ナイトレイ公爵家へ
公爵家の使用人が手早く荷物を運んでくれて、わたしと吸血鬼はそれを見ているだけだった。
その後、玄関へ案内すれば、そこには兄がいた。
わたしを見ると怒ったような顔をしたが、わたしの横にいる吸血鬼に気付いて苛立ちを抑えたようだ。
「婚約するというのは本当か」
その問いにわたしは意識的に微笑んだ。
「本当よ。婚約して、この家を出ていくわ。伯爵夫妻と、あなたと、ティナの四人で今まで通り幸せに過ごせるでしょう。良かったわね」
「待て、出ていくだと? 結婚前の貴族の令嬢がそんなことをすれば、どんな噂が流れるか分かっているのか?」
「その言葉、そっくりそのままティナに言ってあげたら?」
どうせ社交界で良くない噂をされているのだ。
今更、何を言われたところでどうでもいい。
「『あの妹にしてこの姉あり』と噂の的になるでしょうね」
兄が絶句している。それがティナとよく似ていた。
もし吸血鬼がいなければわたしを怒鳴りつけていたのだろうが、今はそれも出来なくて、怒りに震えている。
……もっと前からこうしていれば良かった。
両親も、兄も、ティナも、そして使用人達も、わたしが言い返さないから良い気になっていたのだろう。
足音がして、両親と公爵様が玄関へやってくる。
「もう準備は終わったのか」
公爵が少し驚いた様子で訊いてきたので、頷いた。
「この家のものは極力、持って行きたくありませんので」
両親が目を鋭くしたが、怖くも何ともない。
たとえ手を上げられたとしても、もう、この人達に振り回されて生きていきたくない。
公爵様は「そうか」とだけ言った。
吸血鬼が「大丈夫だよ」と笑う。
「アデルの好みに合わせて色々揃えよう? 気分も思い出も、全部新しくすればいいよ」
ずっと繋がったままのわたしの手は、吸血鬼の体温が移って温かくなっていた。
両親と兄を見る。
この家で、わたしの家族はお祖父様だけだった。
深呼吸をして、彼らに言う。
「……わたしはあなた達を愛していました。でも、あなた達は結局わたしを愛してはくれませんでした。だから、もう、あなた達を愛することはやめます」
そう決めただけで心が軽くなった。
与えられないものを欲しがっても、疲れるだけ。
「ウェルチ伯爵、伯爵夫人、ウェルチ伯爵令息。今後は、他人として過ごしましょう。そのほうが、お互いのためになります」
「っ、アデル、お前……!!」
父がわたしの名前を呼んだ。
ここ数年呼ばれなかったというのに、今になって呼ばれたことが少しおかしかった。
「わたしの名前、覚えていたんですね」
両親と兄がハッと息を詰めた。
彼らも、自分達がわたしの名前をしばらく呼んでいなかったことに気が付いたのだろう。
同じ屋根の下で共に暮らしているのに名前を呼ばれないことが、無視され、放置されることが、無関心がどれほどつらいか、この人達は知らない。
公爵様と吸血鬼へ向き直る。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
別れの言葉など必要ない。
公爵様が頷いた。
「では、御令嬢は我が家が引き取らせてもらおう」
公爵様が別れの挨拶を告げ、外へ出る。
吸血鬼と共にわたしも歩き出す。
後ろから、わたしの名前を呼ぶ兄の声がしたが、聞こえないふりをして前を向く。
外には公爵家の家紋がついた馬車が停まっていた。
馬車に乗り込み、扉が閉められ、ゆっくりと馬車が動き出した。
長年過ごした伯爵家から出るのは思いの外、簡単で、そして想像していたよりも感情は動かなかった。
ぼんやり車窓を眺めていると公爵様に声をかけられた。
「ウェルチ伯爵令嬢、アデル嬢と呼んでも?」
「はい、お好きにお呼びください」
公爵様は冷たい顔立ちと淡々とした口調は変わらなかったが、伯爵夫妻と話していた時よりか幾分、声が穏やかだった。
「君の身辺や素行について調査させてもらったが、これまでの行いや婚約破棄について、君に非がないことを我々は知っている。伯爵家で君が冷遇されていたことも」
「そう、ですか……」
横で吸血鬼が眉を下げた。
「調べられるの不愉快だったよね。ごめんね」
それに首を振る。
「いえ、そのことについては当然でしょう。婚約前に相手や相手の家を調査するのはよくあることです。それについて思うところはありません」
「良かった〜」
ホッとした様子で吸血鬼が胸を撫で下ろす。
「むしろ、ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません」
「アデル、迷惑だなんて思ってないよ。君の状況を知ってこうしたいって僕も考えていたし、僕としてはアデルと一緒にいられる時間が増えて嬉しいんだ」
言い募る吸血鬼に公爵様が苦笑した。
「これがこう言っているのだ、アデル嬢が気に病む必要はない」
それから目的地に着くまで、ナイトレイ公爵家について教えてもらうこととなった。
ナイトレイ公爵家は四大公爵家の一つだ。
この国の王族と公爵家は代々、吸血鬼の純血種が継ぐ。
国王陛下と王妃様は今いる純血種の吸血鬼の中でも、特に血が濃く、寿命が長く、何百年もこの国の頂点にいる。
そして、公爵様と彼は両陛下のお子である。
「前ナイトレイ公爵が、この地位にいることに飽きてしまったので三百年ほど前に私がナイトレイ公爵となった。四大公爵家は全て、両陛下の兄弟姉妹、もしくは子で形成されている」
吸血鬼なので滅多に代替わりがすることはない。
ちなみに前ナイトレイ公爵は、現公爵と彼の叔父に当たる人だったそうで、今は別の大陸へ旅に出ているらしい。
公爵夫人は別の公爵家の御令嬢で同じく純血種だそうだ。
「あの、人間のわたしが公爵家に入っても良いのでしょうか?」
婚約した以上、いずれは結婚することとなる。
純血種の吸血鬼の中にただの人間がいては、周囲から反感を買うかもしれないし、釣り合わないと言われるだろう。
「それについては問題ない。イアンとアデル嬢が結婚し、アデル嬢が吸血鬼に転化すれば、同族同士の婚姻となる」
「転化……?」
「純血種の吸血鬼が有する能力の一つに、人間を同族へ変化させるというものがある。これは混血種にはない。人間から吸血鬼に転化した者は寿命が延び、体が頑丈になり、身体能力も上がる。純血種よりかは劣るし、使えない能力もあるが、混血種よりかは強い」
……わたしが吸血鬼になる……?
驚いていると横から声がする。
「あ、無理に吸血鬼に変えたりしないから安心して? アデルが頷かない限り、そんなことはしないよ。でも、そういう道もあるって覚えておいてくれると嬉しいな」
「もし転化しなかったとしても構わない。吸血鬼と人間がそのまま結婚した事例も多くある」
「アデルの気持ち次第ってことだよ」
公爵様も彼も、異種族婚については気にしていないらしい。
……吸血鬼になりたい気持ちはない。
十八年生きただけで死にたくなっているのに、この先、もっと長い時を生きるというのは考えるだけで恐ろしい。
同族になれと言われなくて安堵した。
そこまで考えて、ふと関係ない疑問が湧いた。
「あなたの名前はフィー様ではないのですね」
フィーと名乗られたが、公爵様は彼をイアンと呼んでいる。
それに公爵様が目を丸くした。
「イアン、お前、まさか名乗っていないのか?」
彼が、バツが悪そうな顔をする。
公爵様が大きな溜め息を吐いた。
「弟が無礼を働いてすまない。これの名はイアン=フェリクス・ナイトレイ。君に教えたのは弟の第二の名前の愛称だ。純血種の吸血鬼は二つの名前を持っているが第二の名前は本来、伴侶しか呼ぶことを許されないものだ」
「え」
横を見れば、彼が笑っている。
「僕をフィーって呼んでいいのはアデルだけだよ」
屈託のない笑みにドキリとした。
……わたしだけの特別な呼び方。
「だからお願い。僕のこと、フィーって呼んで?」
甘える声はまるで誘惑しているようだ。
鮮やかな紅い瞳が見つめてくる。
名前を呼ぶのは勇気が要る。
呼んでも、返事をもらえなかったり雑に対応されたりすると悲しいし、名前を呼ぶほど、その相手の存在はわたしの中で確実に大きくなっていく。
……信じても、いいのかしら。
一目惚れなんてしたことがないから彼の気持ちの度合いは分からないけれど、きちんと『迎えにくる』という約束を守ってくれた。
わたしを伯爵家から連れ出してくれた。
……信じてみたい。
死にたい、消えたいという気持ちはある。
だけど、きっと、ずっと願っていたのだ。
ティナの言葉や噂ではなく『わたし』を信じてくれる人を、愛に愛で返してくれる人を、心許せる相手を。
お祖父様のように温かな人にそばにいてほしいと。
「…………フィー、様」
彼の両手が伸びてきて、頬が包まれる。
「『様』は要らないよ?」
こつん、と額同士が合わせられる。
間近で見る紅い瞳に魅入られてしまいそうになる。
「……すぐには、呼び捨ては、出来ません……」
ドキドキと高鳴る胸が少し息苦しい。
彼、フィー様が嬉しそうに笑った。
「そっか、じゃあいつか『フィー』って呼んでね」
「……はい」
「でも、言葉遣いは砕けてくれたら嬉しいなあ」
瞳を覗き込むようにジッと見つめられる。
「婚約者だからもっと気楽に話して?」
甘えるような声は成人男性というより子供っぽくて。
……わたしも、少しずつ、歩み寄ってみよう。
震える指先を握り込む。
「……分かった」
小さく頷くとフィー様が顔を離した。
「ありがとう、僕の可愛いアデル!」
ギュッと抱き着かれて、顔が熱くなった。
元婚約者のデニスでさえ、こんなに身体的な接触はなかったので、家族以外の異性に抱き締められたのは初めてだった。
こうして誰かに抱き締めてもらうのは久しぶりだ。
最後に抱き締められたのはいつだったか記憶を辿り、そして、思い出したのはお祖父様であった。
お祖父様が亡くなる数日前、体調を崩して寝込んでいたお祖父様の部屋にお見舞いに行った時に抱き締めてくれた。
しわの多い手が優しく頭を撫でて、そっと、慈しむようにわたしを包んだお祖父様の腕の中も温かかった。
「私の可愛いアデル、いつか、お前を心から愛してくれる人が私以外にもきっと見つかる。だから希望を失わないでおくれ」
お祖父様はその時、そう言った。
それが生きているお祖父様との最後の時間だった。
……どうして忘れていたのだろう。
お祖父様はわたしが幸せに生きることを願ってくれた。
もし婚約破棄された後にあのまま死んでいたら、お祖父様のこの言葉も思い出せず、わたしは絶望しか知らなかっただろう。
アデル、と柔らかな声がまたわたしの名前を呼ぶ。
「これからも沢山僕の名前を呼んでね」
そっとフィー様を見上げて、問う。
「呼んだら、返事をしてくれる?」
「うん。どこにいても、何をしていても、アデルが呼んでくれたら、僕は必ず君の声に応えるよ」
その言葉だけで十分だった。
フィー様はわたしをずっと抱き締めて離さず、向かい側に座る公爵様は特に何も言わなかった。
そうして馬車は公爵邸に到着した。
馬車から降りて、公爵邸を見て、驚いた。
当たり前だが伯爵家よりも大きな屋敷に、広く、けれど綺麗に整えられた庭園。多くの使用人達の出迎え。
「お帰りなさいませ」
そして、長い銀髪に紅い瞳の美しい女性がいた。
一目で吸血鬼だと分かる外見のその女性は公爵よりいくらか若く、公爵は女性と抱擁を交わす。
「ああ、今戻った」
目の前で交わされた口付けに慌てて視線を逸らす。
……きっと公爵様の奥様だわ。
それから女性がわたしを見て微笑んだ。
「初めまして、ようこそナイトレイ公爵家へ」
わたしはカーテシーを行い、挨拶をする。
「初めまして、ウェルチ伯爵家の長女、アデル・ウェルチと申します。どうぞアデルとお呼びください」
「ソフィア=ソニア・ナイトレイですわ。私のこともソフィアと呼んでくださると嬉しいわ」
「ソニアは私の妻だ」
公爵の言葉に、やっぱり公爵夫人だったか、と思う。
公爵夫人がジッと見つめてくる。
「イアンの言う通り、アデル様はバラのようね。赤い髪に緑の瞳がとっても素敵だわ」
「……ありがとうございます」
でも、と公爵夫人を見る。
ほのかに青みがかった銀髪に、公爵やフィー様より少し明るい色合いの紅い瞳をした、華奢で儚げな美人のほうが、わたしは美しく感じられた。
「ソフィア様のように、満月の晩に咲く白百合みたいな美しさのほうが、わたしは素敵だと思います」
わたしの色は、見る人にきつい印象を与えるから。
けれど、横からフィー様に頭を撫でられた。
「アデルの赤い髪も、緑の瞳も、僕は好きだな。顔立ちだって美人なんだから、アデルはもっと自信を持っていいんだよ」
何と答えればいいのか分からず、目を伏せてしまう。
こほん、と公爵様が小さく咳払いをした。
「そういえば自己紹介がまだだったな。私はマシュー=ハロルド・ナイトレイ。ナイトレイ公爵家の現当主だ。君には今日から我が家で過ごしてもらうが、自由にしてもらって構わない」
公爵様の言葉に視線を上げれば、フィー様と目が合った。
「アデル、今日からよろしくね」
この美しい人達の中に入ると思うと、尻込みしてしまいそうになった。
フィー様が繋がった手をそっと握る。
「これから、ゆっくり、家族になろうね」
……家族……。
わたしは今日、家族を失った。
元よりわたしには家族と呼べる相手はお祖父様しかいなかったのだけれど、はっきりと、今日、わたしは彼らが家族ではないと実感して、そして彼らを捨てたも同然だった。
小さく息を吸い、吐き出した。
「今日から、よろしくお願いいたします」
ギュッとフィー様の手を握り返す。
「フィー様、約束を守ってくれてありがとう」
「僕がしたいことをしただけなんだけどね」
フィー様に手を引かれる。
「さあ、アデルの部屋に行こう?」
僕の部屋の近くなんだ、と嬉しそうにフィー様が言う。
優しく手を引かれながら振り向けば、やれやれといった様子の公爵様と微笑ましいという風な顔の夫人がいた。
わたしに冷たい目を向ける人はここにはいない。
それだけで、心がスッと軽くなった。