第05話 変化
ノアを連れて、山頂にある砦を見回る。
山肌に張り付くように作られた砦は、万一に備え、井戸や武器庫、厨を備えている。
百人の兵士を一か月は養うことができるように、とのことだが、貯蔵されている食料はほとんどないし、武器庫には古臭い武器や壊れかけの防具しかない。
アナベルとノアは、それらを丁寧に見て回って、補修・修復・入れ替えを行う。
同時に、日に五回、尖塔に上って、周囲の異変がないことを確認する。
「まずは空を見るんだ。漫然とじゃない。
生活の痕跡を探すんだ。
焚火の煙というのは、意外とよく見える。
人間ってのは、何かにつけ火を使う生き物だ。
野生動物の動きも見た方がいい。
鳥が一斉に飛び立つ、鹿の群れが大きく移動する、そういった細かい動きの原因に、何があるかを考える。
見張りってのは、いきなり細かいものを観察するんじゃない。
視野を大きく持ち異変を探る、そこから細かいところへ視線を移動させていく」
指さしながら説明することを、ノアは生真面目な顔をして頷いている。
手先が器用な少年は、防具や砦の補修が上手だった。
更に、これまで適当に済ませていた帳簿も、数年前の分から見直して、作り直してくれていた。
アナベルには手を出せない部分だったので、正直、助かっている。
貯蔵されている食料についても、備え付けの古い日誌とアナベルのこれまでの経験をもとに、予測と過不足をノアが算出してくれたので、多すぎたり少なすぎたり古すぎたりということがなくなった。
初めて、このような山奥にも知性が必要なのだ、とアナベルは知った。
ついでに、これまでの筋肉で押す生活が、かなり無茶なものであったことを実感した。
尖塔には狼煙台がある。
狼煙の材料となるのは、乾燥させた藁や小枝の他に、牛糞がある。
牛糞は、近くの村からタダで貰える、大変ありがたい材料だ。
何といっても、燃焼時間が格段に伸びる。
狼煙台に保管する以上の牛糞は、炊事にも使わせてもらっていた。
こういったことをアナベルに仕込んでくれたのは、アナベルが唯一尊敬している先輩だった、砦の主とも呼ばれた男だ。
老齢で引退を願い出し、そこに派遣されてきたのがアナベルだ。
彼は当初、女が来たことにとても失望したようだったが、アナベルが真剣に学ぶ姿勢を示し続けることで、態度を和らげてくれた。
その上で、彼にとってはいやいやだったのだろうが、様々なことを教えてくれた。
今まで、アナベル一人でも砦で生きてこれたのは、あの時、彼が惜しみなくいろいろなことを教え込み、持ちうる伝手を使ってアナベルを守ってくれたからだ。
あの時の恩を、アナベルはノアに与えることで返そうと思っていた。
ずっと子ども扱いしていると、思ったよりもお喋りな少年は、今年十六歳になったのだと、頬を膨らませて怒った。
思わず二の腕を掴み、その細さに愕然としたが、本当に十六歳なのだとしたら問題だ。
ノアは十ニ歳のころに、軍に入ったのだという。
そのころから小柄だったらしいが、今も少女のように可愛らしい。
アナベルの頭の中では、ノアが、兵舎で碌な食事ももらえず、雑務ばかりを押し付けられ、日々泣き暮らしていたことになっていた。
一番大事な体を作る時期に、満足な飲食も睡眠も与えられなかったのだろう。
これが母性ってやつか……。
自分が守って、育ててやらねば、とアナベルは張り切った。
いずれここを出してやらねばと思ってはいるが、その時までにノアの体を作らないと、どこに行ってもやっていけないだろう、と筋肉だけを使って生きてきた女騎士は考えていた。
知識も必要だ、と結論づけた次の瞬間にはこんなふうに考える生粋の脳筋騎士だ。
まずは走り込み。
村と小屋までの往復を命じたところ、下り坂で足を挫いたので、アナベルが背負って帰ってきた。
素振り。
アナベルの予備の剣を与えたが、二回めちゃくちゃに振り回した後、動かなくなった。
腕の筋を痛めたらしい。
ノアの腕が治るまで、質素な食事に戻ったアナベルは、深く反省した。
以前はなんでもなかった自分で作った料理が、ノアの調理した食べ物を経験した後だと、家畜の餌に等しいものだと自覚し、我慢するのも難しくなった。
「まだ痛いのかい?」
しゅん、と肩を落としたノアに声をかけると、大きな目に涙をいっぱい浮かべて見上げてくる。
「僕、本当にダメダメです。アナベルさんの役に立ててないです。
捨てられちゃいますか?」
小動物を毛皮としか見ていなかったくせに、ノアの小動物的な魅力に、アナベルは後ずさった。
「……あんたに必要なのは、基礎訓練をこなすための基礎だ。
少しずつ頑張ろう。私が思うに、あんたの成長期はこれからなんだよ。
まだ、十分間に合うからさ」
「本当に本当ですか? これから成長期が来るんですか? 僕でもアナベルさんみたいになれますか?」
「私程度なら、すぐになれるさ。焦るこたない。
私もなかなか筋肉がつかなくてね。泣きながら体を追い込んだもんさ」
「……アナベルさんでも、苦労するんですね」
ここ数年、村にでも降りない限り喋ることもなかったアナベルだが、ノアが来てから、数年分の会話量をこなてしている気がする。
アナベルの慰めににっこりと笑い返し、自分の腕に力こぶを作ってみせるノア。
ささやかな山を見せられ、腹の底が痒いような、ワーッと叫びたいような気分があふれ、アナベルは驚いた。
「うぐぅっ」
「え? アナベルさん、どうしました?」
「ちょぉ~っとその辺を見て回ってくるよ。あんたは、狼煙台に上がって周囲の警戒をしてくれ」
いきなりの命令に、少年はピッと背筋を伸ばし、敬礼をする。
そのさまがもう何とも言えない。
幼子が精一杯、大人の真似をしているようだ。
アナベルは叫びだすのを辛うじて我慢し、森に駆け込んだ。