第07話 賛辞
ノアが、アナベルを男だと思いこんでいることに、アナベル自身がよくわからないショックを受けていた。
何故、ショックを受けたのか、いくら考えても理由がわからない。
わからないのに、鉛を飲み込んだように、胃の底に重い感じがする。
確かに、自分が女である、とことさらに喧伝した覚えはない。
だが、剣技の練習のときは薄着だし、背中だけなら裸を見られたこともあるはずだ。
そう主張すると、トム爺さんは残念な子を見る目で、「出るところが出てなくて、出なくていいところが出ていたんだろうよ」と呟いた。
アナベルは自分の胸を思わず見下ろし、トム爺さんも凝視してきたから、取り敢えず爺さんの頭はどついておいた。
アナベルが悩んでいたところで、季節は進む。
砦は冬支度を始める時期に来ていた。
見張りに慣れてきたノアに砦を任せ、アナベルは狩りをしながら、街道を見て回る。
秋は冬眠を前に食料を蓄える野生動物とも行き合うことが多い。
まだ、剣をしっかり持てないノアを連れまわるのは、リスクが高かった。
「砦の役割もおろそかにはできない。
冬が来る前に、国境を超えてしまおうと言う旅人も多いからね。
何かあったら、まずはこの鏑矢を打ってくれ。
緊急性の高いときは、狼煙だ。いいね?」
緊張に顔を強張らせるノアの頭を撫でようとして、躊躇う。
いつも気安く降りてくる手が宙に留まったので、ノアが上目遣いにアナベルを見上げた。
アナベル自身も手のやり場に困り、ぽんぽんと軽くだけ肩を叩いて誤魔化した。
意味を問いたそうなノアの眼差しを振り切り、森の中に駆け込む。
実りを迎えた木々から、果実をもぎ取り、背負いかごに放り込む。
腰に剣を携えていなければ、どこからどう見ても農村のおっさんだ。
川の水を飲みながら、映った自身の姿に、また落ち込むことを繰り返す。
だが、幸い、アナベルの表情筋は動くことが少なく、見た目でそれを悟られることはないだろう。
ノアの前では、格好良い先輩でいたい。
かつての老兵のように。
アナベルは、自分の矜持を守れるだけの強さを持った自分でありたかった。
尊敬できる人に出会うことができる人生は、幸せだ、とアナベルは考えている。
それほど、あの老兵との出会いは意味があった。
自分にとっての老兵に、ノアにとっての自分がなりたかったのだが……。
「あぁ、くそっ。何もかも、うまくいかないな」
仕掛けてあった罠が全部、空っぽであることを確認し、アナベルは砦に戻った。
「アナベルさん、お帰りなさい! あ、今日は何も取れなかったんですね」
アナベルの背中を覗き込み、ノアが苦笑する。
「……すまないね、そういう日みたいだ」
「仕方ないですよ。それに……」
「それに?」
ノアが変なところで言葉を切るので、気になって先を促す。
少年はいたずらっぽく笑った。
「アナベルさんでも失敗することがあるんだってわかって、少しほっとしました。
だって、いつもは完璧すぎて、神さまみたいですから」
テーブルに食器を並べながら、ほんわかと笑うさまは新妻のように愛らしい。
いやほんと、自分が男なら、絶対にノアに求婚していたな。
男同士だとしても、だ。
言っている内容も可愛らしすぎる。
実際のところ、アナベルは女で、ノアは男だ。
トム爺さんの言う通り、夫婦となるのに障害はない。
なのに何故か、アナベルの頭の中では、ノアはいい奥さんになりそうだ、と変換されていた。
「僕、アナベルさんみたいな立派な男になりたかったな……」
ノアの呟きは、アナベルの頭を強烈に殴りつける鈍器の威力を持っていた。
「私みたいな……男に? こんな辺境でくすぶっているだけの、私に?」
声が震える。
ショックの正体に、アナベルは気づいた。
ようやく、気づいた。
「くすぶっているなんで、とんでもない! アナベルさんは、僕が知る誰よりも強くて格好いい騎士です!」
曇りなき賛辞。
「ノア、すまない。さっき、水桶を一つひっくり返したのを忘れていた。
すぐに汲んでくるよ」
「え? アナベルさん、もう、夕食ですよ。冷めちゃいます」
「すぐに戻ってくるから。先に食べ始めていてくれ」
言いつくろうのはうまくいったと思う。
不思議そうなノアの視線を搔い潜り、外に飛び出す。
追いすがる声はないので、ノアも納得してくれたのだろう。
アナベルはたっぷり水の入った水桶を担ぎ上げ、沢まで急いだ。
月明かりに照らされる森の中は明るく、歩きなれた道に迷いはない。
なのに、途中で足がもつれ、アナベルは頭から水をかぶる。
転がり沢を下っていく桶を見ながら、座り込んで、木に背中を預けた。
ぽたぽたと垂れるしずくが冷たく胸を濡らした。
月が明るい。
そばにあるのは判星か。
月に負けじと輝いている。
「私みたいな男になりたい、か」
なるほど。
ならば、ならねばならぬだろう。
初めて開きかけた扉には、厳重に鍵をかけておけばいい。
アナベルは重い腰を上げた。
沢に降りて桶を回収し、水で満たす。
見下ろすそこには、いつもどおり厳しい表情の自分が写っていた。
ポタン、とたれた雫が、鏡像を散らす。
「水も滴るいい男ってのは、あんたのことだよ、アナベル・ロペス」
もう一つ、雫が落ちて、水面が揺れた。