婚約の報告
公爵家での暮らしはまるで夢のようだった。
用意されていた部屋は華やかで明るく、公爵家の使用人だというメイドが数名、わたしについてくれた。
使用人達は全員、血の濃さに違いはあれど混血種だそうで、公爵家の分家筋の者ばかりらしい。
わたしは人間で、彼女達からしたら目下である。
それなのに彼女達はとても良くしてくれる。
いつだって部屋は暖かいし、飲み物や食べ物が用意されていて、望めばいつでも何度でも入浴が出来て、何かと気を遣ってくれるからか居心地が好い。
公爵夫妻は忙しいので食事の席でしか会わないけれど、優しい人達だと感じた。
冷たそうな顔立ちだが、公爵は穏やかで情が厚い。
夫人は明るく、おおらかで、夫である公爵を深く愛しているのが伝わってくる。
公爵も妻である夫人を大事にしており、仲睦まじく、いつも食事の席は和やかな雰囲気に包まれている。
そこにいるのに無視されることもなければ、話しかけても気付かれないなんてこともない。
しかも、フィー様が常にそばにいる。
さすがに眠る時や入浴の時は離れているが、それ以外は大体、フィー様はわたしの部屋に入り浸って、わたしに構っている。
「ここでの暮らしには慣れた?」
公爵家に来てから一週間。
フィー様に問われて、苦笑が漏れた。
「まだ、これは夢かもしれないと思うことがあるわ」
「夢じゃないよ。アデルはここにいて、僕と婚約していて、もう伯爵家に戻る必要はないんだから」
「そう……。そうね、ありがとう、フィー様」
時々、幸せ過ぎて不安になる。
いつかこの幸せが崩れてしまうかもしれない。
奪われて、失って、またどん底に落ちたら……。
そう思うと、夜、一人の時間が恐ろしくなる。
……奪われるくらいなら自分で終わらせたほうが、傷付かずに済むわ……。
夢のようにふわふわした中で死ぬなら、つらくない。
初日の夜、わたしはナイフで手首を切ろうとした。
しかし蝙蝠が、フィー様がそれを止めた。
「言ったでしょ。君が死のうとしたら、僕は止めるって」
死のうとしたわたしを責めることはなかった。
ただ、わたしの部屋にあった刃物の類は翌日から消えて、刃物が必要な時でも、わたしにそれが渡されることはない。
果物が食べたくなればフィー様が切ってくれる。
しばらく放置して少し毛先がばらついていた髪はメイドが綺麗に整えてくれた。
爪すら自分で切ることはなくて、でも、公爵家では爪を整えるのは侍女やメイドの仕事だと言う。
ベッドの飾り紐で首を括ろうとしたら紐の類が消える。
繋がっている浴室で入水しようとすれば鍵がかけられる。
バルコニーから飛び降りようとした時は、フィー様がやっぱり現れて、わたしを止めた。
「ここは下に高い植え込みがあるし、飛び降りても上手く死ねないと思うよ。腕や足が折れて痛いだけ」
確かに、言葉通り高い植え込みがあった。
もし飛び降りたとしても植え込みに落ちるだろう。
不安で、怖くて、何もかもを投げ出して逃げたくなる。
さすがに夜はフィー様もわたしの部屋から追い出されるのだけれど、こっそり、蝙蝠の姿でそばにいる。
わたしの影にはまだ蝙蝠を潜ませているそうだ。
監視されているというよりかは、わたしが死なないか心配で見守っているというほうが正しいと思う。
「そろそろ、アデルとお出掛けがしたいな」
そう言われて、わたしは首を傾げた。
フィー様は五日前、わたしのために公爵家御用達のデザイナーを呼び寄せ、ドレスや靴、装飾品などを大量に注文した。
その翌日には商人を呼んで、わたしの日用品も購入した。
翌々日にはヌイグルミやボードゲームなどを扱う店、文房具を扱う店、彼の知り合いだという演奏家、と毎日何かしらあったのだ。
しかもフィー様はわたしを敷地内の散歩や庭園のピクニックに誘ったり、二人で蔵書室で読書をして過ごしたり、色々と気分転換もさせてくれる。
公爵家の中だけでも十分だった。
「出掛けるって、どこに?」
そう訊き返すとフィー様が「えっとね」と小さく畳まれた紙を取り出して、わたしへ広げて見せた。
「美味しいレストラン、ケーキの種類が多いカフェ、観劇もいいよね。あ、アデルは本は好き?」
「ええ、好きよ」
「じゃあ本屋も。それから、中央広場の噴水!」
広げた紙には沢山の場所の名前が書かれている。
半分近くは知らないものであった。
「中央広場の噴水?」
「恋人同士で行く、定番の場所なんだって。僕達吸血鬼の始祖、原初の吸血鬼とその妻二人の彫刻があって、持っている壺に向かってお金を投げ入れるんだ。壺にお金が入ると願いが叶うって言われてるみたい」
「そんな話、初めて聞いたわ」
「庶民の間で流行ってるからね。貴族はそういうの興味ないと思う。でも、お金を投げるなんて普通はしないし、面白そうじゃない?」
そう悪戯っぽく笑うフィー様は子供みたいに明るい表情で、わたしの手に紙を握らせる。
「アデルは出掛けるの、嫌?」
出掛けるのは嫌ではない。
むしろ、伯爵家にいた時は好んで出掛けていた。
あの家にいても気が休まることはなかったから、それなら、お祖父様のお墓に行ってお花を供えて静かに過ごすほうが良かった。
「いいえ、出掛けるのは好きよ」
「じゃあ、どこか行こう! アデルの行きたいところがいいよね。気になるお店とか、好きな場所とかある?」
……言っていいのかしら……。
考えたわたしの手をフィー様が握った。
「アデル、行きたい場所があるんだね? どこ?」
柔らかな声に促されて、口を開く。
「フィー様と初めて会った場所。……お祖父様に婚約の報告をしたいの。きっと、心配しているだろうから」
「そっか、分かった。途中で花を買ってから行こっか」
「……いいの? お墓よ?」
初めて一緒に出掛けるのが墓地でも、いいのだろうか。
わたしの問いにフィー様が頷いた。
「うん、だってアデルにとって『お祖父様』はとっても大切な人だったんでしょ? この一週間、アデルが家族について話す時はその『お祖父様』とのことだったし」
……そういえば、そうかもしれない。
両親や兄、ティナのことはもう家族とは感じられないが、お祖父様だけは今でも家族だと思える。
庭園で赤いバラを眺めた時も。
暖炉の前で揺り椅子に座って過ごした時も。
わたしはお祖父様について話した記憶がある。
「アデルの話からは『お祖父様』がアデルのことを愛して、可愛がってくれたんだって凄く伝わってきた」
フィー様が嬉しそうに笑う。
「そんな『お祖父様』に僕のことを婚約者だって紹介してくれるんでしょ? それなら、僕もきちんとご挨拶しないとね」
「……ありがとう、フィー様……」
お祖父様が亡くなってから、お父様達はほとんどお墓へ行くことがなかったし、フィアロン侯爵令息は頻繁にお祖父様のお墓に行くわたしを陰鬱だと言って、一度も一緒に来てくれることはなかった。
たとえこの世にいなくても、お祖父様はわたしの大好きなお祖父様で、だからこそ蔑ろにしたくない。
「今日はもう夕方だし、明日行こうね。お祖父様は好きな食べ物とか、好きなお酒とかある?」
「食べ物の好き嫌いはない人だったけど、お酒が好きで、よく寝る前に少しだけ飲んでいたわ」
「僕が選んでもいい?」
それに頷き返す。
「ええ、お願い。わたしはお酒に詳しくないから」
長生きな吸血鬼のほうが美味しいお酒も知っているだろう。
フィー様は「うん、任された!」とやっぱり嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
笑った口元に吸血鬼特有の少し長い牙が覗いて、それがどことなく、可愛かった。
* * * * *
翌日の午後、馬車に乗って教会へ向かった。
馬車は公爵家のもので、フィー様が普段使っているらしく、見た目は品があるが落ち着いた雰囲気のものだった。
途中にあった花屋に寄って、お墓に供える花を買う。
本来、お墓に供える花は白が基本なのだけれど、お祖父様の好きだった赤いバラを選んだ。
……わたしも、赤いバラが好き。
わたしのようだとお祖父様はよく言ってくれたが、お祖父様も、燃えるような赤い髪に濃い緑の瞳で、お揃いの色が嬉しかった。
赤いバラはわたしでもあり、お祖父様でもある。
わたしがバラを買ってもフィー様は止めなかった。
「アデルの『お祖父様』は赤いバラが好きって言ってたよね。僕も赤いバラが好きだよ。アデルみたいで綺麗だよね」
馬車に戻ると、わたしの持つ赤いバラの花束を、フィー様が目を細めて眺める。
「ありがとう。……そう言ってもらえると、嬉しいわ」
赤いバラはわたしにとっては特別な花だった。
馬車がゆっくりと走り出し、教会へ向かう。
「ねえ、フィー様」
「なぁに、アデル?」
わたしが呼べば、フィー様がすぐに返事をする。
「フィー様は、ティナのこと、可愛いと思わなかったの?」
迎えに来てくれたあの日、フィー様はティナと会ったけれど、どうしてかティナへ全く好意を抱かなかったように見えた。
それがとても不思議だった。
これまで、ティナに会った誰もが妹に好意を抱き、わたしは友人すらいなくなった。
病弱だからか華奢で、小柄で、可愛らしくて、ちょっと我が儘だけれど、それすら可愛いと受け入れられて。
ティナを嫌う人なんていないだろうと思っていた。
フィー様が「ああ、あれね」と眉根を寄せた。
「全っ然、可愛くない。気持ち悪い」
嫌そうな顔でフィー様が続ける。
「姉の婚約者を寝取るっていうのも常識的に考えてありえないって思うけどさ、それよりも、自分の見た目が良いって分かっている上で相手に可愛いって思われようと狙ってやってる感じが、なんか嫌」
「……気付いていたのね」
ティナは自分が可愛らしい見た目だと分かっている。
その上で、可愛いく振る舞っているところがあって、わたしと一緒にいる時は、尚更、病弱でか弱い双子の妹を強調したがる癖がある。
「何となくだけどね」
そんな話をしているうちに馬車の揺れの感覚が広がり、やがて、目的地に着いたのか停車した。
フィー様が降りて、その手を借りてわたしも降りる。
十日振りの教会は相変わらず静かで、人気がなくて、それにホッとする。
「確か、初めて会った時はこっちにいたよね」
フィー様がわたしの手を引いて、のんびり歩き出す。
お祖父様のお墓へ向かいながらフィー様へ訊いた。
「そういえば、フィー様もあの日、ここに用があって来ていたの?」
「うん、ここ数年ちょっと周辺国を旅しててさ、帰って来たら知り合いが亡くなってて、花くらい供えようと思って」
「わたしがそれを邪魔してしまったのね」
「そんなことないよ。ちゃんと花は供えられたし」
墓石が並ぶ中、フィー様が立ち止まった。
「ここだったよね」
お祖父様のお墓の前だった。
頷き、そっと、墓石の前にバラを供える。
フィー様がどこからともなく瓶を取り出し、それを、同じように墓石の前へ置いた。
酒には詳しくないけれど、値の張りそうなものだった。
二人で目を閉じ、しばし黙祷を捧げる。
……お祖父様、この間はごめんなさい。
目を開けて、横を見れば、フィー様も目を開けた。
微笑みを浮かべたまま小首を傾げられて、何でもないとわたしは首を振った。
「お祖父様、わたしはフィアロン侯爵令息との婚約を破棄されてしまいました」
この間の時はきちんと報告出来なかった。
している余裕もなかった。
「でも、心配しないでください。今日は、新たな婚約のご報告に来ました。こちらが、わたしの婚約者のフィー様です」
「ナイトレイ公爵家のイアン=フェリクス・ナイトレイといいます、アデルのお祖父様」
フィー様は墓石に向かって礼を執った。
まるで、そこにわたしのお祖父様がいて、挨拶をするように振る舞ってくれるのが嬉しかった。
「アデル嬢が幸せになれるよう、僕は尽くすつもりです」
お祖父様がもし生きていたら、とても驚いただろう。
婚約破棄された三日後には次の婚約を結んで、しかも、更に家格の高い公爵家の吸血鬼とだなんて、想像もつかなかっただろう。
でも、お祖父様はきっと喜んでくれる。
「アデル、お前が幸せなら、それでいい」
そう言って、わたしを抱き締めてくれたと思う。
そんな風に考えているとフィー様に抱き寄せられた。
「きっと、君の『お祖父様』はアデルの幸せを願っているよ」
フィー様の言葉に頷いた。
……わたしも、そう思うわ。
「これからも僕はアデルを生かすよ」
フィー様がお祖父様の墓石を見ながら言う。
見上げていれば、わたしを見たフィー様が微笑んだ。
「アデルは『お祖父様』のところへ行きたいのかもしれないけど、僕はアデルに向こうへ行ってほしくないんだ。だから、今は、少しだけでもいいから、僕の我が儘に付き合うと思って、生きてくれないかな?」
死ぬのは良くないとか、生きていれば良いことがあるとか、そういう綺麗事なんかじゃない。
自分の我が儘でわたしに生きていてほしい。
わたしの気持ちを否定しているわけではない、その言葉は、わたしが聞いてきた色々な我が儘の中で一番優しいものだった。
「死なないとは、言えないわ」
発作のように死にたいと思う気持ちが強くなる。
そういう時、わたしはその気持ちを抑えられない。
この先の人生が恐ろしくて死にたいと願ってしまう。
「でも、フィー様が、公爵家の皆様が嫌なわけではないの。あそこはとても温かくて、優しくて、まるで夢みたい」
「アデルが望むなら、その夢みたいな場所にずっと居ていいんだよ。僕の腕の中で優しくて幸せな夢だけを見続けることも出来る」
いつも思う。フィー様の言葉は甘い誘惑だ。
一度堕ちたら、きっと、二度と戻れない。
「……きっとそこには苦痛なんてないんでしょうね」
でも、今はまだ、そこへ行くのが怖い。
わたしのその気持ちに気付いているのか、フィー様はそれ以上、わたしを誘惑することはなかった。
「僕はいつでも待ってるよ」
堕ちてくることを、と言われた気がした。
優しくて、明るくて、温かくて、そばにいるだけでお日様に当たっているみたいに心が癒される人。
だけど、きっと優しいだけの人ではないのだろう。
昔、別の大陸から渡ってきた絵本を読んだことがあった。
そこでは吸血鬼は悪魔と同一視されていて、人間を堕落に誘う悪しき存在として描かれていた。
……あながち、間違いではないのかも。
横にいる吸血鬼はわたしを堕落させようとしている。
その手の中に堕ちれば幸福に満たされるだろう。
終わりがあるから、怖くなる。
どんな物事にもいつかは終わりが訪れる。
幸福を知ってしまえば絶望しか残らない。
「体が冷えちゃうし、そろそろ馬車に戻ろうか」
でも、わたしはその温もりを知ってしまった。