迎えと婚約
婚約破棄から三日後。
吸血鬼の言葉が本当なら、今日、わたしはこの家を出る。
朝、目が覚めると蝙蝠が出てきて言った。
『今日迎えに行くよ。もし持って行きたいものがあったら、荷物をまとめておいてね。あ、日用品はこっちで用意してるから、特に持って行きたいものがなければ着替えのドレスだけでいいよ』
柔らかな声は機嫌が良さそうだった。
……持って行きたいものなんてないわ。
わたしが大切に思ったものは全て、ティナの手元にある。
そのうちのいくつかはティナが飽きて捨てられてしまったし、ティナが持っていたとしても返すはずがない。
わたしのものは欲しがるのに、自分のものをわたしに貸すことすらしないのだから。
とりあえず、数日分の着替えを準備した。
準備と言っても箱に収めてあるドレスや靴、それらに合わせた装飾品のいくつかをそのまま部屋に運んできただけだ。
わたしが何かしていても使用人達は気にしない。
着替えを用意して、部屋で待つ。
蝙蝠が出てきて、わたしの肩にとまった。
『はい、今日の昼食はリンゴだよ』
あの日から、わたしは家族で食事を摂ることをやめた。
そうして誰もわたしに食事について訊いてくることもなく、代わりに、蝙蝠を通じて吸血鬼が甲斐甲斐しく果物や焼き菓子などを与えてくれる。
あまり食欲はないが、小さな蝙蝠のつぶらな瞳に見つめられると断れない。
差し出した手の上に小さな可愛らしいリンゴが置かれる。
赤くて、艶々しており、新鮮そうだ。
一口かじれば、シャクリと音がする。
瑞々しく、甘く、少し酸味があって、きっとこれも美味しいものなのだろう。
食べ終えると残った芯の部分を蝙蝠は回収した。
『少し顔色が悪いね。到着するちょっと前に声をかけるから、それまで少し休んでいたほうがいいよ』
吸血鬼の言葉に頷いて、ベッドで休んでいた。
その間に夢を見た。子供の頃の夢だった。
誕生日も、初めて参加したお茶会も、社交界デビューも、いつもわたしは『ティナ・ウェルチの双子の姉』という添え物に過ぎなかった。
わたしだって主役なのに誰もわたしを見ない。
やっと出来た友人達も噂を信じて離れていった。
両親も兄も、使用人達も、冷たい目でわたしを見る。
「お姉様」
甘えるようにわたしをそう呼ぶティナは幸せそうで。
ティナから健康を奪ったのはわたしだと詰られてきたが、わたしから幸せを奪っているのはティナだった。
わたしがどんなに必死に「ティナを虐めてない」と言っても、ティナが泣けば、誰もがティナの言葉を信じる。
元よりわたしは愛されてなどいなかったのだ。
「お姉様ばかりずるいわ」
ティナが現れ、その横に美しい銀髪の吸血鬼が佇んでいる。
ティナの白くて細い手が吸血鬼の腕に触れた。
「ねえ、わたしにちょうだい?」
楽しそうに笑うティナは天使などではなかった。
ハッと飛び起きる。
心臓がドキドキと痛いくらいに脈打っている。
夢だと分かっていても胃の辺りがキリキリと痛む。
……あの子は絶対に欲しがるわ……。
曲げた膝を抱えて目を閉じる。
ふわ、と肩に軽い感触があった。
『アデル、そろそろ着くよ』
柔らかな声が耳元で囁く。
『大丈夫、怖がらないで』
気付けば、わたしの体は小さく震えていた。
顔を上げれば蝙蝠がすり寄ってくる。
『君が望めば、僕が叶える』
「……もう、この家にいたくありません」
『うん、必ず君をこの家から連れ出すよ』
わたしは今日、家族を捨てる。
* * * * *
その後、蝙蝠は姿を消した。
わたしもベッドから出て、身支度を整え直し、椅子に座ってその時がくるのを待った。
部屋の扉が叩かれ、出ると、使用人のメイドがいた。
「旦那様と奥様から、応接室にくるように、とのことです」
それだけ言うとメイドはすぐに踵を返して去った。
わたしも部屋を出て、応接室へ向かう。
屋敷の空気がざわついているのを感じる。
四大公爵家のうちの一つであるナイトレイ公爵家の者が、人間の伯爵家に過ぎない我が家に来たのだから、落ち着かないのは当然なのかもしれない。
応接室に着くと、廊下にズラリと見覚えのない使用人達が並んでいる。
我が家の使用人よりも皆、見目が良く、服も仕立ての良さそうなお仕着せであった。
その前を通り過ぎて、応接室の扉を叩く。
中から「入りなさい」と声がして扉を開ける。
室内には両親がいて、その向かいのソファーには二人の男性が座っていた。どちらも綺麗な銀髪に紅い瞳の端正な顔立ちをした、美しい吸血鬼だった。二人の後ろに一人、使用人らしき男性が立っている。
二人の吸血鬼のうち、片方はあの吸血鬼だった。
もう一人は冷たい顔立ちの、あの吸血鬼よりも歳上で、あまり顔立ちは似ていないが恐らく横にいる彼の兄で、ナイトレイ公爵家の現当主だろう。
扉を閉めて、その場でカーテシーを行う。
「あれが娘のアデル・ウェルチです」
顔を上げれば吸血鬼が小さくこちらへ手を振る。
「本当にあの子に婚約を打診なされるのでしょうか? 親の私が言うのもなんですが、あの子は少々問題がありまして……」
「問題とは?」
父の言葉に公爵様が訊き返す。
「その、病弱な双子の妹を虐めたり、社交界でもあまり評判が良くなく、ご覧の通り気が強くて、とても淑やかとは言えません」
父の言葉を聞きながら、心が冷えていく。
自分の娘をここまでよく卑下出来るものだ。
娘と思っていないのか、それとも、自分の娘だからこそどれだけ悪く言っても良いと思っているのか。
悲しさよりも呆れのほうが大きかった。
「自分の娘に対して随分な言い様だな」
「恥ずかしながら、不出来な娘でして……」
父が何かを言う度に、体が冷えていく。
自分を悪し様に言うのを聞いて嬉しいはずがない。
きっと、父にとってはそれが真実で、わたしを蔑んでいるとは欠片も気付いていないのだろう。
「それはおかしいなあ」
柔らかな声が不思議そうに言う。
「彼女について調査させてもらったら、確かにそういった噂が社交界で流れているようだったけれど、実際に彼女が妹を虐げたというところを見た者はいないということだった」
その横で公爵様も頷いた。
「その噂の出処はティナ・ウェルチ伯爵令嬢だそうだが、あなた方はアデル・ウェルチ伯爵令嬢が双子の妹を虐げているところを見たことがあるのか?」
「それは、あの子はああ見えてずる賢いので私達の前ではそういうことはしないだけで……」
「そうだとして、何故あなた方は何もしない? 姉妹の仲を取り持つなり、理由を問うなり、すべきことがあるだろう」
父が黙り、母が思わずといった様子で口を開く。
「ティナは病弱なのです。私達は、そちらで手一杯で……!」
「つまり、アデル・ウェルチ伯爵令嬢のことは放置していたと? あなた方が双子の妹にばかり構っていたら、姉のほうが妹を嫌いになっても不思議はないな」
両親が何故か驚いた顔をする。
そんなことすら考えが及ばなかったのか。
吸血鬼の彼が空気を変えるように手を叩いた。
「彼女についてはともかく、僕は彼女と婚約して、いずれは結婚したいと考えてる。手紙で分かっているだろうけど、今日は僕と彼女の婚約を結ぶのと、彼女を引き取るために来たんだ」
「待ってください、娘を引き取るとはどういうことですか? 貴族の令嬢が婚姻前にそのようなことをするのは許されません。娘の貞淑さだけでなく、それを認めた我が家も何を言われるか……」
父が慌てた様子で言い募ったが、吸血鬼が不機嫌そうに目を細めた。
「それをあんた達が言うの? 姉の婚約者を寝取って妊娠した娘を責めるどころか、これ幸いとばかりに婚約を結ばせ直すような家が、今更貞淑さとか馬鹿じゃないの?」
鼻で笑われて両親の顔色が悪くなる。
知られていないとでも思っているのだろうか。
あんな、屋敷全体でお祝いの雰囲気を出して、姉の婚約者を妹に変えれば、頭の良い人はすぐに察するだろう。
そもそも使用人達ですらティナの妊娠を知っているのだから、ちょっと探れば簡単に調べがつく。
「僕達は吸血鬼だからね。種族が違うと色々暮らし方にも違いがあるかもしれないから、慣れてもらうために公爵家に引き取るんだよ。ここでの彼女の扱いは悪いしね」
立ち上がった吸血鬼が近付いてくる。
そして、わたしの前で止まると跪いた。
「アデル・ウェルチ伯爵令嬢、僕と婚約してください」
そっと手を取って見上げられる。
「君の幸せを、一緒に探したいんだ」
温かな手を握り返す。
「申し出を受け入れます」
吸血鬼が嬉しそうに微笑んだ。
立ち上がるとギュッと手を握られる。
「これで、これからは一緒だね!」
喜んでいる吸血鬼の向こうで、公爵様が両親へ言う。
「あなた方にもそう悪い話ではないはずだ。我がナイトレイ家と縁続きになる上に、アデル・ウェルチ伯爵令嬢と弟の婚約祝いという名目で公爵家に入るのに相応しいだけの額の結納金も用意する。あなた方はそれを御令嬢に持たせれば、一切家の負担にはならないはずだ。もちろん、我が家で御令嬢を預かっている間や結婚費用は全てこちら持ちとしよう」
ただでさえ雲の上の存在の公爵家と繋がりを持てて、しかも金銭的に一切苦労することはなく、ただ、わたしを渡すだけでいい。
非常に好条件であった。
「ただし、一つだけ条件がある」
両親が顔を見合わせ、公爵様を見た。
「婚約後、我が家が御令嬢を引き取った後、彼女に関することに一切口出しをしないでもらおう。公爵家には公爵家のやり方というものがあるのでな」
そんなことか、という顔をした両親がまた確認するように互いの顔を見て、そして頷いた。
「分かりました。そこまでおっしゃっていただけるのでしたら、私達のほうから申し上げることはございません」
「では、こちらの婚約届と同意書に署名を」
公爵様が父へ書類を差し出した。
それを父が読んでいる間に、公爵様がこちらを向いた。
「ウェルチ伯爵令嬢、我が家の使用人を連れて来たので荷物を運ばせよう。……イアン、ついて行って手伝ってやれ」
「うん、そうするよ」
まだ手を繋いだまま、吸血鬼が一度公爵へ振り返って頷き、こちらへ顔を戻す。
「アデル、君の部屋に案内してくれる?」
「はい」
応接室の扉を開けて廊下へ出る。
「わたしの部屋はこちらです」
歩き出そうとして、ふと手が繋がったままだと気付く。
吸血鬼は笑みを浮かべているが離す気配はない。
どうしようかと思っていると足音がした。
「お姉様!」
明るい声に体が強張る。
振り向くと、廊下の向こうからティナが歩いてくる。
「体調を崩してるって聞いたけど、元気そうで良かった。わたし、とっても心配していたの。でも元気なお姉様を見て安心したわ」
言いながら、わたしの前まで来て、今気付いたという風にティナが口元に手を当てた。
「あ、お客様がいらしていたんですね。ご挨拶もせず、失礼いたしました! 妹のティナ・ウェルチと申します」
ティナが少し不慣れな仕草で、可愛らしくカーテシーを行う。
そしてニコリと純粋そうな笑顔を浮かべた。
大抵の人は、これだけでティナに好意的な気持ちを持つ。
気の強そうな顔立ちのわたしが微笑んでも、高飛車とか高慢そうとか言われるのだが、ティナが微笑むと春の妖精のようだと表現される。
わたしは思わず目を伏せた。
……同じ双子なのに、どうしてこうも違うのかしら。
繋いだ手を離そうとしたが、ギュッと力が込められる。
顔を上げれば、吸血鬼が冷たい眼差しをティナへ向けていた。
「知ってるよ。姉の婚約者を寝取った恥知らずだと思ってたけど、婚約者がいて、妊娠もしているのにまだ他の男に媚びを売るとか気持ち悪いから話しかけないでくれる?」
ティナの笑顔が固まった。
ティナの後ろに控えていたメイドがわたしを睨んだ。
遅れて、ティナの瞳に涙が溜まる。
「お姉様、酷い。他の方に話したの?」
そこでどうしてわたしが責められるのか。
「ええ、話したわ。この方はわたしの婚約者ですもの。前の婚約がどうして破棄されたのか、きちんと説明する必要があったから」
「……え? こん、やく? お姉様が?」
驚いた顔でティナがわたしを見る。
「そうよ。前の婚約は破棄されて自由になったのだから、次の婚約相手を探しても何も問題はないでしょう」
「でも、お姉様はこの間、婚約破棄されたばかりなのに……」
「だから何? そもそも、破棄の理由はあなたとフィアロン侯爵令息が悪かったのであって、わたしに非はないわ」
横から伸びてきた手に腰を抱かれた。
「君が姉の婚約者を寝取ってくれたおかげで、僕はアデルと出会えたから良かったけどね。そういう意味では礼を言うよ」
ティナがわたしと吸血鬼を見て、わなわなと震える。
その表情は『ありえない』と言っていた。
羞恥と、怒りと、混乱とで気が昂っているらしい。
ぱくぱくと口を開くものの、言葉が出てこないようだ。
「ああ、そうだ、お礼に良いことを一つ教えてあげる」
吸血鬼がニコリと微笑んだ。
「君、病弱なんだってね。吸血鬼の血は昔から妙薬になると言われているんだよ。混血種とは言え、吸血鬼の血が混じっているから、婚約者に血を分けてもらって飲めば、その虚弱体質は治るかもしれないね?」
どうするかは君次第だけど。
と、吸血鬼は言い、わたしを見た。
「さあ、行こうか、アデル」
促されて、わたしは自室へ向かって歩き出す。
吸血鬼が廊下に並ぶ者達へ手招きをすれば、後ろから、公爵家の使用人達が静かについて来た。
チラリと少しだけ後ろを見れば、ドレスのスカートを握り締めたまま、ティナが歯を食いしばって俯いていた。
今まで、あんな風に誰かに皮肉を言われたことも、邪険に扱われたこともない妹にとっては衝撃的だったのだろう。
でも、心配する気持ちは微塵もない。
わたしは前を向いて、もう振り向かなかった。