吸血鬼への転化
そうして会場の片付けを使用人達に任せた後。
わたしは自室へ戻り、入浴を済ませていた。
結婚式は終わったというのに今日も隅々まで磨き上げられ、丹念にマッサージをされ、そして薄く化粧をされる。
「あら、化粧?」
「ええ、本日は初夜ですから」
と、さらりとメイドに返されて急に気恥ずかしくなった。
……ああ、そう、そうよね、結婚後の初めての夜だもの。
そういえば夜着もいつもの柔らかなものではなく、透けるほど薄い生地とレースのものだった。
その上にやや厚手のガウンをかけられて、少しホッとした。
髪ももう一度巻き直されてから、メイドに導かれて部屋を出る。廊下には人気が全くない。
ついて行った先はフィーの部屋だった。
……入るのは初めてだわ。
メイドが扉を叩き、中から返事があって、扉が開けられる。
小さく深呼吸をして室内へ入る。
背後で静かに扉が閉められた。
「アデル、こっちにおいで」
薄暗い室内の中、ベッドの縁に腰掛けたフィーが手招きをする。
明かりはサイドテーブルにあるランタンのみだが、それが結構明るいので、足元も見えている。
夜着が見えないようにガウンの前を合わせつつ近付けば、フィーが横を叩くので、並ぶようにベッドへ腰を下ろす。
「あ、ワインは飲める?」
「ええ、飲めるわ」
「じゃあ、これどうぞ」
目の前でグラスにワインが注がれて、手渡される。
受け取ったグラスに口をつける。
赤ワインは瑞々しい葡萄の香りと酸味、ほどよい甘み、そして最後に少し渋さを感じた。
次に差し出されたのはチョコレートだった。
ほろ苦いチョコレートは濃厚で、でも甘い。
「美味しいわ」
フィーが笑う。
「良かった。僕、このちょっと甘い赤ワインが一番好きなんだよね。白だと甘すぎるし、これ以上甘みのない赤は渋すぎるし。兄上には子供っぽいって言われるけどね」
「わたしも嗜みとして飲むことはあるけれど、赤の少し甘いくらいが好きよ。子供の頃は冬の夜にたまに飲むホットワインも好きだったわ」
「分かる! あれ、凄く体が温まるよね」
また差し出されたチョコレートを食べる。
フィーもグラスにワインを注ぐと飲み始めた。
「……初夜と言っても、すぐにするわけではないのね」
横から、ぐふっ、と咽せる音がした。
それに驚いたが、小さく咳き込むフィーの背中をすぐにさする。
けほ、と咳をしつつもこちらを見た紅い瞳は少し涙目だった。
「ア、アデルはすぐにしたかった……?」
そう訊かれて驚いた。
「え? いえ、そうではなくて、少し緊張していたから。その、わたし、恋愛もそうだけど、そういうことに疎くて。きちんと出来るかしらと思って……」
「一応訊くけど、閨の教育は?」
「どうしたら子供を授かるかは知っているわ。ただ、教えてくれた女家庭教師は『相手の男性に身を委ねてお任せするように』と言っていたわね」
フィーが黙ってしまった。
「ごめんなさい、きちんと学んだほうが良かったかしら?」
貴族にとって子を生すというのは大事な責務である。
それなのに、ほとんど知らないというのは問題だろう。
「あー、いや、うん、勉強はしなくていいよ」
咽せたせいか少し赤い顔でフィーが言う。
「それに、これから僕達の迎える初夜は普通の人間同士のものとは違うと思うし」
「そうなの?」
「多分ね。その話もしようと思って待ってたんだ」
フィーの手が、わたしの手から空になったグラスを取り、自身のグラスと共にサイドテーブルへ置く。
……その話って何かしら?
こちらへ顔を戻したフィーがわたしの手を握る。
「アデルの吸血鬼への転化は今日するよ。色々条件が必要なんだけど、初夜と共に行うのが一番効率的だからね」
ジッと見つめられて、頷き返す。
「分かったわ」
「転化したら、もう引き返せないよ?」
「結婚した時点でもう引き返せないでしょう?」
「そうだね、僕はアデルを逃してあげるつもりはない」
そのままギュッと抱き締められる。
薄着なので、触れたところから体温を感じた。
「吸血鬼への転化についてもう一度説明するね」
人間が吸血鬼へ転化すると、まず外見が変わる。
顔立ちなどは変わらないものの、髪は銀髪に、瞳は紅色へと変化する。
次に寿命が延び、人間よりも頑丈で健康な体を手に入れる。
ただ、眷属を生み出したり、翼を出して空を飛んだりは出来ないらしい。精々、練習しても少し火を灯したり風を吹かせたり、その程度の能力しか使えないだろうということだった。
「人間から転化した吸血鬼は混血種とはまた違うんだ。寿命だけなら僕達純血種と同じくらいになると思う」
ちなみに人間から吸血鬼になった者は転化者と呼ばれるらしい。
『種』ではなく『者』と表現されるのは、滅多にいないからだそうだ。それに自然に生まれる種ではないのもある。
「それから、転化方法なんだけど……」
転化方法は二つあるそうだ。
一つは、吸血行為による転化。
これは一度吸血により対象の体内の血を減らし、そこへ吸血鬼の魔力と呼ばれるものを注ぎ入れる。
魔力は吸血鬼の能力を使う源であり、それを人間に注ぎ込むことで、人間の体を吸血鬼のものへ作り替えるらしい。
もう一つは、吸血行為と体液による転化。
こちらも一度吸血により対象の体内の血を減らし、そこへ吸血鬼の魔力を注ぐ。
違いは、その後、更に魔力とは別に吸血鬼の体液を与えるかどうかということだった。
「この二つの転化だけど、大きな違いが一つあるんだ」
前者の吸血と魔力注入による転化は比較的簡単だが、この方法で転化した者は、転化させた吸血鬼に従属することとなってしまう。
対して、後者の吸血、魔力注入と体液を与える転化は少々手間はかかるものの、転化した者は、転化させた吸血鬼に従属することはない。
「だから後者の転化にしようと思うんだけど、いいかな?」
「ええ、もちろん。でも、一つ疑問があるわ」
「なぁに?」
この転化の方法、一つ問題がある。
「吸血鬼の掟では他者に血を分け与えるのは禁止されているのよね? そうだとしたら、体液を与えるのは難しいのではないかしら?」
それとも、別の方法で血を分け与えられるのか。
フィーがピタッと固まった。
その顔がまた赤く染まる。
「それは、その、これから僕と君は初夜を迎えるわけで、そういうことをすれば、僕の体液を、君に与えることが出来るわけで……」
どこか曖昧な言い方に首を傾げてしまう。
「まあ、そうなの? 血を飲むのとは違うということ?」
「それはそうだけど……。アデル、子供がどうやったら出来るかは知ってるってさっき言ってなかった? なんて習ったの?」
「愛し合って、女性が男性を受け入れればいいのよね? 男性にも女性にも子を生すための器官があって、女性の場合、男性の器官を受け入れると子供が出来ると習ったわ。夫婦以外で行うのは最低で、純潔を重んじる貴族の女性にはあるまじき行為とも聞いたわね」
だからティナが妊娠したと聞いた時は色々な意味で衝撃的だった。
夫婦でしかしてはいけない行為をティナ達は行い、子が出来た上に、それを理由に婚約破棄だなんてあまりにも酷く、妹と元婚約者の裏切りは最低であったと今ならハッキリ言える。
あの時は怒りよりも、裏切られた悲しみや未来を潰されたことで不安と恐怖を感じ、それで頭がいっぱいだった。
そっとフィーの手がわたしの頬に触れる。
「うーん、間違ってはないけど……」
フィーが苦笑した。
「言葉で説明するより、実際に経験したほうがいいかもね」
そう言って、口付けられる。
二度、三度と触れた後、唇が離れた。
そっと、促すようにベッドへ押し倒される。
しかしその手つきは優しくて、これからのことを怖いとは思わなかった。
「血を吸うよ」
優しく首筋を撫でられたので、噛みやすいように頭を傾けて首筋を晒せば、フィーがそこへ顔を寄せる。
ちゅ、と首筋に口付け、そして、がぷりと噛みつかれた。
肌に何かが突き刺さる鈍い痛みを感じたものの、それは一瞬で、すぐにくすぐったいような不思議な感覚がした。
血を吸われているからか指先から体が冷えていく。
ゴクリと嚥下する音がして、吸血鬼は本当に血を飲むのね、とどこか感動に近い心持ちだった。
しばらくの間、フィーはわたしの血を吸った。
手足は完全に冷え切った頃、首筋から顔を上げたフィーが、はあ、と熱い溜め息をこぼす。
「……どうしよ、アデルの血、凄く美味しい……」
少し掠れた声にドキリとする。
「ごめんね、血が減ったからつらいよね? 今度は魔力を注ぐから。……それが終わったら初夜にしよう」
小さく頷けば、また首筋に噛みつかれる。
そして、首から何かが体内へ入ってくる感覚があった。
熱いような、冷たいような、でも、やはり熱い。
熱が肩を通り、腕に通り、指先が温まっていく。
胸元から腰へ落ちていく感覚は、まるで何かに体の内側を撫でられているようで落ち着かない。
思わず身動いだわたしの肩をフィーが掴んで押さえつける。乱暴さはないものの、全く動けない。
その熱のせいか、頭がぼうっとして息が上がる。
注ぎ込まれた熱は全身を巡り、けれど行き場がなく、体の内側でモヤモヤと溜まっていった。
体調を崩して出る熱とは違う。
くすぐったくて、モヤモヤとして、熱くて、よく分からない寂しさと息苦しさを感じる。
何かが足りない。この熱をどうにかしたい。
フィーが首筋から口を離し、噛んだ場所をぺろりと舐める。
「っ、フィー、あついわ……」
ギュッとフィーにしがみつく。
「……大丈夫、全部僕に任せて」
ガウンにフィーの手がかけられる。
「アデルのこと、大事にするから」
……フィー……。
その後のことはよく覚えていない。
フィーから与えられる初めての感覚に、わたしはただただ翻弄されるしかなかった。
* * * * *
深夜、月が大分傾いた頃。
気絶するように眠った新妻を抱き締めたまま、イアンはその時を静かに待っていた。
最初に吸血し、魔力を与え、初夜を迎えた。
その体にこれでもかと言うほど愛を注いだつもりである。
吸血で大量の血を失ったアデルだが、魔力を注ぎ入れたことで酩酊状態になったようで、行為の最中は痛がることも苦しむこともなくイアンを受け入れてくれた。
……可愛かったなあ……。
出来ることならもっと愛し合いたい。
だが、これから体が吸血鬼へ転化する。
これ以上の無理は良くないだろうと我慢した。
転化が始まっても、見た目はまだ変わっていないが、その体内で大量の魔力がアデルの体を作り替えていることは感じ取れる。
眠っているアデルの様子からして苦痛はないのだろう。
規則正しく呼吸しているアデルの肌の色素が薄くなっていく。
鮮やかな赤い髪の色が、眉や睫毛の色が、段々と薄くなっていく様子は少し残念だった。
……アデルのこの赤い髪、好きなんだけど仕方ない。
幸い、アデルは髪を切る決心をしてくれたため、赤い髪は鬘として残る。
見たくなったら、アデルに鬘をつけてもらえば、また赤い髪のアデルに会えるだろう。
赤い髪の色素が抜けて銀髪へ変化する。
恐らく瞳の色も濃い緑から、吸血鬼特有の紅いものへと変わっていると思う。
アデルの体を変化させた魔力は、アデルの全身に均等に広がり、馴染んでいく。
……ちょっと魔力入れすぎちゃったかな?
行為の最中に魔力を流し込むとアデルの反応が良かったので、つい、いくらか余分に注ぎ入れてしまった。
魔力が多すぎても問題はないそうだ。
そっと、銀色になったアデルの頭を撫でる。
「……これでアデルも吸血鬼だね」
抱き寄せて、ごめんね、と囁く。
アデルには言わなかったが、行為によって体液を与え、転化させると二度と人間には戻れない。
吸血と魔力を注いだだけならば人間に戻す方法がある。
でも、体液まで与えてしまうと、魔力が完全に体に定着して、人間に戻れなくなる。
……ごめんね、アデル。君が思うほど僕は『良い人』じゃないんだ。卑怯で、最低で、臆病だ。
「僕は君を捨てたりなんてしないから」
眠るアデルに口付ける。
「どうか僕のことを捨てないで、アデル」
アデルを抱き締める。
肌と肌とが触れ合う感触と温もりが嬉しくて、切なくて、だけど罪悪感は湧かなかった。
イアンは吸血鬼である。
それも、始祖の血が濃く出た先祖返りだ。
……ああ、そっか……。
原初の吸血鬼とその妻がどうして永き眠りについたのか理解した。
長い長い時間を生きて、生きることに飽きてしまって。
それでも離れることだけは出来なくて。
愛しているからそばにいたい。
だから、二人で眠りについた。
誰にも邪魔されない二人だけの世界。
「ねえ、アデル、僕はきっと君しか愛せない」
アデルが吸血鬼へ転化すると決めた時、嬉しかった。
人間の生を捨てても良いと思うくらい、自分のことを愛してくれているのだと思えたから。
アデルは愛に飢えていた。
だからイアンは愛を与え続けた。
与えて、与えて、溺れるほどに浸してしまえば、きっと手の中に堕ちてくる。
その瞬間を待っていた。
アデルはそれに気付いた風ではあったが、それでも、最終的にはイアンの下に堕ちてきてくれた。
「……僕の可愛いアデル……」
これからも全力で愛すると誓うから。
「ずっと、僕の奥さんでいてね」
* * * * *