フィアロン侯爵家 / ウェルチ伯爵家
* * * * *
「この愚か者……!!」
ドンッとフィアロン侯爵が机を叩き、その大きな音と振動に、デニス・フィアロンの体が一瞬震えた。
デニスは銀灰色の髪に暗い紅色の瞳のフィアロン侯爵に、色合いも顔立ちもよく似た一人息子である。
今まで、こうして怒鳴ったことは数えるほどしかない。
それでも、これほど怒りを露わにはしなかった。
横では、プラチナブロンドに赤みがかったブラウンの瞳の母親、侯爵夫人が顔色を悪くしている。
このフィアロン侯爵家には三代ほど前に混血種の貴族の令嬢が嫁入りし、それから、混血とは言えど吸血鬼の血筋を引く家として侯爵家の中でもそれなりに立場を保ってきた。
基本的に、混血種は混血同士で結婚することが多いため、人間の貴族が吸血鬼の血を家に入れられるというのは幸運なことであった。
王族、そして四大公爵家と同じ血が流れている。
しかも、ややくすんではいるものの、吸血鬼達に似た髪と瞳の色は、人間の貴族から羨望の眼差しを向けられる。
フィアロン侯爵も、デニスも、吸血鬼の血に誇りを持っていた。
社交界では混血種として人気であったし、同じ混血でも髪や瞳の色が吸血鬼とは異なる者達からも、是非、我が家の娘との婚姻をと声をかけられることも少なくない。
それでもウェルチ伯爵家と婚約を結んだのは、伯爵家が非常に裕福で、婚約すれば金銭的援助を受けられるだけでなく、多くの貴族と繋がりを持つ伯爵家を通じて社交を広げる目的もあった。
ウェルチ伯爵家は、爵位こそ伯爵に過ぎないが、代々貴族の血のみを受け継いできた生粋の貴族だ。
フィアロン侯爵家は血筋という点では、たとえ混血種から吸血鬼の血筋を入れていても、ウェルチ伯爵家の血筋の正統さほどはない。
だからこそ、社交の繋がりと金銭、そして血筋の良さからウェルチ伯爵家の血が欲しかった。
生粋の貴族の血と混血と言えども吸血鬼の血。
この二つを併せ持った次代を欲していた。
正直に言えば姉のほうが良かった。
健康で、デニスの横に並んでも遜色のない凛とした容姿に、吸血鬼が好む赤いバラに似た色合い。妹よりも姉のほうが礼儀作法も出来ていた。
だが、デニスが選んだのは病弱な双子の妹だった。
しかも既にデニスの子を妊娠している。
どちらにしても、望んでいた、両家の血を引く子だ。
慌てて姉のほうとの婚約を破棄して、妹とデニスの婚約を結び直したが、今となって、その選択が誤りであったと気付かされた。
「お前は吸血鬼の掟を破ったのだ!! それがどれほど大変なことなのか、分かっていないのか!?」
デニスは吸血鬼の掟を破った。
吸血鬼の掟は、純血種だけでなく混血種も守らなければならない、吸血鬼の中の法律のようなものである。
法を破れば罰せられ、犯罪者として見られる。
よりにもよって、最も吸血鬼達が忌むべき行為をした。
ウェルチ伯爵家の双子の妹、ティナ・ウェルチに己の血を飲ませたのだ。
「しかし、病弱なままでは出産時、ティナが死んでしまうかもしれないではありませんか!」
「そんなことのために掟を破るなんて、お前は頭がどうかしていると言っているんだ!! 他の混血種や吸血鬼から、掟を破った『犯罪者』として見られるということは、この国の貴族としての立場を失ったも同然だ!!」
「そんな、大袈裟な……」
フィアロン侯爵は荒々しく椅子に座り、頭を抱えた。
黙って血を分け与えたということは、デニス自身、それが掟を破ることだと理解していたはずである。
けれども、それがどれほどの問題かまではよく考えていなかったのだろう。
一度、デニスがどうにかならないかとティナ・ウェルチを連れて来たが、老婆のような髪によどんだ色の瞳を見た瞬間、感じたのは嫌悪だった。
……この娘が息子を利用した。
そう思うと不快感と嫌悪感しか湧かなかった。
色々と調べ回ったが、一度血を飲んでしまったものの外見はどうあっても元に戻すことは出来ない。
更に最悪なことにデニスはティナ・ウェルチと共にナイトレイ公爵家に解決策をもらおうと訪問したそうだ。
……終わった……。
公爵家は純血種の吸血鬼のみが受け継ぐ。
純血種に、公爵家に、掟破りが知られてしまった。
ティナ・ウェルチが言うにはナイトレイ公爵の弟が『吸血鬼の血を飲めば健康になれる』と言ったそうだが、デニスは請われてもきちんと断るべきだった。
公爵の弟がそれについて話したとしても、吸血鬼や混血種であれば知っていることで、それを行うかどうかは本人の意思である。
ナイトレイ公爵家からは何も言われなかった。
しかしウェルチ伯爵家が大騒ぎしている。
健康になった代わりに罪の色を背負ったティナ・ウェルチを憐れがり、フィアロン侯爵家の責任だと言う。
……言い出したのはティナ嬢だろうに……!
むしろデニスを誑かした女とこちらが罵りたいくらいである。
「ティナ嬢とお前の結婚は認めるが、結婚後はティナ嬢が社交界へ出るのも、伯爵家以外への外出も禁ずる」
「それでは軟禁ではありませんか!」
「あんな姿の嫁を人前に出せと!? 吸血鬼や混血種が見れば、掟を破ったことも、誰が血を分け与えたかも分かってしまうというのに、社交界へ出せるはずがないだろう!!」
あまりにも状況を分かっていないデニスにフィアロン侯爵は怒りと、苛立ちと、そして後悔に苛まれた。
「デニス、お前は謹慎だ。自室で二週間、反省していろ!!」
怒鳴りつけるとデニスは逃げるように部屋を出ていった。
妻も、結婚する際に吸血鬼の掟については知っている。
シンと静まり返った室内で溜め息が漏れる。
デニスが婚約破棄した双子の姉と、再度婚約を結ぶことは出来ない。
本人も拒否するだろうが、そもそも、もう伯爵家にいないのだ。
姉のほうはナイトレイ公爵の弟に見初められ、デニスとの婚約破棄から数日後には公爵の弟との婚約を結んでいる。
社交界では既にそれに関する噂が流れ始めていた。
アデル・ウェルチは婚約破棄されたが、より高位の公爵家の者の心を射止めて成功した。
そして、ティナ・ウェルチが姉の婚約者を寝取った。
アデル・ウェルチとデニス・フィアロンの婚約が破棄されたのは、妹が妊娠したからである。
全て事実であり、ナイトレイ公爵家の茶会に参加した令嬢や夫人達から、その噂が広まっていた。
噂を否定しようにも、ティナ・ウェルチ本人は人前に出られるような姿ではなく、体調を崩しているという建前がより噂に信憑性を与えてしまった。
ほんの少し前は社交界の春の妖精と謳われたティナ・ウェルチは、今は双子の姉の婚約者を寝取った恥知らずな妹となっている。
デニスとティナ・ウェルチの結婚は誰からも祝福されないだろう。
そして、フィアロン侯爵家も、もう二度と人間の貴族の前でも、混血種の貴族の前でも、大きい顔は出来ない。
どう考えても、社交界からも、吸血鬼や混血種からも爪弾きにされる未来しか思い浮かばない。
……ああ、本当になんて愚かなことを。
侯爵家が出来ることは、もう、一つしかない。
* * * * *
「ぁあぁあ、こんなのわたしじゃないっ!! わたしじゃないわぁああっ!!!」
ガシャン、とティナがテーブルの上にあった皿を払い落とす。
それに、慌てて兄のローラン・ウェルチは駆け寄ったが、乱心した妹の暴挙を止めることは難しかった。
病弱な頃であれば止められただろうが、デニス・フィアロン侯爵令息の血を飲んでから、ティナの力はかなり強くなった。
暴れても、泣き叫んでも、寝込むことはない。
健康な体にはなったものの、代わりに、春の妖精だと言われた愛らしいピンクブロンドも、新緑のような淡い緑の瞳も失った。
ティナはそれが受け入れられず、鏡や窓、銀食器などに自身の姿が映ることを酷く嫌がった。
自身の姿を認識すること自体を拒絶している。
「いやぁあああぁあぁっ!!!」
暴れるティナの爪がローランの頬に傷をつける。
あのか弱く、愛らしく、儚げな姿は面影もない。
病弱だった頃は何をしても可愛かった。
我が儘を言われても、甘えられても、礼儀作法が多少不出来でも、病弱でか弱い妹というだけで何でも許せていた。
それなのに、健康になり、色彩を失った途端にティナを可愛いと思えなくなってしまった。
色彩が問題なのではない。
健康になって、病弱でもか弱くもなくなったティナは、ただの甘やかされた我が儘な娘でしかなかった。
貴族の令嬢としての礼儀作法も拙く、何かあっても可愛らしい自分が笑えば誤魔化せるという思いが透けて見えた。
そうして、今更になってアデルを思い出した。
アデルは読書が好きで勉強も出来たし、礼儀作法も非常に良く出来て、凛とした顔立ちは美しく、そして何よりローランや父と似た色彩を持っていた。
ティナを虐めていたことを除けば、完璧な貴族の令嬢だった。
だが、今のティナを見て疑問が生まれる。
……本当にアデルはティナを虐めていたのか?
健康になったティナが暴れ、騒ぐようになり、ティナの本性を段々と知ってから、ローランも、両親も、そして使用人達もアデルの噂について考えた。
社交界で訊いて回ると、噂の元はティナだった。
ティナが泣いて訴えたのだと言う。
以前ならばティナが泣いていたなら、と思ったが、今は貴族の令嬢が人前で泣くなんて恥ずかしいと思う。
……もしかしてティナに騙されていた?
それに思い至った時、愕然とした。
何故なら、アデルはずっと、ティナへの虐めを否定していたからだ。
ローランや両親が責めても「やっていません」と言い続けたアデルを、なんて性格が悪い、と厭ったが、もしアデルが本当のことを言っていたのだとしたら……。
思えば、ローラン達はきちんと事実確認はしていない。
とにかく「ティナが泣いたから」とアデルを責めた。
気付けば名前を呼ばなくなり、言葉を交わす頻度が減り、そして家族としての絆は消えていた。
だからアデルは出て行ったのだ。
出て行って当然のことをローラン達はしてしまった。
「ティナ、ティナ! 落ち着いてちょうだい!!」
「誰か、ティナを部屋へ!!」
両親も半狂乱で使用人達を呼ぶ。
そうして、ティナの侍女達がボロボロになりながらティナを自室へ連れて行く。
食堂からティナがいなくなると母がローランへ駆け寄った。
「ああ、ローラン、大丈夫っ?」
頬にハンカチが当てられると、そこに血が滲む。
ティナがああなってしまってから、両親のティナへの愛情は離れ、そして関心はローランへ移っていた。
「顔に傷が残ったら大変だ。すぐに医者を呼ぼう」
「ええ、そうね、そのほうがいいですわ」
きっと、両親ももうティナを可愛いとは思えなくなってしまったのだろう。
「それにしても、我々がこんな状況になっているというのにアデルときたら、手紙の返事一つ寄越さないとは何事だ!」
「ティナのことも追い返したそうですし、あの子はいつからあんな非情な性格になってしまったのかしら……」
しかも両親は自分達の行いに気付いていない。
いや、もしかしたら気付きたくないのかもしれない。
娘に捨てられたという事実を受け入れられないのか。
何にせよ、もしアデルが両親に会ったとしても、絶対に助けてはくれないだろう。ローランのことも。
しかも婚約を結んだ時、今後のアデルに関することは一切口出しをしないという約束をしてしまっており、それはつまり、こちらからはアデルについて何も言えないのだ。
アデルが頷かない限り、会うことすら出来ない。
会おうと思ってナイトレイ公爵家に手紙を送っても、屋敷に直接行ってどれほど頼み込んでも、門前払いである。
これまでを思えば、アデルがローラン達に「会いたい」と言うはずもない。
アデルはこのウェルチ伯爵家を捨てたのだ。
そうさせてしまったのはローラン達自身だ。
「父上、母上」
使用人を呼んで医者を連れてくるよう話している両親を呼ぶ。
まるでティナにしていたように、両親は話している最中でも、すぐに振り返ってローランに反応した。
「なんだ、ローラン」
「どうしたの、ローラン?」
握り締めた手の中で、爪が刺さる。
……そういえば、アデルはよくスカートを握り締めて、母上がしわになると注意していたな……。
ローラン達の理不尽な叱責をそうして耐えていたのだ。
「ローラン、お前の妹はティナだけではない」
唐突に、亡くなった祖父の言葉を思い出した。
ティナよりもアデルを可愛がっていた祖父のことはあまり好きではなかったが、ローラン達がアデルを蔑ろにしていたからこそ、祖父がその分、可愛がっていたのだろう。
言われた時は、何を当たり前なことを、と思っていたが、その言葉の本当の意味を理解しようともしなかった。
「公爵家からの条件を受け入れましょう」
ティナとデニス・フィアロン侯爵令息には最悪な条件であったが、ウェルチ伯爵家とフィアロン侯爵家が貴族として生き残るにはそれしか道はない。
両親は顔を見合わせた後、思いの外、早く頷いた。
「ああ、そうするしかないか」
「ティナには可哀想だけれど、伯爵家の存続のほうが重要ですものね」
ああ、と視線を床へ向ける。
そこには散らばった料理と皿が落ちていた。
結局、アデルもティナも、もしかしたらローランですら、両親の心の中に、本当の意味では存在しないのかもしれない。
……アデルに助けを求めるなんて、筋違いだ。
散々自分を苦しめたローラン達、立場も婚約者も愛も奪ったティナ、そして裏切ったフィアロン侯爵令息をアデルが助ける義理はない。
「……わたしはあなた達を愛していました。でも、あなた達は結局わたしを愛してはくれませんでした。だから、もう、あなた達を愛することはやめます」
アデルの言葉を思い出す。
落ちた料理は二度と皿には戻せない。
そのことが、重くローランの心に圧しかかった。
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