日向を歩く
「時間があるなら、中央広場に行かない?」
朝食後、わたしの部屋に来たフィー様が言う。
「レストランとかカフェも考えたんだけど、中央広場のほうが貴族も少なくて人目を気にしなくていいよね」
「人目?」
「貴族の中には君を悪く言う人達もいるでしょ? そういう人達がいるかもしれない場所だと、アデルが心から楽しめなさそうだから」
まじまじとフィー様の顔を見れば、フィー様が不思議そうに首を傾げ、それから何かに気付いた様子で慌て出した。
「あ、アデルとの関係を隠してるわけじゃないよ!?」
「それは知ってるわ」
先ほどの朝食の席で、五日後に婚約を発表することが決まったが、その時もフィー様が「早く発表したい!」と押し切って、公爵が一番日取りの良い五日後にということになったのだ。
ちなみに、その婚約発表の日にお客様が来るらしい。
誰が来るのか訊くと、あっさり教えてもらえた。
「私とイアンの両親だ」
公爵とフィー様の両親、つまり、この国の国王と王妃である。それに気付いた瞬間、呼吸が止まった。
お忍びで公爵家を訪れるそうで、公爵夫妻とフィー様いわく、わたしの顔が見たいだけとのことだった。
フィー様との婚約を反対してるわけではない。
そもそも、反対されていたら婚約届は受理されないし、両陛下は放任主義だそうで子である公爵やフィー様の結婚についても特に口を出すような方達ではないという話だった。
「ほら、発表したら『婚約者』だけど、それまでは『恋人』ってことになるでしょ? せっかくだから恋人らしいことをして過ごしたいなあって」
わたしの様子を窺うように見つめられる。
……恋人、なのかしら?
フィー様との婚約は受け入れたし、フィー様に一目惚れしたと言われて、わたしの人生を欲しいとも言われた。
確かに、告白を受け入れたようなものだ。
でも、この美しい吸血鬼がわたしの恋人と言っても、何だか実感が湧かないのだ。
……それに恋人同士って何をするの?
フィアロン侯爵令息と婚約していたけれど、夜会へ共に出席すること、義務としての手紙のやり取りや互いの家への訪問くらいしか、したことがない。
「恋人なんていなかったから、何をすればいいのか分からないけれど、それでもいい? 出掛けてもつまらないかもしれないわ」
少なくとも、フィアロン侯爵令息はわたしと過ごしている時、とてもつまらなさそうな様子だった。
だけどフィー様は嬉しそうな顔でわたしの手を握る。
「じゃあ僕がアデルの最初で最後の恋人なんだね! アデルと一緒にいるだけで楽しいのに、つまらないなんて思わないよ!」
さっそく準備をして行こう、とメイドに預けられる。
出掛けるために外出用のシンプルなドレスに着替えて、髪をまとめてもらい、化粧も薄く施してもらう。
ドレスは家から持ってきたものだ。
明日か明後日には、先日フィー様が買った大量のドレスが届くそうで、それらが届いたら、伯爵家から持ってきたドレスを着ることはなくなりそうだ。
着替えを済ませるとフィー様が戻ってくる。
フィー様は普段着の上から丈の短いコートを着ている。
「今日は中央広場でちょっと過ごしたら帰ってこよう? あんまり人が多いと疲れちゃうし、一日で全部済ませちゃうより、毎日一つずつ楽しいことがあったほうが長く楽しめるでしょ?」
そういうわけで、中央広場へ出掛けることになった。
* * * * *
馬車で広場の近くまで向かい、大通りから少し離れた場所に降ろしてもらう。
思ったよりも人気が多くて驚いていると、目の前にフィー様の手が差し出された。
「はぐれると困るから、手を繋いで行こっか」
その手、自分の手を重ねれば、優しく握り返される。
そしてフードを目深に被って歩き出したフィー様に促されて、わたしも大通りに出て、フィー様と並んで歩く。
こんな人目の多い場所で手を繋いでいたら目立つのではないかと辺りを見れば、意外と、似たような人が多いことに気付く。
仲の良さそうな人々が当たり前のように手を繋いでいる。
わたしとフィー様も目立ってはいない。
「今日はいい天気だね。出掛けるのにピッタリだ」
空を見上げたフィー様に釣られて、わたしも顔を上げる。
雲一つない真っ青な明るい空がそこにあった。
温かな日差しがドレス越しに感じられて、時折吹くそよ風のおかげで暑過ぎるということもなく、過ごしやすい。
……ああ、眩しい……。
こうやって空を見上げたのは久しぶりだ。
二週間前は婚約を破棄されて死のうとしたのに、たった数日の間に状況も環境も変わり、こうして青空の下を歩いている。
わたし一人ではきっとどうしようもなかった。
それなのに、フィー様と出会って全てが一変した。
周りの人々は幸せそうに、楽しそうに笑っている。
決して、わたしはそうはなれないと思っていた。
しかし今は違う。
同時に、今までずっと俯いていたことに気付く。
両親や兄から愛されず、婚約者とも不仲で、双子の妹には好き勝手にされて、わたしは俯き続けた。
でも、本当はわたしが俯く必要なんてなかったんだ。
きちんと顔を上げて反撃すれば良かった。
両親も兄も、わたしが言い返した時、まるでありえないものでも見たかのように驚いていたけれど、それはわたしが何もしなかったから。
「ねえ、見て見て、アデル! このピアス、蝙蝠だよ!」
通りに面した店先に飾られた商品を見て、フィー様が楽しげに笑っている。
ただ歩いているだけなのに。
わたしといるだけで楽しいという言葉を思い出す。
「可愛いピアスね。フィー様の蝙蝠みたい」
「やっぱりアデルもそう思う? 買っちゃおうか」
フィー様と店に入り、店員に声をかけてピアスを持ってきてもらう。
店員はフィー様の顔を見て、吸血鬼だと気付いたようだけれど、何も言わなかった。
ピアスは黒い蝙蝠がモチーフで、その下に綺麗にカットされた黒い宝石が連なっている。宝石はブラックオニキスらしい。
フィー様は迷わず、同じピアスを二つ買った。
それから、その場で自分のピアスを外して、その蝙蝠のピアスをつけるとわたしに振り返る。
「どう? 可愛い?」
長い銀髪を手で退かしつつ耳を見せられる。
意外と似合っていた。
「……可愛いわ。とても似合ってる」
そう答えればフィー様がパッと明るく笑った。
「こっちはアデルの分だよ。……僕がつけてもいい?」
「ええ、お願い」
伸びてきた手が丁寧にわたしの耳からピアスを外し、新しいピアスをつけていく。少し、くすぐったい。
つけ終わるとフィー様がわたしを見る。
「うん、アデルも可愛い。よく似合ってるよ」
頭を動かすと、ピアスの揺れる感覚がした。
今、わたしの耳にはフィー様とお揃いの蝙蝠のピアスが揺れているのだろうと思うと、急に気恥ずかしくなった。
ついピアスに触れてしまう。
ちゃり、と耳元で小さく音がする。
「ふふ、お揃いだね!」
フィー様が会計を済ませ、元々つけていたピアスを箱に入れて返してもらう。それをフィー様が影に入れた。
「これで屋敷の僕の部屋に送ったから」
伯爵家にいた時に果物などを出した、あれである。
……何度見ても便利でいいわね。
手を繋ぎ直して店を出る。
「いい買い物が出来たなあ」
フィー様はご機嫌だった。
繋いでいないほうの手でもう一度ピアスに触れる。
指先で辿れば、可愛らしい蝙蝠の形が分かった。
「……わたしも、嬉しいわ」
その呟きはもしかしたらフィー様には聞こえなかったかもしれないけれど、繋いだ手に少しだけ力が込められた気がした。
それから中央広場まで通りの店を眺めながら歩いていった。
他に欲しいものはなかったが、あれこれと話しながら見て回るのは楽しくて、フィー様が変なお面をつけて見せた時はおかしくて、声を上げて笑ってしまった。
淑女が大きな声で笑うのは良くないというのに、堪えきれずに笑うわたしにフィー様は嬉しそうな顔をした。
わたしを笑わせるためにお面をつけたり、外して変な顔をしてみせたり遊んでいたせいで、お店の人に怒られて、二人で謝ってお店を離れた。
でも、少し離れてから、フィー様と顔を見合わせた。
「あの店のおじさん、厳つい顔だったね!」
こんな感じ、とフィー様が自分の両目の目尻を指で吊り上げて、口角を引き下げて、真似をする。
それがおかしくて、また笑ってしまった。
フィー様もすぐに笑い出して、二人で声を上げて笑いながら通りを並んで歩く。
周りが賑やかだからか、声を上げて笑っても、誰も変な目でわたし達を見ることはなかった。
「アデル、ほら、あれが王都一大きな噴水だよ」
フィー様が指差した先には大きな噴水があった。
わたしが両腕を広げても十人くらいいないと囲めないようなその噴水は、中央に美しい男女二人の彫刻があり、彫刻は大事そうに壺を抱えている。
噴水の縁では人々が座って休んでいた。
わたし達も噴水へ近付く。
「……あ、お金が……」
覗き込んだ噴水の中には銅貨が沢山沈んでいた。
よくよく見れば、彫刻の足元などにも落ちていて、多くの人々がそれらを投げたことが窺えた。
「みんな投げてるんだね」
フィー様も噴水を面白そうに見た。
それから、何枚かお金を取り出した。
周りの人々も分かっているのか、壺の口が向いている彫刻の正面には誰も座っていない。
フィー様がお金の重さを確かめるように、何度か手の上で小さく放る。
その色からして銀貨だろう。
「落ちたお金はずっとそのままなのかしら?」
「年に一回、回収するらしいよ。でも投げたお金を拾うと『失敗や不幸を呼び込む』って言われてるみたい」
「なるほどね」
フィー様が噴水から少し離れて立つ。
わざわざ投げる場所の指定があるらしく、地面に、ご丁寧に円が描かれていた。
そこにフィー様が立つと周囲の人々の視線が集まる。
フィー様はそれを気にした様子もなく、軽い仕草で持っていた銀貨を噴水へ投げた。
綺麗な放物線を描いて、吸い込まれるように銀貨が壺の中へ綺麗に入る。
チャリン、と澄んだ音が響くと、周りの人々がワッと歓声を上げた。
その声はフィー様が一度で入れたことへの賞賛だった。
そしてフィー様が円から出て、わたしのところへ戻って来た。
「一度で入るなんて凄いわ」
そこそこ距離があるのと、壺は口がそれほど広くないので、一度では簡単には入れられないだろう。
「僕達吸血鬼は身体能力も高いから、これくらいは難しくないんだ。アデルも投げてみる? 面白いよ」
「銅貨でいいわ。多分、失敗するから」
「はい、どうぞ」
フィー様から銅貨を一枚もらう。
円の中へ入りつつ、手の中で銅貨の感触を確かめた。
視線を感じながらも壺へ意識を集中して、力いっぱい、銅貨を放り投げた。
銅貨は壺の少し上の彫刻に当たり、カチャーンと甲高い音を立てて上へ弾かれる。
……やっぱり、入るわけがないわね。
周囲の人々も、ああ、と残念そうな声を漏らす。
しかしフィー様が「あ」と呟いた。
「入る!」
フィー様の声がやけに大きく響き、上へ弾かれた銅貨がまるでフィー様の言葉に従うように落ちて、そして壺に入った。
チャリン、と澄んだ音がした。
途端に、また歓声が上がった。
フィー様が近付いてきて、わたしを抱き締める。
「良かったね、アデルの願いはきっと叶うよ!」
入るとは思わなくて呆然としているわたしを抱き締めたまま、フィー様が、投げたわたしよりも喜んでくれる。
……願いなんて考えてなかったわ。
「わたしは特に叶えてほしいことはないわ」
「そうなの? せっかく入れられたんだから、何か願ってもいいんじゃない? 僕も願いを込めながら投げたよ」
公爵家のフィー様なら、大抵の願いは叶えられるだろうに、何を願ったのか少し気になった。
伯爵家を出たいというわたしの願いはフィー様が叶えてくれた。
「それなら、フィー様の願いが叶うように祈るわ。あなたはわたしの願いを叶えてくれたから、わたしの分はフィー様にあげる」
そのほうが叶う確率が上がるかもしれない。
フィー様の紅い瞳が煌めいた。
「ありがとう、アデル! 僕は君が大好きだよ!!」
叫ぶような声と共に少し強く抱き締められる。
そこからフィー様の喜びが伝わってくる。
こんなことで、これほど喜んでもらえるとは思わなくて驚いたものの、そっとその背中に腕を回して、わたしは初めてフィー様を抱き締め返した。
恋愛感情というのはまだよく分からないけれど、フィー様のことは好意的に感じているし、婚約者がフィー様で良かったと思っている。
「フィー様、婚約者になってくれて、ありがとう」
お日様に当たっているような温もりに包まれる。
フィー様と出会って、伯爵家から連れ出してもらって、まるで毎日が陽だまりの中にいるように温かい。
「あなたのことをもっと知りたいわ」
「アデルがそう望んでくれるのが嬉しいよ」
そう、耳元で囁いたフィー様の声は、出会ってから今までの中で一番幸せそうなものだった。