ご挨拶
公爵家に来てから二週間。
わたしとフィー様の婚約が今日、発表される。
夜会などを催すわけではなく、ただ、他の公爵家や分家へ通達が行くだけだ。
しかし、一度公にしてしまえば簡単には取り消せない。
……そんなことよりも……。
「結婚する前にも絵を残しておかなくてはダメよ。普段と、結婚式と、その後と、思い出は沢山あって困ることはないもの。部屋いっぱいに絵を飾るくらいの気持ちでいなさい」
「そっか、そうだよね、アデルは人間だから歳を取っていくし、毎年描いてもらってもいいくらいだよね」
「そうよ。肖像画とまではいかなくても、新しいドレスを着る度にデッサンだけでもあると違うわよ」
わたしの横にいるフィー様が、向かいのソファーに座る、銀髪に紅い瞳の、フィー様とよく似た顔立ちの女性と楽しげに盛り上がっている。
その女性の横には、やはり銀髪に紅い瞳の公爵に似た男性がいて、女性を微笑ましそうに眺めていた。
公爵と夫人は別のテーブルにいて、公爵は少し呆れたような顔をしていたが、夫人は「あらあら」とおかしそうに微笑む。
わたし以外は全員、純血種の吸血鬼である。
そして、向かいのソファーにいる男女こそ、この国の両陛下であり、公爵とフィー様のご両親でもあった。
「もし吸血鬼に転化するなら、転化前に髪は切ったほうがいいわ。それで鬘を作れば、いつでも赤髪と銀髪、両方のアデルが見られるわよ?」
「母上、天才!」
……これは、どうすればいいのかしら……?
フィー様達の話が盛り上がり過ぎて、口を挟む隙がない。
わたしが想像していた両陛下へのご挨拶とは、程遠い状況になっていた。
* * * * *
婚約発表当日は朝から忙しかった。
両陛下にお会いするのだからと朝から念入りに身支度を整えて、お二方がお越しになる時間まで待つ。
フィー様も今日はいつもより華やかな装いだ。
「ここ数日、楽しかったね」
中央広場へ出かけたあの日から、観劇に行ったり、本屋に行ったり、貸し切りのレストランで食事をしたり、フィー様はわたしを外へ連れ出してくれた。
毎日があっという間に過ぎていく。
「そうね、時間が過ぎるのが早かったわ」
夜はこっそりわたしの影に隠れている蝙蝠の姿でフィー様がそばにいて、わたしが眠るまで、寄り添ってくれる。
最初の頃よりも、わたしの死にたいという発作は回数が減っていた。
怖くて、不安でたまらなくなることはあるけれど、そういう時は気持ちが落ち着くまでフィー様に抱き締められて過ごした。
フィー様の腕の中は少しドキドキするが、それ以上に温かくて安心する。
「これからも一緒に出掛けようね。王都中巡って、もうどこも行ってないとこがないってくらい、遊ぼう?」
「それはとても時間がかかりそうね」
「僕達は婚約したんだから時間はいくらでもあるよ」
当たり前のように返された言葉に胸が温かくなる。
……わたしもフィー様との婚約を大事にしたい。
その後は取り留めもない話をして時間が過ぎていく。
午後になり、両陛下の到着する時間の少し前にわたし達は玄関へ向かった。
既に出迎えの使用人達が待機しており、わたし達のすぐ後に公爵夫妻も姿を現した。
……これから両陛下が本当にいらっしゃるんだわ。
そう思うと緊張してくる。
「大丈夫だよ、アデル。父上も母上も怖くないよ」
わたしの緊張を感じ取ったのかフィー様が言う。
「ああ、イアンの言う通り、両陛下は穏やかな方だ。アデル嬢と会うのを、特に母は楽しみにしているらしい。母は自由な人だから少し驚くかもしれないが……」
「あ〜、それはあるかもね」
公爵とフィー様が苦笑し、夫人が「ふふふ」と訳知り顔で小さく笑う。
「ともかく、そんなに緊張しないで? そのうち家族になるんだし、気楽に接してくれたほうがきっと母上は喜ぶよ」
そう言われても、この国の頂点に立つ方々だ。
わたしの緊張を宥めるようにフィー様に手を握られる。
それで、強張っていた体から少し力が抜ける。
公爵夫妻はふっと顔を動かした。
「ああ、到着したようだ」
公爵の言葉のすぐ後に馬車が見えた。
上品さを感じる馬車が近付いてくると、使用人達の背筋が伸び、わたしも気合いを入れて姿勢を正した。
馬車が停まり、執事が扉を開ける。
馬車の足元に階段が置かれる。
馬車から銀髪の男性が降りてきた。
四十代ほどの、短い、輝くような銀髪を後頭部へ撫でつけており、紅い瞳は公爵やフィー様とよく似た色で、公爵がもう少し歳を重ねればこのようになるのだろうという容姿だった。
その後に、男性の手を借りて女性が降りてくる。
同じく四十代ほどの、緩く巻かれた輝くような銀髪に紅い瞳の女性は、フィー様を女性にしたらこんな感じなのだろうといった容姿である。
どちらも美男美女で、まるで芸術品のように美しい。
思わず見惚れてしまいそうになる。
「ようこそおいでくださいました、父上、母上」
礼を執る公爵夫妻に合わせて、わたし達も礼を執る。
使用人達も一糸乱れぬ動きで出迎えた。
「マシューもソフィアも元気そうで何よりよ」
女性、王妃様だろう方が言った。
それにフィー様が少し、不満そうに返す。
「僕は?」
「イアン、あなたが元気なのはいつものことでしょう?」
「帰ってきたなら、報告くらいしなさい」
「う、それは、ごめんなさい……」
王妃様と陛下の言葉にフィー様がバツが悪そうな顔をして、それから謝罪をする。
そして、王妃様の視線がわたしに注がれた。
「両陛下にご挨拶申し上げます。ウェルチ伯爵家の長女アデル・ウェルチでございます。この度は婚約をお許しくださり、ありがとうございます」
優美に見えるように出来る限り、ゆっくりとカーテシーを行う。
あら、と明るい声が響く。
「なんて綺麗なカーテシーかしら! 優雅で、華やかで、まるで大輪のバラが咲いたみたいだわ」
王妃様が明るい表情でそうおっしゃってくださった。
今まで、礼儀作法で褒められたことなどない。
わたしがどれほど努力して美しいカーテシーを行っても、いつだって可愛らしいティナが少し不器用な仕草で行ったカーテシーのほうが愛らしいと言われる。
「そう、僕のアデルはバラだよ。凄く綺麗な人なんだ」
わたしの手を取り、フィー様が自慢げに笑う。
今、やっと、これまでしてきた努力が報われた。
「ありがとう、ございます」
笑おうとするのに視界が滲む。
「わ、アデル、大丈夫っ!?」
慌てた様子のフィー様がわたしの肩を抱き、取り出したハンカチを頬に当ててくれる。
そこで、自分が泣いていることに気が付いた。
死のうと決意した時でさえ涙は出なかったのに。
「どこか痛いの? もしかして体調、悪かった?」
「いいえ、違うの。……褒めていただけたことが、嬉しくて……」
欲しい言葉はいつだって、欲しいと思った相手からはもらえなかったけれど、だけど、それはもういいのだ。
わたしはもうあの家に帰るつもりはないのだから。
すぐに涙を拭き、頭を下げる。
「お見苦しい姿をお見せしてしまい、失礼いたしました」
「いいのよ、ウェルチ伯爵令嬢……いえ、アデル。あなたがこれまでどんな扱いを受けて、どう過ごしてきたか、この場にいる誰もが知っているわ。むしろ、よく今まで耐えたわね」
「そのお言葉だけで、救われるような気持ちでございます」
微笑んだ王妃様が近付いて、わたしの手を取った。
「さあ、マシュー、応接室へ案内してちょうだい。わたくし達の可愛い息子が選んだ素敵な婚約者ともっとお話ししたいわ!」
「母上、父上、どうぞこちらへ」
公爵様が苦笑しつつ、屋敷の中へ陛下と王妃様を案内する。
王妃様とフィー様に挟まれたまま、わたしは応接室へ向かうことになった。
さすがに応接室では王妃様は陛下のおそばに座られたけれど、熱心に見つめられて、少し落ち着かない。
「改めて、マシューとイアンの父、ルイ=ロマン・シュナイトという。こちらは私の妻のミシェルだ」
「ミシェル=アリソン・シュナイトですわ」
その後、王妃様はわたし達の出会いから婚約までのことを、かなり詳細に聞き出すと、目尻をつり上げてフィー様を見た。
「まあ、ではまだイアンの片想いに近いのね! それで婚約を取りつけるなんて、あなた、アデルの弱みにつけ込んだのではなくって?」
「それは、まあ、そういう部分はあったかもだけど……」
「アデルにきちんと謝ったの?」
「……アデル、ごめんなさい……」
王妃様に叱られてしょんぼりとフィー様が肩を落とす。
こちらの様子を窺うように身を縮こませて、上目遣いで見つめてくるフィー様が少しおかしかった。
「フィー様が謝る必要はありません。あなたのおかげでわたしはあの家から出られて、ここでの暮らしは明るくて、温かくて、楽しくて、毎日が夢のようです」
俯きかけていたフィー様の頬に手を伸ばし、顔を上げる。
わたしが微笑むだけでフィー様も嬉しそうに笑ってくれて、そんな、何気ないことが嬉しかった。
「そう、イアンの我が儘に付き合わされているわけではないのね?」
「はい、わたしはわたしの意思でここにおります」
「息子だけの片想いではなさそうだ」
「ええ、良かったわ」
陛下と王妃様が穏やかに微笑む。
しかし、それからの王妃様の勢いは凄かった。
何故かわたしの好きな食べ物や色、どういったドレスや装飾品を好むかなど色々と訊かれて、横でフィー様がそれを真剣な表情で聞いていた。
しかも途中からフィー様へあれこれと助言を始めて、そして冒頭へ至る。
「髪の長いアデルも美人だけど、髪を短くしたアデルもすっごく可愛いんだろうなあ」
恐らくわたしの短い髪を想像しているのだろう。
フィー様がニコニコ顔で言う。
「短い髪、わたしに似合うかしら?」
昔は双子だからとわたしとティナはよく、色違いでお揃いのドレスを着たり、同じ髪型をしたりしていた。
だけど、いつも可愛いと言われるのはティナだった。
だからわたしは髪を伸ばして、巻いて、ティナと違う髪型にしたのだ。
しかしティナもわたしの真似をして髪を伸ばしてしまい、結局、変わらなくなってしまったが。
「絶対似合うよ!」
「じゃあ今度切るわ」
「あ、その髪で僕用の鬘を作ってもいい? そうしたらアデルとお揃いの髪で出掛けたいな」
「フィー様が望むなら作りましょう」
フィー様は何度も頷いた。
「ふふ、あなた達、婚約者と言うより夫婦みたいね」
王妃様達の視線を辿れば、いつの間にか、わたしの手の上にフィー様の手が重なっていた。
フィー様と出会ってからは毎日のようにこうして手を繋いでいたから、最近ではこれがわたしにとってのいつも通りで、触れていることに気付かなかった。
でも、こうしていると心が落ち着く。
「僕はもうそのつもりだけどね」
そんなフィー様の言葉に和やかな笑いが広がる。
わたしはそっとフィー様の手を握り返した。
「この子がいきなり『結婚したい人がいる』と言い出した時はどうなることかと思ったが、互いに良い方向に進んでいるようで何よりだ」
陛下の横で王妃様も頷いている。
「はい、わたしにとって、フィー様との出会いは今までの人生で一番の幸運です」
「それは僕も同じだよ」
ギュッと握り返された手の温もりが心地好い。
……優しい方々だわ。
社交界では、吸血鬼は高潔で誇り高く、少し傲慢なところがあると聞いたことがあったけれど、こうして直に接してみても傲慢さなど欠片も感じられない。
それどころか優しく、とても寛容で、穏やかだ。
いきなり現れたわたしが良く思われなくても仕方がないのだが、公爵夫妻も両陛下も、わたしを気遣ってくれているのが伝わってくる。
人間の、伯爵家の娘に過ぎないわたしを、だ。
「改めて、これからよろしくお願いいたします」
頭を下げ、そして上げると、公爵夫妻も両陛下も、穏やかな表情を浮かべていた。
「こちらこそ息子をよろしく頼む」
「ちょっと我が儘だけど、イアンは悪い子ではないの。もし我が儘が過ぎるようなら、わたくし達かマシュー達に言ってね。きちんと叱ってあげるわ」
それにわたしは自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。ですが、フィー様の我が儘はいつも、わたしのためを思って言ってくださるものなので、それがとても嬉しいのです」
我が儘と言いながらも我が儘ではない。
「そうなのね」
両陛下が嬉しそうに微笑んだ。
その後も和やかに会話は弾み、お二方は満足そうな様子でティータイムを過ごすとお帰りになられた。
お見送りをして、公爵夫妻と少し話した後に部屋に戻る。
フィー様が当たり前のようについて来た。
「まったく、母上ばっかりアデルと話してずるいよ」
何度も聞いて、嫌な思いをしてきた『ずるい』という言葉も、フィー様が言うと全く嫌な気分にならない。
むしろ微笑ましくて、わたしのことで嫉妬してくれているのが嬉しくて、それに内心で、ああ、と気付く。
……まだ、出会ったばかりなのに。
わたしは、多分、フィー様に惹かれている。
とく、とく、と心臓が早鐘を打つ。
繋がった手を握れば、フィー様が振り返る。
「わたし、フィー様をきっと好きになるわ」
唐突なわたしの言葉にフィー様が驚いた様子で目を丸くして、そして、輝くような笑顔でわたしの両手を握った。
「ありがとう、アデル」
それは、わたしの台詞だろう。
「焦らなくていいから、その気持ちを大事にして、ゆっくり僕のところまで来てね。僕はいつまででも待つよ」
「大丈夫、きっと、そんなに待たせないわ」
「それは凄く嬉しいな」
抱き寄せられて、フィー様の腕の中に閉じ込められる。
……ずっとこうしていられたらいいのに。
嫌なことも、見たくないことも、聞きたくないこともない、温かで優しい、夢のような場所。
「アデルも、僕の『好きになる努力をしてほしい』って願いを叶えてくれてありがとう」
言われて、それを思い出した。
好きになる努力なんてしなくても、フィー様を嫌いになる人などいないだろう。
この人がわたしの婚約者だと思うと不思議な気持ちだ。
本当にふわふわと夢の中にいるようだ。
その日、わたしとフィー様の婚約が発表された。
後日、各公爵家や王家から、婚約祝いの品が色々と届いて、それらがあまりに豪華でかなり驚いたのだけれど、それはまた別の話である。