さよならを告げる(1)
お茶会から二週間後。
今夜、王城で王家主催の舞踏会が開かれる。
そのために午後からはフィー様と別々に過ごし、夜会に向かう時間いっぱいまで使って身支度を整えた。
入浴し、全身を揉んで浮腫を落とし、丁寧に髪や体を洗われて、全身に香油を塗り込まれて髪も肌も艶々だ。
しかも入浴後はたっぷりの化粧水やクリームを使って顔をマッサージしつつ、爪の形を整え、磨いてもらう。
小休憩を挟んだ後、ドレスを着る。
鮮やかな緑色のドレスだ。
フィー様がよくわたしを「赤いバラみたい」と言うので、最近はもっぱら緑系のドレスを着ている。
今回の夜会のドレスもフィー様が「緑色で合わせて行こうよ」と言ったため、緑色のドレスになった。
装飾品は髪の色に合わせてルビーだ。
髪を丁寧に梳られて、いつもよりきっちり巻かれる。
側頭部の髪は細い三つ編みにして後ろでまとめ、まとめた部分に髪飾りがつけられる。
元々気の強そうな顔立ちなので化粧は薄く。
全てを終えた頃には窓の外は夕暮れになっていた。
「よくお似合いです」
全てをやり切ったという顔でメイド達が言う。
普段は最低限の化粧で、場合によっては化粧をしない時もあるため、こうして化粧をすると少し大人っぽく見える。
「ありがとう。なんだかいつもより大人っぽく見えて素敵だわ。これからはもっとお化粧をしようかしら……」
「きっとイアン様はお喜びになられると思います」
そんな話をしていると部屋の扉が叩かれた。
メイドの一人が応対し、すぐにフィー様が顔を覗かせた。
「アデル、準備は終わった……」
振り向けば、フィー様が目を丸くする。
そして、やや大股で近付いてきて、座っているわたしの目の前で立ち止まると、フィー様の手がそっとわたしの頬に触れる。
「アデル、君は普段も美人だけど、今日はより綺麗だよ」
「フィー様も、格好良くてとても素敵よ」
入ってきたフィー様も夜会用の、普段よりも華やかな装いをしており、落ち着いた暗い緑色の服は一目でわたしと揃えているのだと分かる。
普段は下ろしている長い銀髪も今日は結い上げられており、整った顔がよく見える。
「嬉しいな。こんな綺麗なアデルを『僕の婚約者です』ってみんなに紹介出来るなんて、僕は幸せ者だよ」
スッと顔が近付いてくる。
あ、と思った時には口付けをされていた。
「フィー様、口紅が移ってしまうわ」
「うん? ……あ、本当だ」
自身の唇に触れたフィー様が明るく笑う。
即座にメイドによって化粧直しがされた。
フィー様の唇についた口紅については落とさなかった。
「夜会の最中はアデルと口付け出来ないから、これで我慢するよ」
と、言うことだった。
……たまにフィー様は意味の分からないことを言うわ。
そうして、公爵様と公爵夫人の支度も整い、公爵夫妻とわたし達は別々に二台の馬車で王城へ向かうことになった。
* * * * *
王城に着き、一度控え室へ通される。
そこで少し待って、時間になると舞踏の間へ案内された。
……きっとお茶会の時より大勢の人がわたしに注目するわね。
銀髪に紅い瞳の公爵家の中に、わたしだけ、色違いが混じっているのだ。目立たないはずがない。
王城の舞踏会など、デビュタント以来である。
緊張しているとギュッと手を握られた。
フィー様を見上げれば微笑みが向けられる。
「アデル、君は綺麗な赤いバラだよ。特に今日は一段と美しくて、まるで大輪のバラみたいだ。誰も君を笑ったりなんて出来ないよ。それでも、どうしても緊張するなら僕だけを見て?」
「フィー様だけを見ていたら挨拶が出来ないわ」
ふふ、と笑いが漏れた。
フィー様も笑い、緊張が解れていく。
公爵様と公爵夫人、フィー様、そしてわたしの名前が呼ばれる。入場の合図である。
背筋を伸ばし、しっかりと前を向いた。
……わたしが俯く必要はない。
公爵夫妻に続いてフィー様と共に舞踏の間に入る。
周囲から突き刺さるような視線を一気に浴びたけれど、わたしは意識して笑みを浮かべた。
そこからは挨拶回りとなり、王族はもちろんのこと、他の公爵家の方々やナイトレイ公爵家と繋がりの深い家へ声をかける公爵夫妻にくっついて回る。
両陛下はわたし達の婚約に言及して「おめでとう」と祝福してくれたおかげもあってか、表向き、わたし達の婚約を否定する者はいなかった。
他の公爵家の方々は、多少癖の強い部分もあったけれど、基本的には穏やかで、話している間も和やかな雰囲気であった。
しかし、それはフィー様の婚約者だからだろう。
吸血鬼は数が少ない分、身内を大事にするそうだ。
だから今まで全く浮いた話のなかったフィー様が、やっと好きな相手を見つけて、しかも婚約出来たことが嬉しいらしい。
婚約について祝福の言葉を沢山かけてもらった。
中には「いつ同族になるのか」という問いかけもあって、余計にわたしはそれを考えさせられた。
フィー様は「急いでいないから」とやんわり受け流してくれたけれど、いつまでも先送りには出来ないことである。
挨拶の後、わたし達はテラスで少し休むことにした。
夜会はお茶会よりも人が多く、久しぶりの社交と人の多さに酔ってしまったのだ。
「アデル、大丈夫?」
フィー様が心配そうに覗き込んでくる。
「ええ、大丈夫よ。ごめんなさい」
「アデルが謝ることじゃないよ。久しぶりに大勢と話して疲れちゃったんじゃない? 飲み物、取ってくるよ」
「いえ、いいわ。……ここにいて」
飲み物を取りに行こうとしたフィー様の袖を掴んで引き留めてしまった。
フィー様はふわっと微笑むとわたしの手を取り、テラスの柵の縁に座った。
同じように横に座るとフィー様がわたしにくっつき、落ちないように腰を支えられる。
身を寄せるとフィー様の機嫌の良さそうな声がする。
「みんな、僕とアデルのことを祝ってくれたね」
「そうね、反対されなくて良かったわ」
「もし反対されても僕は諦めないけどね」
ギュッと腰に回る手に力がこもる。
「フィー様、わたし、ずっと考えていたの」
「何を?」
優しい声で訊き返される。
……この声が好き。触れる手の優しさが好き。
細身に見えるのに実は力が強いところも、黙っていれば麗しい紳士に見えるのに中身はちょっと子供っぽいところも、子供みたいに無邪気に笑うところも。
毎日のように気持ちを伝えてくれるところも。
まるでお日様みたいに温かい。
「吸血鬼に転化するかどうか」
この一週間、ずっと悩んだ。
悩んだけれど、でも、おかげで決心することが出来た。
……フランは正しかったわ。
「わたし、吸血鬼になるわ」
「……本当に?」
囁くような声で訊かれ、頷いた。
「本当に。色々考えたのだけれど、『死にたい』『消えたい』って気持ちよりも『フィー様の隣にわたし以外の女性がいつか立つかもしれない』と想像するだけで嫌だって気持ちの方が強かったの。……フィー様の隣はわたしだけがいい、なんて我が儘かしら?」
フィー様に抱き寄せられる。
「我が儘なんかじゃないよ。ううん、もし誰かがそれを我が儘だって言ったとしても、僕にとっては我が儘じゃない」
耳元で囁かれる。
「君が望めば、僕が叶える」
初めてその言葉を言われた時からまだ二月も経っていないのに、まるでもう何年も前のことのような懐かしさを覚えた。
フィー様の言葉に嘘はなかった。
わたしの望みはフィー様が叶えてくれた。
あの伯爵家から逃げられた。
公爵家では公爵夫妻も、使用人達も優しく、フランセット様やヴァレール様も仲良くしてくれて初めての友人が出来て、いつだってフィー様はわたしの声に応えてくれた。
「……これからも共に生きてくれる?」
恐る恐る訊かれて頷いた。
「フィー様に嫌われない限り、ずっと一緒にいるわ」
「僕がアデルを嫌うなんてないよ。今だって、こんなに好きでたまらないのに……」
そっと片手を取られて、その手をフィー様の首筋に当てられる。
触れた首筋からドキドキと早く脈打つ鼓動が感じられた。
だから、わたしもフィー様の手をわたしの首に当てた。
フィー様が、ふふ、と小さく笑う。
「アデルもドキドキしてるね」
首筋に触れていた手が顎へ移動する。
そのまま顎を持ち上げられ、フィー様の顔が降りてくる。
「口紅が取れてしまうわ……」
紅い瞳が柔らかく細められる。
「ごめんね。我慢するつもりだったけど、アデルがあんまり可愛いから、やっぱり我慢出来なくなっちゃった」
口付けられて、そっとフィー様の唇が離れる。
その頬に触れて今度はわたしからも口付ける。
「……一度取れてしまったら、何回しても同じだわ」
我ながら可愛くない言い方だと思う。
……もっと、もっと口付けて欲しい。
顔を近付け、けれど、また自分からするのは少し気恥ずかしくて顔を離すと、追いかけるように顔を寄せたフィー様に口付けられる。
呼吸をするように何度も口付ける。
つい、場所も忘れてうっとりしてしまう。
顔を離したフィー様にまた抱き寄せられた。
「アデルの今の顔、誰にも見せたくない」
しばらくの間、わたし達はテラスで過ごしたのだった。
* * * * *
その後、化粧を直した後に舞踏の間へ戻った。
そうしてすぐに声をかけられた。
「アデル、久しぶりね」
振り返れば、見覚えのある顔がいた。
「……リシェ伯爵令嬢」
「やだ、昔みたいにアルメルって呼んでちょうだい、アデル」
優しく、親友に話しかけるような声にゾッとする。
アルメル・リシェ伯爵令嬢は元はわたしの友人であったが、あっさりとティナの言葉を信じてわたしを一番最初に糾弾した人物でもあった。
その時の言葉を今でも覚えている。
「わたしのような『高慢で気の強い、相手の気持ちを考えない令嬢』とは仲良くしたくなかったのでは? それと、わたしのことはウェルチ伯爵令嬢と呼んでくださる?」
一番仲が良いと思っていたのに、裏切られた。
「……ごめんなさい、ウェルチ伯爵令嬢。私達、騙されていたの。まさかティナが嘘を吐いていたなんて知らなかったの。それにフィアロン侯爵令息とのことも……。もし知っていたら、私……」
震える声で俯くリシェ伯爵令嬢。
その周りにいる令嬢達も目を伏せている。
それが馬鹿馬鹿しくて溜め息が漏れた。
……幸せな気分が台無しだわ。
「ティナを諫めた、と? あなた方がティナとフィアロン侯爵令息の関係を『引き裂かれた真実の愛』と言って応援していたことなら知っているわよ」
ハッと令嬢達が顔を上げた。
まっすぐに見つめ返せば、彼女達はたじろいだ。
こういう時は気の強そうな顔立ちで良かったと思う。
もしティナのような儚げな容姿であれば、舐められていただろう。
「それは、だから、そう、あなたの噂が嘘だと知っていたら応援なんてしなかったわ……!」
「知っていても普通は止めるのではなくって? 結局、あなた方は偽りの正義に酔っていただけでしょう? 友人だったわたしの言葉よりもティナの言葉を信じた」
「だってティナが泣いたから……!」
その言葉に頭が痛くなる。
みんな二言目には「ティナが泣いた」と言う。
「貴族の令嬢が所構わず人前で泣くなんて、本来であれば恥ずかしいことではありませんか。それを注意もせず、擁護するようなことをするからあの子が調子に乗ったのよ」
「……っ、私達だって騙されたのよっ?」
「そうだとしても、わたしの話を聞こうともせずに裏切ったあなた達なんてもう信用出来ないし、顔も見たくないわ」
唖然とした様子のリシェ伯爵令嬢達に笑ってしまう。
両親や兄と一緒だ。
わたしを下に見て、都合の良いことしか考えていない。
フィー様に横から抱き寄せられる。
「行こう、アデル。こんなくだらない話、どうでもいいよ」
それに頷き返す。
「そうね。それでは皆様、ご機嫌よう」
引き留められる前にフィー様とその場を離れる。
フィー様が歩きながら言った。
「顔は覚えたから、後であの御令嬢達の家名を教えてもらえる? 兄上と義姉上に伝えて今後も付き合いを検討してもらわないと」
「あら、社交の繋がりをこんなことで絶っていいの?」
「旗色が悪くなったからってすぐに掌を返すような人間、信用出来ないからいいんだよ」
歩いていると、また後ろから名前を呼ばれた。
「アデル!」
声を聞いただけで、それが誰なのか嫌でも分かった。
深い溜め息を吐いてしまう。
フィー様に目で「無視する?」と問われたが、後ろからまた名前を呼ばれて、これ以上無視することは出来なかった。
いくら楽団がいると言っても人の声は響くものだ。
せっかく王家専属の楽団が美しい音楽を奏でてくれているというのに、それを遮るように大きな声で呼ばないでほしい。
人々の視線が集まるのを感じる。
仕方なく立ち止まって、振り返った。
「何の御用でしょうか、ウェルチ伯爵令息」
そこにはウェルチ伯爵夫妻と兄がいた。
わたしの言葉に何故か兄は傷付いた顔をして、痛みに耐えるようにグッと唇を一瞬噛み締めた後に微笑んだ。
「アデル、元気そうで何よりだ」
極力、柔らかな笑みを意識したのだろう。