後悔はもう遅い
* * * * *
アデルとの結婚の準備は忙しい。
結婚式の日時と場所を決めて、式場に連絡を入れて場所の予約と司祭への依頼を行い、招待客を選び、文面を考え、招待状を書いて送る。
アデルは披露宴の準備を義姉上と進めているが、出す料理だけでなく、テーブルや会場の飾り付けを考えるなど色々と忙しいようだ。
最初は自分も参加したのだが、センスがないと義姉上に放り出された。
仕方ないので結婚祝いのお返しについては、こちらが選んで送ることにした。これは執事と兄と相談して決めた。
……結婚式の準備、舐めてたなあ。
予想以上に忙しくて、時間が空くのは夜くらいだ。
月が天上に輝く頃、公爵家の敷地内を歩く。
アデルは準備で疲れているのか最近は寝付きが良く、一度眠るとなかなか起きないし、発作回数も減った。
おかげで、やっと手がつけられる。
敷地内にある古びた建物に辿り着く。
古い石造りのそこは蔦で覆われており、基本的に人の出入りは禁止されている。
入っても良いのは公爵、つまり兄の許可を得た者だけだ。
特別な鍵で門を開け、中へ入り、門を閉める。
この場所は公爵家から離れており、朽ちかけているように見えるため、元より近付く者はいない。
鍵で今度は建物の扉を開く。
中へ入ると、少し埃っぽさを感じた。
石造りで飾り気など欠片もない屋内を一度見回し、それから、暗闇の中で歩き出す。
吸血鬼は夜目が利くので明かりがなくとも闇夜を動ける。
カツ、コツ、と足音が響く。
廊下を進み、扉を抜け、地下への階段を下りる。
そこそこ長い階段を下りて地下の牢屋に着く。
牢屋の廊下にはランタンがあり、明かりが灯っていた。
「やあ、元気?」
そこにある牢屋には二つの影があった。
一つはくすんだ銀灰色の髪に暗い、やはりくすんだ紅い瞳の混血種の男。
一つは老婆のような灰白の髪によどんだ色の瞳をした、若い人間の娘。
狭い牢屋の中で身を寄せ合っていた二つの影は、こちらを見て、慌てた様子で近付いてくると牢屋の鉄柵を掴んだ。
「これはどういうことですか!?」
叫んだのは混血種の男、デニス・フィアロンだった。
その横には男の婚約者のティナ・ウェルチがいる。
「ここから出して!!」
この二人は一週間ほど前からここにいる。
フィアロン侯爵家とウェルチ伯爵家は吸血鬼の掟を破り、その罰を受けることになっていた。
しかし、両家に条件を一つ、つけた。
罪を犯した本人達を除籍して身柄を引き渡せば、家への処罰は軽くする、と。
そして両家はあっさり二人を差し出した。
王家に引き渡された二人はそのまま、ここナイトレイ公爵家の罪人用の牢屋へ入れられた。
掟を、それも血を与え、飲ませたこの二人のことを王家も他の公爵家の吸血鬼達も許すつもりはない。
本来であれば鉱山での労役か処刑か。
どうするか決める際に自分が言ったのだ。
「あの二人、しばらく僕に貸してくれない?」
案外、あっさりとそれは通った。
元々この二人の件は自分も絡んでいる。
と言うより、こうなることを望んでいたし、父と母、兄にはこのことを話していた。
他の吸血鬼はこの二人を嫌悪していたので関わりたいとも思っていない。
どうせならアデルの苦しみを味わせてから、死ねばいい。
真夜中、アデルが眠っている間にこっそりこの二人の身柄を引き取り、ここへ放り込んだ。
「私達をどうするつもりですか!」
デニス・フィアロンの言葉に笑う。
「どうしようかな。君達はどうしてほしい?」
「え?」
デニス・フィアロンが驚いた様子でこちらを見る。
「ここから出してほしい? でも君達は罪人だよ? その首の枷は一生外せない罪人の証。あ、でも安心して。生まれた子はフィアロン侯爵家が引き取って、きちんと育ててくれるって。まあ、それが子供にとって良いことかは分からないけどね」
二人の首につけられた罪人の枷は誰にも外せない。
これをつけたまま外へ逃げたとしても、罪人である二人を助けてくれる者などいないだろう。
「もしここを出ても、野垂れ死にするしかないと思うよ」
首を指差してやれば、二人が自身の首に触れる。
重く大きな枷は隠しようもない。
「それより、ここなら最低限の食事もあるし、雨風もしのげるし、誰も君達に石を投げないし、責めたりしない。君達はもう除籍されたから家にも帰れないでしょ?」
「それは……」
デニス・フィアロンは分かっているのだろう。
言葉を濁し、手を握り締めて俯いた。
その横にいたティナ・ウェルチが叫ぶ。
「嘘よ! お父様もお母様も、お兄様だってきっと黙っていないわ! 今頃わたしを探しているはずよ!!」
「その君の家族が、君を捨てるって決めたんだけどね」
「そんなはずない!! だってわたしはみんなから愛されているもの!! 捨てられるはずがないわ!!」
頭を振り、鉄柵を揺さぶろうとするが、しっかりと造られた柵が動かせないからか、ティナ・ウェルチの体のほうが前後に動く。
そのティナ・ウェルチの肩をデニス・フィアロンが抱く。
「ティナ、落ち着け!」
「落ち着けですって!? こんな場所で、何日も同じ服で、まともな食事もないのに落ち着けと言うの!?」
「興奮すると子が流れてしまう!」
デニス・フィアロンの言葉にティナ・ウェルチが顔を上げた。
「だから何よ!? こんな状況で子を産んだって意味ないじゃない!! わたしは幸せになりたかっただけなのに!!」
「ティナ……!!」
「そもそも、お姉様のものでなくなったあなたなんてもうどうでもいいのよ!!」
ドン、とデニス・フィアロンが突き飛ばされる。
「ねえ、ナイトレイ様、わたしは可愛いでしょう? 春の妖精と言われたわたしのほうが、お姉様よりも!! ナイトレイ様ほどの方なら、きっと、誰もが『お似合いね』って言ってくれるわ!! こんなことになったのはあなたのせいなんだから責任を取ってよ!!」
「僕は君達のほうが『お似合い』だと思うよ。あと、前にも言ったけど『実行したのは君達自身の責任』で、君がそんな見た目になったことで僕を責めるのは筋違いだから」
手を振り、魔力で生み出した水鏡を宙に出現させる。
その水鏡をティナ・ウェルチへ向けた。
そこへ映された己の姿を見たティナ・ウェルチが半歩下がり「ぁ、あ、いや……」と弱々しく首を振る。
けれど、それは一瞬のことだけだ。
体を引き裂かれたような、耳を劈く悲鳴が響き渡る。
しかし、ここでの声や音などは建物の外まで響くことはない。
「ティナ! ティナ!!」
必死にデニス・フィアロンがティナ・ウェルチを抱き締めて落ち着かせようとするが、ティナ・ウェルチは狂乱した様子で叫び続けている。
それで腹の子が流れるのは勝手にすれば良いが、叫び声は不愉快であった。
「うるさいなあ」
影から眷属を生み出す。真っ黒な狼だ。
その狼がティナ・ウェルチの足に噛みついた。
叫びが悲鳴に変わり、そして止んだ。
「あ、ぁ、痛い、痛い……!!」
ティナ・ウェルチがボロボロと涙を流す。
デニス・フィアロンが急いで自身のシャツを破くと、ティナ・ウェルチの足の傷に巻きつけ、止血しようとする。
……ふぅん? こっちの愛は確かにあったんだ?
ティナ・ウェルチはどうだか知らないが、デニス・フィアロンはティナ・ウェルチを愛しているようだ。
そうでなければこんな状況の人間を手当てなどしないだろう。
……良いこと思いついちゃった。
「これから君達には掟を破った罰を与えるよ。僕の眷属が毎日、今みたいに君達に襲いかかる」
二人の顔色が悪くなる。
「待ってください! ティナは妊娠しています! そんなことをすれば流産してしまう!!」
「そうかもね。じゃあ、彼女の分まで君が受けるって言うなら、出産するまでティナ・ウェルチへの罰は控えてもいいよ? 君は混血種だから人間より体は頑丈だし、僕も君達を殺すつもりはないから、それでも構わないし」
手を汚すこと自体は構わないが、この二人の血で汚れた手でアデルを抱き締めたいとは思わない。
だからこの二人を殺す気は最初からなかった。
死んでしまえばそこで苦痛は終わりだ。
そんな簡単に苦痛から逃れさせはしない。
こちらの言葉にデニス・フィアロンが顔を強張らせた。
体が頑丈と言っても痛みを感じないわけではなく、しかしこれほど吸血鬼の血の薄い混血であれば、再生力は人より僅かに高い程度だろう。
ティナ・ウェルチの足をデニス・フィアロンが見る。
これでも眷属で噛みつかせた傷は浅いが、血を見れば、大抵の貴族は動揺する。
躊躇ったデニス・フィアロンにティナ・ウェルチが縋った。
「デニス様、頷いてくださるでしょう? わたしとお腹の子のためにも! 婚約を結んだあの日も『君を守る』とおっしゃってくださったではありませんか!!」
歪な笑みを浮かべて縋るティナ・ウェルチは、とてもじゃないがまともではない。
それにデニス・フィアロンも気付いているはずだ。
だが、デニス・フィアロンは唇を引き結ぶと、ティナ・ウェルチを一度抱き締め、体を離すと頷いた。
「それでティナを守れるなら」
「そう。じゃあ今日から罰を受けてもらおうかな。時間は、日が沈んでから昇るまで。ティナ・ウェルチの罰も君が受けるが、もし君が『もうやめてくれ』と言えばやめよう。そしてティナ・ウェルチが本来の罰を受ける」
……不愉快だな。
軽く手を振り、影を通じて眷属を生み出した。
成人男性よりもやや大きな狼が二匹。
牢屋の柵を通り抜けてデニス・フィアロンへ襲いかかる。
それにティナ・ウェルチが「ひっ……!?」と悲鳴を上げながら壁際まで後退った。
狼がデニス・フィアロンに噛みつき、爪を立て、硬い床へ引きずり倒す。
デニス・フィアロンは苦痛の呻きを漏らしたものの、やめてくれとは言わなかった。
もしもデニス・フィアロンがアデルを愛し、伯爵家からアデルを守っていたなら、このような結末にはならなかっただろう。
たとえ自分がアデルに一目惚れしたとしても、アデルが幸せならば身を引いた。
だが、そんな未来を不愉快だと思う自分もいる。
……アデルは僕の婚約者で、妻になる子だ。
その隣に他の誰かがいるなんて嫌だ。
「さあ、どっちが先に壊れるかな?」
もうここにいる必要はない。
あとは、毎晩こちらへ眷属を送ればいい。
眷属を通してこの二人の動向は分かるし、わざわざ自分が会いに来てまで見たい顔でもないし、何よりここに出入りしていることはアデルに知られないようにしなければ。
……そう、アデルは知らなくていい。
伯爵家や侯爵家と取引きしている商人に圧をかけたり、社交界で彼らと関わりのある家と意図的に距離を置いたり、じわじわと真綿で首を締めるように両家を苦しめていることは教える必要はないだろう。
やがて両家は満足に物が手に入らなくなり、人も離れ、社交界での力を失って落ちぶれるかもしれないが。
「アデルの前では『優しいフィー』でいないとね」
* * * * *
腕や足に漆黒の狼が噛みついている。
その鋭い牙からもたらされる激痛に呻きながらも、歯を食いしばり、手を握り締めた。
痛みは感じるものの、言われた通り、死に直結するような怪我ではなく、その怪我は苦痛を与えるためのものであることが窺えた。
深々と刺さった牙が、肌を切り裂く爪が、ぼやけそうになる意識を引き戻す。
……ティナ……。
視線を動かせば、牢屋の壁際まで逃げたティナが座り込み、こちらを凝視したままガタガタと震えている。
貴族の令嬢にとっては衝撃的な光景だろう。
……落ち着け、ティナ。腹の子に障る。
何とかそう言ったものの、痛みのせいで呻きにしかならず、ティナの肩がびくりと跳ねた。
「いや、いや、いやぁあああぁっ!!!」
頭を抱えてティナが叫ぶ。
錯乱と言うほどではないようだが、とても正常とは思えない声でティナが叫ぶ。
「デニス様、愛しているわ!! 愛しているから、愛しているなら、耐えてみせてよ!!? わたしを守ってよ!!?」
ティナ、と呼ぶ声が掠れる。
叫び声がうるさかったのか狼達がティナへ唸れば、ティナが悲鳴を上げながら壁に張り付いて泣き叫ぶ。
ここにいるのに「デニス様」と半狂乱で叫ぶ。
なんとか落ち着かせようと手を伸ばしたけれど、血で汚れていたせいか、それとも見えていないのか、ティナは泣き叫ぶばかりでこちらを見ようとしない。
……どこから間違えてしまったのか。
ただ、ティナを愛していた。
愛する者と幸せになりたかった。
たとえティナに騙されていたとしても、それでも本気でティナを愛し、大切にしたいと思い、何からも守ると誓った。
「お姉様が悪いのよ!! 全部全部ぜんぶ、お姉様のせいよ!! ぁああぁっ、お姉様が、お姉様がぁあぁっ!!?」
……ああ、そうだ……。
アデルが伯爵家の人々と関係が悪いことは知っていた。
婚約者であるのに、アデルを大切にしたことはなかった。
今、それがどれほど残酷なことだったか気が付いた。
……俺は、アデルを裏切った。
それも最低で最悪な方法で。
婚約破棄を告げたあの日、思い返せばアデルの声は震えていたというのに、あの時の自分はそんなことを気にしようともしなかった。
力尽きた手が床へ落ちる。
アデルを裏切ったのも自分の意思だ。
ティナに請われたとしても、吸血鬼の掟を破り、血を与えたのも自分の選択だ。
老婆のような白髪に、よどんだ瞳のティナがいる。
色彩を失っても、狂ってしまっても、愛している。
狼に噛みつかれて激痛に呻く。
……ティナ、俺の唯一……。
自分の選んだ道は間違っていたのだろうか。
* * * * *