第21話 淡雪
あの事件により、砦の人数不足に警鐘が鳴らされ、アナベルの部下は大幅に人員増となった。
また、アナベル自身の指揮能力の高さも認められ、アナベルは女性としては初となる、四つの砦の所有者となった。
居を街に移し、騎士団と兵士団を従えるようになったものの、フットワークの軽さは変わらない。
アナベルはその日も、二人の護衛を振り切るように馬を駆り、トム爺さんの元を訪れていた。
「おまえさんなぁ、一人はやめろと言ったじゃろ」
「訓練された護衛のはずが、私に追いつけないというのがおかしい。
大丈夫だ。ここに来ることは教えてある。
しばらくすれば、追いついてくるだろう」
生姜を入れたホットワインを軒先で貰い、アナベルは豪快にあおった。
空からちらちらと落ちてくる雪は、地面に触れた瞬間に消えていく。
春は近い。
それにしてもとなりの爺さんがうるさい。
「そんなんじゃ、婿の来てもなくなるぞ」
並の男よりも格好良く、強いとなっては、アナベルに言い寄るのは女ばかりだ。
アナベルはニヤリと笑った。
「嫁候補は何人もいるんだがね。
まぁ、いざとなったら養子をとるさ。
私はもとより、血統でこの地位を手に入れたわけじゃないし」
もう、三十歳が間近に迫っている。
部下たちは、この規格外の女騎士に何とか結婚してもらい、前線からは引退してもらいたいと思っているらしい。
そのため、アナベルと親しいトム爺さんのところにまで、アナベルを説得してほしいという依頼がひっきりなしに来ていた。
とは言っても、自分が結婚したい、という猛者は現れていない。
誰かいい人を見繕ってあてがってほしい、というのが大方の部下たちの気持ちだった。
そうすれば、落ち着いて執務室にとどまってくれるのではないか、と一縷の望みを託して。
「婿候補だって、一人もいなかったわけじゃなかろうに」
爺さんが恨みがましく見てくるから、アナベルはカップを返し、視線をそらした。
「誰のことを言ってるのか……」
「策士アナベル・ロペスをあれほど振り回した男は、あとにも先にも、あいつだけだっただろう」
「……爺さん、よしてくれ。あいつは王都で華々しくやってるよ」
「…………儂は誰とは言わなかったはずだがのぉ。
なるほど、おまえさんの心にあるのは、王都に行ったノア・バーンズか」
「白々しい……。
ほら、うるさいやつらが追い付いてきた。
爺さん、この話はここまでだ」
アナベルは不毛な会話を切り上げ、息を切らしながら追いついてきた護衛二人に、戻り次第の訓練を申し付ける。
すでに気持ちを他に向けていたアナベルは、トム爺さんが悪戯っぽく笑っていることには、全く気付いていなかった。
街に戻り、自分が不在の間に届いた各砦の報告書を受け取る。
紙束をもって執務室に戻る途中、執事に呼び止められた。
「アナベル様、宰相閣下からの親書が届いております」
「またか。何通目だよ。私に見合いだなんて、王都はよっぽど蛮族をこの辺境に増やしたいようだな」
「そのようなことを仰いますな。隣国がきな臭くなっております。
辺境を中央につなぎ留めておくため、あちらも必死でいらっしゃるのでしょう」
コートを執事に預け、封書を紙束に挟み、長いスライドで廊下を渡る。
執務室に入ると、文官たちが一斉に席を立ち首を垂れた。
「ん? アーネストの姿が見えないな」
アナベルが部屋を見渡し、姿の見えない家令を探す。
文官の一人が、おずおずと手を挙げた。
「あの、アーネストさんからの手紙がそちらに」
「手紙?」
大きな机の上に、真新しい白い封書が一通。
事務仕事に強い人材は、辺境には少ない。
アナベル自身、こういった方向にはあまり頭が働かない。
そのため、アーネストは王都から招へいした優秀な人材だった。
だが、「水が合わない」「食材が苦手」「武骨で声の大きい人間が嫌い」「すべてが自分の繊細な感性に障る」と何かにつけ文句が多い。
そこをなだめすかし、たまに脅し、何とか一年半も我慢して使ってきたのだが。
封を切ると、中から出てきたのは「自分こそずっと我慢してきた。もう我慢の限界だ。王都に帰らせてもらいます」という、一方的な通告だった。
「奥様に逃げられた暴力夫のようですな」
横から盗み見ていた執事が笑いをかみ殺して呟く。
居合わせた文官たちが全員吹き出し、それを変に我慢しようとしたものだから、気管に入って噎せるものも出る始末。
アナベルが殺意を籠めて全員を睨みつけると、辛うじて無音になった。
「王都に早馬を出せ!
婿じゃなくて、優秀な家令をよこせ、と!
数字に強くて、細かいところにも気を配ることができて、辺境の生活に馴染めて、王都に帰りたがらない奴なら誰でもいい!」
「かしこまりました。一言一句、その通りに」
執事と一緒に、文官たちも部屋を出て行ってしまう。
一人きりになった執務室で、アナベルは椅子に深く腰を下ろすと、行儀悪く足を机の上に投げ出した。
「ったく。領主なんざ、引き受けるんじゃなかった」
砦にたった二人っきりだったあの頃が、懐かしい。
一年にも満たない期間。楽しいばかりではなかったのに、今思うと何もかもがきらきらと輝いて見える。
青春の甘酸っぱさ、などという幻想が実際にあるのだとすれば、アナベルにとって、二人きりの砦生活こそがそれだったのかもしれない。
それはここ最近、ずっと胸をよぎる思いだったが、決して口に出してはいけない。
強い酒で誤魔化しても、記憶がなくならないのがアナベルの強みだ。
だが、深く酩酊できないことで、胸の奥底にたまるもやもやを追い出せやしない。
明け方近くにようやく瞼が落ちたアナベルは、朝、自分のベッドでノックの音を聞いた。
「閣下、王都から家令になりたいと来た者がおります」
ドア越しの執事の声に、頷きかけて、違和感に思いとどまる。
夕方に早馬を出すように指示を出し、朝になったらもう家令が届いているとは、いつの間に王都とこの街はそこまで近くなったのだろう。
それとも、うっかり寝過ごして二日ほど経っていたのだろうか?
疑問は尽きなかったが、優秀な家令であれば追い返す手はない。
「そいつは使えそうか?」
「紹介状を確認しましたが、かなりの実績があります。推薦状を書いていらっしゃるのも名だたる方々です」
「この辺境の生活に文句はなさそうか?」
「昔、このあたりにいたことがあるとか。食生活にも十分理解があるそうです」
「王都にあるような文化はここにはない。遊び歩くのが趣味なら、ここを我慢できないだろう」
「昔ある女性に心をささげたとかで、今でもその方に操をささげていらっしゃるそうです。
遊び歩くことはなさそうな、誠実な方のようです」
「わかった、採用だ」
「ご覧にならなくてもよろしいので?」
「今言ったことが全部真実なら、何も問題はない。なんとしても引き留めろ。
雇用条件は、できるだけ譲歩しろ」
ここまで来て、執事が一瞬沈黙する。
寝起きのアナベルは、それを深く考えなかった。
「思いをささげたご婦人との仲を取り持っていただきたい、とのことです。
それが唯一の条件だとか」
……随分とロマンチストなんだな、と思ったが、「相手が既婚者でさえなければ、最大限の努力をする」と伝えた。
再び沈黙が落ちる。
ようやく、アナベルはおかしいな、と感じた。
件の人物は、執事の隣にいるのではないか?
ベッドから降り、ガウンを身にまとってドアに近づくと、思った通り、執事と誰かが話す声が漏れ聞こえる。
礼儀にうるさい執事が、家令候補とはいえ、採用前の人物を主の寝室前まで連れてくるだろうか?
これはもしかして、……謀反か?
アナベルは音もなくベッドに戻ると、枕の下に敷いていた剣を握った。
「その条件で飲むそうです。契約は成立ですね。
契約書は後程お持ちしますので、目を通してください。
新しい家令は書斎に通しておきますか?」
「そこにいるのだろう? 今すぐに会おう」
警戒しつつ答えると、執事はあっけらかんと、「では置いていきます。私は忙しいので」と答える。
遠ざかる規則正しい執事の足音。
ドアの前には、誰かの気配。
落ち着かないのか、体を不安定に揺らしているようだ。
「入れ」
扉の陰になるように立ち、剣を鞘から抜く。
ゆっくりと、重いドアが開いた。
「あの……」
鞘が床に落ちるよりも先に、閃かせた剣を喉元に突き付ける。
それから、わずかに聞いた声に懐かしさを覚えた。
「アナベルさん……」
「これは、夢か? 私はまだ、寝ているのか?」
銀色に輝く刃に、困ったように首を傾げるノアが映っていた。




