53:まさかクレメンスが……
慌てて俺は視線を逸らす。
なぜ逸らしてしまったか、分からなかった。
逸らした視線の先で、俺はスピネルが奥の会場で、再び騎士に囲まれ楽しそうに談笑する様子を捉えていた。
しばらくその様子を見て、恐る恐る視線をベリルたちの方へ戻すと……。
さっきまでベリルとシディアンがいたソファに、二人の姿はなかった。
ベリルの姿を探すと、プールサイドに近いソファで、カイと二人で話をしている。
2時間の夜会は、ベリルと5人の婚約者候補が何度か入れ替わりながら、話したり、ダンスをしたりで終わりを迎えた。
結局、クレメンスは一度もベリルと話していない。
ヴァイオレットは「失礼極まりない」と激怒し、バーミリオンは「勝利を確信しているから他の候補者に譲ったのでは?」と持論を展開し、キャノスは「ライバルがどんな動きをするのか、観察していたのかもしれません」と独自の推理を披露した。
解散となり、部屋に戻るベリルの護衛で、ヴァイオレットとバーミリオンがベリルの元に向かったその時。
二人が来るのを待つベリルの元に、突然、クレメンスが歩み寄った。
さらにその場で片膝を地面につけ、ひざまずいたクレメンスは、ベリルの手をとり、その甲にキスをした。
驚くベリルにクレメンスは何か話しかけ、そしてハグをした。
ハグと言うにはあまりにも甘い抱き寄せ方だった。
さらに、ゆっくりと左右の頬にチークキスをすると、クレメンスは静かにその場を去った。
「な……」
俺は声を出そうとしたが、唐突なクレメンスの行動に言葉が出なかった。
ほんの数十秒の出来事だった。
手の甲へのキス、ハグ、チークキス。
他の候補者が誰一人できなかったことを、クレメンスはベリルに対して行っていた。
しかも、夜会が終わった最後の瞬間に。
ベリルは頬を赤らめ、クレメンスの背中を見つめている。
「まさか最後の最後でクレメンス様が動くとは思いませんでした。あの様子だと、ベリル様もかなり驚いたようですよね。一見すると、普通に挨拶をしているだけのように思えますが、間違いなく愛の言葉を囁いたのでしょうね。そうでなければ、あれぐらいの挨拶に慣れているベリル様が、顔を赤くするはずはないのですから」
キャノスの言葉に、俺はなんとも言えない気持ちになる。
その気持ちを打ち消すように、俺はキャノスに声をかけた。
「キャノス、トレーニングルームに行かないか」
◇
キャノスとトレーニングルームで汗を流していると、他の騎士もやってきた。
集まった騎士たちはボクシングの練習をしたい、となり、結局みんなでシャドーボクシングを行った。
練習を終えると空腹に気づき、キャノスと二人、調理場に向かった。夜会の後片付けをする沢山の召使いがいて、その中にアレンとカレンの姿もあった。カレンは俺とキャノスにマフィンとフルーツを渡してくれた。俺とキャノスは隣のダイニングルームに移動し、そこで食事をした。
その後部屋に戻り、一人になると急激に眠くなった。
俺はそのままベッドに倒れこみ、眠りに落ちた。






