兄と弟 / 君に触れたい
* * * * *
マシュー=ハロルド・ナイトレイは二通の手紙を差し出した。
真夜中の執務室、机を挟んだ向かいには弟、イアン=フェリクス・ナイトレイがいる。
手紙を受け取った弟が、既に封が切ってあるそれから便箋を取り出し、素早く内容に目を通した。
「まあ、そうなるよね」
計画通りと言いたげな顔だった。
それにマシューは小さく溜め息を吐く。
外見で言えば、マシューのほうが冷淡だとか腹黒いとか、そのように見られることが多いのだが、実際は弟のほうがその性質が強い。
先祖返りで吸血鬼の性質が濃く出ている。
それ故に、昔は次代の王になるべきだと言われたこともあった弟だが、本人が「そんなの興味ない」と首を振ったため、現在は公爵家のマシューの下にいる。
マシューは二百年ほど歳の離れたこの弟が心配だった。
昔から勉強嫌いで、とにかく遊ぶことが好きで、見目の良さから貴族の令嬢達に熱い視線を向けられても全く気にせず、二百歳を過ぎても浮いた噂の一つもなく、いつも同性の人間の友人達と酒を飲みながらトランプで遊んだり遠乗りに行ったり、とにかく幼い部分が強かった。
少しでも恋愛話をしようものなら「僕にはまだ早いよ」と嫌そうな顔をして、バルセ侯爵令嬢との婚約の話が出た際も気付いた時には『旅行』という名目で他国に逃げていた。
しかも、旅行が楽しかったのか九年も戻ってこなかった。
このまま弟はずっと独り身でいる気なのでは。
政略とは言え、結婚し、妻が出来て、マシューは誰かを愛し、愛されることの幸せを知った。
弟のことは家族として大切に思っているので、弟にも愛し愛される良き相手を見つけてほしかった。
……無理強いするのは良くないとは思っていたが。
まさか逃げるとは思っていなかった。
仕方なく好きにさせていたが、帰ってくると弟は荷物を置いてすぐに出かけていき、帰ってくると「結婚したい相手がいる」と言い出した。
一瞬、冗談かと疑ったものの、この手の話が嫌いな弟がそのようなことを言うはずもない。
よくよく聞けば結婚自体を嫌がっていたのではなく、単に好きな相手がいなかったから嫌がっていただけであった。
そうして弟が選び、公爵家に迎え入れたのがアデル・ウェルチ伯爵令嬢だった。
アデル嬢については身辺調査をしたものの、彼女の周囲に問題はあるが、彼女自身には何も瑕疵はない。
伯爵家というのもさほど身分が低すぎるというほどではなく、弟が言うように、燃えるような赤い髪の美しい、凛とした雰囲気の娘である。
だが、長年家族に冷遇され続け、友人もなく、かなり精神的に弱っているらしい。
マシュー達の前では普通にしているものの、時折、発作が起きるように自殺しようとするそうだ。
弟が常にアデル嬢の影に眷属を潜ませていると聞いた時は、少し過剰ではと感じたが、弟からの報告を何度か聞くうちにそれも消えた。
発作は人目がなくなると起こるらしく、真夜中に突然死のうとすることがあり、そういう時、眷属でなければ止められないのだと言う。
確かに、婚姻前の男女が夜も共に過ごすわけにはいかない。
だから、せめて眷属をつけて異変を察せるようにしているのだろう。
「これでアデルの憂いを消してあげられるね!」
ニコニコと機嫌の良さそうな弟は無邪気だ。
弟の提案により、二つの貴族の家が苦しむことになるのだが、それについて弟は全く気にしていないようだ。
「もし断られたらどうするつもりだった?」
「うーん、その時は王家とか公爵家とか御用達の店や商人にウェルチ伯爵家とフィアロン侯爵家に物を売らないように言ってたかなあ。ほら、商人達って耳が良いから、伯爵家と侯爵家に物を売りたがらなくなるでしょ? そうしたらきっと凄く困るよね」
何の悪意もなさそうな笑みを浮かべて、これである。
貴族が王都に住んでいながら物が手に入りにくくなるなんて、想像するだけでも恐ろしいことだ。
商人達は情報が命なので、王家や公爵家から嫌われている者に商品を売って、自分達まで飛び火するのを嫌うだろう。
商人から買い付けられずとも、個人の店で買えるならまだ良いが、話が広まって、どこへ行っても断られたり、高値でなければ売れないと言われたりしたら……。
「あ、でも伯爵家にはちょっとくらい意地悪してもいいよね? アデルのことをずっと冷遇して、それがどれぐらい酷いことだったのか知らないままじゃ、また同じことをするかもしれないし。学ぶって大事だよね」
鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。
「アデル嬢と想いが通じて良かったな」
パッと弟の表情が明るくなる。
「そう、そうなんだよ、アデルが僕のこと『愛してる』って言ってくれたんだ! ……凄く嬉しかったなあ」
思い出しているのか、言葉通り嬉しそうだ。
……イアンの気持ちを疑っているわけではないが……。
「イアン、お前はどうなんだ? 本当にアデル嬢のことを愛して、これからも共にいられるのか?」
この弟は気紛れなところがある。
これが一時の感情であったなら、結婚後、苦しむのはアデル嬢であり、弟にも良くはない。
手紙をこちらへ返しながら弟が言う。
「僕はアデルを愛してるよ」
意外にもあっさりとした返答だった。
「ずっと一緒にいるならアデルがいい」
「どうしてそこまでアデル嬢に入れ込む? 亡くなった、お前の友人の孫だからか?」
「どうなんだろ? それもちょっとはあるのかも」
弟は人間の友人が多く、アデル嬢の祖父は弟とよく酒を飲んだり遊んだりしていた間柄であった。
思えば、たまに弟が友人の話で「孫馬鹿がいてさ」と言うことがあり、聞いてみると、それがアデル嬢の祖父だったらしい。
しかし八年前に亡くなっている。
八年前と言えば、アデル嬢はまだ十歳で、弟もちょうど婚約を嫌がって旅行に出た後の話だった。
弟が帰ってきたのも、その友人が亡くなったと風の噂で聞いてのことだったそうだ。
きっと弟の中で、その友人はかなり親しい位置にいたのだろう。
墓参りに行ったところ、アデル嬢と出会ったそうだ。
「最初はエドの孫だし、死んだら嫌だなって気持ちはあったし、でも『この子の笑顔が見てみたいな』って思ったのも事実だし、僕、きっとアデルに一目惚れしちゃったんだよね」
吸血鬼はバラが好きだ。
自分達の瞳のような色に、華やかで美しい。
アデル嬢の燃えるような赤い髪に濃い緑の瞳、凛として気の強そうな顔立ち、姿勢の良い立ち姿は赤いバラの花を思わせる。
それも、棘を落としていないバラを連想させた。
美しいけれど、触れれば棘が刺さる。
毒々しさとは違う、自衛のための棘だ。
けれども弟と過ごす中で、その棘も大分なくなってきたような印象を受ける。
机の上にある二通の手紙を仕舞う。
「言っておくが、結婚は遊びではないぞ?」
「分かってるよ。アデルと一緒にいるようになってから、その辺りのこと、色々僕なりに考えて、考えたけど、やっぱりアデルがいいんだ」
「そうか……」
弟がこれほど言うのだ。
これ以上、口を出す必要はないのかもしれない。
「そうそう、兄上に訊きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
「アデルに口付けをしたいとか、それ以上もしたいって思った時、どうすればいい? 兄上も義姉上のこと抱きたいって思っても、そう出来ない時ってあるよね?」
ごふ、と咽せた。
あまりにも直球だったので、冗談かと思った。
「たまに、凄くすごーくアデルのこと可愛がりたい、めちゃくちゃにしたいなあって思うことがあるんだよね。でも結婚前にそれはダメでしょ? とりあえず我慢してるけど」
……まさか……。
「イアン、お前、女を抱いたことがないのか?」
「ないよ。好きになったのはアデルが初めてだからね。だけどさ、自分で自分を慰めても、全然楽しくないし」
不満そうな顔をする弟に驚いた。
他国を渡り歩いているうちに、そういうことをしていたかもしれないと思うことはあったが、まさか全く経験がないとは。
「……私達は結婚してから互いを好きになった。だから、私の話は役に立たないと思うが……」
「そっかあ」
「だが、アデル嬢が許してくれるなら口付けくらいはしても良いと思うぞ」
「あ、そうだよね、アデルに明日訊いてみよう」
と、楽しそうに弟が言う。
即座に、これは間違えたかもしれない、と感じた。
恐らく、弟はアデル嬢に『していいこと』を訊くだろう。
「せめて、訊く時はもう少し柔らかい表現で訊け。間違っても『君を抱きたい』なんてそのまま言うなよ」
「うん、そこは分かってるよ。大丈夫、大丈夫」
弟の『大丈夫』に一抹の不安を覚える。
……すまない、アデル嬢。
様子を見て、明日の夕食時にでも謝っておこう。
* * * * *
「ねえ、アデル、触ってもいい?」
フィー様に訊かれて小首を傾げた。
「もう触れてるわよね?」
ソファーの上で抱き寄せられて、ぴったりとくっついている。恋人同士でもこれは少し近すぎる気がする。
でも、恋人同士でのことをよく知らないので、この距離感が世間一般の恋人同士なのかもしれない、とも思う。
……別に嫌ではないからいいのだけれど。
フィー様が首を振った。
「えっと、そうじゃなくて、うーん……」
何か、言葉を選んでいる風だった。
少し待っているとフィー様が口を開く。
「あのね、僕は凄くアデルのことが好きだよ。それで、アデルも僕のことが好きだよね?」
「ええ、そうね」
「僕はアデルとずっと一緒にいたい。出来たら口付けたり、もっと触れ合いたいって思うんだけど、婚姻前だからまだしちゃいけないこともあるし、どこまでならアデルは許してくれる?」
え、と思わず声が漏れた。
これまで、フィー様と触れ合うことはあったけれど、手を繋いだり、抱き締めたりくらいで、そこに性的なものは感じられなかった。
だからフィー様はそういうものをあまり感じない人なのだと思っていた。
「ど、どこまでって言われても……。今まで恋人なんていなかったから、どういうことをするのかも、よく分かってないのに……」
「そっか、アデルもそうなんだね。じゃあ、一つずつ訊いて、良いかダメか一緒に考えよう?」
「そうね、それがいいと思うわ」
当然、婚前交渉はダメだ。
「アデルを膝の上に乗せてもいい?」
「フィー様が重くないなら、いいのではないかしら?」
「本当? やってもいい?」
「ええ、どうぞ」
フィー様がわたしを抱き上げて、自分の膝に乗せる。
横向きにフィー様の足の上に座ることになったのだが、思いの外、顔が近い。
嬉しそうなフィー様の笑顔に少しドキリとする。
「触れてもいい?」
「フィー様なら、いつ触れてもいいわ」
そっと頬に触れた手が、指が唇を辿る。
「口付け、してもいい?」
恐る恐る訊かれて、僅かに考えた。
……婚約者で恋人なら口付けはいい、わよね?
小さく頷くと「アデル」と嬉しそうに名前を呼ばれた。
大きな手がそっとわたしの顎を持ち上げ、フィー様の顔が近付いてきたので、目を閉じる。
そのすぐ後に柔らかな感触が唇に触れた。
唇を重ねるというより、本当にチョンと触れるだけのもので、目を開ければ、フィー様が照れたように微笑んだ。
「アデルと口付けしちゃった」
えへへ、と笑うフィー様は可愛かった。
「フィー様」
「うん? なぁに、アデ──……」
フィー様の首に腕を回し、ぐっと体を近付け、そしてフィー様の唇に自分のそれを重ね合わせた。
目の前で、驚きに見開かれる紅がある。
数秒重ね、そっと離す。
「初めての口付けも、二回目も、三回目も、ずっとフィー様だけよ」
途端に息苦しいほど抱き締められた。
「っ、アデル、それはダメでしょ……!」
ギュウギュウと抱き寄せられて驚いた。
「ご、ごめんなさい」
「アデルが謝ることじゃないよ。でも、アデルから口付けするのはちょっと控えてほしい、かも。僕、多分、我慢出来なくなるから」
「分かったわ。その、フィー様、少し苦しい……」
「わ、ごめん!」
慌ててフィー様が離してくれて、ホッとした。
でも少し寂しいと思うのは我が儘だろうか。
「ごめん、どこか痛くない?」
眉を下げて覗き込んでくるフィー様に頷いた。
「ええ、大丈夫」
手を伸ばしてフィー様の頬に触れる。
そうすると嬉しそうにフィー様がわたしの手に頬擦りをして、それが、やっぱりどこか可愛い。
「わたしもフィー様との触れ合いは好きよ。あまり過剰なものはダメだけれど、こうして抱き締めたり、口付けたり、そういうことは今後もしたいと思うわ」
「じゃあ、もう一回してもいい?」
すぐに目を輝かせて訊いてくるフィー様に笑ってしまう。
「もちろん」
そっと、また唇が重なる。
「これって恋人の特権だね」
「そうね」
……ティナ達もこんな気持ちだったのかしら。
相手が欲しくて、触れていると幸せで、心地好い。
ギュッとフィー様に抱き着いた。
「わたし、フィー様のことが自分で思っているよりも好きみたいだわ」
「そうなの? 嬉しいなあ。僕もアデルが好きだよ」
わたしの言葉に嬉しそうにフィー様が笑う。
……ああ、フィー様と出会えて良かった。
わたしの言葉に返事をくれる。
わたしの気持ちを否定しないでくれる。
そして、愛情を返してくれる。
それがとても嬉しかった。
フィー様も、公爵様も、公爵夫人も、フランも、みんなわたしを無視せず、優しく接してくれる。
「フィー様、ありがとう」
「何のお礼か分からないけど、どういたしまして」
フィー様がおかしそうに笑うので、わたしも自然に笑みが浮かんでいた。