3(オロチ)
舟は岸に流れ着いていた。薄霧の向こうに島が見える。昨夜のことは夢のように波の合間に揺れ漂う。肌寒さに、「へっくしょい」くさめが出た。鼻を啜り、荷物を探した。忘れぬうちにあの女を描こうとしたが、「やや」思わず声が出た。顔が思い出せん。それでも治郎は描いたが、霞かかって、どうにもならぬ。「これではノッペラボウだ」。なので、適当に目鼻に眉と描き入れた。描き損じた。「ぶっさいくだなぁ」思わず口にした。さすがにもうちょっと器量よしだった。いや、実際、きれいな娘であった。その記憶は、はっきりくっきり残っている。ただ、思うように手が動かなかった。これが俺の限界か。適当に生きてきた男は、組んだ腕に力を込めた。ぐぅ、と腹が鳴った。
舟を引っ張り、波止場に舫いた頃には、霧はすっかり晴れ、岸と島とを波が分けていた。トカトントンと、木を打つ小気味いい音がした。あちらこちらで響き、岸と島を行き来していた。風来坊を見つけた大工は村の顔役の元に走った。塩を撒かれ、凍るような井戸水を頭から被せられた。狐につままれた気分になった。それもその筈、記憶が二日も飛んでいた。白髭の村長は、「そうか」訳知り顔で頷いた。「逆さ島のウワバミに誑かされたか」はっはっと笑う。
つまりこうだ。昔、この地に蛇が住み着いた。
「大蛇だ」村長は云う。それが悪さをした。
川の水を自在にし、その夏、幾度も氾濫させた。舟が流される。家が流される。人も流される。困り果て、通りがかった旅の験者に助けを求めた。
験者と大蛇の戦いは七日七夜続いた。山が崩れ、土砂に溢れた。
「もともと陸続きであった」全てが終わった後、陸が削られているのが分かった。
「島に社を建てよ」験者は云った。「化け物との約束だ」大蛇の目玉と引き換えであった。
以来、酒を供え、祀り、験者の言葉を守ってきた。「故に、ウワバミなのじゃ」
じゃ?
供えの酒造りは続いた。「なにせ強い」。大の男でも二杯、三杯と口にすれば、二日、三日は起きられない。「呑むと世界が逆さに見える」村長は、縁側の向うに見える島に目を向けた。揺れる水面に島が逆さに映っていた。治郎は合点した。島の由来は宿酔の符号なのだ。
「まぁ、昔話である」村長は笑うと、両手で、傍らの寸胴の陶の酒甕をぐいと引き寄せた。底が畳表を毟った。
「オロチの睨み酒と云う」村長は甕の蓋を開けた。ツンとした酒気が漂った。
*
娘は手酌で酒を茶椀に注ぎ、水のように呷った。「氏子たちはシャオリ、あるいはジャオリと呼んでいる」ふっ、と娘は笑った。「捨て濾すこと拾回余り。手間隙かけるこだわり。蛇のジャにもかけておるのだろうよ」
治郎は、邪、ヨコシマの文字を思い描いた。
「酒は魔が差す、魔が過ぎる……そう云うものだ、本来」
「俺は巳の生まれだ」治郎は居住まいを正し、娘を睨んだ。「上等だ」すっかり出来上がったトラがのたまう。
「ホゥ」と娘が目を細める。「わたしは辰の生まれだから、お前さんより海に千年、山に千年、先を行っている」
そんな莫迦な。治郎は笑った。だとしたら、とんだババアだ。化け物だ。
娘は、さも愉快そうに笑った。
*
甕覗の濁った液に、胴の太い一匹の縞蛇が漬かっていた。白磁の鱗を涅色の縞が横に走って輪切りとなって、さながら年輪のようであった。
「狭そうだな」むすっと治郎は云った。
「背が折られている」村長は答えた。
「蛇折りか」
村長は頷いた。
「それが大蛇か」
村長は応える代わりに、酒甕を傾ける。甕の中から、濁った蛇が睨め付けた。




