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2(娘は美しかった)

 夏の名残の強い日差しに、負けじとばかりに大男が唸っていた。絵を描いたり、木を削っても、思い通りにならぬ。畳の上に大の字に引っ繰り返ったところで、どうにかなるものでない。と、云うことで、「ちょっと旅に出る」丁度あちらこちらで稼いだ小銭が貯まっており、路銀の足しとした。足りない分はちょっと無心した。「もうっ」怒られた。

 さて、呉服屋の風来坊は、どこへ向かったか。詳細は語られない。取り合えず、南の方とだけ。海にほど近い町で、「おう」岸から少し離れたところに島を見た。絵になると思った。何か心魅かれるものがある。なので、町の者から小舟を借りる。泳いで渡ることも考えたが、「やめとけ」との助言を素直に受け入れた。これが誤解であった。正しくは、「島に渡るのはやめておけ」だった。だが、所詮は風来坊、余所者には知りようもないことであった。

 舟は穏やかな波間を滑るように進んだ。島は、まぁ島だった。だいたい丸くて、緑がこんもり。振り返り、岸を見遣れば、遠く山を背にした河口がこちらを向き、村が見えた。

 島では、晩夏を惜しむように蝉が鳴いていた。水面を渡る風が木々を揺らした。手拭いで汗を拭った。「なかな心地よい」とは云え、人気の無さはいったい何だ。「誰かおらんのかー」島の中心に向かう道をとことこ進む。「返事せんかー」道々の家々は、人がいなくなって久しい容子。「お化けが来たぞー、そら逃げろー。ばぁー」子供か。

 やがて傾いだ鳥居に行き当たり、最近掃かれたらしい石畳を進んだ。石段を上ると、やはり傾いだ社に着いた。あちこち欠けて黒ずみ、賽銭箱にも穴があき、傍らに緑青の浮いた鈴が落ちている。

 どんな歳月を経たものか。なのに、どうにか体裁を整えようとした、その痕が見て取れるのが不気味であった。

「なんだかなぁ」治郎は独り言つ。なにしろ吊された注連縄だけは新しい。「これは出る」

 確信したその時、とす、とす、と、小さな餅を()くような音がした。ほら、きた。

 足音を立てずに社をまわると──倒れた石灯籠の上に娘がちょこんと座り、緋色の手玉を投げていた。淡い茄子紺の絣に涼しげな青竹色の帯を合わせ、みどりの黒髪と木漏れ日が優しい濃淡を重ねている。

 娘は美しかった。

 ──と、伝えられているが、不器量であったら、わざわざ語られることはない。(ちょっと、お祖母ちゃん。それってひどくない?)

 年の頃は自分より一つ二つ下か。上としてにも、やはり一つ二つであろう。手玉は、ひとつ、ふたつと軽やかに宙を舞い、とす、とす、と娘の手のひらに落ちる傍からまた宙に戻る。よっつ、いつつ、と手玉は増え──どうにも良く分からない様相を呈してきた。

「見事だ」治郎が声をかけると、娘は手玉を袂に一つずつ隠し、手元をすっかり空にした。首を巡らし、鼻をすんすんと動かし、治郎を見上げた。その瞳は、ややもすると視線の判らぬ藍白(あいじろ)のそれであった。

「どちらさま?」娘は、上品に鉄漿(かね)を差した口で訊ねた。

 その時、治郎の耳は蝉の声ひとつ、風の唸りひとつ聞えなかった。真っ直ぐに娘の声だけが聞えた。

 金縛りが一瞬の永遠であった。

 カナカナと侘びしい蝉の鳴き声が戻った。傾いた陽の作る影が長く伸びていた。娘の顔は影に隠れた。ふ、と眩暈を感じ、治郎はたたらを踏んだ。「具合、よくないか」娘は答えを待たずに、「少し休んで行くといい」ついと顎を上げ、社を示した。

 朽ちかけの外観とは裏腹に、中はきちんと手入れが成され、まるで外界と切り離されているようでもあった。

「もう遅い」娘が云った。湾内の流れが変り、舟で戻るのは難儀になると。明け方の頃なら、楽に戻れると。娘は蝋燭に火を灯し、引き戸を抜けて出て行くと、膳を持って戻ってきた。

「こんなものしかないが」辞退しようとする治郎に、娘は湯呑茶碗を差し出した。うつらぬ瞳に見つめられ、治郎はどっかと腰を下ろし、受け取った。

 娘は、何処の者とも訊ねず語らず、酒瓶(ちろり)から酒を注いだ──ように見えた。実際、見えなかった。注ぎ口から燭光の煌めきが零れ、手の中の碗に重みを足していく。碗の中は静水の清水であった。ニオイは確かに酒である。だが、真冬の月のように冴えている。

「遠慮なくやり給え」娘は云うそばから、手酌で自分の分をくいくい飲む。「毒でない」

 治郎は、茶椀に目を落とし、腹を括って口を付けた。「ぐえっ」ひどく咽喉が焼けた。胃の腑に熱い塊が居座った。「ぐえっ」再び嘔吐いた。娘は愉しげに笑った。「大昔に幾重に濾した酒があったと云う」そして得意げに続ける。「これは、もっと手間を掛けている」

「む?」治郎は、呑む振りをして舐めるに留めようとしたが、娘はくいくいと、それこそ水のように碗を干した。「旨かろう」どんどん手酌でやっていく。これはよくないヤツでなかろうか。「もっと呑め」振られて治郎は、用心しながら舌で舐める。それでもジンと痺れるのだから、こんな酒がまともである筈がない。「供え物だからな」娘が云った。治郎は心中を読まれたかと、ヒヤリとした。「氏子も滅多に口にしない」ちろりを持って、にじり寄る娘に、治郎は諦め、碗を干した。途端に躰は火照り、世界が廻り始める。

「酒は百薬の長」娘は酒を注ぎながら、「何事も過ぎれば毒に。冷や酒と親の意見は後で効く」治郎に笑いかけた。「注意したよな?」

「ああ」治郎は曖昧に頷いた。この娘、どうにも怪しい。どこから酒を持ってきた? 氏子とはなんだ? 何を祀っている?

 躰はぐらぐらと揺れ、思いは支離滅裂となり、瞼はやけに重たくってしようがない。それでも頑なに目を開けようと努力した。眉間に皴が寄り立った。

 娘は、自分が碗を干せば、同じ分だけ治郎に勧めた。

「睨み酒と呼ばれる所以だ」遠くから声が聞こえる。視界は狭まり、朱に染まり、そして治郎は、揺れる小舟の中で目覚めた。地平の向うから陽が差し、瞼を通して目を射すくめたのだ。

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