血の繋がった他人
屋敷の中に入るけれど、出迎えはない。
わたしが出かけているのを知っていた者なんて、誰もいないのかもしれない。
自室へ歩いている間も誰とも会うことはなかった。
家中に明るい色合いの花が飾られている。
いつもよりどこか華やかで明るい雰囲気なのは、きっと、今日がティナの誕生日だからだろう。
……わたしの誕生日でもあるのに。
両親も兄も、使用人達も、ティナの誕生日を祝う。
わたしに「おめでとう」と声をかけてくれることがなくなったのは、いつからだったか、それももう覚えていない。
気付いたら誰からも言われなくなった。
病弱なティナが無事誕生日を迎えられたということが嬉しいのは分かる。
風邪ですら命取りになると医者に言われ、やりたいことも出来ず、ティナ自身も我慢することが多く、毎年誕生日を迎える度に両親や兄がホッとしているのも知っている。
噂を鵜呑みにした両親や兄達がわたしの誕生日を祝う気がないことも、嫌でも理解している。
それでも気にかけてほしかった。
ここ数年、わたしは誕生日の贈り物ももらっていない。
昔はそれでももう少し、わたしへの関心があった。
でも、お祖父様が死んで以降、誕生日の贈り物はなくなった。
思えば、それくらいの時期にティナが社交を行うようになり、わたしに関する悪い噂が立つようになった。
……ううん、本当は知っていたわ。
ティナがわたしを悪役に仕立て上げている。
だけど、わたしはティナを許していた。
体が弱いせいで毎日不味い薬を飲んで、庭を駆け回ることも出来なくて、季節の変わり目には体調を崩し、風邪一つが命に関わる。
それでも同じ時に生まれた片割れだから。
わたしの双子の妹だから。
苛立ちや不安を発散させるためにそうしているのかもしれないと思うと、どうしても怒ることが出来なかった。
ティナの命に比べたら物くらいどうということはない。
そう思えば、あの子の「欲しい」という我が儘も受け入れる他なかった。
ティナが大泣きして寝込めば周りから責められるというのもあったが、幼い頃はわたしだってティナを愛していた。
しかしティナはそうではないのだろう。
婚約者を寝取られて、ようやく気付くなんて愚かな話だと自嘲が漏れる。
自室に戻っても、メイド一人やってこない。
そもそもわたしには侍女がいない。
前はいたけれど、誰もが「ハズレを引いた」と言うので、望み通り侍女から外して、今は誰もそばに置いていない。
代わりにティナのそばにはいつだって侍女が数名いる。
わたしには交代でメイドがつくだけ。
それも呼ばなければ来ることはない。
……それもそうよね。
現伯爵夫妻からも、次期伯爵からも、愛想を尽かされたわたしに仕えたところで良いことなど何もないのだ。
明らかに愛されているティナに仕えるほうがいい。
ベッドへ寝転がり、目を閉じる。
……お祖父様……。
亡くなってからもう八年も経つのに恋しくなる。
あの優しい、慈愛に満ちた声を思い出す。
毎年、お祖父様はわたしの誕生日を祝ってくれた。
「私の可愛いアデル、誕生日おめでとう」
お前が生まれてきてくれて嬉しいよ、と大きな手がわたしの頭を撫でてくれた。
その温もりを思い出そうとして、ふと、自分の手を見つめた。
……あの吸血鬼様の手も大きくて温かかった。
今年の誕生日の特別なことは、きっとそれだけだ。
* * * * *
ゴンゴン、と乱暴なノックの音に目が覚める。
あのままうたた寝をしてしまったらしい。
ベッドから起き上がり、少し乱れてしまったドレスや髪を手で整えながら扉に向かう。
扉を開ければわたしが幼い頃からいる、古参のメイドが立っていた。
「夕食のお時間です。もう皆様揃っております」
どこか責めるような響きの言葉だった。
ティナの誕生日にわたしを呼ばなければいけないことへの不満か、それとも、皆を待たせているわたしへの不満か。
わたしの返事も聞かずにメイドは去っていった。
一度扉を閉めて、鏡の前で乱れがないか確認する。
……行きたくない。
でも、このまま行かなくても責められる。
どうせ行ったところでわたしの居場所なんてないのに。
部屋を出て、食堂へ向かう。
廊下に飾ってあるピンクや黄色、水色などの明るい色合いの花はティナには似合うだろうが、わたしには似合わない。
今、この屋敷を飾っているものは全てティナのため。
そう思うと胃の辺りがキリキリと痛む。
食堂に着き、扉を開ければ、両親と兄、ティナがいた。
「遅い」
父が言い、母と兄が非難の目をわたしへ向ける。
「お父様、怒らないで。お姉様もお忙しい身ですから」
ティナが可愛らしい声で言う。
それだけで両親と兄の表情が和らいだ。
「まったく、ティナは優し過ぎる」
兄が苦笑し、母が横に座るティナの頭を優しく撫でる。
「あなたは良い子に育ってくれて嬉しいわ」
それはわたしへの当てつけか。
いや、母は本気でそう思っているのだろう。
「……申し訳ありません」
わたしの謝罪なんてもう誰にも届いていない。
両親と兄とティナの四人が楽しげに話している。
出された料理はティナの好きなものばかりで、わたしの好きなものは一つもなく、食欲が湧かなかった。
「ティナも十八になり、結婚出来る年齢になったのか」
「しかもお相手はフィアロン侯爵令息ですものね」
「彼ならティナを任せてもいい」
両親と兄の言葉に吐き気がしてくる。
そのフィアロン侯爵令息はわたしと婚約しており、ティナとは浮気関係であり、ティナが寝取ったことは知っているはずなのに。
「まあ、順序が逆になったことは少々気にかかるが、ティナが幸せならそれでいい」
父の言葉にティナが気恥ずかしそうに微笑んだ。
「ごめんなさい。でも、嬉しいの。ここにデニス様とわたしのお子がいるなんて、夢みたい」
ティナが幸せそうに微笑みながら自身の腹部を撫でる。
わたしのことなんていないみたいに、わたしとフィアロン侯爵令息との婚約などなかったように、誰もが振る舞う。
……ああ、やっぱり、そうなのね。
この人達にとって、わたしは家族ではないのだ。
この人達は血の繋がった他人なのだ。
吐き気が抑えられなくなって席を立つ。
食事は一口も手をつけられなかったが、わたしが席を立っても、誰も何も言わなかった。
食堂を出て自室へ戻る。
どうせ、今年も誕生日の贈り物はないのだろう。
お祖父様が亡くなってから、両親も兄も、わたしの誕生日の贈り物を考えることをやめてしまった。
いつも執事が「欲しいものがございますか」と訊いてくる。
でも、ここ数年は訊かれることもなくなった。
最初は気にかけてほしくて「何もいらない」と答えていたが、両親も兄も、わたしを気にかけてくれることはなかった。
それにもらってもティナに欲しがられるだけだ。
毎年「いらない」と答えているうちに質問すらされなくなり、今では、誕生日はただ不愉快さを我慢するだけの日に変わった。
自室に戻っても部屋は暗いままだった。
燭台に火をつける気力も起きない。
食事から遠ざかったからか吐き気は治っていた。
開けっぱなしのカーテンの間から、月明かりが差し込んで、室内をうっすらと照らしている。
……やっぱり今日死のう。
今日はわたしの誕生日であり、ティナの誕生日でもある。
今日死ねば、少しはティナや家族への当てつけになるかもしれない。
何をしたところで悪く言われるのなら、いっそ、本当に悪いことをしてしまっても良いのではないか。
ベッドの飾り紐に手を伸ばす。
そこそこ太くて、頑丈で、長さもある。
ベッドからそれを外し、解けないようにしっかりと結んで片方に頭が通るくらいの輪を作る。
バルコニーへ出て、紐の輪になっていないもう片方をぐるぐると柵へ括りつけた。
そうして輪に頭を通して紐を首にかける。
……あとは飛び降りるだけ。
痛いかもしれない。苦しいかもしれない。
でも、それは一瞬のことだ。
この先の人生に待ち受ける苦痛に比べたら、一瞬の苦痛なんて恐ろしくない。
バルコニーの柵に手をかけた瞬間、目の前に何かが飛び出してきた。
『うわ、待って待って〜!!』
それは掌に乗るくらいの小さな黒い蝙蝠だった。
わたしの目線に合わせるように、その蝙蝠が空中でぱたぱたと羽ばたいて、飛び降りようとしたわたしの邪魔をする。
『ああ、ビックリした。少し目を離した隙に死のうとするなんて、アデルは行動力があるね』
蝙蝠から聞こえてくる声に驚いた。
男性にしては少し高くて、柔らかい、お祖父様のお墓で出会ったあの吸血鬼の声だとすぐに分かった。
まさか蝙蝠が喋ると思わなくて、まじまじと見てしまう。
小さな蝙蝠はわたしの肩へと着地した。
「あなたは、夕方の……」
『そう、フィーだよ。覚えていてくれて嬉しい』
蝙蝠がわたしの頬にすり寄ってくる。
「吸血鬼様はこんな能力もあるんですね。どんな動物も使役出来るのですか?」
『多分、アデルの考えている使役とは違うかな。この蝙蝠はあくまで僕の一部だよ。吸血鬼は自分の体から眷属を生み出し、それを使って遠くのものを見聞きすることが出来る。この蝙蝠は本物ではないんだよ』
「そうなんですね」
そっと蝙蝠の頭に触れると、温かかった。
体温があるのに本物ではないなんて不思議だった。
そのまま何となく蝙蝠の頭を指で撫でると、甘えるように頭をこすりつけてくるのが少し可愛かった。
『アデル、つらかったね』
吸血鬼様の柔らかな声がする。
『心配で君の影にこの蝙蝠を潜ませていたんだけど、何あのクソ野郎ども。君のことをずっと無視して、とても家族とは思えないね』
夕方に出会った吸血鬼の姿を思い出して「くそやろう……」とその言葉を復唱してしまう。
あんなに整った美しい外見なのに意外と口が悪いらしい。
わたしが真似をしたからか、蝙蝠が慌てたように羽を動かした。
『あ、こらこら、アデルはそんな汚い言葉使っちゃダメだよ』
「あなたはいいんですか?」
『僕はいいの。それより、アデル、君はいつもあんな風に扱われているのかい?』
話題を変えるように訊き返されて頷いた。
「はい、あれがいつも通りです」
『……君がこの家でどう扱われているか訊いてもいい?』
わたしはバルコニーの柵に座った。
首に縄がかかったままなので、後ろへ倒れるだけで首を吊って死ねるだろう。
だけど、今は、少しだけ死ぬのは後にしようと思えた。
本当は誰かに話したかったのかもしれない。
わたしがどれほど苦しんでいるのか。
わたしがどれほど悲しかったのか。
聞いてほしかった。
今日、婚約破棄されたことに始まり、双子の妹ティナのこと、ティナの我が儘のこと、噂のこと、両親や兄や使用人達のこと、亡くなったお祖父様だけが唯一わたしを愛してくれたこと。
かいつまんで話したつもりだけど、気付けば、最初に見た時よりもだいぶ月が傾いていた。
話してる間、吸血鬼は一度もわたしの言葉を否定せず、丁寧に相槌を打って聞いてくれた。
話を終えた後、吸血鬼は言った。
『やっぱりクソじゃん。君の家族も、その元婚約者も。むしろそんな最低な奴と結婚しなくて良かったね』
不思議とその言葉はストンとわたしの中に入った。
……そう、そうね、これで良かったのかも。
爵位が上で、吸血鬼の血を引いていて、見目が良くても、婚約者の妹に手を出すような男だ。
ティナが相手でなかったとしても、いずれは浮気していただろうし、結婚後に不倫されるくらいなら別れたほうがいい。
少しだけ心が軽くなる。
「……そうですね」
愛されないまま結婚して嘆くよりずっといい。
「でも、わたしはもうまともな結婚は出来ないでしょう」
蝙蝠がわたしの頬に体を寄せる。
『心配しないで、アデル。僕が迎えに行くよ』
「え? 迎えって……。どういう意味ですか?」
蝙蝠を見れば、つぶらな紅い瞳に見つめ返される。
……あ、同じ色だ……。
夕方に出会ったあの吸血鬼の瞳と同じ鮮烈な紅は、月明かりの下でも綺麗だった。
『あの時言ったのは嘘じゃないよ』
蝙蝠が飛び、目の前でぐにゃりと歪む。
それは一瞬で、蝙蝠の体が黒い霧のように広がると、バルコニーの柵に座るわたしの前に人影が現れた。
艶やかな長い銀髪に紅い瞳をもつ美しい吸血鬼。
「君の人生を僕にちょうだい」
跪いた吸血鬼がわたしの手を取り、甲に口付ける。
「ねえ、アデル、僕と結婚して?」
わたしを見上げ、吸血鬼が美しく微笑んだ。
「わたしは、社交界で悪い噂があります」
すぐに「はい」と答えられないなんて可愛くないだろう。
けれど、吸血鬼は目を瞬かせて小首を傾げた。
「そうなの? どんな噂?」
「『病弱な双子の妹を虐げる姉』と言われています」
「何それ、さっきの見た限りじゃあ『家族から冷遇されている可哀想な御令嬢』だと思うけど。みんな見る目ないね」
呆れた様子で吸血鬼は言う。
だが、すぐに吸血鬼はわたしの手を優しく握った。
「僕は浮気なんて大嫌いだし、そういうこと出来るほど多分器用じゃないし、それなりに地位は高いからアデルに不自由な暮らしなんてさせないよ。アデルが望んでくれるなら、この家から出て僕と一緒にいてほしい」
……本当に信じてもいいのだろうか。
わたしも、この家から出たいと思っている。
ずっとそう思っていた。
血が繋がっているからと言って愛情をもらえるとは限らないし、家族だから、何をしても許されるわけではない。
わたしだって愛してほしかった。
ティナを呼ぶように、わたしの名前も愛おしげに呼んで、抱き締めてほしかった。
ただ普通のことを求めていただけなのに、それすらなくて、苦しくて、悲しくて、つらくて、寂しくて、腹立たしくて。それでも愛して欲しくて。
だけどもう、諦めているわたしもいた。
「わたしのこと、捨てませんか?」
「捨てないよ」
吸血鬼は即答した。
「こう見えて僕は一途なんだ」
跪いたまま胸を張る姿が少しおかしかった。
あ、と吸血鬼がわたしを見上げてくる。
「でも、僕を愛する努力は少しだけ、してほしいかも」
……正直な人だ。
だからか、わたしも正直に言えた。
「わたしは弱いです。今みたいに、死にたい、消えたいと思うことがあります。そして、死のうとするでしょう」
「ごめんね、僕はそれを止めるよ。アデルには僕のそばにいてほしいから、僕の我が儘で、君を生かす」
我が儘と言われたのに全く嫌な気分にはならなかった。
ティナの我が儘と、この吸血鬼の我が儘は違う。
目を閉じてもう一度考える。
……お祖父様、この人を信じてもいいですか?
「僕の可愛いアデル、僕と結婚してください」
ハッと目を開ければ、吸血鬼が微笑んでいる。
……その呼び方はお祖父様と同じ……。
返事をする前にポンッと軽い音がして、吸血鬼の姿が小さな黒い蝙蝠に戻ってしまった。
『あ〜……』と蝙蝠が残念そうな声を漏らした。
『これだと小さすぎて長く姿を保っていられないんだ』
また、蝙蝠が肩にとまる。
「吸血鬼様」
『うん?』
「この家から連れ出してください」
結婚の了承というには曖昧な言葉だった。
信じたい気持ちと信じられない気持ちとがせめぎ合って、わたし自身もどうしたいのか分からなかったけれど、この正直な吸血鬼と話す時間は心穏やかになれる。
吸血鬼が微かに笑う気配がした。
『喜んで。三日後、迎えに行くよ』
たとえ嘘だったとしても、その言葉が嬉しかった。