序章
在りし日、教室ーーー
俯いた顔、チョコレート色したプラスチックフレームの丸眼鏡から覗かせるその大きなアーモンド形の瞳は、控えめでいて頑固そうな光を宿している。
腰まで届きそうな艶のある長い黒髪と透き通るような白い肌。皺のよった制服から伸びる手足は枝のように細長く、成長期をこれから迎えるであろう少女特有のアンバランスさを醸し出していた。
授業が行われているにも関わらず、僕の目の前に儚げな姿で佇むーーー少女。
「‥‥‥‥り、凛‥‥?」
「‥‥‥はるくん‥‥助けて、たすけ、て‥‥‥」
幼なじみの凛が喘ぐように呟く、『その言葉』から始まる、いつもの、【夢】
何度も同じ夢を見ていると、その夢の中にどっぷりと浸っているにもかかわらず(また、あの夢を見ている)と、夢の中で気づいてしまう‥‥。
言葉から始まる、この悪夢
(‥‥‥‥また、この‥夢‥‥か‥‥‥)
◇◆
「‥‥‥‥んだからァ、要するに、ここでは修辞法として活用されてんだわ、ここ、ここ、絶対覚えておけよ‥‥この馬鹿どもが‥‥‥」
秋山先生が必死になにかをまくし立てながら授業をしている。大学を出たばかりの若い女の先生で、僕が学校に行かなくなり、家に引きこもった当時の担任の先生である。
先生は怒りの形相を顕にして突然、罵るようにわめき散らし始める。
本来は、こんな感じの先生ではなかったような記憶がある。優しい話し方をする、今どきで、ことなかれ主義的な感じのする先生だった。
何を話しいるかも、なんで怒っているのかもわからないのだが、僕はだんだんと自分が怒られているような気がして、いたたまれない気持ちになってくる。
そう思うと瞬時に先生は僕の目の前に現れ僕の目を見て汚い言葉で罵り始めた。そして周りにいた生徒たちも立ちあがり、僕の回りに集まって、こう、まくし立て始めた。
「‥‥殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し‥‥‥」
何度もこの同じ夢を見ている僕は、スクリーン越しに繰り返される映画を見ているような感覚なのだが、何度観ても恐怖心は押さえ切れない。
「ーーーを捕まえろっ!!」
秋山先生がそう叫ぶと周りに集まっていた生徒たちが一斉に襲い掛かってくる。
僕は生徒たちにもみくちゃにされながらも這いずるようにみんなをかき分けて教室から逃げだす。
明らかに夢を見ていると認識できる夢。なのに僕は恐慌をきたし、恐怖のあまり必死に逃げる、逃げる、とにかく逃げ続ける。
‥‥‥先の展開が読める夢なのに。
(‥‥‥そう、そうして、もうそろそろ思うように走れなくなるはず。足が徐々に重くなる、さながら、水の中をもがきながら走るような感覚。そして、最後には動かなくなる。)
いつもなら、ここで目が覚めるはずーーーだった。
そう、いつもならここで終わり。この先の展開はない。
だけど、何故か今日はほんの少しだけ先があった。
恐怖のあまり這いずるように逃げる僕の背後から少女の途切れ途切れの切なく儚い呼び声が聞こえてきた
【ーーーはる‥くん‥‥助けて、こっちに来て、わたしを助けて‥‥‥。】
ーーー僕は、闇に引摺り込まれた。
◆◇
「‥‥‥‥ぅんっ!!?」
ーーー話しかけられた。気がした。
実際に今、気配がして、耳もとで【凛】の声が聞こえたように思えた。
『ガバッ』と身を起こして、辺りを見回す。いつもと同じ部屋だが。
『バクバク』と痛いほど高鳴る心の鼓動。
(‥‥‥ゆ、夢か‥‥‥あの時の‥‥凛の‥‥)
夢にしてはあまりにリアルな声。実際、あの頃のまま、凛に今話しかけられたような感覚が、耳に残っていた。
(‥‥喉がカラカラだ。)
カーテンに仕切られた明り窓からこぼれる光がやけに茜い。
(!?‥‥‥‥朝焼けか‥‥?)
とりあえず、水を飲みに台所に向かう。
コップに水を注ごうと水道の蛇口をひねってみたが水が出ない。
「ん?‥‥あれ!?あれ!?」
何度も蛇口をひねってみたが、うんともすんとも言わない。
(ぅん‥‥‥‥!?断水‥?)
なんか嫌な予感がした。
もしやと思い、足早に部屋の中に戻りリモコンをとってテレビをつけてみる。
「あり‥‥?テレビも‥‥‥」
案の定、電気も止まっているみたいだ。明かり紐もパチパチと引っ張ってみたが明かりはつかなかった。
断水と停電が重なることなどそうそう無い。寝ている間に何かが起きたのではと思った。
(‥‥地震?、台風?、津波?、それとも火災‥‥。)
実際に、この間の北海道地震では断水と停電が重なった。まあ、あの時のように震動六とか七の地震があれば寝てても絶対に気がつくとは思うが。
(それとも、津波‥‥?)
どこか遠くの海底で地震が起きて沿岸部が津波に襲われた可能性。東北沖の地震のときも津波によって断水と停電が重なったらしい。
とりあえずスマートフォンを手に取ってヤフーニュースをチェックしてみる。
「!!?」
恐ろしい事実に気づいた。
「‥‥やば‥‥‥つ、繋がってな‥い、なんでネットが繋がってないんだ。‥‥‥どうして‥‥。」
それは、僕みたいなネット社会全盛の時代に生まれた人間、生まれたときから携帯電話とネットがごく普通に存在する世代にとってありえないことであり、あってはならないことだった。
ガスが止まっても、電気が止まっても、水道が止まっても、ネットだけは止まらないものだと思っていた。
すぐに机の前に移動して、ノートパソコンを開き起動してネットに繋げてみる。
「‥‥‥‥やっぱり、つ、繋がって‥ない。」
動悸がしてきた。パニックをおこしそうだ。
(‥‥落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け‥‥‥。)
なにかが起きていると思った。なんとも言えない胃を掴まれるような漠然とした不安。
確実に自分の知らないところでなにかが起きている。とりあえず外の様子を見てみようと思い、足早に玄関に向かった。
玄関のドアノブを回してドアをバンッと開く。
「!!?」
(‥‥‥朝焼けか‥‥夕暮れか。)
稜線は真っ赤に染まっている。
初めて見る景色、予想外の光景。突然、目の前に飛び込んできた、ヨーロッパアルプスの絵葉書から切り取られたような夕景色。
あまりのことに脳が追いついてこない。
一度振り返って部屋の中を確認してから【二度視】。そしてもう一度ゆっくりと【三度見】をしてから、まるで、どこかのタレントさんのように、こう言い放った。
「ーーーナニコレェ~~~!!!?」
そこには、未知未明の新世界が広がっていた。




