ノットイコール
(その和算が正しいとは限らない)
***
寝苦しくて目が覚めた。
隣には、さっきまで獣みたいな顔していた彼が、子どものように丸まって寝ている。汗で湿った前髪を整えてやると、ぴくりと動いて眉間に皺が寄る。本物の子どものよう な反応に可愛い、と思う。
彼を起こさないようにそっと布団から這い出る。散らばっていた下着と浴衣を着付け、部屋の隅にあった冷蔵庫から水を取り出した。口をつけ、500mlを一気。喉が沁みるのも気にせずに飲み干す。空になったペットボトルはゴミ箱へ放り投げる、スコンと軽い音を立ててペットボトルはゴミになった。ナイスシュート。一人満足したところで縁側へ出て、風に当たる。
......京都の夜はいい。しんと静まりかえっている。無駄なものがない、という感じ。彼が取ってく れたこの旅館も値段相応に良い。離れだから二人きりでゆっくりできるね、と彼は笑っていた。
彼と私は、この春に結婚する。
彼は大学で会った二つ上の先輩で、社会人としてはまだまだ駆け出しだが、真面目で実直、経済観念もある。私にはもったいないくらいの素晴らしい人だと思う。今年の春、つまり私の大学卒業後すぐ結婚だなんて早すぎる、とも言われたが、彼としては早く家に入ってくれた方がありがたいらしい。かく言う私も、面倒な就職活動をしなくても済んだから良かったのだが。永久就職先が見つかってよかったね、と友達にはよく言われた。半分以上が嫌味だと思う。
しかし、結婚、という人生を左右する重大なことを、こんなにスイスイと進めてしまっても良いものかと思う。二十二歳で家庭に入るって、どうなんだろう。周りには結婚した人がまだ少なく、話も聞かないためいまいちピンと来ない。こういう不安を相談したら、彼はマリッジブルーだよ、仕方ないね、なんて甘やかしてくれるかもしれない。
でも、そうじゃない。
私は結婚まで後数ヶ月という時になっても彼を愛しているという実感を持っていなかった。いい人だとは知っている。優しい人で、自分を甘やかしてくれる、男の人だ。けれど執着するような好意を抱くことが出来なかった。身体でも心でも何でも、彼は私の琴線に響かない。
東の空が白み始める。もうそんな時間か、と部屋の時計を見ると五時を回ろうとしている。もう始発が出るころかな――と、ぼんやりと考えてしまう。
――逃げてしまおうか。 今、この場所から。
いなくなったら彼は慌ててしまうかな、といった考えは一瞬頭を過っただけで すぐに消えた。
善は急げと言わんばかりに先程着たばかりの浴衣を脱いで、昼間の服に着替える。逃げる、とは言ってもこれは突発的なものだから、きっと帰ってくるだろうと、あまり荷物は持たない。お財布とスマホ、せいぜいそのくらい。旅行用に買ったミニバッグにそれらを詰め込み肩に下げる。彼の顔は見ないで、こっそり部屋を抜け出した。
流石に宿から徒歩で京都駅まで行くことは無理なので、大人しくタクシーを呼んだ。まだ早朝だというのに、朝の京都は生活音で溢れている。きっと千年前もこうだったのだろうと推測する。職人の何かを生み出す音とか、人が生きて働く音、そういう感じの。嫌いではない。
生活音に耳を傾けていると何時の間にか京都駅に着いていた。精算し(結構高くついた)、タクシーに別れを告げる。
さて、と。電光掲示板の前に立つ。色とりどりの文字で行き先が表示されている。どこに行こうか、と考えていると目に飛び込んできた「東京」の文字。刹那、頭の中を高校時代の苦い思い出が駆けた。そして知る。
私は、東京に行かなければならない。
――Bに会いに行かなければ。
***
私とBは高校三年間同じ教室で過ごした。私は国立文系志望、向こうは国立理系志望。進学校であったならば三年も同じクラスにはならなかったであろう、自分が進学校に行かなかったことを密かに喜んだ瞬間でもある。
私とBはいつも一緒にいた。お昼の時も、帰るときも――それから、数学の時間。私は数学が壊滅的に苦手だった。国立文系志望にとっては致命的、とまでは行かずも、克服しておきたい欠点であった。そこで、数学の得意なBに教えを請うたのである。Bの教え方は丁寧であって、かつ簡潔で。私の数学のノートには自分の雑字に混じってBの整った、美しい文字や図が混じっていた。
「ねぇ、これって、どういうこと?」 私はその日も同じようにBに質問していた。指したのは集合の問題。どう分からないの、と聞かれる。
「......分からない」
どこが分からないのかすら分からない。そう答えるとBは仕方ない、とため息を一つついて、 「たとえば」
と、ノートの空白にペンを走らせる。
「A∩B」ノートにはそう書かれた。
「......暗号?」
「集合の表し方」
くすり、とBが笑みを浮かべる。数学を心底愛しているような笑い方。
「Aの要素もBの要素も含む、この部分をこう表す。ベン図で書くと、こう」
Aと書き込まれた円と少し重なるように、Bという円が書き込まれる。
「......ふうん」
興味ないみたいだね、とBに突っ込まれる。ずばり、興味がない訳じゃない。ただ純粋に思ってし まったのだ。「∩」って、AとBの間にある巨大な山みたいだと。私だったら、こんな記号を使って「両 方含む」みたいな意味は持たせないのに。
――私なら、たとえば、ここにハートを書くとか。
――あっいや、それじゃ意味深になっちゃう。 一人でクスクス笑っていると、Bが不思議そうな顔をしてこっちを見ている。
「......ごめん」
もう一回、説明して。
そう言いながらも片隅ではずっと「A♡B」の可能性を考えていた。
――Bのことを、そういった目で見始めていた。
***
びゅお、と激しい音がして目が覚めた。目をこすりながら外を見ると、微かだが雨が降っている。
傘自体はコンビニで買えば済むだろうから良いとして、......服が。着の身着のまま、というわけではないがそれなりに軽装で来てしまった。出てきた時には寒くなかったからと言って油断した、もっ と服を着込んで来ればよかったと、後悔する。......ぬかった。
向こうに着いた時、せめて暖かければ。スマホを取り出して天気を調べようとして、すぐに辞めた 。なんのために切ったのか。ここで電源を入れてしまったら、きっともう戻れない。
再び目を閉じて残りの時間を過ごすことにする。
***
「A♡B」のような妄想をしてしまうくらいには、私はBが好きだった。もちろん、プラトニックなもので はない。そこにはきちんとした熱があった。
その熱を隠しているつもりではあったけど、聡いBは気づいていたのかもしれない、いや、あれは絶対に気づいていた。自然とは言い難い形で、徐々に距離が開いていく。
高校三年生の秋のことだった。
過酷な夏が終わっていざ新学期が始まると、Bの隣にはCがいた。私とは違う、天真爛漫で素直な女の子。少しお喋りなところは残念だと思うが、基本的に可愛らしい女の子である。昼休みも、帰り道も、Bの隣はそのCに取って代わられた。
唯一Cのいない数学の時間だけは、Bの隣に私がいたけれど、受験期におしゃべりをしながら授業を受ける余裕はない。授業が終わればBはそそくさと教室から出ていき、Cの元へ行く。
志望校が変わったと聞いたのもその頃だった。本人からではなく、担任からきいた。こんな片田舎の大学ではなく、東京の、しかも有名大学を第一志望に据えたとのことだった。
へえそうなんだ 、と冷静に受け止めた。腹は立たなかった。それほど距離が離れてしまっていたという事実をただただ感じるだけだった。
駆けるように秋はすぎて、三学期。
学校にくる受験生はほとんどいない。必然的に私はBと会わなかった。
何も話さないまま、受験が終わり、進路が決まって、気づけば卒業式の日。私もBも第 一志望の大学に行くことが決まっていた。 教室には卒業アルバムのメッセージを書いてもらっているBの姿があった。その隣にはもちろん C。最後だし、......最後だから、と思ってBを呼んだ。呼んだ瞬間、Bの顔が強ばるのが分かった。 それでもこれが最後だと、何度も自分に言い聞かせる。
呼んだのは、あの数学の教室。授業でときどき使われる程度の教室だから掃除の手が行き届い ていないようで、少し埃っぽい。この空気の中私とBは三年間、数学の授業を共にしていた。 夕焼けできらきらと光る空気を吸い込む。あの時間が思い出される。
「Bが、好き」 変な前置きも後付けもなし。ただBの顔をまっすぐ見てシンプルに伝えた。それに対してBは一息おいて口を開いた。
「うん、知ってた......。でも、本当に?」
こくり、と首を縦に振る。Bがおそるおそる告げる。
「私たち、女同士だよ?」
そう、女同士。Bは髪を短くしていたし、スレンダーだから一瞬女とは分からないかもしれないが、 その身体は確かに私と同じ、女の子だった。
それを分かっていて、私はハッキリと言った。
「それでも、好きだよ」
「......うん」
Bは何も言わなかった。ただ、一言そう返事をしただけ。「私も」の言葉も「ごめん」の言葉も、「何それ気持ち悪い」という罵倒の声すらなかった。 それがきっとBにとっては最良の選択で、そして私にとっては最悪の結果だった。
***
電車が大きく傾ぐ。「申し訳ございません――」東京ではこういう些細なことも謝るのか。田舎の方ではガタガタ揺れるのが当たり前だから、一々謝罪は入らない。都会ってなんて生きにくそうなんだと思う。
――けれど、ここにBがいる。
東京駅に着いた頃には小雨は止んでいた。天気はまだ悪いが、当分心配はなさそうだ。そこから電車を乗り継いで何回目だったか。Bの住んでいるところはCからだいぶ前に聴いていたから知っている。こういう時、お喋りなCの存在は役に立つ。
“駅を降りて確か徒歩五分くらい。おしゃれな病院の近くのアパート。”
さすがに何号室かまでは言ってなかったが、大丈夫だろうとタカをくくる。駅周辺をうろつくと、数分もしないうちにヨーロッパ風の門構えの病院があった。きっとCの言っていたのはこれだ、と確信する。ということはこの近くのアパートにBが、いる。
.........あった。それらしいアパートがそこには存在した。いかにも大学生が住んでいそうな、築数十年の白塗りのアパートメント。 Bの住んでいる部屋を探そうと、アパートの玄関を注視していると、突然一番奥の扉が開いた。急いで隠れられそうな場所を探し、逃げ込む。そして陰からこっそりと眺める。
そこには――Bと、男の人、がいた。顔に覚えはない。どこにでもいるような、普通の大学生に見えた。そして、その男性を見送る、B。優しそうに笑っている。「ああ、愛して いるんだな」ということが一瞬でわかるような顔だった。
男の人がBに手を振りながら私がいるのとは逆の道へ消えていく。Bもそれを見送る。なんてお似合いの二人だろう。その事実を突き付けられた、私は、一体なんなのだろう。目から涙がこぼれる。熱い。重力に逆らうこともなく、コンクリートに涙がぶつかってははじける。
「――――茜?」
ふと、私を呼ぶ声がした。懐かしい声、ああ、私が好きだった、その、
目の前にはBの姿があった。伸ばされた茶髪、きっちりしたメイク。でもどこかに面影 が残っている。その姿を見た瞬間にまた涙があふれた。嗚咽が漏れる。Bは私の背中をそっと擦る。そして、「来て」と言った。
連れてこられたBの部屋は簡素なワンルームだった。どこにでもあるような、大学生一 人暮らしの風景。私はBのタオルにくるまれていた。変わらない匂いにほっとする。Bはというと、キッチンでお湯を沸かしている。コンロのやかんを見ながら、Bはぽつりと口を開いた。「Cから」
「結婚する、って聞いたよ」
情報はCを通して筒抜けだったということか、こちらも、あちらも。Cの悪癖に呆れを感じつつも、素直に首を縦に振る。
「......うん」
「おめでとう」
「............ありがとう」
私の長い溜めが気になったのか、Bは怪訝そうな顔をする。
「彼のこと、好きじゃないの?」
「......分からない......」
いいところがあるのも知っている、でも好きかと言われれば分からない。純粋で正直な気持ちを伝える。けれど、Bはそれを分かってくれなかった。ヤカンがしゅこしゅこと音をたてはじめる。
「それを好きって言うんじゃないの?」
「............分からない」
「なら、とりあえず彼を好きになる努力から始めてみたら?」
「そんなこと言ったって......」
「でも、このまま結婚するなら彼に対して不誠実じゃないの?」
――不誠実!?その言葉を聞いたとき、初めて自分が苛立っていたことを知った。私を振りもしなかったくせに、無責任。
改めてBの顔を見た。伸ばされた茶色の髪、きっちりしたメイク。でもどこか私の知っ ていたBの面影があって悲しくなる。――やっぱり私はこの人が好きなんだ。再確認して泣きたくなる。
Bが私に、と白湯の入ったカップを差し出した。こういう気の使える子だった。涙をぬぐって、カップを受け取ろうと手を出すと、不意に指と指が触れた。Bの身体が跳ねる。
瞬間、収まりかけた苛立ちがまた湧き上がる。こんなもの、と思って受け取ったカップ をぶつけてやろうと勢いよく立つ。急に、何がなんだかわからないというような目で私を見るB。無防備な白い首筋が、目に入る。首筋の根には赤い鬱血痕。
一瞬間。くらりとし た。
Bの両手首を捕まえて、床に縫いつけた。そして、そのままBの首筋に噛み付く。Bが息を詰めるのが分かった。そして「やだ、いや!!!」とひどく辛そうな声を出す。その声が煩わしくて、両手首をまとめて捕まえ、余った手で声が出ないようにBの口に指を突っ込んだ。再びBの息が詰まる。噛むかと思いきや、Bは指を噛まないようにと必死に堪えている。いっそ噛んでくれたら良いのに。痕がついて、実際にあったことなんだと、思い出にさせてくれればいいのに。噛まないようにと抵抗する分、Bの舌が、自分の指を何度もか すめる。性感帯を刺激するようなそれに、ぞくぞくする。と同時にこんな風に誰か男が、 あの男が、Bを作り替えたのかと思うと腹立たしい。噛む力が一層強くなる。
じわりと鉄臭い液体が舌に触れた。血の味だ、と気づいた時にはっと我に返る。私ってば、何を。慌ててBの口から指を抜き、上から飛び起きる。Bは涙の滲んだ顔で、私を見て いた。
そんな顔、知らない。
顔は赤く染まり、目からはぽろぽろと涙がこぼれていた。口元にはてらてらと艶めかしく唾液が光、首筋に合った鬱血痕の上からは私の歯型の血が滲んでいた。私の知らない、 女としてのBを暴いてしまった。
「――ごめん」
一言だけそう告げると、私は自分のバックと靴を持ってBの部屋から逃げ出した。Bの方は振り返らなかった。もう何も考えたくなかった。
Bの部屋を靴下のまま駆け出して、どれだけ走ったか、時間の感覚も分からない。ただ気付いた時には太陽が真上に近くなっていて、私は靴下のままコンクリートの上に立つ、 変な女の視線を浴びていた。
素知らぬふりして持っていた靴を履き、ずっと切りっぱなしのスマホに電源を入れる。 と、すぐに彼からのメールが受信される。何件も、何件も。
開くと、「大丈夫?」「いま どこ?」「連絡ください」......私を責める文言はなかった。そのことに少し笑う。「今東京です」「マリッジブルーになっちゃったみたいで」「今から戻ります」その三行を打ち込んでメールを送る。スマホを胸にあて、息を整える。
――大丈夫、大丈夫。 そう自分に言い聞かせながら、私は彼の元へと戻った。
書いたのはもう五年以上前ですが、お気に入りなのであえてほぼ手を加えることなくアップしました。




