第04話 憧憬
アナベル・ロペスは、どこをどう切り取ってもすごい。
ノアは、彼に出会えたことを、毎朝神に感謝していた。
軍に入ってノアが痛感したのは、自身の軟弱な体質だった。
いくら食べても肉がつかず、そのため筋肉も増えない。
兄や父はしっかりした体格だったが、母や姉たちは村でも器量よしで通っていた、ということは細身で小柄ということだ。
ノアは、明らかに母の血筋を色こく受け継いでいた。
そのため、通常の兵士業務に早々に見切りをつけ、事務畑で貢献しようと思っていたほど。
なのに、アナベルは違う。
細くてしなやかな長身には、重すぎず、均等な筋肉が余すところなくついている。
いわゆる細マッチョというやつだろう。
ゴリゴリマッチョばかりを見てきたノアの目には、ことさらに美しく見えた。
さらに、間近で見た彼の剣技もすごかった。
朝、ノアが目覚めると、決まって外から風を切る音が聞こえてくる。
鎧戸を開けて、まっさきに目にはいるのが、蒸気に包まれるアナベルだ。
汗で張り付いた髪の毛を気にせず、アナベルは、愚直なまでに初歩の剣技をこなしてく。
上段、中段、下段。
足の運び、腰の位置。
薄いシャツ一枚の下にある背筋の躍動。
兵舎にいたとき、男たちは誰も彼もが汗臭くて酒臭くて脂臭かった。
彼らは、適当な訓練と、可愛がりと称した弱いもの虐め、そして大半の時間を酒とタバコと女に消費する。
ノアは、彼らに恐怖を感じこそすれ、尊敬と憧憬など持ち合わせなかった。
朝焼けに照らされたアナベルが、目をほそめてノアを見る。
「あぁ、起きたのか」
男性にしては柔らかく高めだが、ヒステリックな兵長の怒鳴り声に慣れきっていたノアにはいつも新鮮に響く。
アナベルが自分のシャツの裾を持ち上げて、首の汗を拭う。
シャスの裾から見える見事な腹筋を凝視しそうになって、ノアはあわてて視線を外した。
例え同性だとしても、不躾な視線は不快感につながる。
ノアは、アナベルに嫌われたくはなかった。
「あ、あの、朝食の用意をしますね」
「あぁ、頼む。私は川で汗を落としてくる。ついでに水も汲んでこよう」
「水汲みなら僕が!」
「汗を流すついでだからね」
空になった樽を二つも担いで、アナベルが悠々と歩いていく様を、ノアはぼーっと眺めていた。
ピチチチチッ。
間近で鳴いた鳥に驚き、慌てて立ち上がる。
「そうだ! 朝ごはん!」
ノアは急ぎかまどに火をおこす。
以前、筒を使って火を起こしたら、酸欠で倒れたことがあった。
あの時、ノアは「これはやばい」と思った。
倒れたノアよりも、のぞき込むアナベルの方が泣きそうな顔をしていたからだ。
「火おこしをしただけで、死にそうになるやつを始めて見た」
と後にアナベルが言っていたが、別に死にそうになったわけではない。
そもそも兵舎では、もっとどうでもいい理由で何度も気絶したものだ。
周囲にいた兵士たちは誰も助けないどころか、笑ってみていた。
アレだけの肉体を持ち、このような辺境でたった一人勤め続け、なのにアナベルは他者の痛みに過敏だ。
ぶっきらぼうで、「そんなんで兵士が務まるものか」と何度も言われたが、突き放すような態度も含め、ノアはアナベルが大好きだ。
牛の胃袋で作った鞴で、効率よく炎の調整をする。
これを作ることができたのも、アナベルのおかげだ。
ノアが「鞴があれば酸欠にならずにすむ」と伝えたところ、下の村から材料を貰ってきてくれたのだ。
出来上がった鞴を使って見せると、アナベルは目を見開いて、ノアを称賛してくれた。
「すごいな、ノア。職人でもないのに、手先が器用なんだな」
あまりの嬉しさに、心中で雄たけびを上げていたほどだ。
仕事は生きていくために仕方なくするものだ、と思っていたのが、このとき、完全に覆った。
ノアはそれ以来、積極的に砦の仕事を行うようになった。
竈の火が勢いを増したところで、串に刺した干し肉に塩をふり、炉端の灰に突き刺す。
前日のスープには、乾燥させた香草を揉んで散らし、少し味を変えておく。
硬い黒パンは固い大きな葉っぱで包み、竈の中の隅に転がす。
いい具合にスープが温まったところで、ドアが開いた。
「おや、良い匂いだ」
いつもは癖の強い髪が、水を滴らせて真っすぐに伸びている。
アナベルは寒さに鼻の頭を赤くしながら、にっこりと笑った。
「アナベルさん! 風邪をひきます! こっちに来てください!」
椅子を竈のそばに置き、アナベルの冷たい手を握って誘導する。
「いや、こんなんで風邪なんか引かないさ」
「そういう油断がダメなんですってば!」
強引にアナベルを椅子に座らせて、用意してあった大きめの布で髪を丁寧に拭っていく。
シャツの襟ぐりからのぞく盛り上がった胸筋が、思ったよりもはるかに大きいように見えて、ノアは少しドキドキした。
アナベルは、屈強な戦士ではあるが、私生活は無頓着だった。
風呂に入るという概念がなく、すべては川での水浴びで済ませるし、ほとんど乾かさないまま、あちこち歩きまわる。
ノアがこの砦に来て、最初にアナベルにご馳走してもらったのは、塩気も何もない、臭みが残ったイノシシ肉だった。
焼いただけ。
川から汲んだ水は煮沸せずに飲むし、飲ませる。おかげでノアは三日間腹痛で寝込んだ。
十日経っても服を洗おうとしないので問いただすと、水浴びするときに服を着たままなので問題ないと返ってきた。
恐らく、王都にいれば、アナベルは確実にモテる。
女性たちが放っておかないような、甘さを残しつつもシャープな顔立ち、荒いながらも気遣いのある言動、空の王者を思わせる細くてしなやかで筋肉質な体躯。
王都の洗練された衣装に身を包めば、社交界でも話題の騎士になるだろう。
なのに、アナベルは自分をケアすることには全く無頓着なのだ。
ノアはいつの間にか、自分がここに飛ばされたのは、冤罪をかけられたことも含め、天の配剤なのだと考えていた。
この美しい戦士を、本来のあるべき場所に返す。
その時まで、ノアがしっかりとアナベルの生活を守ってあげるのだ。
幼いころに転がり込んだ兵士生活で、ノアは今、一番やりがいを感じていたのだった。