小さな温もり
婚約破棄された誕生日の翌日。
屋敷の中は相変わらずお祝いの雰囲気のままだった。
誰もわたしが婚約破棄されたことなど気にしていない。
食欲がなくて朝、食堂に行かなかった。
わたしがいなくても両親も兄も何も思わないだろうし、どうせ、わたしを抜いた家族で幸せな時間を過ごすのだ。
わざわざそれを見に行く必要もない。
出かける予定もなくて、身支度もしないまま、ベッドに寝転がって時間が過ぎるのを待つ。
……何もする気が起きない……。
ぼんやりベッドの天蓋を眺めていると、ひょこりと小さな黒い蝙蝠が視界に入ってくる。
『アデル、食欲がないの?』
心配そうな柔らかな声に浅く頷く。
『そっか、食べたくない時ってあるよね』
蝙蝠が寄り添うように頬にすり寄ってくる。
吸血鬼のその言葉に少しだけホッとした。
そして、それ以上は何も言われなかった。
代わりに小さな蝙蝠はずっとわたしにくっついていた。
どれくらい経ったのか、ふと、蝙蝠が身動ぎをすると姿を消した。
目を開けるのと同時に部屋の扉が叩かれた。
億劫で返事もしなかったのに、扉の開けられる音がして、ややあって足音がベッドへ近付いてくる。
「いつまで寝ているつもりだ」
現れたのは兄だった。
わたしと同じ、燃えるような赤い髪に緑の瞳をした、気の強そうな顔立ちが冷たくわたしを睥睨する。
「お前が朝食に出てこないせいでティナが泣いてる」
……それで、どうしてわたしが責められるの?
わたしが朝食を摂るかどうかはわたしの自由だし、ティナは勝手に泣いているだけだ。
わたしが泣かせたわけではない。
「ティナは妊娠しているんだ、もし体調を崩したらどうする。ただでさえ痩せているのに朝食も食べられなかったんだぞ」
ふ、と自嘲が漏れた。
両親も兄も口を開けばティナ、ティナ、ティナ。
わたしの名前を忘れてしまっているのではと思うくらい、もう長い間、この人達に名前を呼ばれていない。
寝転がったまま返事をする。
「わたしが朝食に行かなかっただけで、どうしてあの子が泣くの? 妊娠したのも、朝食を食べなかったのも、全部あの子の意思であって、わたしのせいではないわ」
兄が驚いた様子でわたしを見た。
今まで、こんな風に言い返したことはなかったから。
でも、何もかもがどうでもいい。
両親も兄もわたしのことを愛してなどいない。
昨日の彼らを見て、はっきりと理解した。
あなた達がわたしを捨てるというのなら、わたしも、あなた達などもう要らない。
「それは、フィアロン侯爵令息は元はお前の婚約者だったから、お前が当てつけみたいに食事にこないせいで、ティナが傷付いて……」
「どうしてティナが傷付くの? 婚約者を奪われて、勝手に婚約を破棄されて傷付いているのは普通、わたしのほうでしょう? それにもしわたしがティナを責めたとしても、それは当然だと思うのだけれど。わたしの婚約者を寝取るなんて最低な行いをしたのはあの子よ」
伸びてきた兄の手がわたしの胸倉を掴む。
「っ、ティナに悪気はなかった! そもそも、最初からティナとフィアロン侯爵令息は惹かれ合っていた!!」
怒鳴ればわたしが萎縮するとでも思っているのだろうか。
冷めた目で見れば、兄がハッとした表情をする。
慌てて手が離されたが、わたしは上半身を起こしたまま、兄に言う。
「だから何?」
兄の表情が凍りついた。
わたし自身、こんなに冷たい声が出るのかと内心で驚くほど、淡々とした声だった。
「何か勘違いしているようだけれど、被害者はわたしよ。浮気したのはフィアロン侯爵令息で、ティナは双子の姉から婚約者を寝取った女で、愛や悪気の有無なんて関係ないわ。どんなにお綺麗な言葉で飾っても事実は変わらない」
双子だから、妹だから、家族だから。
何でも許されると思ったら大間違いだ。
ティナはもうわたしの妹なんかじゃない。
「本当にティナが悪くないと思うなら、どうして妊娠を隠すように結婚式を急ぐの? 皆に広めればいいじゃない。二人の愛の結晶が出来ましたってね」
「そんなことをしたら貴族の令嬢としてティナは社交界にいられなくなってしまうだろう!」
「わたしは? 婚約者を奪われて婚約破棄されたと笑われても、不幸になっても、わたしはいいってこと?」
ジッと見つめれば兄が半歩下がる。
それにまた笑みが浮かぶ。
……ああ、吸血鬼様の言葉は正しい。
「お前はティナを虐めているじゃないか!!」
兄の言葉はまるで子供の言い訳みたいだった。
「わたしがティナを虐めているところを見た人はいるの?」
「ティナが泣いてそう言ったんだ!」
「じゃあわたしが泣いて『虐めてない』って言ったら? ティナが泣いていたら真実で、わたしが泣いても嘘だと言うの?」
くだらなさすぎて笑えてしまう。
こんなクソみたいな家族に縋るなんて馬鹿だ。
「あなただって本当は知ってるでしょう。わたしの誕生日の贈り物も、わたしが気に入って買ったものも、全部ティナが持っているって。あの子はいつもわたしのものを欲しがるから」
きっとティナにとってはそれが当たり前なのだろう。
両親も兄も、あの子の周りの人間は皆、病弱で可愛らしいティナを甘やかす。
「でも、もういいわ」
ベッドから立ち上がり、兄の腕を掴む。
そうして扉まで引っ張ると廊下へ突き飛ばした。
兄がつんのめり、慌ててこちらを振り返る。
「あなた達なんて要らない」
兄が何かを言う前に扉を閉めて、鍵をかける。
廊下から扉を叩かれたが開ける気はない。
……食事がほしくなったら部屋で摂ろう。
あの人達と顔を合わせたいとも思わないし、同じ空間で食事を摂る気にもなれないし、そのほうがお互い気楽だろう。
しばらく扉は叩かれていたが、放置していると静かになった。
兄のことだから両親に言うはずだ。
もしかしたら使用人達は食事を運ばないかもしれないが、三日くらい食べなくても、死ぬことはない。
でも酷く疲れてしまってベッドへまた寝転んだ。
『アデル、頑張ったね』
どこからともなく蝙蝠が出てくる。
撫でるように、その羽がポンポンとわたしの頭に触れた。
『今日、僕の家からウェルチ伯爵家に手紙が届くはずだから、もう少しだけ待っていて』
「……はい」
わたしはこの吸血鬼を利用しようとしている。
この伯爵家から連れ出してくれるなら誰でも良かった。
一目惚れなんて言われても信じられなくて、でも、この家にいるよりかはずっといい。
……騙すようで罪悪感を覚えるけれど。
窓から差し込む日差しが方向を変え、時間が過ぎていく。
そろそろ昼食を終えた頃だろう。
水を飲む気にもなれなかったが、さすがの吸血鬼も『水だけは摂らないと』と言った。
水差しもないと言えば、どこから持ってきたのか、蝙蝠が器用にコップを差し出した。
「どこから持ってきたのですか?」
疑問のままに問えば、あっさり教えてもらえた。
『僕の家のものだよ。この眷属は体が小さいから、小さなものしか移動させられないけどね』
言われてみれば、我が家のものよりも高級そうなグラスだった。
昼食を過ぎても誰も呼びにこなければ、様子を見にくることもなく、食事が運ばれることもない。
吸血鬼は察したらしい。
わたしが水を飲み終えて空になったグラスを受け取り、仕舞うと、やはりどこからともなく果物や焼き菓子を取り出してサイドテーブルに並べていった。
『アデル、まだ食欲はない?』
「動きたく、ないです」
『じゃあ食べさせてあげる』
蝙蝠が葡萄を一粒持って、器用にベッドの上を移動する。
『この葡萄はね、種がなくて皮ごと食べられるんだよ。甘酸っぱくて凄く美味しいんだ』
どうぞ、と差し出されて口を開ければ、ころりと葡萄が一粒、口の中へ転がり込んでくる。
寝転がったまま食べるなんて行儀が悪い。
だが吸血鬼である蝙蝠は注意しない。
噛んだ葡萄は皮が弾け、瑞々しい果肉と甘酸っぱい味、葡萄の香りが広がっていく。
……多分、とても美味しいものなのだろう。
それなのに美味しいとは感じられなかった。
黙って咀嚼するわたしの横で、また蝙蝠がサイドテーブルから葡萄を一粒運んでくる。
そうして、わたしが口を開くのを辛抱強く待っている。
『どう? 食べられそう?』
飲み込んでも吐き気は感じなかった。
頷くと、はい、と次の葡萄が口元に差し出される。
本来ならば、使用人に傅かれて過ごしているはずの吸血鬼が、細々と小さな蝙蝠の姿で動いてわたしの世話をしている。
「面倒ではないですか」
蝙蝠が振り返る。
『むしろ楽しいよ、これ』
結局、葡萄は一房丸々食べてしまった。
茎だけになった葡萄に吸血鬼は喜んでいた。
『動きたくない時は僕が食べさせてあげるね』
そう言った柔らかな声は少し弾んでいた。
昼食代わりの葡萄を食べた後もベッドから動かず、うとうとと少しだけうたた寝をしながら過ごした。
その間、ずっと小さな蝙蝠がくっついている。
日が大分傾いた頃、蝙蝠が小さく羽ばたいた。
『この家の人間は不愉快だなあ』
そう呟くと蝙蝠は黒い霧となって姿を消した。
その直後、扉のほうから足音がした。
複数の足音で、扉越しにも聞こえてくるくらい慌てているのが窺えた。
そうして扉が少し強く叩かれる。
最初は無視していたが、音が止む気配はない。
仕方なく重い体を起こし、ベッドから立ち上がり、扉の鍵を開けた。それに気付いたのか静かになった。
扉を開ければ、廊下に両親がいた。
「お前、これはどういうことだ!?」
怒鳴るような父の第一声がうるさい。
「どう、とは?」
「ナイトレイ公爵家から手紙がきたのよ。公爵様の弟君が、あなたと婚約したがっている、と」
母の言葉に驚いた。
吸血鬼だと気付いていたけれど、彼が、現公爵の弟だとは知らなかった。
精々、公爵家の分家の者だろうと考えていたから予想外ではあったが、同時に納得もした。
わたしに不自由な暮らしはさせないと言ったのは冗談ではないらしい。
「お前のような者が、こんな上の方といつ知り合った?」
「ティナに打診がくるならともかく、あなたみたいな子が公爵の弟君の目に留まるなんて何かの間違いではなくって? まさかフィアロン侯爵令息と婚約していた間に、色目を使ったんじゃあ……」
責める口調にわたしは溜め息が漏れた。
「わたしをティナと一緒にしないでください。婚約中に不貞行為なんてしておりませんし、出会ったのは昨日です」
「昨日の今日でこんな話がくるわけないでしょう!」
「でも、実際に手紙が届いているではありませんか」
両親が押し黙る。
彼らにとっては信じられないのだろう。
だが、公爵家からの手紙を握り潰すことは出来ない。
「そのお話、お受けします」
両親が何故か非難の目を向けてくる。
それに気付かないふりをした。
「良かったですわ。このままでは、わたしは『妹に婚約者を寝取られた姉』としてまともに結婚出来ませんもの。それでは、気分が優れませんので失礼します」
両親が何かを言う前に扉を閉め、鍵をかける。
外から両親の騒ぐ声がするけれど無視した。
振り向くと、蝙蝠がパタパタと飛んでいる。
『早くアデルと婚約したいな』
蝙蝠が肩にとまる。
「公爵様の弟君だったのですね」
『あれ、言ってなかったっけ?』
「聞いておりません」
蝙蝠がすり寄ってくる。
『公爵家からの打診なら伯爵家も無視出来ないよね』
つまり全部分かっていて打診しているのだ。
両親の口振りからして、わたしを名指しした上で婚約の打診をしたのだろう。
もし伯爵家の娘とだけ書かれていたら、あの両親は絶対にティナのことだと考えたはずだ。
『明後日、楽しみにしててね。目一杯、かっこいい姿でアデルを迎えに行くから』
それにわたしは首を傾げた。
「吸血鬼様は十分素敵ですよ」
初めて出会った時も、その整った顔立ちに思わず身惚れてしまったし、長く艶やかな銀髪も、紅い瞳も、美しかった。
整った容姿をしていると御令嬢達から人気のあったフィアロン侯爵令息よりも、いや、わたしが今まで見てきた誰よりも整った容姿だった。
吸血鬼は見目が良いと聞いてはいたが、わたしは噂のこともあって最近はあまり社交をしていなかったのと、婚約者がいたため他の男性に興味もなかった。
吸血鬼という存在自体、身分の違いから、別の世界の者達のように感じていたというのもある。
「吸血鬼様?」
黙ってしまった蝙蝠に声をかければ、小さく羽ばたく。
『ああ、うん、何でもない。えっと、ありがとう』
すりすりと小さな蝙蝠に頬擦りされる。
そっと手を伸ばして、蝙蝠を撫でた。
『僕は、アデルのほうが綺麗だと思うよ。赤い髪も、濃い緑の瞳も、バラみたいで素敵だね』
「……ありがとうございます」
昔、お祖父様もそう褒めてくれたことを思い出す。
……よく綺麗な赤いバラをお祖父様は贈ってくれたわ。
その花をティナがすぐに欲しがって、大泣きされて、結局持っていかれてしまったのだが。
それでもお祖父様の気持ちが嬉しかった。
愛情が感じられて、あの頃はまだ、幸せだった。