45.今までお世話になりました
新章スタートです。
よろしくお願いします。
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大きな鍋でぐつぐつと煮込んだダシに、細切れにした肉を落とした。昨日、森で狩ったウルフベアの肉は、保存期間が短いためどこにも売っていないのが難点であるが、子どもたちには美味いと評判の食材だ。なので狩りに行ったときは、できるだけ狙うようにしている。
今日はこれでベアカレーをつくって夕食にしよう。朝はブレッドにベリージャムを塗ったものにして、昼はチキンサラダにスープでいいか。
「ハンスー、ブレッドにジャム塗っといて」
鍋の中を混ぜながら、後ろを向かずに呼びかけた。しかし、返事がない。不思議に思い、顔だけ振り返る。
「ハンス?」
「ハンスはみんなを起こしにいったわ」
彼の代わりに返事をしてくれた少女は、腰辺りまで伸びた藤色の長い髪を耳の下でふたつに束ねて、頬杖をつきながら胡乱な目を向けてきた。身だしなみも含め、すでに準備万端といった風に席についているが、いつの間にそこにいたんだろう。
「ヒルデ。今日は早いじゃないか」
「セドリックとちがって女の子はたいへんなのよ。髪をとかしたり顔を洗ってきれいにしたりするんだから」
「それくらいオレもするけど」
「とかしてるのにそんなクルクルの髪の毛になっちゃうの?」
「そんなにクルクルしてない……ちょっと癖っ毛なだけだ」
父親譲りの銀髪に手をやり、思わず指先でいじる。あ、しまった。料理中なのに。
「父さんの髪はまっすぐなのになあ……」
「……似ないでよかったのよ」
「なんでだよ」
「なんでもよ」
言葉を返そうとして口を開く。が、結局はため息にして逃がしてしまった。最近とくに口が上手くなってきたヒルデに、口論で勝てる気がしなくなってきた。女の子は精神年齢が高いから、年下でもわりとしっかりしてるんだと、以前ハンスに聞いたことがある。ヒルデを見ると、本当にその通りだったんだなと納得する。特別に彼女だけがそうだったわけじゃなくて。
「じゃあヒルデ、みんなの分のブレッドを出して、ベリージャムをつけてくれるか」
「はーい」
おや、と少し意外に思った。頼んでおいてアレだが、機嫌があまりよくなさそうだったので、我儘を言って逃げられるんじゃないかと思っていたのに。素直に椅子から降りたヒルデは、言われたとおり全員分のブレッドを出し、ジャムを塗り始める。なぜか妙に真剣な表情をして。
「? ヒルデ、いったいどうし――」
「おはよー」
「っ、お姉さま!!」
眠そうに目を擦りながら、彼女が入ってきたその瞬間、ヒルデはパァッと顔を輝かせた。
――あぁ、このためか。とオレはようやく理解する。
「おはよう、アイリーン」
「おはようございます!お姉さま!」
「あら、えらいわねヒルデ。セドリックのお手伝い?」
「はい!ヒルデはもう8歳ですから!」
ヒルデは得意げに胸を反らしているが、そいつさっきまでオレに言いたい放題だったよ、と言いたい。ものすごく。アイリーンに懐いているヒルデは、彼女に褒められたくてときどきこういう知恵を働かせるようになったのだ。
「セドリック、なにつくってるの?」
アイリーンは大きな蒼色の瞳をさらに丸くして、オレの手元をのぞき込んだ。急に顔が近づいてドキリと身を固くする。昔より伸びた金色の髪がふわふわとしていて、思わず触ってみたいと思った。自分の髪に対してはそんなこと全然思わないのに、同じ癖毛でどうしてこんなに違うんだろう。一部だけぴょこんと外側にはねているのはおそらく寝癖だと思うのに、それすらなんというか……そんな感じで。これも男女の差なんだろうか。
「ベアカレーだよ。夕飯にしようと思って。今日、父さんが帰ってくる予定だろ?」
「あ……そっ、か。そうね」
「そういえばハンスは? 部屋にいかなかった?」
「え? あーうん。来てたけど……」
アイリーンはなぜか言葉を濁し、首を傾げた。うーんと唸り始めるので、どうかしたのかと思い口を開くと、
「セドリック、カレーが焦げてしまうわ」
「え? ぅわ!」
ヒルデの指摘したとおり、若干固くなり始めた肉に、慌てて鍋を火から避けた。せっかくの夕食が台無しになるところだ。
「お姉さま、セドリックのお料理の邪魔をしてしまうし、みんなが起きてくるまであっちで待っていましょうよ」
「あ、そうね」
アイリーンの手を取り、ヒルデはここから出て行ってしまった。別に邪魔じゃない、と言いたかったが、この状況では説得力に欠ける。とりあえず仕込みだけしてしまおうと、オレはもう一度カレーに意識を集中することにした。
***
「遅くなってごめんっ」
「ははっ、みんなを起こしにいってくれたんじゃなかったのか。ハンス」
一番最後に僕が朝食の席につくと、セドリックがからかうように声を弾ませた。まったくもってその通りなので、少し恥ずかしくなる。
「あ!リベルトがもう食べてる!」
「ハンスが遅っせーんだもん」
「いただきますって言わないと~」
「みんなそろってからよ!」
「イリーネ、おれにもジャムとって」
わいわいと賑やかな席は毎朝のことだ。全員いるときは揃ってご飯を食べること、はハドマン家の決まり事だから。しかし、みんな身体が大きくなり、ひとつの四角テーブルを9人で囲むのはそろそろ難しくなってきている。
「ハンス、どこ行ってたの? 起きたら急にどこかに走って行っちゃったからビックリしたわよ」
ちょうど向かい側の席についていたアイリーンが、首を傾げながら、周囲の喧噪に負けない声で尋ねてきた。ビクッと思わず肩がはねる。ブレッドを口に運ぼうとしていた手が止まる。
「え、えぇっと……」
「そうなのか?」
コロナがテーブルにこぼしたジャムを拭き取っていたセドリックも、反応して僕を見た。隣に座ってるわけでも、自分に話しかけられたわけでもないのに、よく聞こえるなと思う。……まあたぶん、アイリーンの声だからだ。
「……誰か来た気がして」
「え?」
「お客さんの声が聞こえた気がしたんだ。たぶん今日フラン様が帰るって思って、気が高ぶってたんだと思う」
驚かせてごめん。と。スラスラと出てくる嘘に自分でも感心する。嘘は本当のことを少し混ぜると信憑性が上がるものだ。というのを身に染みて学んでいる。
期待通り、アイリーンもセドリックも納得してくれたようすで、朝食を再開してくれた。気付かれないよう、そっと息を吐く。
(……言えないよなぁ)
本当のことなんて。
僕は数分前、自分の身に起こったことを思い出した。
教会にある個室はふたつ。ひとつはもともとフラン様の部屋だったが、今はいないので男女で分け、両方を子ども部屋として使っている。
「入るよ」
コンコン、とノックするのは、女部屋の方だ。男の子たちは先に起こしたので、服を着替えてもうすぐ出てくるだろう。女の子は準備に時間がかかるのよ、と日頃からヒルデが口酸っぱく言ってくるので、こちらを先に起こせばよかったのかもしれないが、………なんとなく、後にしようと思った。正直なところ、入りづらいというのが本音だ。
(最近、ヒルデがいっしょの部屋で着替えるのを嫌がるようになったからなぁ)
そういう年頃なのはわかるが、居心地が悪い。今のところ、イリーネやコロナにその主張はないものの、いつ何を言われるかわからないドキドキはまるで綱渡りみたいだ。僕はべつにヒルデにもイリーネにもコロナにもまったくそういう興味はないのに。
(……というか、返事もない)
やっぱりみんな寝ているのかと判断し、仕方なくドアを開けることにした。着替え中じゃありませんように。ノブを回し、手前に引こうとする。その時――
「わー!アイリーンおねーさま、おっぱいあるー!」
ピシッ……と。まるで全身が氷になったように、体が動きをとめた。
「これ、あるって言えるの……?」
「ある!ね、イリーネ!」
「……さわりたい」
「えっ?」
「コロナもー!」
「ちょっ、ちょっと……っ!」
早くこのドアを開けるか、逃げるかしないといけない。頭ではそう思うのに、耳だけに神経が集まったような今の状態では、足を動かすどころか、声すら出てこなかった。ドッドッドッという自分の心臓の音まではっきり聞こえる。
「も、もうっ!そろそろ朝ごはんだから!早く行きましょ」
「はーい!」
結局、声が近づいてきて、部屋のドアを内側から開けられるまで、僕の足は地面に縫い付けられたままだった。さらに運の悪いことに、ドアが開いて最初に目が合ったのは――、
「あ、ハンス。おは――」
アイリーンの顔を見るなり、くるりと回れ右をする。そこからは金縛りが溶けように体が動いたので、ビュンッと脇目もふらずに走り出した。戸惑ったように僕を呼び止める声が後ろからしたけど、なにも聞こえないふりをして。
(見てない見てない見てない僕はなにも見てない!!)
視線はちゃんと顔に固定できていたはず。そこから下は見てない。何も見てない。絶対見てない。顔が熱いのは間違いなく気のせい。それか、今全速力で走っているせいだ。
(……外で頭を冷やそう)
足を止め、はぁ……とため息をついた。
走り続けたせいでとっくに外には出ていたということに、たった今気付きながら。
ようやく頬の熱が引き、みんなと朝食を取っている今も、僕はまたため息をついている。
二度と家であんな会話しないでほしい。……と思っていても、言えるわけがない。あらぬ疑いをかけられるだけだ。聞こうと思って聞いたわけじゃないのに。
「ハンス、どうかしたの? 疲れてるように見えるのだけど」
向かいの席でアイリーンの隣をしっかりキープしたヒルデが、心配そうに眉をひそめる仕草をした。僕は慌てて笑顔をつくる。
「なんでもないよ」
「あ、もしかして。お姉さまの着替えを覗いてしまったとか?」
ブホッゲホッ!とむせたのはセドリックだ。アイリーンは口元をひきつらせているが、ヒルデは指を立てて楽しそうに首を傾げていた。僕も一瞬危なかったけど、頬にぐっと力を入れて無反応を貫く。
「そんなことしないよ」
「そう? もし見てたら責任はとれる?」
「そうだね」
「……。ハンスは取り乱さないからつまらないわね」
ぼそりと。小声で呟いたヒルデに、張り付けたままの笑みを返した。内心は冷や汗をかきながら。
(『つまらない』って言った……)
ヒルデ・ハドマン。幼いころに助けられて以来、びっくりするほどアイリーンに懐き、常にべったりとくっついては「お姉さま」と呼び慕う。彼女には感心するばかりだ。……いろんな意味で。
「……あ、そういえば」
それほど大きくはなかったが響いたアイリーンの声に、反応して顔をあげた。みんなも食事の手を止めて耳を澄ませる。でも、ここで彼女が話す内容は、誰もがある程度予想していたことだった。
「みんな、今までお世話になりました。わたし今日から自分の家に帰るわ」
……って言っても近所だけどね。と苦笑いするアイリーンに、やっぱり……と肩を落とした。初めから「フラン様が帰ってくるまで」と何度も言っていたので驚きはとくにない。が、ガッカリはする。アイリーンの言うとおり近所なんだから、遠慮しないでずっとここにいたらいいのに。………今朝みたいな会話はちょっと困るけど。
みんなもわかっていたことだからか、不満そうな返事はするが、強く引き留める子はいなかった。
「えぇーーっ!!」
……ただ一人、ヒルデを除いて。
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