フィー様とお祖父様と
* * * * *
「そういうことで、早く結婚したいんだ」
王城での夜会を終えた夜。
執務室を訪れた弟の言葉にマシューは溜め息が漏れた。
「アデル嬢はそれについて何と?」
「ドレスや装飾品を既製品にすれば早く出来るわ、だって!」
「そうか……」
頭が痛くなる。が、予想は出来ていた。
気紛れなところのある弟・イアンだが、意外なことに浮気性ではないのだ。
むしろ気に入ったものはいつまでも好きな性質である。
ここまでアデル・ウェルチ伯爵令嬢のことを気に入って、好きになっているのならば、結婚後も恐らく良好な関係を築けるだろう。
……だが、急ぎすぎではないか?
「一生に一度のことだぞ? もっと時間をかけて、より良い式にしたほうが良いのではないか?」
「うーん、それも考えたけど、今日の綺麗なアデルを見て思ったんだ。このままアデルが社交を続けたら、きっと、いろんな意味で余計な虫が近付いてくるよ」
だから、アデル嬢に虫がつく前に結婚したい、ということらしい。
「何より、吸血鬼に転化するのをアデルが頷いてくれたんだ」
「それは本当か?」
マシューは思わず訊き返してしまった。
アデル嬢はいまだに時折、発作が起きる。
弟はそれを止めているようだが、いつ、何が起こるか分からない。止めるのが遅れてアデル嬢が死んでしまう可能性もある。
しかし、吸血鬼になればそう簡単には死なない。
たとえ手首を切っても、首を括っても、死に至るのは難しいだろう。それほど吸血鬼は強靭な肉体を持っている。
「うん、本当だよ」
嬉しそうに言う弟の気持ちは分かった。
吸血鬼への転化を了承したということは、アデル嬢の中で『生きたい』と思う気持ちが強くなったのだろう。
それは喜ばしいし、望ましいことでもあった。
「……分かった」
アデル嬢の気が変わらないうちに結婚し、吸血鬼へ転化させ、肉体を強化して簡単には死なない体にする。
それが弟が今、望んでいることなのだろう。
「ドレスは既製品でも、出来る限り華やかになるよう手を入れさせ、装飾品はソニアと相談して公爵家のものを使用すればいい。場所は近くの教会を貸し切る。その後の披露宴は我が家で行えば良い。……招待状、衣装、装飾品、花、会場の飾り、用意するものもやらなければいけないことも山ほどあるぞ?」
「アデルのためなら望むところだよ」
そう答えた弟は嬉しそうだった。
* * * * *
「アデル嬢、イアンとの結婚の話だが、本当に急いでいいのか? 急げば二月か三月ほどで準備は出来る。しかし、規模は小さくなってしまうぞ?」
朝食の席で公爵様にそう問われた。
わたしはそれに頷き返す。
「はい、構いません。元より規模は小さくて良いと思っております。それに、フィー様と早く家族になりたいのです」
わたしはウェルチ伯爵家を、血の繋がった家族を失ったけれど、フィー様や公爵家の皆様がいてくれれば、それでいい。
……何より、わたし自身の気が変わらないうちに結婚したい。
わたしは弱いから、きっと、時間が経てば『本当に吸血鬼になってもいいのだろうか』と悩んでしまう。
卑怯かもしれないが、もう後戻り出来なくなってしまえば自分の気持ちを固められる。
フィー様とのことで迷いたくない。
だから早く結婚したほうがいいのだ。
「わたしは吸血鬼に転化します。フィー様と、ずっと、これから先も一緒にいたいのです」
「まあ……! 良かったわね、イアン」
公爵夫人は驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔を浮かべると嬉しそうにわたしとフィー様を見た。
公爵様もわたし達を見て、そして頷いた。
「今後はかなり忙しくはなるだろうが、困った時はソニアや私へ訊くと良い。それに使用人達も必要ならば好きに使ってくれ」
「ありがと、兄上」
「ありがとうございます」
……結婚式の準備って何をするのかしら?
内心で首を傾げていると、公爵夫人と目が合った。
「午後になったらイアンと一緒に私の書斎にいらしてね。結婚式の準備について教えるわ」
「はい、よろしくお願いいたします」
教えてもらえると分かって少しホッとする。
その後は穏やかに朝食を終えて、フィー様と共に、わたしの部屋へ戻る。
ちなみに公爵家に来てから、一度もフィー様の部屋に行ったことも、入ったこともない。
「アデルを部屋に入れたら色々、我慢出来なくなりそうだから。結婚したら好きなだけ入っていいよ」
と、いうことだった。
部屋に戻り、ソファーに二人で座る。
「……結婚したら、お祖父様のお墓にまた報告に行かないと。フィー様も一緒に来てくれる?」
抱き寄せられつつ訊けば、頷き返してくれた。
「もちろん」
それから、額に口付けられる。
「実は、アデルには話しておきたいことがあるんだ」
「あら、何かしら? フィー様の秘密?」
「僕自身の秘密ではないけど、アデルには秘密にしていたこと、かな」
ギュッと抱き締められる。
抱き締められているのはわたしなのに、何故か、一瞬、縋りつかれているような気分になった。
「僕ね、実はアデルの『お祖父様』……エドと友達だったんだ」
フィー様の言葉が頭の中で響く。
……お祖父様と、フィー様が、友達……?
驚いたけれど、でも、嘘だとは思えなかった。
フィー様の前でお祖父様の話はしているけれど、わたしは一度もお祖父様の名前を、それも愛称を言ったことはない。
お祖父様をエドワード・ウェルチをエドと呼べるのは、早くに亡くなったお祖母様と、お祖父様とかなり親しい友人だけだ。
昔、お祖父様がそう教えてくれた。
「お祖父様とはいつから友人付き合いをしていたの?」
わたしの質問にフィー様が眉を下げてこちらを見た。
「嘘だって思わない?」
「思わないわ。どちらも貴族だし、夜会か、男性の社交場で親しくなったの?」
「ふふ、アデルの予想は近いけど、残念。エドと僕が初めて会ったのは下町の小さな酒場なんだ。……昔はよく勝負に負けて酒を奢らされたなあ」
思い出したのか、懐かしそうな口調だった。
お祖父様は時折、ふらっとどこかに外出していた。
それは夜の時もあったし、昼の時でもあって、わたしが「どこに行っているの?」と訊いても「友人達に会いに行ってきたんだよ」としか言わなかった。
フィー様の話では、お祖父様はエドと名乗り、平民の服を着て、こっそり下町の酒場で酒を飲みながらトランプなどをして過ごしていたそうだ。
……ああ、そうね、確かに秘密だわ。
公爵家の、吸血鬼という貴い身分の者が下町の酒場で酒を飲んでいたこともそうだけれど、その人と酒代を賭けて遊んでいたなんて。
そうそう人に話せるようなことではない。
でも、きっとお祖父様は楽しかったのだろう。
お祖父様は貴族だからと言って傲るような人ではなかったし、むしろ、貴族という立場を少し窮屈に思っている人だった。
身分を気にせず過ごせる場所がほしかったのかもしれない。
フィー様の話すお祖父様は、わたしの知らないお祖父様でもあって、けれども、何となくお祖父様らしいと感じるものが多い。
下町の酒場にくるエドはちょっと頑固で気の良い男。
「途中から僕が勝つようになると悔しがって、でもすぐに嬉しそうに笑うんだ。それに孫馬鹿でね、アデルが生まれてからは多分、毎回、アデルのことを話していたよ」
「お祖父様が?」
「うん、笑うと大輪のバラみたいに綺麗な子だ〜ってね」
お祖父様はよくわたしを赤いバラに喩えてくれた。
それは髪や瞳の色の話だと思っていたけれど、お祖父様にとってはそれだけではなかったのかもしれない。
……だけど、確かに孫馬鹿ね。
会う度に友人に孫の話を語るなんて、呆れられても仕方ない。
「『私の可愛いアデル』」
ハッとした。
「エドはいつも、君のことをそう呼んでた」
目を閉じれば簡単に思い出せる。
普段は気難しそうに少し眉根を寄せていたお祖父様が、わたしを見ると目尻を下げて、小さく手招きをしながら「おいで、私の可愛いアデル」と呼ぶのだ。
お祖父様はティナにそう呼びかけることはなかった。
お祖父様がそう呼ぶのはわたしだけだった。
「だから本当のことを言うと、初めて君を見た時にすぐにエドの孫だって分かったんだ。色彩も雰囲気も似ていたから」
フィー様にそっと頭を撫でられる。
「どうして、最初に会った時にお祖父様の友人だって教えてくれなかったの?」
「……今更『君のお祖父様の友達です。君を助けてあげるよ』なんて言えないよ。エドが亡くなってから八年も経ってるのに……」
それにね、とフィー様が続ける。
「僕、昔、エドに『うちの孫を娶らないか』って言われたことがあるんだ」
「え?」
驚いて見上げれば、フィー様が苦笑している。
その目はしっかりとわたしを見つめていた。
……孫って、もしかしてわたし?
「エドの言う孫はもちろん、アデルのことだよ。でも、その時の僕はそれを冗談だと思って流したんだ。……エドは君の幸せを願っていたんだね」
フィー様は吸血鬼であることを隠していなかったらしい。
お祖父様は多分、地位が高くて伯爵家が手を出せない相手と結婚することで、わたしの扱いを変えたかったのだろう。
だから、フィー様にそんな話をした。
「ん? でも、お祖父様がフィー様に話をした時ってことは、少なくとも八年以上前のことよね?」
「うん、その話をされたのは婚約の話が出て旅行に行く前だから九年くらい前のことかな」
「まだ、わたしは九歳じゃない。……お祖父様ったら」
確かに、あの頃には既に両親も兄もティナばかり可愛がって、わたしのことは後回しだった。
お祖父様はわたしの将来を想ってくれていた。
……ずっと、ずっとそうだった。
お祖父様の愛はわたしが思っていたよりも大きかった。
「ごめんね」
フィー様の手がわたしの頬を撫でる。
「あの時、エドの話を流さないでちゃんと訊いていたら、アデルのことをもっと早く助け出せたんじゃないかって思って。……だから、ごめん」
額を合わせられて、紅い瞳が間近に迫る。
その瞳にはどこか後悔の色が滲んでいた。
少し顔を寄せてフィー様に口付けた。
「……フィー様が謝ることはないわ」
だって、当時のわたしは九歳だ。
吸血鬼のフィー様は恐らく今とさほど変わらないだろうし、成人のフィー様と九歳のわたしが婚約なんて、それこそ無理な話である。
「こうして、今、助けてくれたじゃない。それで十分よ」
「……そうかな?」
「そうよ」
そこでふと、疑問が湧いた。
「フィー様は、わたしがお祖父様の孫だから助けてくれて、婚約しようと思ったのかしら?」
ちょっと困ったように眉を下げたフィー様が微笑む。
「一目惚れは本当だよ。でも、エドはきっと僕自身より僕のことを分かっていたんだね。僕はアデルを好きになった。もしあの時エドの申し出を受け入れていたら、小さい頃のアデルも見られたのにって考えることはあるよ」
「……お祖父様が長生きしてくれていたらと思うわ」
「もしかしたら、あの時にはもう自分の命がそう長くはないってエドは気付いていたのかもね」
二人でお祖父様のことを思い出す。
「後で主治医から訊いたのだけれど、お祖父様は病のことを誰にも話さないように口止めしていたそうよ」
「エドって頑固って言うか、人に弱っているところを見せたがらない部分があったからなあ」
それに頷いた。
最後に顔を合わせた時も、病のことを悟らせてはくれなかった。
痩せたのも「運動を始めた」「太っていると恥ずかしい」と言っていたし、あれは病のせいだったと少し経ってから気付いたくらいだ。
「結婚式を挙げたら、また、ちゃんと報告に行こうね」
フィー様の言葉に頷く。
そこで、また別のことに気が付いた。
「この前、お墓に報告へ行った時に持ってきてくれたお酒って……」
「うん、エドが好きだった酒だよ」
「……ありがとう、フィー様。きっとお祖父様も喜んでいたと思うわ。お酒が好きだったから」
「そうだね、酒場でも浴びるほどエールを飲んでたしね」
思い出したのかフィー様が笑う。
わたしの知っているお祖父様は、椅子に腰掛けて、ゆっくりとお酒を嗜む人だったので、その言葉は少し意外だった。
「そんなに飲んでいたの?」
「おかげで、最初の頃は財布を空っぽにされたなあ。まあ、僕も何度かエドの財布を空にしたから、お互い様だけど」
そう言ったフィー様は嬉しげで、その声は柔らかくて優しいものだった。
フィー様にとっては良い思い出として残っているらしい。
……フィー様と一緒にお酒を飲むお祖父様、か。
そんな二人の姿を一度でいいから見てみたかった。
「あの日、僕はエドの墓に花を供えようと思って行ったんだ。……エドが僕達を引き合わせてくれたんだね」
……お祖父様……。
「アデルがあの時、死んでしまわないで良かった」
ギュッと抱き締められる。
「フィー様、止めてくれて、ありがとう」
「エドが僕を呼んだのかも。孫を死なせるものか〜ってね」
二人で顔を見合わせて笑う。
眉根を寄せて怒るお祖父様が想像出来てしまった。
「もっとお祖父様の話を聞かせて」
フィー様が頷く。
「僕も、アデルから見たエドの話が聞きたい」
それから、午後になるまでお祖父様の話をして過ごした。
フィー様にとってもお祖父様は大切な人だった。
「フィー様、お祖父様を覚えていてくれてありがとう」
きっと、お祖父様にとっても、フィー様は大事な友人であったに違いない。
だって「友人達と会ってきたんだよ」と話すお祖父様の表情は、とても穏やかで楽しげなものだったから。