。
○
物語の表面に描かれていない部分で、隠れたなにかが語られているのだとすると、たとえば明治32年に書かれた鏡花の連作短編『三尺角』『木霊』で描かれていたように、失われつつある江戸情緒が近代化の荒波を受けて最期の悲鳴のような超常現象を発生させる、という裏ストーリーはどうだろう。
急速な都市化のストレスが、そこで暮らす人々へのしわ寄せとして蓄積し、残酷な異常事件を引き起こすという例は、高田衛の『江戸の悪霊祓い師』に江戸時代の実例として挙げられていた。唐突な別例を挙げれば、ルチオ・フルチのジャーロ映画『マッキラー』も、地方の高速道路建設現場近くに発生した異常殺人を扱って同様の体裁で描かれていたわけで、目立たないがホラーの背景を設定する上での基本的なパターンの一つである。
そして、山奥ではなく都市生活のなかに旧時代のお化けを出現させるというのも、円熟期以降の鏡花が好んだやり方だった。
本作にあてはめれば、和歌子や一寸法師はふつうに電車を利用しているし、与四郎は自転車を乗りこなして、新時代の象徴たる三越百貨店の使用人とすれ違ったりしている。さらにロシア帰りで公衆電話も平気で使うようなヒロインが、旧態依然とした権力意識にしがみついている槙ヶ原家を攻撃することになるのだが、これではむしろお化けの陣営に属する側が積極的に近代化を受け入れているのだから、話が逆になってしまう。
しかも物語中において、かなりイカレ気味のヒロインに代わって倫理判断の基準となる花政老人が、第九章では槙ヶ原家の封建的意識について「家の掟だ、それだけは感心だね(訳文:それを家の掟にして守ってることには感心する)」と、社会の仕組みとしての旧秩序の維持に限っては賛成の立場をとっている。
『幻の絵馬』は、個人がいだく思いが社会の仕組みに押しつぶされて悲鳴をあげるといった大きな物語ではなくて、子爵の吝嗇や、子爵夫人の無慈悲な性格、執事やその他の使用人たちの無反省な従属意識が形成する特殊な集団に対して、和歌子と彼女に共鳴する小集団が私憤をぶつけるだけの話なのだ。
あきらめて、別の見かたで「隠れたなにか」を探してみることにする。
そもそも鏡花が描く怪異の世界には、明確に示されることは少なく、むしろ隠されているのだが、鏡花なりに定めた一種の魔界のシステムが通底しているように思えてならない。『天守物語』や『夜叉ヶ池』の妖怪姫たちはたがいに連絡を取りあってきたようにも想像できるし、『黒百合』では山窩の通信システムのようなものを利用している気配も暗示されていた。
ちょうど今日のSFシリーズ作品に裏設定の世界観を設定するような感覚で、作者だけが意識していればよくて読者には隠している仕組みが『幻の絵馬』に隠されていないだろうか。
鏡花作品を語るのに、世界観だの設定だのラノベやアニメのようなことをいいだすのはおかしい、と鼻で笑う向きもあるかもしれない。だが、もともと作品作りのために「世界」を設定するというのは歌舞伎の作劇用語で、座主と作者が話し合う「世界決め」という打ち合わせ会議をすることで、次の出し物にどのような物語世界を適用するのか、どのようなキャラクターシステムを運用するのか、などを決めていたのである。
鏡花をアニメと比べたいのではなくて、逆にラノベやアニメのほうが鏡花のような作劇に寄ってきているわけで、(詳しく比較参照ができないのはサブカル作品に関する知識が足りないからなのだが、少なくとも)『海異記』で描かれる海の妖怪のルールは、宮崎駿の『崖の上のポニョ』の海の眷属の世界観とそっくりだし、『神鑿』の物語設定は、テレビアニメ『セイバー・マリオネット』シリーズのそれとかなり重なっている。
もしかすると『幻の絵馬』は、当時は未開拓であったが、今はジャンルものの書き方として定型化している、裏世界観のようなものを設定した小説の書き方を、届きそうな所になにかありそうだからちょっと手を伸ばしてみた、という具合に、暗中模索してみた作品だったのではないか(そして、海の向こうでは時を同じくして、無意志的回想への解離体験から垣間見える世界が作品の裏世界であったことが最終巻でようやく明らかになる大長編『失われた時を求めて』を、まだそのことをだれにも気づかせないまま、マルセル・プルーストが延々と書き続けていた)。
そういった、隠された設定のヒントが示される場所を探すとなると、最もありそうなのは、物語の分量的な中間点である第九章、第十章である。
「泉鏡花『琵琶伝』雑感」でも他の文章でもくり返し書いてきたのだが、鏡花の小説はほぼ中間点に構成的な山場を置くように組み立てられている。それは職人としての手癖というか自己ルールのようなもので、そこが物語のターニングポイントとなり、全体の構成を読み解く鍵となるものが示されることも多い。
第九章、第十章は、花政老人が越中屋長助の酒屋に乗りこんで直談判をする、物語的には平穏な場面で、あれ、これも読み違えたかな? と思うのだが、案外すぐにそれらしきものは見つかった。
第十章の末尾近くに置かれた、
「はて、不思議だぜ。別室に秘めた、雲井、白菊樣とか、霧之助殿――と言つたな。代々総領の姫樣が、緋縮緬の下襲ね、白無垢の下髪……解せたわ、其所爲だ」
(訳文:なんだか引っかかるぜ。別殿に秘めた雲井、白菊様だとか、霧之助殿だとか、そう言ったな。代々総領の姫様が、緋縮緬の下襲、白無垢姿の下ろし髪で……/わかったぞ、それのせいだ!)
という、花政老人の独白である。
ここで花政は「解せたわ、其所爲だ」と合点しているのだが、その合点が以後のストーリーに絡むことも役立つこともない。ここだけで合点して、胸のうちに秘めるのみである。
では、いったいなにを合点したのだろうか。
○
ここでは花政老人は、槙ヶ原の屋敷に異変を引きおこすのは、槙ヶ原側が言うように地所内に女の盲人がいるからではなく、緋縮緬の下襲、白無垢姿の下ろし髪というスタイルがトリガーになっているという発見をしたと、どうやら言っているようだ。第三章の末尾、チョキチョキと空鳴りさせた鋏で無意識に白菊の虫食い葉を切り落とす花政老人は、あらかじめ発見者たることを定められていたのである。
しかし、大発見らしくそう叫んだとはいえ、それがなにを意味するのかが放棄されたまま、間髪入れずに与四郎、トーマス、一寸法師という三大怪異が登場するので、ついついそのまま見逃してしまう。いや、見逃してしまうように書かれている。
これに先立って第九章で越中屋長助の口から語られるのは、白菊様という槙ヶ原家の御霊を宿した人形が、地所内に女の盲人がいると祟りをなすという理不尽なシステムなのだが、あまりにもデタラメな言いがかりのように思えるので、話を都合よくつなげるために適当なそれらしい設定をこしらえたんだな、という程度で読み流してしまいがちだ。
読み落とすことがないように、越中屋が報告した、白菊様にまつわる情報を、いったんまとめてみよう。
・白菊様とは、槙ヶ原家が代々祀っている、一族の御霊を宿した人形である。
・白菊様はお家の秘密であり、その姿は主立った家来たちもめったに目にできない。
・ゆえにその姿は謎に包まれて、男体か女体かすらも不明である。
・白菊様という呼称は女性からの呼び名で、男性は雲井様と呼んでいる。
・白菊様は平安時代から伝わる、きわめて古い人形である。
・現在は旧邸から、新築された槙ヶ原屋敷の別殿に居を移し、外部から厳重に隠されている。
・白菊様の守護役として、霧之助殿という若衆人形がひかえている。
・霧之助殿は家内の者や来客の眼に触れる機会も比較的多い。
・霧之助殿は金の小太刀で武装している。
・白菊様と霧之助殿の世話は、家の長女が(もしくは代理として奥方が)密室で行う決まりである。
・人形の世話をする際に彼女らは、下ろし髪に白無垢、緋色の下襲というスタイルを守らなければならない。
・年に二度行われる着替えの世話を怠ると、屋敷に数々の災いがふりかかる。
・白菊様は女の盲人を嫌い、もし地所内にそれがいれば、数々の凶兆をもたらす。男の盲人は問題とされない。
続いて判明する重要な事実には、次のようなものがある。
・白菊様が女の盲人に反応してもたらす凶兆は決まっていて、詳細は屋敷の記録にも記されている(つまり白菊様は領地内に女の盲人がいるかどうかの、信憑性の高い逆探知器の働きも備えている)。
・凶兆は女の盲人に対してではなく、槙ヶ原家にもたらされる。
上で挙げた白菊様逆探知器に、和歌子がわずらった夜盲症が反応したというわけだ。
これに対して花政は、凶兆が白菊様が嫌う盲人に対してではなく、槙ヶ原家にふりかかるのはおかしい、また、夜盲症は全盲とは違うと反論する。その違和感を取り払おうとした末に、白菊様が反応するのは盲人に対してではなく、下ろし髪に白無垢、緋色の下襲というスタイルに対してであるという発見に至るのである。
ここで少々ひっかかるのは、女の盲人のことを、越中屋自ら「瞽女」と言い換えていることだ。それを受けた花政も瞽女ということばを使うのだが、越中屋はとくに気にすることなく、また瞽女と言いながら対話を続ける。瞽女とは女の盲人の芸人のことであって、女の盲人とイコールの意味ではない。謹厳実直がアイデンティティたる越中屋が、槙ヶ原側の説明と相違するニュアンスを含ませるのはおかしい。ここに微妙なブレが発生している。
魔界のルールにかんしては、鏡花は小説内での厳密な適用を行使していると信じたい立場からしてみると、槙ヶ原家が必死で維持している、この、わけのわからない白菊様システムには、ぜひともそこに意味やメリット、デメリットを見つけたいところなのだけれど……。
○
花政老人が指摘する、下ろし髪に白無垢、緋色の下襲というスタイルから容易に連想されるのは、下ろし髪に白衣、緋色の襦袢という、作品中にこれでもかというほどにくり返し描写される、和歌子のスタイルである。しかも和歌子の場合、手持ちの衣装や掻い巻きが次々に質草になっていくので、物語が進むに従って、つねに白衣に緋襦袢という服装で行動することを強いられることになっていく。加えて彼女はユダヤ人の少女の面影に憧れて白衣をまとっているのだから、自宅では自然と下ろし髪のヘアスタイルを多用する。
なるほど、全盲でもない和歌子に白菊様システムが反応したのは、白・赤・下ろし髪がトリガーだという花政の指摘は一理あるのだが、目の見えない女性のすべてが白・赤・下ろし髪のスタイルをしているわけではないのに、屋敷の古い記録でシステムがきちんと働いていることが証明されている、というのはおかしい。
屋敷の記録というのは、どれくらい古いのだろう。少なくとも当代の殿様が記録をひもとかなければ思い当たらないほどの昔である。上に挙げた白菊様情報からすると、白菊様システムは平安時代から稼働しているということになり、かなり古い時代の記録である可能性がある。
ここでちょっと気になるのは盲人の女性が瞽女と言い換えられていたことで、もしかすると古い時代には、瞽女のスタイルが白・赤・下ろし髪が典型だとされていたのではないか。
調べてみるとあっけなく、こんな画像が見つかった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c1/Biwa-Hoshi-71-Shokunin-Uta-Awase-Picture-Scroll.png/1280px-Biwa-Hoshi-71-Shokunin-Uta-Awase-Picture-Scroll.png
この絵の出処である『七十一番職人歌合』を描いたのは土佐光信であるともいわれていて、土佐光信は鏡花が偏愛した『百鬼夜行絵巻』の作者でもある。さらに『七十一番職人歌合』は江戸時代後期に多数の写本が作成されたのだそうで、
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017472
鏡花がこの絵を見ていない可能性のほうが、むしろ低い気さえする。鏡花が思う古い時代の瞽女のイメージは、この絵によって決定づけられているのではないだろうか。おまけにこの瞽女の像は、鏡花にとっての母のシンボルである鼓を手にしているのである。鏡花が十歳のころに亡くなり、その後の生涯をかけて慕い続けた母、鈴は、葛野流太鼓師の娘だった。
鏡花の脳裏に、刻みこまれないわけがない画像とするに充分ではないか。
梟のこゑか鼓を打つ音か鏡花の文を読めば聴こゆる 吉井勇
あまりにも好都合な偶然が重なった勢いで、盲人の女とは、じつは古い時代の瞽女のことであり、瞽女については盲目であることではなく、白・赤・下ろし髪のスタイルがシステム発動の条件なのだと考えると、なぜ鏡花が白菊様を古い時代のものだと設定したのか、なぜ女の盲人だけに反応するという奇妙な条件をつけたのか、なおかつ、なぜわざわざ女の盲人と瞽女を混同しているように書いたのかという疑問が一気に解消される。
つまり、白・赤・下ろし髪のスタイルをトリガーとする白菊様システムが形成された中世世界においては、瞽女といえばそのスタイルを指していたのだが(もちろん歴史的事実としてではなく、鏡花の認識がという話である)、槙ヶ原家の代々にその言説が伝えられる伝言ゲームの過程で、盲人の女がトリガーであると誤謬されるに至ったのである。
それでもまだ、白・赤・下ろし髪という同じトリガーをもつ槙ヶ原家長女と和歌子に対して、なぜ同じ結果がもたらされないのだろうかという疑問がある。長女と和歌子には、白菊様の世話をするか、しないか、という明白な違いがあるにはあるのだが、他にもいくつかの不可解な点が残っている。
呪物というものには、なんらかのシンプルな命令が封じこめられているものである。ゆえにこう考えれば一挙に説明できるのではないか。
・霧之助殿とは、白衣、赤い肌着、下ろし髪の女に反応して、その女を守る使命を呪術によって与えられた、霊的自動人形である。
・そして白菊様の正体は、呪術によって呪いの念動力を与えられた、白無垢、緋の下襲、下ろし髪の女の人形である。このトリガーによって、白菊様は霧之助殿に守られている。
・槙ヶ原家は定期的に、長女に白菊様と同じ服装、髪型をさせて、白菊様のお世話をすることで、白菊様と同等の守護を受けることができる。
・しかし、槙ヶ原の領地内に白・赤・下ろし髪のトリガーを継続的に備えた女が存在すると、霧之助殿はそちらにも反応してしまう。
・自分に恭順の意思を示さない女に霧之助殿の探知が反応すると、白菊様システムは防衛上の危険を察知して、凶兆の警報を発動する。
これで槙ヶ原家がかかえる白菊様システムの意味やメリットは説明できるし、地下のあなぐらで生命の危機を感じた和歌子を、なぜ霧之助殿が駆けつけて助けたのか、そして役目が終わると「此處まで。……最う可い」と言ってすぐに姿を消そうとしたのか、納得ができる。
○
このように理解した白菊様システムを前提に、『幻の絵馬』という小説が、外からは見えないどのような骨組みによって支えられているのか、考えてみよう。
知り合いの医師がいうには、ある病気にかんしては、その病気でもないのにその病気の治療薬を服用し続ければ、最終的にはその病気になってしまうことがあるのだそうだ。『幻の絵馬』の前半は、まさにそのように、錦木和歌子という女がたまたま愛着を持っていた服飾スタイルによって、旧家の呪術的管理システムの影響下に取りこまれていく過程が描かれている。奇怪な一寸法師も、和歌子の日常を巧妙に浸食するために呪いの側から送りこまれた使者だった。
そして後半は、人間には感知できないそのシステムの力に抵抗する女の物語である。和歌子のことを自分に従属しない異物だと察知した白菊様システムは、和歌子に対して徐々に呪いを発動しはじめる(先に、凶兆はトリガー対象に対してではなく、槙ヶ原家にもたらされると書いたが、呪いが発動しないかどうかは確かめられてはいなかった)。具体的には、按摩久松市の暴行や、槙ヶ原家襲撃の目的未達成のままでのミミズクの死、境木敏夫との後味の悪い別れ、地下の穴ぐらでの監禁暴行未遂、槙ヶ原家での折檻といった苦難として出現する。
終幕の折檻の場では、両方ともが守護の対象として認識されている槙ヶ原と和歌子の争いに、霧之助殿は介入できないのだが、「はじめて戀を知った」女の愛の強さと、花政老人や松平少尉の助力によって、守護の対象である自分の命を守護者自身の刀で断つ。
呪術システムは深刻な自己矛盾をおこしたことで、崩壊することになるだろう。
こうして読み取った『幻の絵馬』の謎のカタルシスの正体は、人知ではいかんともしがたい呪いが投げかける苦難を乗り越え、愛の力の加護を得て千年来の呪術を浄化する、読者にはほぼ完全に隠された構造がもたらすものだった。
そういった、『夜叉ヶ池』や『天守物語』のような戯曲作品と結果的にはほとんど違いのないシンプルな構造によるものが、なぜ『幻の絵馬』やその周辺の、一般的には低迷期をなすとみられるいくつかの作品の混乱した外見をもつ物語としてあらわれたのか。おそらくはいったん完成させた創作の方法論を極限まで使い尽くしたことで、一時的に内面的葛藤へと立ち戻るスピード調整を行う必要が鏡花のなかで生じたからなのかもしれない。
そこにあったのは、たとえば、作中の花政老人と同じように、優越者の地位濫用や品格欠如は許せないものの、制度としての封建制には愛着を抱いているのだが、その一方でそれに由来する武断政治を嫌い、それに逆らって自由恋愛を称揚した鏡花自身の抱えてきた矛盾だとか、あるいは三十年後に訪れる貴族制の廃止を可能性として無自覚に感知したことで、予言的に手向けた旧世界との決別と哀惜だとか。
――いや、そんな夢想めいた想像をしなくても、十八歳で上京をしたさいに経験した底辺社会でのドロドロとした記憶だとか、絵の修行をしていた少年の頃にいだいていたSM的な快楽への夢想だとかに立ち返ったことは、大正9年の『売色鴨南蛮』や大正12年の『山吹』『鷭狩』などの作品として結実していることからしてあきらかであって、そういった感情の複合体を旧来の作品構造にむりやりねじ込むことで、創作手法のヴァージョンアップを図る時期にあたったのではないか。
その結果として『幻の絵馬』は「納まる」のではなくて、「溢れだす」ことしかできない作品になった。
こうして『幻の絵馬』の一愛読者は、その溢れだしたものの無秩序に翻弄されることなく、誘惑が加算されたものとして味わう余裕を得た。長々と書いたことも、ただそれだけの話だったのだが、それだけでもない話でもある。もしかするとそのことには、これから初読し再読する鏡花晩年の諸作をより楽しむカギが含まれていそうな気がしてならないのだから。
文中の引用元
・吉田昌志『NHK文化セミナー 泉鏡花~"美と永遠"の探究者』(文壇諸家価値調査表の内容を孫引)
・里見弴『里見弴随筆集』より「『幻の絵馬』について」
・サマセット・モーム『サミング・アップ』
・清水潤「大正四年-七年の泉鏡花の小説――『幻の絵馬』と『芍薬の歌』――」(中谷徳太郎、大正六年の論評を孫引)
・吉井勇『鸚鵡杯』
・画像 Wikipedia「琵琶法師」のページより
・画像 東京国立博物館「職人尽歌合(七十一番職人歌合)(模本)」のページより